構造的共鳴と炭黒の夜
大久保さんの住むマンションは、首都近郊の私鉄沿線から徒歩十分ほどの場所にあった。築三十年近い鉄筋コンクリート造の四階建てで、外壁はかつて白かったであろうが、今は排気ガスと経年劣化によってくすんだ真珠色から無煙炭のような暗灰色へのグラデーションを描いていた。
部屋に通されると、大久保さんはひどく憔悴した様子だった。目の下には濃い隈があり、神経質に手をこすり合わせている。彼が「和室」と呼んだその部屋は、確かにリビングと薄い板戸で仕切られているだけの空間だった。窓には遮光カーテンが引かれ、部屋の隅には深い漆黒の闇が淀んでいるように見える。
「ここです。この畳の、ちょうどあの辺りから……」
大久保さんが指差した先には、何の変哲もない使い込まれた畳があるだけだった。
太郎は持参した音響測定用の小型マイクを部屋の数カ所に設置し始めた。一方、ポチは和室に入るなり、ぐるぐると三回ほど回って畳の上にどっかりと腰を下ろした。怯える様子も、虚空に向かって吠える様子もない。少なくとも、動物の生存本能を脅かすような「何か」はいないようだ。
「先生」が太郎がしている機材のセッティングを終えて言った。
「物理的な振動波や低周波音なら、これで可視化できます。あとは夜を待つだけですね。」
深夜の二時を回った頃だった。
大久保さんはリビングのソファで仮眠を取り、我々は暗闇の中で息を潜めていた。太郎は手持ち無沙汰を紛らわすためか、携帯ゲーム機を取り出し、画面の明度を最低にして何やら操作している。
「先生、来ましたよ」と佐藤太郎は言った。
さっ。ささっ。
確かに、乾いた摩擦音が聞こえた。大久保さんの言う通り、誰かが力なく箒を動かしているような、一定のリズム。和室の同じ場所から聞こえてくる。
私は音の出どころへ静かに歩み寄った。そして、持参した強力なLEDライトでその場所を照らし出した。光の輪の中に浮かび上がったのは、やはりただの畳だ。しかし、私は床に這いつくばり、畳の表面を指先でなぞった。そして、ある事に気がついた。
「太郎くん、隣の部屋の住人はどんな人だと大久保さんは言っていた?」
「ええと、確か……趣味でルアー作りをしている男性だとか。」
「なるほど。謎は解けたよ。」
私は立ち上がり、壁を軽く叩いた。「この音は、幽霊が箒で畳を掃いている音じゃない。隣人がルアーを削るために使っている『卓上サンダー』あるいは『小型の旋盤』の振動だ。それが壁のコンクリートを伝わり、この部屋の構造的な共鳴点——つまりこの畳の一箇所にだけ、特定の周波数として現れているんだ。」
古代ウルクのジッグラト(聖塔)などの大規模な泥レンガ建築でも、音の反響や共鳴を利用して神官の声を遠くまで届かせる音響工学的な工夫が見られる。建物というものは、我々が思っている以上に音を「選んで」伝える構造体なのだ。
「一定の場所で箒を動かしているように聞こえたのは、隣人が機械に木材を押し当てている摩擦音が、壁の共鳴によって変換されていたからだ。そして『見守っていると音がしない』というのは、大久保さんが音を気にして振り返る際、無意識に体重移動が起こり、床にかかる荷重が変化して共鳴点がズレていたからに他ならない。」
私は赤茶色の錆が浮いた窓枠に視線を移し、小さく息を吐いた。
「大久保さんの恐怖は、過労と孤独、そして現代建築の密閉性が生み出した見事な『音響的幻影』だったというわけだ。」
その時、ポチが大きな欠伸をして、尻尾を畳に打ち付けた。ぱた、ぱたというその音は、幽霊の箒の音よりもよほど力強く、絶対的な現実としての生命力に満ちていた。




