第四話 詭弁な運命
視界から溟那の姿が消え、残されたのは、手のひらにわずかに残る彼女の体温と、春の風に混ざった仄かな白梅の匂いだけ。
「……くそっ」
漣世は小さく悪態をつき、門の前に広がる待機所で、所在なく自分の拳を見つめた。
周囲には、同じように緊張で顔をこわばらせた同世代の奴らが大勢いる。だが、誰一人として口を開く者はいない。ただ、張り詰めた沈黙がじりじりと肌を焼くように痛かった。
大丈夫だ。きっと何事もなく終わる。
終わったら、母さんの作ったお菓子を食べて、さっきの風鈴を買いに行くんだ。父さんだって、祝ってくれるはずだ...。大丈夫。
そう自分に言い聞かせ、必死に動悸を抑えようとした、その時だった。
ーーひっ、あ、嫌……ッ! 離して……っ!!
「っ!?」
漣世の心臓が、ドクンと大きく跳ね上がった。もはや痛みに達したその音を処理するとともに最悪の想像が脳を貫いた。
間違えるはずがない。毎日聞いてきた、ずっと一緒にいた、あいつの声だ。
厚い木鉄混じりの門の向こうから、 か細く、しかし明確な恐怖に怯えた溟那の悲鳴が聞こえてきた。いくつかの詰め寄るような足音と、一つの華奢な足音が大きな門の隔てを無視して伝わってきた。
ーー忌字だ! この娘の腕にあるのは【無】の文字だぞ!
ーーそやつは危険じゃ、江戸が崩壊するやもしれぬぞ!
ーーおい、すぐに拘束しろ! 焼き印の準備をーー
続いて聞こえてきたのは、冷酷な役人たちの怒声。
「溟那……?」
「ちょ、ちょっと待てよ!なんだよ、忌字って...っ!」
考えるより先に、足が動いていた。
漣世は周囲の制止の目もくれず、巨大な門へと駆け出す。
「おい! そこから先は立ち入り禁止だ!」
慌てて立ち塞がった幕府の武官たちが、容赦なく槍の穂先を漣世に向ける。
だが、漣世の耳にはもう、彼らの制止の声など一切届いていなかった。頭の中が、溟那の悲鳴だけで真っ赤に染まっていく。
「どけ……っ!!」
叫んだ瞬間。
漣世の右手の甲に、焼け付くような激痛が走った。
皮膚の裏側からどす黒い何かが湧き上がり、血管を伝って熱線のように弾ける。
「あ゛あ゛ぁっっ…溟那ぁっ!」
パチパチと、周囲の空気が不穏な静電気を帯びて歪み始めた。
漣世自身すらまだ知らない、世界の理を消し去る文字ーー【零】が、その意味を取り戻そうとしている。
「溟那!溟那ぁ!」
涙を浮かべながらそう叫んだ。まだ幼いながらに、あまりにも心の底から轟いた声であった。
その瞬間、漣世の言紋が黒紫色に淡く輝いた。
「わっ、なんだこれ」
自分の手の甲の異変に気付き、門に触れたまま目を見開いた。
門が音もなく消えた。漆黒の門があった場所には、同じ色をした灰が宙を舞った。
『おい!門が消えたぞ!どういうことだ!?』
門番をしていた役人が焦ったように叫び散らしていた。
倒れそうになる体を必死に立て直し、前を見た。
泣きじゃくる溟那、赤く熱を発している棒、溟那を押さえつけている役人。
思考が研ぎ澄まされた。
ー絶対に助ける。俺が守るんだろうが!
「溟那っ!!今助ける!」
「漣世ぇっ!助けて!嫌だぁっ!」
「死ねよ...溟那から離れろよぉぉお!」
漣世が手を伸ばして駆け出した。その視線はひたすらに溟那へと向いている。
『なんだこのガキぃ!クッソ!殺せ!』
役人が声を荒げる。溟那を抑える手がより強くなるのが溟那の反応から分かった。
漣世の視界から有象無象の役人たちの顔がノイズのように霞み、「泣き叫ぶ溟那」と「彼女を傷つけようとする役人の手」だけが、異様なほど鮮明に脳裏に焼き付いている。全身焼き切れそうな程熱くなっている。
ー殺す。溟那を害する存在をすべてー消し去ってやる。
そう漣世が念じた瞬間、漣世の手の甲の【零】の言紋から黒い雲のような靄が滲み出た。
『おい!何してやがる!早くそのガキを殺せ!どうせ忌字だ!殺してもいい!!』
そう叫ぶ言紋統括省の言紋鑑定士。何もかもが二人を殺意で睨んでいた。
制圧に入る役人たち。門の入り口からも、門の先の奥からもゾロゾロと湧いてきた。
【火】【切】【打】という言紋が漣世の目の端で輝いたのが見えた。その途端、包丁5丁と中くらいの火の玉と空気に乗った拳の靄のようなものが飛んできた。
「漣世ぇぇ!!」
その致命的な攻撃が漣世に届いたと思った瞬間それらは漣世の纏う黒い靄に触れた途端、まるで最初から存在しなかったかのように、音もなく虚空へ消え去った。
『は...?』
『なんだあのガキ!傷一つ付いてねえ...。』
『おい!全員かかれ!あの小僧を止めろぉお!』
「溟那を離せ...今すぐ...その汚らしい手を...消し去って...やる。汝らに死と消失を...」
意識がない。本能のままに体と口が動いている。眼光は陰に包まれ、瞼は動くことをやめていた。十五歳の少年の語彙にはいささか悪魔のような闇が入り混じっていた。
漣世は我を忘れてとびかかった。
『おい!来るぞ!さっさと殺せ!!』
目の前の役人の顔面を殴りつける。ーー肉体が、血しぶきだけを残して消えた。
槍を構えた別の武官の胸を掴む。ーー衣服ごと、存在が消えた。
一人...三人...十人...。
手の甲の【零】が凪ぐように輝くたびに、
役人たちは血しぶきだけを残して消えた。文字通り存在ごと消えたのだ。
『ひ、ひぃぃ!!く、来るな!わ、わかった...、小娘を渡す...何もしない!だから..お助...』
言い切る前に漣世の手が届いた。消えた。跡形もなく。
計32名の役人が悲鳴だけを残して消え去った。その跡地に残っていたのは、泣きじゃくる少女と、意識を失って床に倒れこむ少年。その下には虐殺の象徴として血だまりが階段に沿って流れていた。その光景を見合わせ、会場に来ていたほかの少年少女たちも失神していた。
―コツコツ…
硬い足音が響く。一人の男が場違いにも歩いてきている。
生温かい血溜まりの上の少年と少女を冷たい空気が遮っている。
その男は、一直線に漣世と溟那の方へ向かってきている。
まるで最初から示し合わせていたように。
着物の上から膝下まで丈のある漆黒のインバネスコートを羽織り、深く兵帽をかぶっている。凛々しさを感じさせると共に、冷たい威圧感を放っていた。
兵帽の深い影に隠れて、その顔はまだ見えない。
だが、影の隙間から覗く一対の瞳だけが、爛々と猛禽類のように鋭い光を放っていた。
三十二人もの役人を一瞬で消し去った、化け物じみた【零】の力を前にしても、男の歩調は一切乱れない。衣服にも、呼吸にも、一分の乱れすらかった。
男は、血だまりの中に倒れる漣世と、怯える溟那の前に静かに膝をつく。
漣世の血で汚れた髪を軽く払う。手つきは丁寧で、優しさすら感じられた。
「ははっ。派手にやったなあ。」
「……よく耐えたな、二人とも。」
漣世と溟那の頭を撫でた。
覆面の奥から響いたのは、低く、しかし耳に心地よい、酷く落ち着いた大人の声。
迫り来る幕府の追手の足音が遠くで聞こえる中、男は長い腕で二人を同時に、軽々と抱き上げた。衣服が夜風に大きくひるがえる。その背中は、どんな絶望からも二人を隠し通せるほど、圧倒的に大きくて、凛々しかった。
漣世と溟那が悪夢から目を覚ますのはもう少し後の話だ。




