第三話 哲学の屑木の悪役令嬢物。『悪とは誰が決めるのか』
王宮の大広間には、百人を超える貴族が集められていた。
その中央で、エレノア・ローゼンベルクは一人立っていた。
「エレノア」
王太子アレクシスが言った。
「君との婚約を、今日この場をもって破棄する」
ざわめきが広がった。
エレノアは何も言わなかった。
「理由は分かっているはずだ」
アレクシスの隣には、一人の少女が立っていた。
聖女リリア。
エレノアは彼女を見た。
そして、その瞬間。
すべてを思い出した。
満員電車。
コンビニの明かり。
スマートフォン。
冷めた弁当。
深夜二時のアパート。
自分がかつて、日本という国で生きていたこと。
そして、この世界が前世で読んだ小説の世界であること。
自分が、その物語で断罪される悪役令嬢だったこと。
「エレノア」
アレクシスが続けた。
「君はリリアを侮辱した」
「ええ」
「彼女が平民の出であることを理由に、社交界から排除しようとした」
「ええ」
「彼女が聖女として認められた後も、その力を偽物だと言い続けた」
「ええ」
「そして昨日、彼女にこう言ったそうだな」
アレクシスは一度言葉を切った。
「『あなたが聖女であることと、あなたが善人であることは、同じではない』と」
広間が静まり返った。
「認めるか」
「認めます」
「なぜそんなことを言った」
エレノアは少し考えた。
「聖なるものが、善であるとは限らないからです」
誰も言葉を発しなかった。
アレクシスの眉がわずかに動いた。
「では君は、自分が善であると言うのか」
「いいえ」
「ならば何を根拠に、彼女を裁いた」
エレノアは答えた。
「裁いたつもりはありません」
「では何をした」
「疑っただけです」
「何を」
「彼女を聖女と呼ぶ私たち自身を」
大広間に、再びざわめきが走った。
国王の隣に立っていた老大臣が、静かに前へ出た。
「令嬢」
「はい」
「一つ、聞いてもよろしいか」
「どうぞ」
大臣は彼女を見た。
「正義とは何だ」
エレノアは目を閉じた。
前世の記憶が戻ってから、まだ十分も経っていない。
だが、なぜか答えなければならないと思った。
「正義とは」
彼女はゆっくりと言った。
「自分が正しいと信じることではありません」
大臣は黙っている。
「他者が間違っていると証明することでもない」
「では、何だ」
「自分が間違っている可能性を抱えたまま、それでも選ばなければならないものです」
沈黙。
やがて大臣が深く息を吐いた。
「……なるほど」
国王も小さく頷いた。
何人かの貴族が感心したように顔を見合わせる。
アレクシスも言葉を失っていた。
リリアだけが、何を言っているのかよく分からない顔をしていた。
その時だった。
「素晴らしい」
どこからともなく声がした。
広間の中央に、黒い影が現れた。
角。
黒い翼。
悪魔だった。
「誰だ!」
衛兵たちが剣を抜く。
悪魔は気にも留めず、エレノアの前まで歩いた。
そして、一つの赤いリンゴを差し出した。
「食べるか?」
エレノアはリンゴを見た。
「なぜ私に?」
「君が問い続ける者だからだ」
「これは何です」
「答えだ」
「何の?」
「君がまだ知らない問いの」
エレノアはしばらくリンゴを見つめた。
そして笑った。
「答えを与えられた時、問いは死ぬのかもしれませんね」
悪魔も笑った。
「ならば、食べないのか?」
エレノアはリンゴを受け取った。
「いいえ」
「なぜだ」
「問いが死ぬ瞬間もまた、一つの答えだからです」
そして。
リンゴをかじった。
一口。
エレノアは静かに目を見開いた。
「……なるほど」
何かを理解したように呟いた。
そのまま倒れた。
死んだ。
☆☆☆
【kとの質疑応答】
『素晴らしい!』
Kの声は明らかに興奮していた。
『断罪から始まり、前世の記憶が戻る! ここまでは王道だ! だがそこから、聖女とは何か! 善とは何か! 正義とは何か!』
『そして悪魔! リンゴ! 死!』
屑木が静かに頷いた。
「分かっているな、K」
『もちろんだとも!』
『特に最後がいい。主人公が何かを悟ったように「なるほど」と言い、その内容を一切説明せず死ぬ!』
『読者に委ねている!』
屑木が言った。
「答えを言葉にした瞬間、それは答えではなくなる」




