第八話 ~帳簿には七人の名前が足りない~
結人の文字の勉強は、最初の一文字から難航した。
「違います」
「どこが?」
「線の向きが逆です」
「ほとんど同じに見えるけど」
「意味が変わります」
「そんなに?」
「こちらは『宿』で、今ご主人様がお書きになったものは『泥』に近いです」
「宿屋を探して、泥って書いた札を見せることになるのか」
「相手が親切な方であれば、間違いだと気づいてくださるかもしれません」
「親切じゃなかったら?」
「泥のある場所へ案内されるかと」
『よいではないか。旅らしくて』
「いやダメだろ」
宿の一室。
机の上には、薄く蝋を塗った木板が置かれている。
結人は先端の丸い筆記具を持ち、アイリスが書いた文字をまねていた。
アイリスの文字は細く整っている。
一方、結人の文字は大きさも傾きもばらばらだった。
「もう一度お願いします」
アイリスが新しい文字を書く。
「これは?」
「『水』です」
「形が昨日見た術式に似てるな」
「古い魔法文字の一部が、現在の文字へ残っているためです」
「じゃあ、文字を覚えれば術式も読める?」
「基本的な単語は分かるようになります。ただ、術式には古語や省略記号が使われますので、それだけでは足りません」
「覚えることが増えた」
『楽しそうではないか』
「知らないことを覚えるのは嫌いじゃない」
『就職活動の書類を覚えておったときとは、ずいぶん顔が違うのう』
結人の手が止まった。
「見てたのか?」
『魂が時計へ触れた後の記憶は、少しだけ流れ込んできていた』
「勝手に人の記憶を見るなよ」
『見ようとしたわけではない。つながった拍子に見えたのじゃ』
フィリアの声が、少しだけ真面目になる。
『同じように文字を並べておっても、今のおぬしは楽しそうじゃ』
「そうかもな」
結人は木板へ視線を戻した。
正しい答えを覚え、誰かに評価されるための勉強ではない。
自分がこの世界で歩き、選ぶために必要な文字だ。
「ご主人様」
「何?」
「こちらは、もう少し小さく書いた方がよろしいです」
「感想は?」
「感想?」
「最初より上達したとか」
アイリスは木板をじっと見る。
「…………」
「そんなに悩む?」
「褒める部分を探すのは、難しいです」
『あはははは!』
「フィリア、笑いすぎ」
『アイリスも言うようになったではないか』
アイリスは、自分の発言が失礼だったと気づいたらしい。
「も、申し訳ございません」
「いや、今のは正しい」
「よろしいのですか」
「その代わり、上達したらちゃんと褒めて」
「承知しました」
結人は再び文字を書き始めた。
アイリスの口元には、わずかな笑みが残っていた。
◇
翌朝。
三人は、人材斡旋所を兼ねた奴隷商館を再び訪れた。
目的は、登録手数料として余分に請求された銀貨二枚の確認だった。
受付には、アイリスを購入したときと同じ男が立っている。
「おや、ユウト・クゼ様。何か問題がございましたか」
「契約書の金額について確認したいことがあります」
結人はアイリスが保管していた書類を机へ置いた。
「所有権移転の登録料として、銀貨四枚を払っていますよね」
「はい」
「役所では、登録料は銀貨二枚だと聞きました」
男の笑顔は崩れない。
「残りの二枚は、当所の代行手数料でございます」
「契約前の説明にはなかったそうです」
「そうでしたか?」
「書類にも、登録手数料としか書かれていません」
アイリスが一か所を指す。
「こちらです」
男は書類へ目を落とした。
「なるほど。記載が簡略化されておりますね」
「簡略化というより、説明不足では?」
「お客様へ誤解を与えたのであれば、申し訳ございません」
謝罪の言葉は滑らかだった。
だが、表情はまったく変わっていない。
「二枚は返してもらえますか」
「もちろんでございます」
男はあっさりと銀貨を取り出した。
争うほどの金額ではないと判断したのだろう。
結人にとっても、金そのものが惜しかったわけではない。
説明もなく取られたことが気に入らなかった。
「ほかにご不明な点は?」
「俺からは以上です」
結人は銀貨を受け取る。
その横で、アイリスが机の帳面を見ていた。
男が返金を記録するために開いたものだ。
細かな文字と数字。
何人もの名前らしきものが、日付ごとに並んでいる。
アイリスの視線が、ある行で止まった。
「どうした?」
「いいえ」
返事は早かった。
しかし、目は帳面から離れていない。
「何か気になる?」
「……確認してもよろしいでしょうか」
「私にですか?」
男が笑顔のまま尋ねる。
「はい。この欄に、北部商館への移送費と書かれています」
「よく読めましたね」
「以前、帳簿の整理を手伝っておりましたので」
アイリスは帳面へ直接触れず、少し離れた場所から指を向けた。
「移送された人数は、十七名でしょうか」
「そう記録されています」
「わたくしが出発する予定だった、昨日の便ですね」
「そのようですね」
アイリスは記録を目で追った。
「こちらに、わたくしの登録番号はありません」
「ユウト様へお売りした分は、移送の対象から外しております」
結人は、昨日の買い物の途中で見かけた列を思い出した。商館の紋章を付けた男たちが、奴隷たちを北の門へ連れていくところだった。
「ですが、昨日の移送列にいたのは十名でした」
男の目が、ほんのわずかに細くなった。
「別の荷車で移動した者もおります」
「名前を確認しても?」
「なぜです?」
「以前、同じ施設にいた方が含まれているかもしれません」
男は帳面を静かに閉じた。
「残念ながら、他の商品に関する記録をお見せすることはできません」
商品。
結人の眉が動く。
「人数が合わない理由くらいは聞けますよね」
「先ほど申し上げた通り、移動手段が異なっただけです」
「その人たちは、ちゃんと北へ着いたんですか」
「もちろんです」
「確認した記録は?」
男の笑顔が、初めて少し硬くなった。
「ご主人様」
アイリスが小声で呼ぶ。
結人は一度息を吐いた。
ここで問い詰めても、帳面を見せることはないだろう。
「分かりました」
「ご理解いただけて何よりです」
男は再び営業用の笑顔を作る。
「また人材が必要になりましたら、いつでもお越しください」
「たぶん、二度と来ません」
「それは残念です」
結人たちは商館を出た。
◇
通りへ出てからも、アイリスは何も話さなかった。
青灰色の帳面を胸の前で抱え、何かを考えている。
「さっきの人数、何が気になった?」
結人が尋ねる。
「帳面には、十七名分の移送費が記録されていました」
「でも、昨日見たのは十人」
「はい」
「別の荷車って可能性は?」
「ございます」
「じゃあ、ほかに何かあった?」
アイリスは少し迷う。
「記録されていた登録番号の一部に、見覚えがありました」
「誰の?」
「同じ施設にいた方々です」
アイリスは指を一本ずつ折る。
「ミラ。トマス。ガト。ほかに四名」
「七人」
「はい」
「ちょうど足りない人数だな」
『偶然にしては、きれいに合いすぎておる』
フィリアの声が静かに響く。
「その七人は、昨日いなかった?」
「少なくとも、列にはおりませんでした」
「先に移された可能性は?」
「ミラは、わたくしが商館を出る前の晩まで、隣の部屋にいました」
アイリスの声が低くなる。
「朝にはいなくなっていました。北へ移る準備だと思っていましたが、荷物は残されていました」
「ほかの人も?」
「何人かは、名前を呼ばれて奥へ連れていかれました。それ以降は見ていません」
「奥って、アイリスと会った部屋の先?」
「はい。ただ、わたくしたちが入れる場所ではありませんでした」
結人は足を止めた。
「役所で、移送記録を確認できるかな」
「所有者でなければ、詳しい記録は見せてもらえないと思います」
「でも、到着したかどうかくらいは」
「旅人組合を通せば、照会を頼めるかもしれません」
「行ってみよう」
アイリスがうなずく。
「ただ」
少女は帳面を抱く腕へ力を入れた。
「わたくしの記憶が、間違っている可能性もあります」
「七人全員?」
「……低いと思います」
「なら確認する価値はある」
「ご迷惑では」
「人が七人いなくなってるかもしれないんだろ」
「はい」
「迷惑かどうかでやめる話じゃない」
アイリスは結人を見上げた。
それから、小さくうなずいた。
◇
旅人組合の受付は、登録のときと同じ女性だった。
事情を説明すると、彼女はすぐに奥から責任者を呼んだ。
現れたのは、短い白髪と片眼鏡を持つ老人だった。
服装は簡素だが、胸元には銀色の組合章が付いている。
「北部商館へ移送された奴隷の記録か」
「はい。人数が合わないんです」
「組合は、奴隷売買へ直接口を出す権限を持たん」
「行方不明でも?」
「行方不明と決まったわけではない」
老人は結人を見た。
「商館は、別の便で移送したと言っておるのだろう」
「それが本当か確認したいんです」
「なぜ君が?」
「見つけたのが俺たちだから」
老人の目が、アイリスへ移る。
首元の契約印。
青い旅装。
胸へ抱えた帳面。
「娘。登録番号を覚えておるか」
「すべてではありません」
アイリスは帳面を開いた。
「商館で見た順番と、覚えている範囲の番号を書きました」
老人が帳面を受け取る。
そこには七人の名前と、完全ではない登録番号が並べられていた。
さらに、帳面を見た位置。
前後の記録。
日付。
移送費の合計まで書かれている。
「一度見ただけか?」
「はい」
「大した記憶力だ」
老人は受付の女性へ帳面を渡す。
「奴隷登録所と北部支部へ照会を出せ。急ぎだ」
「分かりました」
「ありがとうございます」
結人が頭を下げる。
「礼はまだ早い」
老人は近くの椅子へ腰を下ろした。
「実は、少し前から似た話がある」
「似た話?」
「貧民区の住人や、契約先を失った奴隷が消えておる」
「何人くらいですか」
「分からん」
「分からない?」
「届けを出す家族も、雇い主もおらん者が多い。最初から記録の薄い人間ばかりだ」
老人は机を指で軽くたたく。
「組合で把握しているだけでも、ここ二か月で十三人。だが、実際はもっと多いだろう」
『記録の薄い者を選んでおるのか』
フィリアの声に、アイリスがうなずく。
「消えても、すぐには気づかれない方々です」
「奴隷商館が関係していると?」
結人が尋ねる。
「まだ分からん。証拠もない」
老人は声を落とす。
「ただし、消えた者の何人かは、最後に人材斡旋所か奴隷登録所へ立ち寄っておる」
「同じ場所だ」
「役所の中にも、関わっている人間がいるかもしれない」
アイリスの表情が強ばる。
「では、照会を出せば」
「相手に気づかれる可能性はある」
老人はうなずいた。
「だから、通常の照会ではなく、組合内の信用できる者だけで確認する」
「俺たちにできることは?」
「今は待て」
「待つだけ?」
「素人が動けば、相手へ警告することになる」
正しい。
結人はこの街へ来たばかりだ。
文字も制度も十分に知らない。
魔法も、まともに扱えない。
気持ちだけで動けば、足を引っ張る可能性の方が高い。
「……分かりました」
「今夜までには、北部支部から返事が来るだろう」
老人はアイリスの帳面を返した。
「その記録は、誰にも見せるな」
「はい」
「宿は?」
結人は泊まっている宿の名前を答えた。
老人は受付の女性へ何かを書かせる。
「返事が来たら、組合の者を向かわせる。君たちからは動くな」
「分かりました」
結人たちは組合を後にした。
◇
宿へ戻る途中、フィリアは珍しく黙っていた。
「何か気になる?」
結人が尋ねる。
『アイリスの契約印じゃ』
「最初に会ったときから、古い型だとは言ってたよな」
『うむ。じゃが、古いというだけではない』
フィリアの姿が、懐中時計の文字盤の上でアイリスを見る。
『契約印は、一つの文字だけでできておるわけではない。いくつもの情報が、重なるように刻まれておる』
「どんな情報?」
『一番表には、現在の所有者。その所有者記録を書き換えることで、売買のたびに主人を変える』
アイリスが首元へ手を触れる。
『その奥には、最初に奴隷となった理由や、契約の条件が残る。借金なのか、刑罰なのか、戦で捕らえられたのか。普通は役所がそこを確認して、解放できるか判断するのじゃ』
「アイリスのは、その奥が読めない」
『そうじゃ。何度も所有者記録だけを書き換えられ、古い記録が埋もれておる』
結人は少し考えた。
「表の名札だけ貼り替え続けて、中身が分からなくなってる感じか」
『おおよそはな』
フィリアがうなずく。
『じゃが、気になるのはさらに奥じゃ』
「まだ何かあるのか?」
『契約印には、術式を確認したり書き換えたりするための、いわば鍵穴のような部分がある』
「鍵穴?」
『所有者記録が名札なら、こちらは印の中身へ触れるための入口じゃ』
フィリアの声が低くなる。
『アイリスの印には、その鍵穴から、どこかへ伸びる細い魔法の道が残っておる』
「魔法の道……」
『魔力線じゃ』
「誰かが、その線の先から契約印を操作できる?」
『可能性はある』
アイリスの表情が強ばる。
「その魔力線は、どこへ続いているのでしょうか」
『分からぬ。今は細く閉じられておる。無理にたどれば、線の先にいる者へ気づかれる』
「お前の力でも?」
『わらわの力は大きすぎるのじゃ』
フィリアは自分の小さな手を見下ろす。
『細い糸を探るために強い力を流せば、糸だけでなく、糸につながれた者まで傷つけかねぬ』
「アイリスの契約印を壊す可能性がある?」
『それだけではない。似た印を持つ者すべてへ影響が及ぶかもしれぬ』
結人は納得しきれないまま、うなずいた。
「だから、人の手で記録から探す方が安全なのか」
『うむ。まずは魔力線の先に何があるのかを知る必要がある』
「今は組合の返事を待つ」
『それがよい』
宿へ着くと、アイリスは二階にある自分の部屋の扉を開け、結人を招き入れた。
アイリスは机へ帳面を広げる。
「何をするの?」
「覚えている情報を、今のうちに整理します」
「休んだ方がよくない?」
「忘れる前に書いておきたいです」
「一度見た数字を、忘れることある?」
「ございます」
「そりゃそうか」
アイリスは七人の名前を書き、その横へ記憶している特徴を加えた。
年齢。
種族。
どの部屋にいたか。
最後に見た日。
誰に呼ばれていったか。
「ミラという人は?」
「十六歳の人族です。裁縫が得意でした」
「トマスは?」
「五十歳ほどの男性です。足を悪くしていました」
「ガトは?」
「獣人の少年です。十二歳だと言っていました」
名前を記すたび、消えた七人が数字ではなくなっていく。
それぞれに顔があり、得意なことがあり、生きてきた時間がある。
「全員、契約印は古い型だった?」
「覚えている限りでは、似ていました」
「アイリスと同じ?」
「はい。ただ」
アイリスの羽根ペンが止まる。
「印の端に、小さな記号がありました」
「どんな?」
「三本の線を、輪で囲んだような形です」
アイリスが帳面へ記号を描く。
三本の短い線。
それらを囲む、一つの輪。
結人には、簡単な紋章にしか見えない。
『見せよ』
フィリアが身を乗り出す。
アイリスが帳面を懐中時計へ近づけた。
その記号を見た瞬間、フィリアの表情から普段の軽さが消えた。
『これは、複数の魔力線を一つへ束ねる古い印じゃ』
「一つへ?」
『通常の奴隷契約は、主人と奴隷、一対一で結ばれる』
フィリアが文字盤の上へ指で二つの点を描く。
片方から片方へ、一本の線が伸びる。
『じゃが、この印を持つ者たちは違う』
さらにいくつもの点を描き、それらすべてから中央へ線を伸ばした。
『複数の契約印が、一つの魔力核へ結ばれておる』
「中央にあるものが、魔力核?」
『うむ』
「親機みたいなものか」
『おぬしの世界の言い方は知らぬが、意味は近いだろう』
フィリアは中央の点を指す。
『魔力核を握る者は、そこへ集まる契約印の状態をまとめて確かめられる』
「居場所も?」
『おおよそはな。さらに術式の作り方次第では、魔力線を通じて声を封じたり、身体の動きを鈍らせたり、契約へ一時的な命令を流すこともできる』
「それ、最初から奴隷を縛るための魔法なのか?」
『違う』
フィリアは即座に否定した。
『元は戦や災害の際に使われた術式じゃ』
「避難する人を見つけるため?」
『うむ。大勢の避難者の居場所を確かめ、危険が迫れば全員へ知らせる。そのために、一人ずつへ小さな印を与え、一つの魔力核へ結んだ』
「それを誰かが、奴隷契約へ流用した」
『そう考えれば、話が通る』
アイリスが帳面の記号を見つめる。
「では、同じ印を持っていた七人は」
『同じ魔力核へつながれている可能性が高い』
「その魔力核が、商館のどこかにある?」
『まだ断定はできぬ』
フィリアは慎重に答えた。
『じゃが、アイリスが覚えておる印には、同じ記号がある。商館の奥へ連れていかれた者もおる。魔力核との関わりは、確かめる価値があろう』
「この記号を組合へ伝えよう」
「はい」
『その際は、魔力線や魔力核の話も説明せねばなるまい』
「初めて聞く人に伝わるかな」
『今のおぬしでも理解できたのじゃ。何とかなるであろう』
「余計な一言だな」
そのとき、階下から声が聞こえた。
「ユウト・クゼさん! 旅人組合からお届け物だよ!」
宿の女性の声だった。
「もう来た?」
結人は立ち上がる。
「俺が受け取ってくる」
「わたくしも」
「帳面をまとめておいて。すぐ戻るから」
アイリスは一瞬迷った後、うなずいた。
「はい」
結人は部屋を出た。
◇
一階へ降りると、旅装の若い男が待っていた。
胸元には組合の印が付いている。
「ユウト・クゼさんですか」
「はい」
「支部長から、こちらを」
封をされた紙を差し出される。
結人には読めない。
「内容を読んでもらえます?」
「俺が?」
「文字が読めないので」
「……支部長から聞いてないな」
男は封を開き、紙へ目を通した。
「北部支部へ確認したところ、該当する移送記録はない。詳しい話を聞くため、日没後に組合へ来てほしい、とあります」
「七人は北へ行ってない?」
「その可能性が高いようです」
「分かりました。連れにも確認してもらいます」
結人は紙を受け取り、階段へ向かいかけた。
日没後。
まだ昼を少し過ぎたばかりだ。今朝は、こちらから動くなと言われていた。
返事が来て、予定が変わっただけかもしれない。
ただ、この男が本当に組合の使いかどうかは、胸の印を見ただけで信じていた。
「すみません。今朝、俺たちが組合へ行ったとき、あなたもいました?」
「いや。俺は今日、別の街から戻ったところだ」
結人はもう一度、男の組合章へ目を向けた。
『結人』
フィリアの声が低く響いた。
『胸の組合章、形は正しい。じゃが、持ち主を示す魔力の登録が通っておらぬ』
「偽物か」
「何だ?」
男が一歩下がる。
結人が問い返すより早く、男は宿の扉へ駆け出した。
「待て!」
結人は追いかける。
男は通りへ飛び出し、人混みの中へ紛れた。
結人も外へ出る。
だが、似た色の外套が何人も行き交い、すぐに姿を見失った。
「アイリス!」
結人は踵を返し、宿へ駆け戻る。
『アイリス、返事をせよ!』
フィリアが呼びかける。
返事がない。
『アイリス!』
懐中時計を介した会話の経路は切れていない。
だが、厚い壁を何枚も挟んだように声が届かない。
二階へ駆け上がる。
アイリスの部屋の前。
扉は閉じている。
「アイリス!」
返事はない。
結人は取っ手を回した。
鍵が掛かっている。
「中にいるのか!」
肩をぶつける。
一度では開かない。
二度目。
木の枠が音を立てる。
三度目で、錠の周囲が外れた。
扉が開く。
部屋の中に、アイリスはいなかった。
椅子が倒れている。
窓が開き、薄いカーテンが風に揺れていた。
机の上には、青灰色の帳面が残されている。
先ほどまで使っていた羽根ペンから、黒いインクが一滴ずつ落ちていた。
「アイリス……」
『結人、窓辺じゃ』
フィリアの声に従い、窓へ駆け寄る。
窓枠の隅に、小さな銀色の物が引っ掛かっていた。
青いガラス玉の付いた髪留め。
昨日、アイリスが自分で選んだものだった。
結人はそれを握りしめる。
手のひらへ、金具の角が食い込んだ。
『落ち着け』
「落ち着いてる」
自分でも驚くほど、低い声が出た。
頭の中は冷えている。
窓の位置。
倒れた椅子。
残された帳面。
妨げられたフィリアとの会話。
相手は偶然ここへ来たのではない。
宿を知られた経路は、まだ分からない。尾行か、契約印か、それとも組合からの情報漏れか。
アイリスが帳簿を見たことも知られている。
「連れていかれたんだ」
『うむ』
「まだ、生きてる?」
フィリアは目を閉じる。
細い気配を探るように、長い髪が光の中で揺れた。
『生きておる』
結人は息を吐いた。
『じゃが、契約印を通じて、声と身体を封じられておるようじゃ』
「フィリアとの経路を切られた?」
『経路は残っておる。じゃが、アイリスの側をふさがれておる。こちらの声も届かず、向こうからも返せぬ』
「魔力線をたどれる?」
『今は相手が術を使い、線に魔力が流れておる。こちらから力を流さず、その流れを追うだけなら……わずかに』
「方向は?」
フィリアが目を開く。
深い青の瞳が、初めて見るほど鋭くなっていた。
『商館の地下じゃ』
結人は帳面を旅鞄へ入れた。
腰の短剣を確かめる。
青い髪留めを、服の内側へしまう。
「行くぞ」
『組合へ知らせるのじゃ』
「知らせる」
結人は部屋を出る。
「その上で、待たない」
足取りに迷いはなかった。
目を離した隙に連れ去られたアイリスを、このまま見送るつもりはなかった。




