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残滓に響く妖精の囁き  作者: 勇氣


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不可視の同居人

 その写真を見たときの私の第一印象は、ひどくお粗末な心霊写真、という冷ややかなものだった。


 いわゆる「オーブ」の正体について、現代の光学や物理学はとうの昔に明確な解答を出している。ストロボの強い光が空気中の微小な浮遊物——塵や水滴などに反射し、カメラの焦点が合っていない状態で結像した「後方散乱バックスキャッター」に過ぎない。大久保さんが件の和室を撮影したのは、得体の知れない「さっ」という音の正体を暴くため、無意識のうちに埃っぽい部屋の暗がりへ向けてフラッシュを焚いたからだろう。不可視の何かが「掃き掃除」をしているような部屋ならば、塵が舞うのも当然の理である。


 それに、手紙の文面にある奇妙な破綻も気になった。大久保さんは手紙の中で「それは多分女で」と推測しておきながら、直後には「生活に疲れた中年の男性」と語り、最後にはまた「その女性は」と結んでいる。これは単なる書き間違いというよりも、大久保さんの精神状態が、見えない恐怖と過労によってひどく混乱し、輪郭のブレた幻影を自らの意識下で作り出している証左に思えた。


 私は現在、古代メソポタミア文明、特に約5000年前のウルクにおけるインフラや社会構造を主たる研究対象としている。かつてのスピノサウルスから随分と時代を下ったが、紀元前の泥レンガで作られた都市遺跡に向き合い、エドゥブバ(学校)の制度や楔形文字の粘土板を読み解く日々だ。古代シュメールの人々もまた、理解できない現象や疫病を「悪霊ウトゥック」の仕業とした。だが、彼らの呪術や信仰は極めて体系的かつ論理的であり、現代人のように出処の知れない漠然とした「オーブ」などに怯えたりはしない。そこにはもっと具体的で、生活に根ざした畏怖があった。


 手紙を一旦机に置き、私は研究室のソファでいびきをかいている大学院生の佐藤太郎に声をかけた。彼は私の発掘調査における優秀な助手であり、奇妙な事象に対して類まれな嗅覚を持っている。


 「太郎くん。大久保さんから奇妙な手紙が届いたんだが、君の客観的な意見を聞きたい。」


 太郎は目を擦りながら起き上がり、足元で丸まっていた大型犬——大学に居着き、彼が『ポチ』と名付けて勝手に世話をしている野良犬——の頭を無意識に撫でながら、手紙と写真を受け取った。ざっと文面に目を通した彼の反応は、予想通り極めて現実的なものだった。


 「オーブですか。先生、こんなのただの埃のフラッシュ反射ですよ。それにこの『さっ』という音……大久保さんは深夜に仕事をしているんですよね?」

「ああ。夜中になると決まって聞こえるそうだ。」

 「冬の深夜、築年数の経ったマンション、一定のリズムで聞こえる摩擦音……。十中八九、建材の熱膨張収縮(家鳴り)か、あるいは壁内を通る空調ダクトの風切り音ですよ。外の冷え込みでダクト内の空気が収縮し、内部のフラップや配管の継ぎ目が一定の周期で擦れている音を、疲労した脳が『箒の音』に変換(パレイドリア現象)しているだけです。」


 太郎の推論は、いつものように身も蓋もないが極めて精緻だった。大久保さんは「見守っていると音がしない」と書いているが、これも「音の発生源に意識を集中し、視覚情報で脳の処理領域を占有している間は、微小な環境音が意識から弾かれているだけ」と説明がつく。


 「君の言う通りかもしれないな。だが、もしこれが単なる物理現象や脳の錯覚ではないとしたらどうだ?」私はあえて反論を試みた。「大久保さんの言う『箒が掃く場所は動かない』という点だ。もし上の階、あるいは隣室の住人が、深夜に何か特定の目的を持って『同じ動作を繰り返す機械的な作業』を行っており、その微小な振動が壁伝いに和室の床へ共鳴しているとしたら?」


 太郎は少しだけ眉をひそめ、写真の「オーブ」をじっと見つめ直した。

 「……だとしたら、それは幽霊なんかより、よほど不気味な隣人ですね。」


 古代の遺跡から掘り出される骨や化石には、すでに恐怖はない。そこにあるのは静かな歴史の事実だけだ。

 しかし、現代の分厚いコンクリートの壁一枚を隔てた空間には、底知れぬ人間の病理が潜んでいることがある。私は大久保さんの恐怖の正体を見極めるため、太郎とポチを伴い、彼が「ブイブイ言わせている」というその首都近郊のマンションへ直接足を運ぶ決意を固めた。


 全てを解き明かすための、ささやかなフィールドワークの始まりだった。

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