おじさん、戦術を授ける
第二階層への入り口は、第一階層の最奥部にある。
薄暗い洞窟を抜け、開けた空間に出ると、そこには巨大な木の根が絡み合った門のようなものがそびえていた。
根が根に噛みつくように、うねり、絡み、縫い合わされている。
自然にできたものなのか、それとも誰かが——あるいは何かが——作ったものなのか。
この世界のダンジョンについて、俺はまだ知らないことが多すぎる。
「うわぁ、なんか雰囲気変わるね」
悠が門をくぐりながら言った。
第一階層は岩肌むき出しの洞窟だったが、第二階層は様相が違う。
地面には苔が生え、天井からは蔦が垂れ下がり、あちこちに巨大なキノコが生えている。
薄暗いが、苔や菌類が放つ淡い光のおかげで、視界は意外と確保できた。
森だ。
地下にあるはずなのに、森としか言いようのない空間が広がっている。
異世界のダンジョンでも似た階層を見たことがあるが、あちらはもっと禍々しかった。
ここは——比較的、穏やかに見える。
穏やかに見えるだけで、油断はできないが。
「空気が湿ってる……」
涼子が弓を握り直しながら呟いた。
弓道部の経験があるとはいえ、この環境は弓にとって良くない。
弦が湿気を吸えば、矢の伸びが落ちる。射る瞬間の感覚も狂う。
「カメラ、大丈夫?」
朱音が振り返って聞いてくる。
「問題ない。湿気対策はしてある」
嘘だ。何もしてない。
だが、異世界で使っていた魔道具に比べれば、この程度の湿気は可愛いものだった。
酸の雨が降る地域も、常に蒸気が立ち込める火山地帯もあった。壊れたら壊れたで、それはそれだ。
悠がカメラに向かって、ぱっと手を振った。
「じゃあ、撮影始めるよー」
表情が切り替わる。さっきまでの緊張した顔から、配信者としての明るい笑顔へ。あの切り替えの速さは、才能だと思う。
「みんな、こんにちは! キラキラスリースターズです! 今日はついに——」
悠が両手を広げる。
「第二階層に挑戦します!」
『おおおおお』
『ついにきた』
『まじか』
『気をつけてね』
胸元のスマホから、コメント読み上げの声が流れる。
生配信だ。前回の動画が跳ねたせいで、反応がやけに速い。
数字は見えないが、コメントの流れ方で分かる。人が多い。
「第二階層といえば、ウッドウォーク! 樹木に擬態するモンスターで、油断すると痛い目を見るらしいです!」
悠が説明しながら歩き出す。朱音と涼子がその後に続き、俺は少し離れた位置からカメラを回す。
三人の背中を映しながら、意識だけは周囲へ張り巡らせる。
第二階層の空気は、第一階層とは明らかに違う。
魔力が濃い。肌がぴりぴりする。
湿気の匂いの奥に、焦げたような、鉄みたいな、嫌な甘さが混じっている。
そして——殺気とまではいかないが、こちらを窺っている気配がある。
モンスターだ。
複数。
まだ距離はあるが、こちらの存在には気づいている。三人は気づいていない。
気づけない。だが俺には分かる。異世界で鍛えられた勘が、胸の奥で小さく警鐘を鳴らしていた。
「悠。右手の茂みに注意しろ。何かいる」
小声で伝える。カメラのマイクに拾われない程度の音量で。
「え、マジ?」
悠が足を止め、右手を見た。
茂みの中に——いや、茂みそのものが、微かに揺れている。
風はない。なのに揺れる。よく見れば、輪郭が不自然だ。
周囲の植物と、色の馴染み方が違う。そこだけ、妙に“置かれている”。
「ウッドウォーク……?」
涼子が弓を構えた。矢をつがえ、弦を引く。
動作は滑らかだ。弓道の基礎が身体に染みついている。
その瞬間、茂みが動いた。
否。茂みだと思っていたものが、立ち上がった。
二メートルを超える巨体。樹皮に覆われた胴体。
枝のように細長い四肢に苔むした頭部。
目も鼻も口もない、ただの木の塊みたいな顔。
だが、確かにこちらを認識している。敵意が、形になって立っている。
ウッドウォーク。
異世界でも見慣れた類だ。
こっちの個体は少し小ぶりだが、構造は同じなので弱点も同じはずだ。
「来た!」
悠が剣を抜いた。刃が苔の光を受けて、鈍く光る。
「朱音、左から回り込んで! 涼子、援護!」
「了解!」
「は、はい!」
三人が散開する。
悠が正面から牽制し、朱音が側面へ回り、涼子が距離を取って弓を構える。教科書通りの布陣だ。
悪くない。連携の基本は身についている。
だが——。
「もう一体いる。後ろだ!」
俺の警告と同時に、背後の木が動いた。
さっきまでただの木だったものが、ぐにゃりと輪郭を崩す。
擬態が剥がれ落ちるみたいに。二体目のウッドウォークが、涼子へ腕を振り下ろす。
「きゃっ!」
涼子が悲鳴を上げ、転がって避けた。
間一髪。半秒遅ければ、頭が潰れていた。
矢は放てない。体勢が崩れる。弓を抱えたまま地面を転がる姿が痛々しい。
「涼子!」
悠が駆け寄ろうとするが、一体目が行く手を阻む。枝のような腕が唸り、悠を近づけさせない。
「くっ……!」
朱音が二体目へ斬りかかった。剣が腕に食い込む——が、浅い。樹皮が硬すぎる。刃が通らない。
異世界のウッドウォークと同じだ。普通の剣じゃ、表面を削るのが精一杯。
「硬っ!」
朱音が舌打ちし、飛び退く。
まずい。
二対三。数では勝っている。だが、格が違う。
ウッドウォークは第二階層の主力モンスターだ。初心者が束になっても、簡単には倒せない。
このままでは——
「おじさん!」
悠が叫んだ。
助けを求める声。
俺が出れば、この程度は瞬殺できる。
素手で核を握り潰して終わりだ。
だが、そうした瞬間に終わる。
俺のただのカメラマンは。
生配信中だ。何十人、もしかしたら何百人もの目が、この映像を見ている。
俺が人間離れした動きを見せれば、記録に残る。切り抜かれ、拡散され、分析される。
どうする。
考えろ。
助ける。隠す。両方。
——あった。
「悠! スライムを使え!」
「は?」
「そこにスライムがいるだろ! ウッドウォークにぶつけろ!」
俺が指差した先には、うす緑色のスライムが三匹、こちらの騒ぎを遠巻きに眺めていた。
第一階層から迷い込んだのか、ここにもいるのか。
どちらでもいい。今は、あれが要る。
「スライムを……?」
「いいから早く! 拾って投げろ!」
悠は一瞬、目を見開いた。
困惑しながらも、すぐに動いた。
近くのスライムを掴み、ウッドウォークへ投げつける。
スライムはぷるぷると震えながら宙を飛び——
「えいっ!」
顔面に張り付いた。
「ギャアアアア!」
ウッドウォークが悲鳴を上げた。言葉ではない。
だが苦痛は伝わる。耳が、心が、拒否反応を起こすような声だ。
そう。スライムは有機物を溶かす。
木も例外じゃない。むしろ、木は餌だ。
顔を溶かされたウッドウォークは、視界を奪われて暴れ始めた。
腕を振り回し、あちこちへぶつかり、苔の光を散らしながら、悲鳴を上げ続ける。
統制は崩れ、ただの暴走へ落ちた。
「今だ! 足を狙え!」
「わかった!」
悠と朱音が同時に斬りかかる。
狙うのは足元。樹皮が薄い部分。関節。繋ぎ目。
パニックの巨体は対応できない。足を削られ、バランスを崩し、轟音を立てて倒れた。
地面が揺れる、巨木が倒れる音だった。
「涼子、核を!」
「はい!」
涼子が立ち上がり、弓を構える。
倒れた胸部——核の位置へ狙いを定める。深呼吸ひとつ。弦が鳴り、矢が飛んだ。
矢は寸分たがわず、核を貫いた。
ウッドウォークが痙攣して、止まった。
一体目、撃破。
「もう一体!」
二体目は仲間の倒れ方に怯んだのか、動きが鈍った。後退している。逃げる気だ。
その隙を、三人は逃さない。
朱音が残りのスライムを掴んで投げる。悠が足を刈る。涼子が核を射抜く。
さっきと同じ流れ。
でも、二回目は速い。迷いがない。成功体験は、人を変える。
二体目も倒れた。
「……勝った?」
悠が呆然と呟いた。剣を握ったまま自分の手を見る。信じられない、という顔だ。
「勝ったんじゃない?」
朱音が息を荒くしながら言う。額に汗が浮かんでいる。
「勝ちました……よね?」
涼子が弓を下ろし、へなへなと座り込んだ。膝が震えている。緊張の糸が切れたのだろう。
『すげえ』
『スライム投げるとか天才か』
『おじさんナイス指示』
『この戦法初めて見た』
『頭いいなこのPT』
コメント欄が燃え上がっている。読み上げ音声が追いつかないくらいだ。
俺はカメラを下ろさず、三人の姿を撮り続けた。
息を切らし、汗をかき、それでも笑おうとしている三人。
疲労と安堵と達成感が入り混じった表情。
これだ。
視聴者が見たいのは。
ギリギリと勝利。本物の感情。
「おじさん!」
悠が駆け寄ってきた。
「あの作戦、すごかったね! スライム投げるなんて、思いつかなかった!」
「まぁな」
異世界では常識だった。スライムは万能の道具だ。
溶解液にもなるし、囮にもなるし、足止めにもなる。場合によっては食える。
ただ、この世界ではまだ“使い方”が共有されていない。それだけだ。
「これ、絶対バズるよ!」
朱音が興奮したまま言う。悠の肩を叩く勢いも強い。
「新しい攻略法だもん! ウッドウォークにスライムぶつけるとか、誰もやってない!」
「確かに……動画で見たことないです」
涼子も頷く。座り込んだままだが、顔には笑みが浮かんでいた。
三人の目が輝いている。
第二階層の主力を、自分たちの力で倒した。その事実が、彼女たちの中で芯になっていく。
経験に勝る教師はいない。
「よし、もう少し奥まで行ってみるか?」
俺が言うと、三人は顔を見合わせた。疲労はある。怖さもある。だが、目の輝きが消えていない。
「行く!」
悠が即答した。
「せっかくだし、もうちょっと撮りたい!」
「私も賛成!」
「……私も、行きたいです」
涼子の声に、さっきまでなかった強さが乗った。怖い。でも、前へ。そういう音だ。
「よし。ただし無理はするな。危ないと思ったら即撤退だ」
「了解!」
三人が歩き出す。
俺はその背中を見ながら、カメラを構えた。
——悪くない。
悪くない流れだ。
□
その後、三体のウッドウォークを倒した。
すべてスライム戦法だ。
最初こそぎこちなかったが、回数を重ねるごとに連携が良くなる。
悠が投げ、朱音が削り、涼子が射抜く。
役割が明確になり、無駄が消える。戦いが作業になっていく。
二体目を倒す頃には、悠の動作が様になっていた。
最初は恐る恐るだったのが、今では躊躇なく掴み、投げる。
スライムにとっては災難だろうが、こちらも生きるか死ぬかだ。恨むなら、ダンジョンを恨め。
三体目では、朱音が自分からスライムを拾いに行った。
「私にもやらせて」
そう言って、見事に顔面へ命中させた。運動神経がいい。
こういう“投げ物”は、才能が出る。
四体目は、涼子がスライムを矢で射って飛ばすという離れ業を見せた。
弓道の技術をこんな形で使うのか、と俺は一瞬だけ笑いそうになった。
だが理にかなっている。距離を取ったまま仕掛けられるのは、後衛にとって大きい。
成長が早い。
素質か。実戦の力か。どちらでもいい。
彼女たちは今、座学では得られないものを体で覚えている。
俺も、あの頃はそうだった。
死にそうになりながら、少しずつ強くなった。
「そろそろ戻ろう」
俺が声をかけると、三人は名残惜しそうにした。
「えー、もうちょっと——」
「ダメだ。疲労が溜まってる。これ以上は危険だ」
悠が何か言いかけたが、朱音が肩を叩いて止めた。
「おじさんの言う通り。私ら、結構限界」
「……うん。そうだね」
悠も頷いた。自分の状態を客観視できる。
引き際が分かる。それは、長く生き残るための才能だ。
出口へ向かいながら、俺は内心でほっとしていた。
欲をかいて深追いした冒険者が、どれだけ命を落としたか。異世界で何度も見てきた。
「今日の配信、どうだった?」
悠がスマホを確認しながら言った。画面の光が、薄暗い森の中で彼女の顔を照らす。
「同時接続、最高で三百人超えてた!」
「マジで!?」
朱音が声を上げた。
「いつもの十倍じゃん!」
「スライム戦法が話題になってるみたい。『天才』『新攻略法』『おじさん有能』ってコメントがすごい」
涼子がスマホを見せてくる。
画面にはコメントの嵐。スクロールしても追いつかない。
『このPT頭いいな』
『スライムの使い方目から鱗』
『おじさんの指示が的確すぎる』
『カメラマンなのに戦術指南とか何者だよ』
——まずい。
また何者だ。
今日は緊急だった。仕方ない。そう思っても、言い訳にしかならない。
俺は前に出すぎた。声を出しすぎた。指示を出しすぎた。
「おじさん、すごい人気だね」
悠が笑う。悪意のない、純粋な笑顔だ。
「顔出ししないから余計に気になるんだと思う。ミステリアスなおじさん」
「……そうか」
ミステリアス。いい言葉だ。都合よく包んでくれる。
だが、好奇心はいつか執念になる。
匿名を暴きたい、という欲求は、ネットの住人にとって甘い蜜だ。
ダンジョンを出ると、もう夕方だった。
オレンジ色の空が、ゲートの向こうに広がっている。
冬の日は短い。ついさっきまで昼だと思っていたのに、もう夕暮れだ。
「おじさん、今日はありがとう」
悠が深々と頭を下げた。
「悠だけじゃないでしょ。私らも」
朱音と涼子も頭を下げる。三人並んで、深々と。
「おじさんがいなかったら、やばかったと思う。本当にありがとう」
「……仕事だ。気にするな」
照れくさくて、そっぽを向いた。
礼を言われるのは苦手だ。異世界でもそうだった。
称えられるたびに、居心地が悪くなる。
「じゃあ、編集よろしくね! 報酬は——今日の分、上乗せして三千円でどうかな?」
悠の言葉に、俺は目を見開いた。
「いいのか?」
「当然でしょ。今日のおじさん、カメラマン以上の働きしてたもん」
三千円。
大きい。本当に大きい。
これで来週まで食いつなげる。ネカフェ代も払える。編集の時間も買える。
人間らしい時間が、もう少しだけ続けられる。
「……ありがとう」
素直に言った。
「こちらこそ! じゃあ、また連絡するね!」
三人が手を振りながら去っていく。
俺はその背中を見送りながら、ふとゲートを振り返った。
——また、視線を感じる。
受付の奥。事務所の窓。
今度はカーテンが閉まっていなかった。
スーツ姿の男がこちらを見ている。中年くらいだろうか。無表情で、何を考えているか読めない顔。
目が合った。
男は無表情のまま、小さく頭を下げた。
挨拶なのか。警告なのか。あるいは「見ているぞ」という意思表示なのか。
俺も小さく頭を下げ返した。
次の瞬間、カーテンが閉まった。
——何者だ。
政府か。別の組織か。ダンジョン管理局の人間なら観察は仕事のうちだろう。
だが、俺を特定の対象として見ている気がしてならない。
分からない。
だが、見られているのは確かだ。
成功は危険を呼ぶ。
今日、また一つ、俺は目立ってしまった。
公園へ向かいながら、俺は考え続けた。
このまま続けていいのか。
続けるしかないのか。
答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなものがある。
ハンバーグの温もりと、三人の「ありがとう」は、本物だった。
それだけは疑いようがなかった。
□
三日後、俺はネカフェのブースで編集作業に没頭していた。
第二階層の素材は、これまでで一番手応えがある。
ウッドウォークとの戦闘。スライム戦法の発見。三人の成長。どれを切っても絵になる。
問題は、どう料理するかだ。
編集ソフトのタイムラインに素材を並べ、何度も再生して構成を練る。
冒頭をどうするか。
前回と同じくハイライトで掴むのは、芸がない。かといって時系列で始めると弱い。掴みが遅い。
考えた末、俺はひとつの構成に決めた。
冒頭は、ウッドウォークに追い詰められる三人の姿から始める。
悲鳴。焦り。絶体絶命。
視聴者に「どうなる」と思わせる。
そこでタイトルを入れ、時間を巻き戻す。「三十分前——」のテロップ。
第二階層へ入る場面へ切り替え。
よくある手法だ。だが、効く。効くものは使う。
構成が決まれば、あとは細部を詰める。
スライムを投げる悠の表情。困惑から確信へ変わる瞬間を拾う。
朱音の攻撃は荒い。だから迫力がある。スローをかけ、音を乗せ、刃が樹皮を削る瞬間を強調する。
涼子の矢が核を貫く瞬間。ここは一番の見せ場だ。弓を引き、狙いを定め、放つ。直前の息。放たれた後の静けさ。
そこを丁寧に繋ぐ。実際には一度しか撮れていなくても、前後のカットで“そう見せる”ことはできる。
そして、俺の声。
「スライムを使え!」
これをどう扱うか、正直迷った。俺を消せば安全だ。
だが、コメント欄で「おじさん」が話題になっていることを考えると、消すより残した方が伸びる。
危険な賭けだ。
目立てば目立つほど、特定のリスクは上がる。
だが、数字を取らなきゃ、未来がない。
悩んだ末、俺は決めた。
残す。
あえて多めに。
クライマックスで、俺の声が響く。視聴者が求めているのは、ミステリアスな「おじさん」の存在感だ。
それを与えれば、チャンネルの個性になる。
リスクは承知の上。
編集は合計六時間かかった。三時間パックを二回。途中で軽食を挟み、目の乾きと肩の凝りをごまかしながら。
完成した動画を通して見たとき、俺は小さく息を吐いた。
これは、良い。
自画自賛じゃない。客観的に見ても、前回より一段上だ。テンポ。構成。演出。どれも刺さる。
ブースを出て、ロビーのWi-Fiに繋ぎ、動画をクラウドに上げる。悠たちに連絡し、確認を待つ。
三十分後、グループが荒れた。
『やばい これやばい』
『おじさん天才すぎない???』
『冒頭の演出めっちゃ映画っぽい……!』
『早くアップしたい!!!!』
俺は少しだけ口元を緩める。
『アップしていいぞ』
『了解!!!!』
しばらくして「アップロード完了」の通知が来た。
あとは、結果を待つだけだ。
□
ネカフェを出て、公園へ戻った。
ベンチに座り、空を見上げる。冬の夜空は星がよく見える。
街の灯りに負けながらも、いくつかの星がちゃんと瞬いている。
異世界の夜空とは配置が違うが、見上げる気持ちは同じだ。
寒い。
一月の夜気が、容赦なく体温を奪う。体を丸めても、冷気は隙間から忍び込む。
それでも今日は、悪くない気分だった。
三千円の報酬。良い動画。成長する三人。
少しずつだが、前へ進んでいる実感がある。
一時間ほど経った頃、スマホが震えた。近くのコンビニへ移動し、Wi-Fiに繋ぐ。
『おじさん!!!! 見て!!!!!!』
悠からのメッセージ。スクリーンショットが添付されている。
再生数——三時間で二万回。
俺は、思わず息を呑んだ。
二万。三時間で。
前回は一週間かけて一万五千だった。それを、たった三時間で超えた。
スクリーンショットをよく見ると、サムネの横に炎のマークがついている。
急上昇のアイコンだ。アドツベのアルゴリズムに拾われ、多くの目に触れている。
『急上昇に載ってる!!!!』
悠の文面が、ほとんど叫びだ。
『ダンジョン配信カテゴリで5位!!!!』
朱音からも追加。
『コメントがすごい速度で増えてます……!』
涼子は控えめだが、末尾のビックリマークがいつもより多い。
俺はコメント欄のスクリーンショットを開いた。
『スライム戦法天才すぎる』
『これ真似していい?』
『おじさんの声イケボ』
『キラスタ急に覚醒してて草』
『登録した』
『このチャンネル伸びる』
『冒頭の演出すごくない? 映画かよ』
『編集のレベル上がりすぎ』
好意的なコメントが大半だ。スライム戦法への驚き。編集への称賛。三人への応援。
チャンネルの空気が変わっている。
だが——
『おじさん特定班、出動』
『声から年齢割り出せないか』
『背景から場所特定できそう』
『絶対ただのカメラマンじゃないだろ』
『元プロ? それとも引退した配信者?』
——来た。
予想はしていた。覚悟もしていた。
数字が伸びれば必ずこうなる。匿名の存在は、暴きたくなる。好奇心は、娯楽になる。
俺を探す人間が、増えていく。
コンビニの窓ガラスに、自分の顔が映っている。疲れた顔だ。目の下のクマ。こけた頬。ホームレス生活と栄養不足が、しっかり刻まれている。
この顔が特定されたら、どうなる?
「キラスタのカメラマン、ホームレスだった」——そんな見出しが躍るかもしれない。
悠たちに迷惑がかかる。炎上する。チャンネルが潰れる。
あるいは、もっと悪い。
俺が異世界帰還者だとバレたら?
政府が動くかもしれない。あのスーツの男が何者か分からないが、俺を見ているのは確かだ。
目立てば目立つほど、関心は高まる。
どこまでリスクを取るべきか。
どこで線を引くべきか。
正解なんて、ない。
『登録者、一晩で三百人増えました!!』
涼子からのメッセージが、思考を断ち切る。
『このペースなら、来週には千人超えるかも!!』
悠が続けた。
千人。収益化の条件。
彼女たちの夢が、手の届くところまで来ている。
俺は冷たくなった指先でスマホを握りしめた。
綱渡りだ。
成功と破滅の、綱渡り。
どこまで行けるか、分からない。
でも今は前に進むしかない。後ろを振り返っても、そこには何もない。
公園のベンチと、空っぽの財布と、行き場のない元勇者がいるだけだ。
『次の撮影、いつにする?』
悠からの問い。
俺は、いつものように答えた。
『いつでもいい』
ホームレスには、断る余裕なんてない。
だが——断りたいとも思わなかった。
それが今の俺の、正直な気持ちだった。
ブックマーク、評価などいただけるとやる気アップにつながりますので、みなさまどうかよろしくお願いします。




