第三話 言紋師
城下町の外れに位置する、少し年季の入った家。
朝市の賑わいと、人々の足音が遠くに聞こえる。
格子窓からは木陰が揺らいでいるのが見えた。
そんな平穏に見える今日。
今日は幕府による、『言紋改め』という儀式が行われる日だ。
というのも、言紋というのは生まれた時点で身体に刻まれているわけだが、能力が発現するのは、二次性徴の前後だといわれている。
それに加え、旧文明の漢字が扱われている言紋。それを新人類が字そのものとして読解できるようになるのは、いつしか未来のことである。
なので幕府は毎年の四月一日、『言紋改め』なるものを開く。幕府の言紋統括省が鑑定を行うのだ。
総じて言えることは、文字にして名のごとく『言紋のわかる日』である。
「ねぇ、漣世…起きて。今日、言紋がわかる日だよっ。」
そう言って布団に少し足を踏み入れては、少年の肩を揺らす少女。髪は黒く、華奢ながらどこか健気で、なんといっても美しい顔立ちをしていた。
その少女が呼んだ名前は「漣世」
少女に起こされているのに、起きるそぶりも見せないただの少年。少し紫がかった黒髪に、着物の良く似合う凛とした顔立ちが幼いながらに華やかさを纏っていた。
「ん...、なんだよ。溟那...まだ眠い。あと五分、...十分。」
渋々起きて、また眠る。
溟那。漣世と同じ裏長屋に住む、いわゆるお隣さんである。
この頃、十七世紀のころは、旧文明でもこういうことはよくあったそうだ。
「ちょ、ちょっと!漣世、何で寝ちゃうの!今、起きてたじゃん。ねぇってば!」
「まだ眠いって…。今何時?」
「朝の10時だよ。」
漣世が目を見開き、ガバッと起き上がる。
「今日って…言紋が分かる日か!?」
「だからそうだってずっと言ってるのに!」
「溟那、もっと早く起こしてよ。」
「私はたくさん起こしたもん!全然起きない漣世が悪い。」
溟那はぷいっと帆を膨らませながら顔を背けた。
千歳に一度の美貌といわれるだけあり、表情だけでも多くの人間が心をかき乱されることに違いない。
「ごめんってば。ていうか、何時からだっけ?」
「13時から...」
「あと三時間?…余裕じゃんか。よし、二度寝二度寝…」
「ちょ、ちょっと!なんで寝ちゃうのよ!せっかく起きたのに。もう、遅れても知らないんだから!」
「ふわぁ…わかったわかった。起きるってば。」
大きなあくびをして、布団から立ち上がった。
溟那はと言うと、少し楽しみそうな顔をしているが、それを隠すように不機嫌そうにこちらを軽く睨んでいた。
「漣世ー!溟那ちゃん、ご飯できてるわよー。」
漣世の母親の声。座敷からであった。
「お、ちょうどお腹すいてた。行こうぜ、溟那。」
「もう、調子いいんだから。」
いじけた空気が弾けるように薄くなった。
座敷に移動すると、仕事服を着て、仕事の書状をこしらえた父親が家を出るところであった。
「行ってきます」
「父さん、今日もお仕事?」
「あぁ。今日は言紋改めだろう。ここ最近は仕事が多くてね。行ってくるよ、漣世。溟那ちゃんをしっかりと守ってやるんだぞ。」
そういってから、父親は玄関を去った。
父は人徳者だった。今まで一度も弱音を吐いたところを見たことがなく、母からも溺愛されている。現に、誰にでも優しいその姿勢は人を惹かせる魅力があった。幕府に職を置いている父は、いつも帰りが少しばかり遅い。
「漣世ー、ご飯運ぶの手伝ってちょうだい。」
「はーい。母さん、今日のご飯何?」
「あなたたち、今日は言紋改めでしょう?お祝いよ。今日は贅沢しましょうね。」
母は仁愛深い人だった。手先が器用で、その手にはしわ一つ無い。美しい女性だった。父とも仲が良い。礼儀正しく、義理堅い。そして何よりも優しかった。
お盆の上に並べられたのは、お祝いの定番である鮮やかな赤飯。そして、湯気を立てるお椀の横には、普段の長屋暮らしでは滅多に拝めない、黄金色の厚焼き卵が一切れずつ綺麗に並べられていた。卵は蕎麦一杯と同じほど高価な贅沢品だ。
「わぁ……! 卵焼きだ! 母さん、これどうしたの?」
「ふふ、お父さんがね、今日のために昨日から仕込んでおいてくれたのよ。二人とも、残さずしっかり食べるのよ。」
「私も食べていいの?」
溟那が遠慮がちに言った。
「何言ってるのよ。いつもうちの漣世と仲良くしてくれるお礼よ。それに、今日は特別な日よ。楽しまなくちゃ。」
そういい、溟那の頭をなでる姿は、宛ら母親。
『いただきます...!』
漣世と溟那は掌を合わせ、嬉しそうに言った。
母はひたすらにその様子を和やかに見ていた。
漣世と溟那が卵焼きを一口。
「うま...なんだこれ。母さんすご!」
「美味しい...私、幸せですっ。」
二人は心底これを気に入ったようだった。塩気と甘みの均衡が、感動的な一品であった。
『ごちそうさまでした』
二人は幸せそうな顔のまま、また手のひらを合わせていった。
その時、時の鐘が鳴った。12時を知らせる時の鐘だ。
食休みで軽く座り込んでいた二人の頭が一気に冴える。
「漣世、行かなくちゃ。早めに行こうよ。」
「あぁ。幕府のおっちゃん、遅刻したら怖いしな。」
「あら、もう行っちゃうのね。ちゃんと溟那ちゃんを守ってあげるのよ。素敵な言紋だといいわね。」
流石の母親だ。二人分の手提げにちょっとしたお菓子と、少し安っぽい水筒が端麗に並べられていた。
「漣世、早く!」
溟那はそわそわとしながら漣世の手を引いていた。どうやら自分の言紋が分かるのが楽しみらしい。
「わかったわかった。行ってきまーす!」
「はーい。気を付けてねー。」
笑顔で手を振って背中が見えなくなるまで扉の前で見送ってくれていた。もし『母親』という肖像画があるのだとしたら、彼女の笑顔が描かれるに違いない。
二人で外に出て歩き出すと、正しく江戸の風景が一望できた。瓦屋根の居酒屋で酒を飲んで眠っている百姓たち。土汚れが目立つが、妙に美しい農夫たち。刀を拵え、強かな足音を響かせる武士。城下町は日常を謳歌していた。
「これってどんな言紋なんだろうな。」
そういいながら手を掲げる漣世。日差しに掌が重なって見事に逆光を放っていた。
「でも、なんだかかっこいい文字じゃない?」
「きっと漣世の事だからすっごく強い言紋なんじゃない?」
溟那は少し眩しそうに漣世の手の甲に認められている文字を、やはり上手く読めなかったが、なんだか惚れ惚れしたように見つめていた。
「あはは、そうだといいけどなぁー。溟那のは...」
溟那の手を掴み、値踏みするように見つめた。
なんだか溟那は少し耳を赤らめているように見えた。
「ど、どんなのだと思う?...漣世は。」
「んー、なんか線が多いけど...どうなんだろ。なんか溟那のもかっこいい感じだよな。」
にっと笑いながら、そのまま手を握った。
「まあ、今日わかるんだし、今気にしてもしょうがないよな。」
「...うん。」
手を握られた瞬間、溟那は耳を赤らめて少し肩が持ち上がった。
それを愚かにも漣世は見逃していた。
漣世は鼻歌混じりに幕府を目指して溟那の手を引いていた。
「見て漣世...これ、綺麗...」
溟那が指差したのは、露店の軒先に吊るされた、ガラス細工の風鈴だった。春の風に揺られて、チリン、と涼やかな音を立てている。
「本当だ...。これ、言紋改めが終わったら父さんと母さんに頼んで買ってもらおうぜ。」
にししと笑いながら提案してくる。だが、溟那も満更でもないようで、目を輝かせながら頷いていた。
「うんっ。そうする...。」
そんな他愛もない話を笑いながら交わす二人。
たまに溟那はお調子者の男に「可愛いねえ」などと声を掛けられることがあったが、華麗に漣世が前に出ては溟那の腕を引いて走って躱したりしていた。
数十分歩いた先に、幕府が見えた。
正確には、幕府がこの『言紋改め』のために解放された特設会場ーー『言紋統括省』の巨大な城塞である。
「……うわ、でっか……。」
「漣世...私、幕府って初めて来た...。」
「父さんに何度か連れてってもらったけど...こんな感じだったっけ...。」
漣世と溟那は思わず足を止め、それを見上げた。
周囲の長屋や店をあざ笑うかのようにそびえ立つそれは、総黒漆塗りの重厚な門を構え、白壁には幕府の権威を示す『統括省』の文字が、金色に怪しく鈍い光を放っている。
門の左右には、一寸の隙もなく直立した幕府の武官たちがずらりと並んでいた。その手には冷たく光る槍と火縄銃。何より異様なのは、彼らが一言も発さず、ただ冷徹な眼光だけで、全国から集まった十五歳の少年少女たちを『選別』するように見下ろしていることだった。愛想や笑顔を作ろうとする素振りすら見せない。
賑やかだった江戸の喧騒が、この敷地に近づくにつれ、まるで潮が引くように遠ざかっていく。
代わりにあたりを支配したのは、生唾を飲み込む音さえ響きそうな、張り詰めた沈黙だった。
「漣世……」
さっきまで風鈴を見て目を輝かせていた溟那の顔から、一気に血の気が引いていく。
彼女は怯えたように、漣世の着物の袖をぎゅっと、引きちぎらんばかりの力で握りしめた。その小さな手が、微かに震えている。
「……大丈夫だ、溟那。きっと、大丈夫。」
言い放った言葉には自分に言い聞かせているような悲壮が混じっていたが、柔らかく笑って溟那と目を合わせた。
漣世は自分の鼓動が速くなるのを悟られないよう、溟那の手を強く、強く握り返した。
ーーあぁ、幕府のおっちゃん、遅刻したら怖いしな。
行きがけに自分が零した軽い言葉が、どれほど愚かで、この組織の恐ろしさを何も分かっていなかったか。門を一歩くぐった瞬間、漣世はその身を震わせる空気の冷たさで、嫌というほど思い知らされた。
ここは、十五歳を祝うお祭りの場などではない。
人間を能力(文字)だけで査定し、支配するための、冷徹な檻だ。
一列に並ぶ同年代の少年少女。
その子らも例外ではなくこの冷たい空気に圧倒されているようだった。前にいた小太りの少年の冷や汗が石造りの床に一滴落ちた。
「次、入れ」
そう冷たく言い放つ男。幕府の役人らしい。その男に言われるがまま、小太りの少年は門をくぐっていった。くぐった瞬間、躓いていた気がした。
「漣世...どうなっちゃうのかな...。」
涙ぐんだ声。袖を掴んだ手を少し揺らす溟那。
「大丈夫だって。手の甲を見せるだけだって聞いたぜ?だから...大丈夫だ。」
「で、でも...」
その通り、無理がある。この空気感を子供に味わわせることは正気の沙汰には思えなかった。
「安心しろ。俺がついてる。それに帰り、あの風鈴買って帰るんだろ?」
「うん...。」
漣世に励まされたようで、溟那は涙の滲んだ目を擦り、覚悟を決めたように眼を開いた。
「次、入れ」
「行こう。」
溟那が漣世の袖を掴んだまま手を引いた。それに漣世もついていく。
「待て。一人ずつだ。小娘、貴様から入るがいい。」
地獄の底からひねり出されたような役人の言葉はどこまでも冷淡だった。
そして、背中を押されて溟那が門へ近づいてゆく。
門をくぐる手前で振り返った。不安が拭いきれていない表情だった。
それを見た途端、漣世は足を踏み出して手を伸ばしたが、無情にも門は閉じ、溟那の瑞々しく甘い匂いだけがかすかに残っていた。
ついに、二人の運命を狂わせる『言紋改め』の幕が上がる。




