最終話 お上品な因果律の差し押さえと、涙の完全救済〜どんな過去があろうと、あなたたちは世界で一番可愛い家族ですわ〜
いつも応援ありがとうございます。作者の家守慈絵夢です。
私の力不足により、広げた物語の風呂敷をすべて綺麗に畳みきることができず、誠に申し訳ありません。
ですが、未完のまま終わらせるよりも、セレスティアや家族たちが迎える結末をなんとか書き切りたいと考え、今回を一挙大ボリュームの【完結編】とさせていただきました。
急な展開となりますが、お嬢様の無敵の実務と、愛すべき仲間たちの集大成をすべて詰め込んでいます。
どうか最後まで、ボレアス領の愛おしくもバグった日常を、笑顔で見届けていただけますと幸いです!
第一章:不穏な前兆と、お天気変更の夜
ボレアス領主邸。
洗濯係マリーの指先に、極小の灰色のシミが泥のように這い上がった。
ルチアーノの持ち込んだ月光絹を洗濯中、東の呪いがマリーのからだへと侵食を始めたのだ。
しかし、お嬢様セレスティアの手ですりすりと温められたことで、呪いの進行は奇跡的に遅延。
不穏な死の予兆は、領主邸の奥深くへと静かに潜伏を始める。
同じ夜。
筆頭事務官レイヴンは、水晶板に刻まれた領地の魔力運用グラフの異常な低下を感知した。
ボレアス領を囲む結界の網目に這い寄る、東の暗殺教団『黒い回廊』の極大呪術陣。
その大規模な侵略の兆候を、レイヴンは冷徹な双眸で明確に掴み取っていた。
外は窓硝子を激しく叩く土砂降りの大雨。
明日の優雅なお茶会を心配するお嬢様のため、アリスが「この空を魔法で物理的に吹き飛ばしますわ!」と杖を構えて暴れようとする。
だが、セレスティアは優しく微笑んでその手を制した。
「お茶会の前ですもの。お行儀の悪い暴力は禁止ですわ」
代わりに彼女は、予定表の書類に『明日の天気:快晴』と流麗に書き込み、領主印をドンッ!と押し抜いた。
その瞬間、お嬢様の『実務的願望』が領地の魔力地脈と直結する。
現実の天候そのものが強制的に上書きされ、分厚い雨雲がモーセの十戒のごとく引き裂かれた。
テラスの床を照らし出すのは、美しい満月の光。
ルールを我慢したアリスへのご褒美として、セレスティアはミルクを差し出す。
「偉かったわね、アリス。ほら、あーんして?」
温かいミルクを飲ませられたアリスは、至高の尊さに脳髄を沸騰させ、絨毯の上へドサリと崩れ落ちた。
クロエもお嬢様のドレス採寸の際、無自覚にその豊かな胸元へぎゅっと抱き寄せられ、精神回路をオーバーフローさせて蕩け気絶した。
お嬢様を心から崇拝する二大従者の幸せな夜は更け、お嬢様は尊さによる微熱でダウン。
深夜。お嬢様の睡眠を守るため、アリスとクロエは寝室に侵入したカルマ率いる教団の先遣隊を迎え撃つ。
はたきとモップを構え、真空の結界を駆使して「一切の物音を立てずに無音でちりとり回収」するという、自発的なお行儀縛りを完璧に完遂した。
すべては優雅にお行儀よく。
ボレアス領の狂ったおもてなしの準備は、こうして静かに整えられていった。
◆◇◆◇
第二章:お茶会本番と、限界社畜たちの意地
美しい快晴の空の下、ボレアス領の新市街。
お嬢様セレスティアの理不尽なまでの『実務的願望(お天気変更)』によってもたらされた青空の下、領地を挙げた盛大なお茶会エキスポが、優雅な弦楽の調べとともに幕を開けた。
新市街の大通りには、真っ白なクロスが掛けられた長テーブルが果てしなく並び、新領民たちや旧王都から亡命してきた貴族たちが、温かな紅茶と焼き菓子を片手に楽しげな歓談の花を咲かせている。
表向きは、あくまで平和で優雅なお茶会。
しかしその裏側――広大な地下シェルターでは、苛烈な『おもてなし』の準備が進行していた。
「お辞儀の角度が甘い! 指先まで美しく揃えなさいッ!」
パァンッ! と、空気を裂くような鋭い音が地下空間に響き渡る。
元王宮の鬼マナー講師であるマダム・ジョセフィーヌが、愛用の扇子をビシバシと振り回し、避難してきた領民たちに血の滲むような『おもてなしマナー』の鬼指導を行っていた。
神狼であるシロと、特級呪物であるハミィは、マダム先生の目の前で背中に冷たい竹定規を当てられ、直立不動の姿勢で固定されていた。二匹の巨大なからだが、ガタガタと小刻みに震えている。
『(おい呪物、動くんじゃねえぞ。マダム先生の定規のしなり、あれは一発で俺の骨をへし折る魔力がこもってやがる)』
『(ワカッテル。俺タチハ今、フカフカノぬいぐるみダ。息スラシテナイ)』
そこへ、ボレアス領の結界をすり抜けた教団の下級暗殺者数十人が、地下からの奇襲を試みて音もなく突入してきた。
黒装束に身を包み、毒の塗られた短剣を構えた凶悪な集団。
「ひ、ひぃぃっ! なんか変な黒装束の不審者がいっぱい来ましたわーッ!?」
前線で手伝いをさせられていたヴィクトリア様が、マシュマロボディを震わせて悲鳴を上げる。
しかし、マダム先生は微動だにせず、鋭い三白眼で暗殺者たちを冷たく一喝した。
「淑女たるもの、無粋な不法侵入ごときで姿勢を崩してはなりませんわ! 顎を引き、背筋を天まで伸ばしなさいッ!」
言葉と同時。
マダム先生が手に持っていた竹定規を、流れるような所作で美しく一閃した。
ズァッ……!!
完璧なお辞儀の角度から放たれた職人技の真空波が、空間そのものを切り裂いた。
暗殺者たちの構えていた凶器が、コンマ一秒の澱みもなく切断面も鮮やかに真っ二つにされる。そればかりか、強烈な衝撃波が黒装束の男たち全員を吹き飛ばし、壁際へエレガントな正座の姿勢のまま叩き伏せてしまった。
シロとハミィは『(ひぃぃぃっ! マナーの暴力だぁぁっ!)』と心の声で絶叫し、さらに直立不動のぬいぐるみになりきった。
一方、テラスの表舞台。
「フハハハハ! 震え上がれセレスティア! 帝国を動かしたこの俺様が、特使として直々に凱旋してやったぞ!」
王都からボロボロになって逃げ延びたバカ王子エドワードが、泥まみれの衣服を着たまま、異様なドヤ顔でテラスへ現れた。
エドワードは、自分が『影の枢機卿』モルドレッドに「肉の盾」として使い捨てられたことにも気づいていない。彼は勝ち誇ったように胸を反らし、勝手に優雅なティーカップを傾けようとしていた。
しかし、その背後の死角。
テラスの庭木の影から、教団の熟練暗殺者たちが泥のように滲み出てきた。
「邪魔だ、ゴミ」
「ぎ、ぎゃあっ!?」
暗殺者の一人が、無防備に立っていたエドワードの襟首を掴み、そのまま物理的にへし折るような乱暴さで、傍らの巨大なゴミ箱の中へ無造作に放り込んだ。
「俺の、俺の完璧な外交戦術が……!?」
自分がただの囮だったことにようやく気づき、エドワードはゴミ箱の底で泣き叫ぶ。逆さまの状態で転がり出ようと、無様にテラスを這いずり回った。
そこへ、何も知らないエレナ王女(6歳)が、焼き菓子を求めてトコトコとやってくる。
「お姉ちゃん、あれはだあれ?」
暗殺者たちの放つ冷酷な殺気が、幼いエレナへと向けられた。
その瞬間。アリスとクロエが、滑るようにエレナの横へ移動する。二人はお嬢様の『おもてなしの法』を完璧に守るため、エレナの純粋な目をやさしく両手で覆い隠した。
「エレナちゃん、お淑やかな目隠しゲームの時間ですわ。……だぁれだ?」
「えへへ、だぁれ?」
カチャ、コトッ……。
アリスたちは、お茶会用の純銀のトレイやちりとりを優雅に使いこなした。
一滴の紅茶もこぼさない完璧なテーブルマナーの所作。ただそれだけで、襲いかかってきた暗殺者たちの腕を弾き、関節を次々と無音で外していく。
「シャキッ、カチャリ」という、美しい食器の触れ合う音だけがテラスに響き渡る。暗殺者たちは悲鳴を上げる暇すら与えられず、糸の切れた人形のように次々と崩れ落ちていった。
そして背後のゴミ箱では、暗殺者の放った流れ弾(毒矢や魔法弾)をすべて弾き返す肉の盾となったエドワードが、「ぎゃああああっ! 俺の尻がぁぁ!」と車輪のように転げ回っている。
エレナは、アリスの指の隙間からその鮮やかな「おもてなし」の一部始終を見届けた。
『(お茶会って、お友だちを静かに倒すゲームなのね……!)』
純真無垢な王女は、真顔で凄まじい「ボレアス流マナー」を脳内に誤学習していくのだった。
◇◆◇◆
第三章:決壊する『死の灰』と、社畜たちの誇り
お茶会会場の空が、突如として不自然などす黒い帳に覆われた。
先ほどまでお嬢様の意思で無理やりこじ開けられていた美しい青空が、淀んだ泥のように濁っていく。太陽の光が完全に遮断され、テラスを彩っていた色鮮やかな庭木が、カビ臭い灰にまみれてパラパラと立ち枯れていく。
その絶望の中心。
アリスとクロエの前に、教団のトップ『影の枢機卿』モルドレッドが、マントをはためかせて不気味な笑みを浮かべ降臨した。
「素晴らしい茶番だったが、それもここまでだ」
モルドレッドが杖を掲げた瞬間、領域全体を支配する『絶死の呪いの灰』が吹雪のように吹き荒れた。
その理不尽なまでの神話級の呪界の中では、アリスの無尽蔵な光魔法も、クロエの空間を切り裂く鋼糸の魔力も、強制的に剥奪されていく。手足から力が抜け、強力な攻撃手段が砂のように崩れ去ってしまった。
「魔法も、暗器も封じられた状態で、一体何ができる? ただ散れ、無能な令嬢の飼い犬ども」
絶対的な死の宣告。
しかし、アリスとクロエの瞳には、ただの一欠片の恐怖も浮かんでいなかった。
二人の背後にあるのは、お嬢様が手作りのお菓子を用意している大切なキッチン。
彼女たちは、お嬢様が定めた『お茶会のお行儀(暴力禁止)』を守り抜くため、自ら武器も魔力シールドも捨てて死地へと身を投じた。
「飼い犬ではありませんわ……。わたくしたちは、セレスティアお姉様の、誇り高きメイドですものッ!」
「お茶会の優雅な姿勢を崩さない、完全なおもてなしマナーの肉弾戦」――それこそが、二人に残された最後の手段だった。
姿勢を正し、お仕着せのドレスの裾を華麗に翻しながら、モルドレッドの放つ漆黒の刃を素手で受け止める。
バシュッ! と鈍い音が響き、ふたりの純白の腕が深く切り裂かれた。熱い鮮血が宙を舞い、テラスの石畳を痛々しく赤く染めていく。
それでも、二人は一歩も引かない。
「お姉様の……完璧な、お茶会を……こんな泥で、汚させるわけには……いきませんわ……ッ!」
「お嬢様の笑顔を汚すシミは、この私が……命に代えても拭い去ります……ッ!」
二人の絶死の抵抗を嘲笑うかのように、モルドレッドが領地全土の命を根こそぎ刈り取る『死の灰』の第二波を無慈悲に放った。
灰色の津波が、新市街の全域を呑み込んでいく。
「お嬢様の……お茶会を……絶対に、邪魔させはしない……ッ!」
執務室の窓際では、筆頭事務官レイヴンが両目の奥からどす黒い血を流し、視力を急速に失っていた。
死の灰の侵食によって眼球の機能が破壊されていく中、彼は己のからだを盾にし、分厚い決裁書類の束を広げてキッチンのセレスティアの視界を物理的に遮り続けた。
『(……昨夜の、お天気変更届のサイン。あれが最後の業務報告だ。もう、これ以上お嬢様を煩わせる書類仕事はない……。お嬢様、どうかあとは、優雅にお茶を……)』
視界が完全な闇に沈む中、レイヴンは残された指先の感覚――筋肉の記憶――だけを頼りに、ペンを走らせる。
領民たちの最後の避難誘導書類に完璧な決裁サインを書き終えると、彼は満足げな笑みを浮かべ、静かにデスクへ崩れ落ちた。
同時刻、厨房の奥。
料理人のダニーは、換気扇から入り込んだ呪いの灰を吸い込み、自慢の『味覚と嗅覚』を根こそぎ奪われていた。
目の前にある食材の匂いが一切わからない。舌を噛んでも血の味すらしない。料理人としての絶対的な死。
「……クソが。味がしねえなら、魂で作るまでだ!」
ダニーは絶望しなかった。
お嬢様が一番喜ぶ「ちょっと焦げた、普通の家庭的なシフォンケーキ」。その最高の焼き上がりを、オーブンの微かな音と、肌を焼く温度だけで見極める。
「焦がしちまったか、どうか……お嬢様に聞いてくれ……」
最高の黄金色に焼き上がったケーキのトレイをクロエに託すと、ダニーはやり切ったように笑い、厨房の床へ倒れ伏した。
惨劇は外でも続いていた。
大工のガストンは、自らの腕の骨が灰色の石へと石化していく激痛に耐えながら、添え木をして無理やり金槌を振るい続けた。
「俺たちの主が座る椅子が、傾いてちゃあ……みっともねえだろうがっ!」
お嬢様のためのお茶会のテーブルと椅子を、文字通り己の命を杭にして最後まで支え抜き、気絶した。
庭師のマルコは、灰に飲まれて枯れゆく薔薇の根元に自らの腕を押し当てた。
自らの鮮血を栄養として注ぎ込み、お嬢様の愛する深紅の薔薇を狂い咲かせ続け、立ったまま意識を失った。
元悪党のザックは、重く石化し始めた逃げ足を必死に振り絞り、逃げ遅れた難民たちをシェルターへ運び込んでいた。
崩れ落ちてきた巨大な石柱を自らの背中で受け止め、背骨を砕かれながらも、
「へっ……俺も少しは、マシな生き方ができたかな……」
と、晴れやかな顔で笑って押し潰された。
地下への入り口では、ヴィクトリア様がふかふかのマシュマロボディを駆使して、死の灰をポヨンポヨンと弾き返し続けていた。
しかし、物理的な弾力で呪いを弾く無茶な防衛戦も、ついに限界を迎える。
全身に灰色の染みが広がり、激痛が名門令嬢のからだを苛む。
「わ、わたくしは悪役令嬢ですのよ……! こんな埃まみれの所で倒れるなんて、ちっとも、お上品ではありませんわ……っ!」
ヴィクトリア様はそう強がりながらも、背後に震えるエレナ王女を庇うように立ち塞がった。彼女は立派な肉の盾となり、最も優雅なカーテシーの姿勢をとったまま灰に侵食され、静かに膝をついた。
「お嬢様……マリー、今日も一日……お洗濯、頑張りました、よ……」
洗濯係のマリーは、これまでゆっくりと進行していた指先の呪いが一気に決壊していた。
手の甲から腕、そして全身へと灰色のひび割れが急速に這い上がる。彼女のからだはガラス細工のように灰色に凍りつき、エレナ王女の小さなからだをきつく抱きしめた姿勢のまま、意識を消失した。
『(ここでガキを守んねえと、お嬢様に残業代カットされちまう! 永遠にハンコ押しさせられる方がマシだぜ!)』
仔犬の姿のシロと、ぬいぐるみ姿のハミィ。
悲しい社畜の意地を念話で吐き散らしながら、二匹のマスコットは真っ白な毛並みと綿をボロボロに焼け焦がし、エレナ王女の上に覆い被さるようにして倒れた。
誰一人として、逃げる者はいなかった。
誰一人として、お嬢様を恨む者はいなかった。
ボレアス領の全員が。
セレスティアのくれた温かい居場所と、バグりながらも愛おしい日常を守るために、自らの命という対価を喜んで支払い、折り重なるように倒れていった。
残されたのは、絶望的な静寂と、降り積もる死の灰だけだった。
◆◇◆◇
第四章:氷の女王の覚醒と、因果律の差し押さえ
吹き荒れていた『死の灰』の風が止み、すべての戦闘音が不自然なほどの静寂に呑み込まれた。
血とカビの悪臭が漂うテラスに、カチャリ、と場違いなほどお上品な音が響く。
壊れかけたテラスの扉を開け、セレスティアが姿を現した。
その両手には、甘いカラメルの匂いを漂わせる、ふっくらと焼き上がったばかりのカボチャのシフォンケーキが大事そうに抱えられている。
「みんな、お待たせ! とっても美味しく焼き上がったわよ、アリス、クロエ――」
満面の笑みで足を踏み出したセレスティアの言葉が、途中で完全に凍りついた。
目の前に広がっていたのは、赤黒い血の海に沈み、灰に塗れたボレアスの領民たちだった。
無惨な姿で倒れるレイヴンやダニーたち。ボロボロに焼け焦げてエレナを庇っているシロとハミィ。
そして何より――セレスティアの視線の先。
全身をガラス細工のように灰色にひび割れさせ、血の海の中で折り重なるように倒れている、最愛の二人のメイドの姿があった。
ガシャァァァンッ!!
純銀のトレイが手から滑り落ち、激しい音を立ててケーキが芝生の上に散らばる。
「アリス!? クロエ!? 嘘でしょ、どうしたの、これ……っ!」
セレスティアは悲鳴を上げ、ドレスの裾が血で汚れることも構わず、二人の冷たくなったからだにすがりついた。
抱き起した二人の肌は氷のように冷たく、黄金と紫の瞳からは急速に光が消えかけ、生命力の火が今にも完全に消滅しようとしていた。
「あ、アリス……! クロエ、しっかりして! 目を開けてちょうだい!」
セレスティアの必死の呼びかけに、アリスはかすむ瞳をわずかに動かした。
お嬢様に見捨てられる恐怖など、今の彼女にはもうない。ただ、大好きな『お姉様』をこれ以上悲しませたくないという一心で、アリスは喉から溢れる血を飲み込み、最期の嘘を紡いだ。
「ごめんな、さい……おねえ、さま……。私としたことが、ちょっと、お行儀の悪い、お昼寝を……して、しまって……。シフォンケーキ……食べた、かった、です、わ……」
クロエもまた、灰に侵食されて動かない顔の筋肉を無理やり引きつらせ、かすれた声で必死に微笑みを作ろうとする。
「お嬢様……お隣に……ずっと、控えていると……お約束、したのに……。せっかくの、お召し物を、私の血で汚して……申し訳、ありま、せん……」
二人とも、自らの死への恐怖など微塵もなく。
ただ「お茶会を台無しにしてしまったこと」だけを深く詫びていた。
パリン……と。
切なく、取り返しのつかない音が、空間に響く。
ふたりの瞳から、根こそぎ光が消え去り、その腕が力なく血だまりへと落ちた。
「ああ……あああっ……!」
声を上げて泣き崩れるセレスティアの頭上へ、モルドレッドが悠然と舞い降りた。
彼は足元に転がる死体の山を見下ろし、心底愉快そうに嘲笑う。
「無駄な労働の果ての死だ。この規格外の存在どもは、お前という無能な神を保護するためだけに、無為に命を使い果たしたのだ。次は貴様の番だ、お飾りの令嬢」
冷たくなったふたりを強く抱きしめたまま、セレスティアのからだが微かに震え始めた。
彼女の脳内で、現実逃避の防衛本能が、かつてない極限の速度で加速する。
世界の絶対的な法則である『呪い』や『死』という概念を、彼女自身の魂に深く刻み込まれた独自の『実務の言語』へと、強引に超解釈・変換していく。
『わたくしの許可なく。わたくしの領地内で。うちの、大切な家族たちに――骨の髄まで削り取る無断残業を強要し、挙句の果てに、せっかくの余興の芸人さんまで巻き込んでミイラにするなんて……!』
セレスティアが、ゆっくりと顔を上げた。
その瞬間。世界から、風の音も、モルドレッドの呼吸音すらも、すべての音が消失した。
空間全体の温度が、絶対零度のごとく底冷えする。
かつてレイヴンが確信した通り、お嬢様の明確な『殺意』が、ボレアス領の巨大な地脈と根こそぎ直結したのだ。
セレスティアのプラチナブロンドの長髪が、反重力のように激しく天へ向かって舞い上がる。
透き通った瞳からは一切の感情が消失し、ただひたすらに冷徹な虚無だけが宿っていた。
かつて、睡眠時間2時間の極限状態で一国の裏社会と汚職貴族を恐怖のどん底に叩き落とし、帝国全土を震え上がらせた伝説の【氷の実務家】が、根こそぎ覚醒したのである。
「……うちの大切な家族に、ずいぶんと悪質なブラック労務を強要してくれましたわね。絶対に、許しませんわ」
セレスティアの冷たい視線が、空間そのものに向けられる。
すると、モルドレッドが展開していた『絶死の呪界』そのものが、為政者の圧倒的な威圧に怯え、ガタガタと震え上がった。
「労働基準法違反、不法侵入、器物破損、および……わたくしの可愛い家族たちを深く傷つけた精神的損害賠償。……これら不当な労働の代償として、あなたの『命の全保有権』を、今この瞬間を以て、ボレアス領が根こそぎ差し押さえますわ」
「……は? 貴様、何を言って――」
モルドレッドが呆気にとられた次の瞬間。
セレスティアの右手に、マッハ50の神速で羊皮紙の束と万年筆が出現していた。
彼女は、空間をデスク代わりにして『破滅の公文書』を猛烈な速度で書き始める。
カリカリカリカリカリカリカリ……ッ!!
世界には、ただペンが走る冷たく無機質な音だけが、死の宣告のように響き渡った。
万年筆が走るたびに、モルドレッドのからだから強大な魔力と生命力の光が『《《数字のデータ》》』として強制的に引き剥がされ、羊皮紙の中へ文字列として吸い込まれていく。
「ば、馬鹿なッ!? 領域を支配する私の神話級の呪界が、ただの『紙切れのルール』に上書きされていくというのかァァァッ!?」
どれほど強大な魔法を放とうとも、すべてが「書類上の不備」として自動的にシュレッダーにかけられるかのように霧散していく。
因果律すらねじ伏せる、圧倒的な『為政者の権力』。
「……これで、決済完了ですわ」
セレスティアが、最後に領主印のハンコを取り出した。
『ドンッ!!』
冷酷に書類へ叩きつけられた刹那。
差し押さえられた莫大な生命力が、一斉にモルドレッドから奪われ、テラスから新市街全土へと、光の奔流となって大逆流を始めた。
◇◆◇◆
第五章:奇跡の生命力返還と、涙の完全救済
セレスティアが絶対約定書に領主印を叩きつけた刹那、世界の理は完全にひっくり返った。
モルドレッドの全身から引き剥がされた莫大な生命力が、まばゆい純白の光の粒子となって、テラスから新市街全土へと津波のように一斉に逆流を始めたのだ。
光の奔流は、灰に塗れたボレアス領を優しく包み込んでいく。
「……あ、熱い。なんだ、これは……」
厨房の床で倒れていた料理人のダニーが、微かに指先を動かした。
濁っていた喉の奥から灰が押し出され、コンマ一秒の澱みもなく、奪われていた『味覚と嗅覚』が爆発的な勢いで蘇っていく。
鼻腔をくすぐる、自分が焼き上げたカボチャのシフォンケーキの甘く香ばしい匂い。その瞬間、ダニーの目からボロボロと熱い涙が溢れ出した。
大工のガストンの、灰色の石へと化していた腕も、内側から弾けるような光によって元の頑強な肌へと修復されていく。
ギチギチと音を立てて指関節が動き、金槌を握り直す力がみなぎる。
執務室のデスクで倒れていた筆頭事務官レイヴンは、ゆっくりと上体を起こした。
どす黒い血に染まっていた両目の奥に、再び明瞭な光が差し込む。銀縁眼鏡の向こうの視界がどこまでも晴れ渡り、手元の決裁書類の文字がピタッと焦点を結んだ。レイヴンは中指で眼鏡をスッと押し上げ、静かに安堵の息を漏らす。
新市街のシェルター前では、巨大な石柱の下敷きになっていた元悪党のザックが、砕かれたはずの背骨に凄まじい活力が満ちるのを感じていた。
「へっ……まだ残業代を稼がなきゃならねえみたいだな」
重い石柱を軽々と跳ね除け、何事もなかったかのように立ち上がる。
ヴィクトリア様の全身を蝕んでいた灰色の染みも、光の粒子が触れた瞬間にポヨンポヨンと弾け飛び、元の美しくみずみずしいマシュマロ肌へと戻っていった。
そして、エレナ王女を抱きしめたままガラス細工のように凍りついていた洗濯係マリー。
その手の甲から腕、全身へと広がっていた灰色のひび割れが、みずみずしい血色とともに急速に塞がっていく。太陽の匂いのする温もりが指先に戻り、マリーは大きく息を吸い込んで目を覚ました。
だが、最も劇的な奇跡は、セレスティアの腕の中で起きていた。
灰色にひび割れ、完全に生命の灯が消えかけていたアリスとクロエのからだ。
その肌の隙間に純白の光が染み込み、爆発的な速度で細胞を、魂を、根こそぎ修復していく。
「……んっ。あ、う……」
アリスとクロエの胸が、大きく上下した。
二人の瞳に、みずみずしい黄金と紫のハイライトが鮮烈に灯る。
「おねえ……さま……? わたくし、確か、お行儀の悪いお昼寝を……」
「お嬢、様……? 私は、お召し物を汚して死んだはずでは……」
奇跡的に瞳を開け、自分たちのからだが完全に修復されていることに呆然とするアリスとクロエ。
戸惑う二人がセレスティアの顔を見上げた。
そこには、先ほどまで世界を絶対零度で支配していた冷徹な【氷の実務家】の気配など微塵もなかった。
あったのは、いつも通りの、のほのぼのとした「優しい笑顔」だった。
「アリス! クロエ! よかった……本当によかった……!」
セレスティアは、血と泥にまみれた二人を、自分の高価なドレスが汚れることも一切構わずに、力いっぱいきつく抱きしめた。
その華奢なからだが、小刻みに震えている。
「お、お嬢様、汚れます! 離れてください!」
クロエが慌てて声を上げ、セレスティアの胸を押し返そうとする。
「私たちは、血の匂いが染みついた薄汚い暗殺者なのです……。こんなお行儀の悪い、醜い過去を持つ深淵の規格外の存在は、ここで捨ててくださればよかったのに……っ!」
アリスもまた、己の狂暴な本性を見あやぶられたのではないかと、怯えるように視線を彷徨わせた。
そんな二人の頭を、セレスティアは涙をポロポロとこぼしながら、慈愛に満ちたやさしい両手で包み込み、何度も何度も撫で回した。
「バカね。どんな姿だろうと、どんな過去を持っていようと……あなたたちは、わたくしの家族ですわ」
セレスティアは二人をさらに強く抱きしめ、耳元で愛おしそうに囁く。
「いいえ、違うわ。あなたたちはわたくしの、世界で一番大切で、世界で一番愛する家族ですもの。……生きててくれて、本当にありがとう」
お嬢様が、自分たちの薄汚い本性も、凶暴な過去も、すべてを丸ごと包み込んでくれた。
何一つ咎めることなく、ただ「生きていてくれたこと」を、無条件の愛で肯定してくれた。
その瞬間、二人の脳内から、長年魂を縛りつけていた「いつか見捨てられるのではないか」という恐怖の呪縛が、跡形もなく綺麗に溶け去った。
「う、ああ……お姉様……おねえさまぁぁぁッ!!」
「お嬢様……っ、お嬢様ぁ……っ!!」
アリスとクロエは、まるで迷子の子供のように声を上げて大号泣し、セレスティアの温かい胸に顔を埋めてしがみついた。
二人の目から溢れる涙が、セレスティアのドレスを濡らしていく。だがお嬢様は、ただ優しく微笑みながら、二人の背中をいつまでもさすり続けた。
足元では、元の真っ白な仔犬の姿に戻ったシロと、綿の詰まったぬいぐるみに戻ったハミィが、
「きゅぅん……」
と甘えた声を上げてすり寄っていた。
そこへエレナ王女が「わんちゃんたち! クマさん! エレナを守ってくれてありがとう!」と満面の笑顔で抱きつく。
セレスティアは涙を拭い、シロとハミィを愛おしそうに抱き上げた。
「あなたたちも、立派に家族を守ってくれたのね。本当にえらかったわ」
そう言って、自分の頬を二匹の毛並みにすりすりと押し当てる。
お嬢様のあまりの温かさと尊さに、シロの瞳から大粒の涙が溢れ出した。
『(クソが……。俺、この人のためなら、一生いくらでもハンコ押してやるよ……)』
神狼としてのプライドなど疾うに彼方へ消え去り、シロは至高の幸福感の中で、静かに社畜としての悟りの涙を流すのだった。
◆◇◆◇
第六章:エピローグ〜未来永劫のエンドレス・お茶会〜
お茶会会場を襲った惨劇の痕跡は、翌日には跡形もなく綺麗に片付いていた。
新市街の復興も、視力を取り戻したレイヴンが「何事もなかった」という前提の書類をマッハで作成し、恐るべき裏の手際で完璧に処理したため、ボレアス領にはいつもの穏やかで少しバグった日常が、完全に、そして強引に戻ってきていた。
しかし、領主邸の奥深く。
アリスとクロエの二人は、セレスティアの寝室の豪奢な木彫りの扉の前に、どこか心細げに佇んでいた。
先の死闘による精神的な疲労。そして何よりも、「お嬢様を一時的とはいえ、永遠に失いかけたかもしれない」という強烈な反動が、彼女たちの心を深く苛んでいたのだ。
「……アリス、クロエ。ふたりとも、お部屋に入ってちょうだい」
扉の向こうから、甘くやさしい声が響く。
セレスティアが自ら扉を開けて手招きすると、戸惑うふたりは吸い込まれるように部屋の中へ、そしてふかふかの巨大なベッドの上へと強引に引きずり込まれた。
真ん中にセレスティア。その右側にアリス、左側にクロエが横たわる形になる。
「今日はいえ、今日からは領主命令を執行しますわ。三人で一緒に、朝まで寝ますわよ。……もう絶対に、あなたたちを離してあげませんからね」
そう言って、セレスティアは豊かな胸元へふたりの頭をぎゅっと抱き寄せた。まるで特大の抱き枕を抱え込むように、力強くふたりのからだを固定する。
そして、ふたりの前髪を優しくかき分け、その額へと順番にちゅっ、ちゅっとやさしいおでこキスを落とした。
「ふひゃぅっ……お、おねえさま……っ!」
「お嬢、様……っ。あたたかくて、蕩けてしまいそうですわ……」
これまでのシリアスな死闘の反動による、糖度3000%の極限の百合スキンシップ。
アリスとクロエは、お嬢様の甘い石鹸の匂いと、吸い込まれるような肌のやわらかさに包み込まれた。
顔面を真っ赤に沸騰させながらも、お嬢様が自分たちの過去も、隠していた凶暴さも、そのすべてを包み込んで肯定してくれたという絶対的な幸福感に身を委ねていく。
「ああ……生きてて本当によかったですわ……」
「永遠に、お傍に……お仕え、いたします……」
ふたりはセレスティアの腕の中で至高の幸福の涙を流しながら、今度は呪いでも気絶でもない、本当に安らかで温かい眠りへと落ちていった。
***
翌朝。
ボレアス領主邸の執務室へと続く長い廊下は、すでにお馴染みの、少しバグった日常の再始動に沸いていた。
「お姉様のお着替えをお手伝いするのはわたくしの役目ですわ! 泥棒猫は下がっていなさい!」
「あら、お嬢様の柔らかなお髪を梳かすのは、この私の指先だと決まっております。野良犬こそ引っ込んでいてちょうだい」
見事に全回復したアリスとクロエが、お嬢様の「専属お世話係」というただ一つの玉座を巡り、凄まじい同担拒否の殺気と小競り合いを繰り広げている。
その殺気からまたしてもしたたかに逃れるため、仔犬のシロ(神狼)と特大クマのハミィ(特級呪物)は、ヴィクトリア様の客室へと亡命を企てていた。
『(おい呪物、あのメイドと聖女、完全に復活してやがるぞ。またお嬢様のお気に入りポジション争いに巻き込まれて八つ当たりされたら、今度こそチリにされる)』
『(ワカッテル。俺タチハ、ヴィクトリア様ノマシュマロボディノ裏ヘ避難スル。アソコハ唯一無二ノ絶対安全防壁ダ)』
マスコットふたつのしたたかな生存戦略が、ふたたび廊下を音もなく駆け抜けていく。
その傍ら、日当たりの良いサンルームで。
お茶会本番での「成仏キャンセル(魂の強制引き戻し)」の光景を間近でずっと見つめていたエレナ様(6歳)が、お気に入りのトカゲのコンロさんをぎゅっと抱きしめたまま、キラキラと輝くピュアな瞳で、昨日の出来事を真面目に脳内でバグらせていた。
『(お姉ちゃん、エレナ、わかったよ……! 活動写真の撮影や、ボレアス領でのお茶会って……お空にのぼっていくお友だちの魂のしっぽを、エレナの無邪気な超握力できゅっと掴んで、現世へ力任せにグイッと引き戻す、すっごくたのしいエクストリーム・スポーツだったんだね……!?)』
純真無垢な王女様が、また一つ、ボレアス領の恐るべき深淵を『凄まじい超常レジャースポーツ』として誤学習を完了させ、真顔で何度もコクコクと頷いていた。
それを横で見守っていたヴィクトリア様は、お行儀や常識にこだわりすぎる名門の公爵令嬢ゆえに、宇宙猫のような顔で自身の脳内システムを完全にバグらせ、部屋の隅で絶叫した。
「ちょっとぉぉッ!! なんで6歳の幼児が、限界オタクどもの集団死者蘇生をカジュアルに執行して、それをレジャースポーツとして誤学習してますのーーッ!? そもそも魂がからだに跳ね返るたびに、わたくしのお腹がぽよぽよ揺れて、ひたすらくすぐったかったんですのよーーッ!!」
ヴィクトリア様の喉が裂けんばかりの魂の絶叫ツッコミが、今日もボレアス領の抜けるような青空へ、綺麗に木霊していった。
***
さらに、テラスの美しい快晴の下。
一日遅れで仕切り直されたお茶会のテーブルでは、マリーが太陽の匂いのする純白のテーブルクロスを誇らしげに広げている。
厨房からは、ダニーが味覚の戻った舌で「これぞお嬢様好みの、ちょっと焦げた普通のカボチャシフォンだ!」と誇らしげに胸を張り、焼きたてのケーキを運んできた。
ルカが狂気的なまでに磨きすぎた廊下では、今日もルイス侯爵が「ツルゥンッ」と華麗に大転倒しながら、「(ボレアス領は、歩くことすら試練を与える超軍事洗脳国家だ……っ!)」と胃薬を水なしで飲み込み、道路の復興作業へと這いずり回っている。
そして、テーブルの特等席。
アリスとクロエは、再びお嬢様の右隣というたった一つの神の座を巡って、お行儀よい微笑みを顔に貼り付けたまま、お茶会の死角でマッハの速度で紅茶を注ぐ激しい牽制を繰り広げていた。
「お姉様、お紅茶のおかわりですわ」
「お嬢様、こちらにダニーのシフォンケーキがございますわ」
「ふふ、ふたりとも本当に仲が良くて、いつも楽しそうだわね」
セレスティアは、お花畑フィルター全開の優しい笑顔で微笑みながら、二人が注いでくれた紅茶のカップを優雅に傾けた。
ちなみに、テラスの隅っこでは、昨日の灰を浴びてカピカピに干からびたゴミ箱の中の男――エドワード元王子が、「お、お水……誰か、助け……」と情けない声を上げて手を伸ばしていた。
しかし、優雅なお茶会の邪魔にならないよう、全員から見事に存在しないものとして、綺麗に無視されて放置されていた。
どんなに激しい嵐が来ようとも、神話級の呪いが降り注ごうとも。
因果律すらも実務でねじ伏せる氷の女王がいる限り、ボレアス領の愛おしくも狂ったエンドレス・お茶会は、未来永劫、絶対に変わらずに回り続けるのだ。
――そして、ボレアス領の少しバグった平和な日常は、これからもずっと続いていく。
◇◆◇◆
第七章:エピローグその2〜外部視点・不可侵の神話領域〜
ボレアス領から遠く離れた、東の暗殺教団『黒い回廊』の地下総本部。
窓一つない豪奢な円卓の間は、かつてないほどの重く冷たい沈黙と、濃密な絶望に支配されていた。
円卓を囲むのは、教団の最高幹部である数名の長老たち。彼らの視線の先には、最前線から命からがら逃げ帰ってきた筆頭密偵が、ガタガタと全身を痙攣させながら跪いていた。
「……もう一度言え」
長老の一人が、信じられないものを見るような目で密偵を睨みつけた。
「我が教団のトップである『影の枢機卿』モルドレッド様が、敗れただと……? しかも、あの神話級の呪術『絶死の呪界』を完全展開した状態でか!?」
「は、はいぃぃっ……! モルドレッド様は、間違いなく呪界を完成させておられました! ボレアス領の空は黒く染まり、かの光の聖女も、銀の暗殺者も、すべての魔力を奪われて血の海に沈みました! 領民どもも、ことごとく灰に変わり果て……我々の、完全なる勝利のはずだったのですッ!」
「ならば、なぜ敗れた!? ボレアスの領主が、伝説の聖剣でも抜いたとでも言うのか! それとも、教皇クラスの奇跡の魔術を行使したとでも!?」
長老の怒声に対し。
密偵は、恐怖で顔を真っ青に染めながら、震える声でその『絶望の正体』を口にした。
「……書類、です」
「……は?」
「書類と、万年筆と……ハ、ハンコです……ッ!」
円卓の幹部たちが、一斉に顔を見合わせた。
誰も、密偵の言っている言葉の意味が理解できなかった。
「ふざけるな! 書類だと!? 神話級の呪いを前にして、紙切れ一枚で何ができると言うのだ!」
「それが……! 領主セレスティア・ボレアスは、モルドレッド様を見下ろし、こう宣言したのです……ッ。
『うちの大切な家族に無断残業を強要し、精神的損害を与えたため……労働基準法違反の代償として、命の全保有権を差し押さえる』、と……!」
「ろうどう……なんだと?」
「わ、わかりません! 我々にも全く理解できない言語でした! しかし、あの女が羊皮紙に凄まじい速度でペンを走らせ、最後に領主印のハンコを『ドンッ』と叩きつけた瞬間……!」
密偵は自らの頭を抱え、発狂寸前の声で叫んだ。
「呪界の法則そのものが、『紙切れのルール』に強制上書きされたのです!!」
「なっ……!?」
「モルドレッド様のからだから魔力が数字のデータとなって引き剥がされ……あの方は、ただの一瞬で、一滴の血も流さずに干からびたミイラへと変貌なされました! 世界の因果律が、あの女の『実務』という名の暴力の前に、完全に屈服したのですッ!!」
シンッ、と。
地下の会議室に、水を打ったような静寂が落ちた。
魔力による力押しでもなく、神の奇跡でもなく。
ただ「書類の手続き」と「ハンコ」という、およそ戦場には似つかわしくない日常の実務によって、最強の暗殺者がシュレッダーにかけられた。
常軌を逸した報告に、幹部たちの背筋を底知れぬ悪寒が駆け抜けた。
「……ま、待て。お前はさきほど、聖女も暗殺者も血の海に沈み、領民どもも灰になったと言ったな? ボレアス領の戦力は、壊滅したのではないのか?」
長老の縋るような問いに対し、密偵はついに涙をボロボロと流して首を横に振った。
「そ、それが……モルドレッド様から差し押さえられた生命力が、領地全土に逆流し……死んだはずの者たちが、コンマ一秒の澱みもなく、一斉に息を吹き返したのです!」
「はぁッ!?」
「もはやあの空間は、生と死の境界線すら領主のさじ加減一つで改ざんされる神話領域です! 我々の分析官が弾き出した結論はただ一つ……セレスティア・ボレアスは人間ではありません! 『事務官の皮を被った、実務と母性の邪神』です!!」
密偵の泣き叫ぶような報告に、長老たちはついに宇宙猫のように表情を喪失し、椅子に深く沈み込んだ。
死者がカジュアルに蘇り、神話の呪いが書類で却下される土地。
そんな場所に、これ以上暗殺者を送り込んだところで、今度は教団そのものが「不法侵入による損害賠償」として差し押さえられかねない。
「……長老。エドワード王子の身柄は、いかがいたしましょうか? 彼を囮に使ったことがバレれば、我々も……」
別の幹部が震えながら問いかける。
「お、王子は……今もボレアス領のテラスにある、ゴミ箱の中にいらっしゃいます……」
「ゴミ箱? 捕虜として幽閉されているのではなくか?」
「はい……。完全に気配を消す肉の盾として、領民の誰一人からも視認されず、永遠にゴミ箱の中で『お水……』と呟きながら這いずり回っておりました。あまりにも完璧に無視されていたため、救出の隙もありませんでした」
もはや、哀れみすら湧かない。
因果応報の極みとして、元王子は永遠に放置される刑に処されているらしい。
長老は、ガクガクと震える手で自身の顔を覆った。
「……全軍に告ぐ。たった今より、ボレアス領を『|絶対不可侵の神話領域《ランクS・サンクチュアリ》』に指定する」
「ちょ、長老!?」
「地図からボレアス領の記載をすべて黒く塗りつぶせ! あの土地に少しでも近づいた者は即座に破門とする! いいか、絶対にあの【氷の実務家】を怒らせるな! 我々の命の保有権まで、ハンコ一つで差し押さえられてたまるかァァァッ!!」
『黒い回廊』の総本山に、長老の悲痛な絶叫が響き渡る。
こうして。
ボレアス領は周辺諸国から「絶対に手を出してはいけない、物理と因果律を超越した実務の魔境」として恐れられるようになり、結果として、領地の平和はより盤石なものとなったのである。
なお、その恐るべき魔境の中心で、当の氷の女王本人が、元暗殺者のメイドたちと糖度3000%の百合スキンシップ(添い寝)を満喫していることなど、外部の人間は知る由もなかった。
◆◇◆◇
第八章:エピローグその3〜事後処理という名の絶望〜
『黒い回廊』の最高幹部たちが恐怖のあまり宇宙猫と化していた頃。
絶対不可侵の神話領域となったボレアス領主邸の、広大な事務管理室では――かつてない規模の『絶望』が吹き荒れていた。
「……計算が、合わん。どうなっている」
筆頭事務官レイヴンは、両目の視力を完全に取り戻した代償として、目の前にうず高く積み上げられた羊皮紙の山を前に、完全に白目を剥いていた。
原因は他でもない。
お嬢様セレスティアが、モルドレッドの放った神話級の呪界を『書類の手続き』で強制的に差し押さえたことにある。
「あの神話級の呪い……『死の灰』の構成物質すべてが、お嬢様の約定書によって【不法投棄された産業廃棄物】として領地のデータに計上されている……ッ! これらすべての灰の浄化費用、およびモルドレッドから差し押さえた莫大な生命力を『領地の特別予備費』として組み込むための、資産計上処理だと……!?」
因果律を書類でねじ伏せるということは、即ち「ねじ伏せた結果をすべて書類として後処理しなければならない」という宇宙規模の事務作業を意味していた。
お嬢様が無敵のお花畑フィルターを全開にしてハンコを叩きつけた瞬間、魔力はすべて『《《数字のデータ》》』に変換された。そのデータは今、哀れな事務官たちのデスクの上に、数万枚の決裁書類となって物理的に具現化しているのだ。
「誰か……誰か、第一魔力会計課の応援を呼べ! 呪術の因果律を複式簿記で仕訳したことのある奴はいないのか!?」
「無茶言わないでくださいレイヴン様! 『借方:モルドレッドの寿命、貸方:精神的損害賠償』なんて仕訳、帝国魔法省の教本にも載ってませんよぉぉッ!」
事務官たちが、血の涙を流しながら猛烈な速度でソロバンと羽ペンを弾く。
生還の喜びに浸る暇など、彼らにはコンマ一秒すら与えられなかった。
「(……クソが。死にかけていた時の方が、まだ休めたんじゃないか……?)」
レイヴンの脳裏に、そんな禁断の思考がよぎる。
しかし、そのすぐ横のデスクでは、彼を遥かに凌駕する絶望的な光景が繰り広げられていた。
『(おい呪物……右から3番目の書類、モルドレッドの残存魔力の減価償却の計算が間違ってやがる。やり直せ)』
『(ワカッテル。俺ハモウ、三日三晩息ヲシテナイ。手首ガ焼ケ焦ゲソウダ)』
仔犬のシロ(神狼)と、特大クマのハミィ(特級呪物)である。
彼らは肉の盾となってボロボロになったからだが回復した直後から、問答無用で『自動決裁ライン』に組み込まれていた。
シロの前足は、もはや残像すら見えないマッハの速度で領主印のダミー(一次審査用ハンコ)を書類に叩きつけ続けている。
ドンッ! ドンッ! ドンッ! という、規則的かつ狂気的なハンコの音が、事務管理室に虚しく響き渡る。
「(神狼たる俺が、人間の……しかも、あのわけのわからないお花畑女が叩き出したバグみたいな因果律の尻拭いのために、徹夜でハンコを押している……。神様、俺はいったい前世でどんな大罪を犯したっていうんだ……)」
シロの瞳から、ついに一条の輝かしい涙がこぼれ落ちた。
それは決して悲しみの涙ではない。社畜としての一つ上の次元――【社畜涅槃】へと至った、悟りの涙であった。
そこへ、ガチャリと事務室の扉が開く。
「みんな、お疲れ様! 復興の事後処理、とっても頑張ってくれているのね!」
天使のような満面の笑みを浮かべたセレスティアが、アリスとクロエを引き連れて現れた。
彼女のまわりには、パステルカラーの小花が舞うような、見事なまでのお花畑オーラが漂っている。
「レイヴン、それに事務官のみんなも。あなたたちがいてくれるから、ボレアス領の平和な日常は守られているのよ。本当に、わたくしは果報者ですわ」
お嬢様からの、心からの労いと全肯定の言葉。
その圧倒的な慈愛のオーラを浴びた瞬間、レイヴンや事務官たち、そしてシロとハミィの脳内から、それまでの疲労と絶望が一瞬にして吹き飛んだ。
『(ああ……お嬢様が、私のようなしがない事務官を褒めてくださっている……!)』
『(俺のハンコが、このお方の平和を支えている……だと……!?)』
極限状態の社畜たちの脳髄に、致死量のドーパミンが分泌される。
レイヴンは、先ほどまでの「死にかけていた方がマシだった」という思考をコンマ一秒の澱みもなく完全消去し、血走った目で立ち上がった。
「お言葉、もったいなき幸せにございます、お嬢様……! このレイヴン、命の続く限り、否、命が尽きて灰になろうとも、この書類の山を片付けてみせましょうッ!」
「オオオォォォォッ!! やるぞお前ら!! 呪いの灰の減価償却を、朝までに終わらせろォォォッ!!」
「ワンッ!(任せろ、俺のハンコ捌きで、因果律ごと綺麗にファイリングしてやるぜ!!)」
事務室のボルテージが、異様な狂気とともに最高潮に達する。
限界社畜たちは、お嬢様への狂気的な忠誠心をガソリンにして、再びマッハの速度で書類仕事へと没頭し始めた。
「ふふっ、みんな本当に活気があって、仕事を楽しんでくれているのね」
セレスティアは、その異常な光景を「頼もしい家族たちの姿」として完璧に誤変換し、優雅に微笑んだ。
「さあ、アリス、クロエ。みんなのために、とびきり甘いお茶とケーキを用意してあげましょう。今日のお茶会は、徹夜でエンドレスですわよ!」
「はいっ、お姉様! 徹夜でお紅茶を注ぎ続けるなど、メイドとして至上の喜びにございますわっ!」
「お嬢様が作られた極上のケーキ……一つ残らず、皆様の胃袋へ物理的に叩き込んで差し上げますわ!」
アリスとクロエもまた、お嬢様の隣に居られる圧倒的な幸福感に瞳を蕩けさせながら、ワゴンを押して事務室へと突撃していった。
その日、ボレアス領の事務管理室の窓からは、朝日が昇るまで狂気的な熱気とハンコの音が途切れることはなかった。
どんな神話級の呪いが来ようとも、どんな強大な帝国が攻めてこようとも。
氷の女王と限界社畜たちが織りなす、この愛おしくもバグった【エンドレス・お茶会(と残業)】は、絶対に終わることはないのだ。
(完)
セレスティア・ボレアス
「皆様、最後までわたくしたちのお茶会にお付き合いいただき、本当にありがとうございました。少しお行儀の悪いお客様もいらっしゃいましたが、ボレアス領の『おもてなし』、お楽しみいただけましたでしょうか?
これからも、わたくしの可愛くて大切な家族たちと、優雅な日常を過ごしてまいりますわ。……あら? レイヴン、こちらの『読了証明書』百万枚にもサインが必要ですの? ふふ、仕方ありませんわね。皆様、またいつでもお茶を飲みにいらしてくださいね!」
アリス
「セレスお姉様の素晴らしいご活躍を最後まで見届けてくださり、ありがとうございますぅっ! 皆様も、お姉様の尊さと慈愛にすっかり蕩けてしまったことでしょう?
……ですが、お姉様の右隣は永遠にわたくしの特等席ですわ。もし一ミリでもその座を狙う不届き者がいらしたら、読者様であろうとこの光魔法で塵一つ残さず浄化して差し上げますから、そのおつもりで♡」
クロエ
「お嬢様の軌跡を最後までお読みいただき、心より感謝申し上げます。
薄汚れた暗殺者であった私を、お嬢様は温かな光で救い上げてくださいました。この御恩に報いるため、私はこれからも生涯をかけて、お嬢様のお紅茶を淹れ続け、そしてお嬢様の歩む道にある『ゴミ』を無音で排除し続けます。皆様も、お嬢様のお召し物を汚さぬよう、どうぞご安全に」
ヴィクトリア
「ちょっとぉぉッ! なんでわたくしまでご挨拶させられてますの!?
だいたい、このバグだらけの狂った領地に最後まで付き合った読者の皆様の胃袋が心配ですわ! わたくしのマシュマロボディで癒やして差し上げたいくらいですわよ!
……こほん。と、とにかくっ、最後までお付き合いいただき、本当に……その、ありがとうございましたわっ! 決してわたくしが、この領地に居心地の良さを感じているわけではありませんからねッ!」
シロ&ハミィ
『(読者のアンタら……最後まで俺たちの過労死スレスレの雄姿を見てくれてありがとな……)』
『(ワレワレハ、今モ徹夜デ事後処理ノ書類ニ、ハンコヲ押シ続ケテイル。右手ガモゲソウダ)』
『(お嬢様の因果律差し押さえのせいで、有給休暇は当分お預けみたいだぜ……。あんたらは、どうかゆっくり休んでくれよな……。ドンッ、ドンッ、ドンッ……)』
レイヴン
「……(無言で眼鏡を押し上げ、読者の皆様へ向けた『ボレアス領・名誉領民証』に、流れるようなブラインドタッチで決裁印を押して手渡す)」
エレナ王女&コンロさん
「お兄ちゃん、お姉ちゃんたち、最後まで読んでくれてありがとう!
ボレアス領は、お空にのぼる魂を地上にひっぱる『お茶会』がいっぱいで、とってもたのしいよ! また一緒にあそぼうね!」




