↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第一章 値札を付けられた少女は旅を選ぶ

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

8/54

第七話 ~青い服は自分で選ぶ~

 朝食を終えた後、結人たちは街の商業区へ向かった。

 昨日通った大通りとは違い、こちらには衣服や靴、日用品を扱う店が集まっている。

 軒先には染められた糸束や刺しゅう入りのハンカチが並び、建物の間には色鮮やかな衣服が風を受けて揺れていた。

『服を買う店というものは、どこも華やかじゃのう』

「目を引かないと、客が入らないからじゃないか」

『わらわも、そう思うておったところじゃ』

「今、俺の意見に乗っただろ」

『神と使徒の考えが一致しただけじゃ』

「ご主人様は、どのような服をお求めですか」

 隣を歩くアイリスが尋ねる。

「俺は、文字を習う道具が欲しい。何を買えばいいか、後で教えてもらえる?」

「はい。服は、お求めにならないのですか」

「俺のは今のところ足りてるから、先にアイリスのを見よう」

 少女の歩みが、ほんの少し遅くなった。

「わたくしの服は、二着ございます」

「二着とも同じ服だろ」

「丈夫で、洗いやすいものです」

「身体に合ってない」

「袖を折れば、問題ありません」

「裾も長い」

「歩く際には、持ち上げます」

「毎回?」

「はい」

 当然のように答えられる。

 結人は灰色のワンピースへ目を向けた。

 清潔には保たれている。

 だが、生地は硬く、肩や腰の形がアイリスの身体に合っていない。

 袖口には何度も折り返した跡が残り、裾も靴の甲へ触れそうな長さだった。

「旅をするなら、動きにくい服は危ないよ」

「必要であれば、裾を切っていただいても構いません」

「そうじゃなくて、新しいのを買おう」

「ですが」

「これは旅の準備」

 アイリスは口を閉じた。

 自分のために服を買うと言われれば断る。

 だが、旅に必要な装備と言われると、完全には拒めないらしい。

『結人も、少し扱い方を覚えてきたのう』

「言い方が悪い」

『実際、回りくどく誘導しておるではないか』

「本人が受け取りやすい理由を付けてるだけだよ」

「わたくしは、誘導されているのでしょうか」

 アイリスが二人の会話へ入る。

「いや、旅の準備なのは本当だから」

『本人まで巻き込んで言い訳をするでない』

「どっちの味方なんだよ」

『面白い方じゃ』

「神様としてどうなんだ、それ」

 アイリスは二人を見比べた後、小さく首を傾けた。


◇


 アイリスが案内したのは、大通りから一本入った場所にある店だった。

 窓の向こうには、子供用の上着や外套、革靴が並べられている。

 入口の看板には、糸巻きと小鳥を組み合わせた絵が描かれていた。

「ここは?」

「既製服のほか、簡単な仕立て直しも頼める店です。旅人向けの衣服も扱っています」

「値段は?」

「品質の割には良心的です。ただし、装飾の多いものは高くなります」

「詳しいな」

「以前の所有者の使いで、何度か訪れました」

 その言葉に、結人は一瞬だけ反応しそうになる。

 だが、何も聞かなかった。

「じゃあ、入ろうか」

 扉を開くと、小さな鈴が鳴った。

 店内には、棚と衣装掛けが整然と並んでいる。

 麻や綿を使った普段着。

 厚手の毛織物で作られた外套。

 刺しゅうの入ったブラウス。

 革のベルトや靴。

 色も形もさまざまで、結人には何が旅向きなのか判断できなかった。

「いらっしゃいませ」

 奥から、巻き尺を首へ掛けた女性が現れた。

 四十歳ほどだろうか。

 栗色の髪を後ろでまとめ、指先には小さな針刺しを付けている。

「旅支度ですか?」

「はい。この子に合う服を探してます」

 女性はアイリスへ視線を向けた。

 灰色のワンピース。

 折り返された袖。

 そして首元の契約印。

 一瞬だけ目が止まったが、余計なことは言わなかった。

「普段着でしょうか。それとも移動用?」

「両方に使えるものがいいです」

「長く歩く予定は?」

「これから、たぶん」

「たぶん?」

「まだ旅の計画を立ててるところで」

「なるほど。では、動きやすさを優先しましょう」

 女性はアイリスの前へしゃがみ、肩幅や袖の長さを目で確認する。

「少し細いですね。既製品のままでは腰回りが余りそうです」

「直せますか?」

「今日中にできる範囲なら」

 女性は立ち上がり、店の奥から数着の衣服を持ってきた。

 最初に広げたのは、淡い茶色のブラウスと深緑のスカートだった。

 丈夫そうで、旅には向いていそうだ。

「こちらは丈夫な綿麻です。汗を吸いやすく、乾きも早いですよ」

「よさそうだな」

「アイリスはどう?」

「問題ございません」

「好き?」

「旅に適した服だと思います」

「そうじゃなくて、見た目は」

「汚れが目立ちにくい色です」

 服の評価をしている。

 自分が着たいかどうかには答えていない。

 女性は、二人のやり取りを静かに見ていた。

 次に取り出したのは、赤い服だった。

 深い紅色の身頃。

 高い襟と、肩に控えめな膨らみを持たせた袖。

 腰には金色の細い飾りひもが付き、重ねたスカートの裾には花模様の刺しゅうが入っている。

 旅着というより、裕福な家の子供が外出時に着る服に見えた。

「こちらは仕立てのよい品です。少し値は張りますが、身体の線もきれいに見えますよ」

『よいではないか』

 フィリアが興味を示す。

『赤は目を引く。アイリスの髪にも合いそうじゃ』

 女性が服をアイリスの胸元へ当てる。

 その瞬間。

 アイリスの身体が固まった。

 肩が小さく上がる。

 顔から色が消える。

 視線は、赤い身頃の一点へ張り付いていた。

「アイリス?」

 呼びかけても、返事がない。

 少女の指先が、わずかに震えている。

「大丈夫?」

「……はい」

 答えは返ってきた。

 だが、声がひどく遠い。

 結人は服を持つ女性へ目を向けた。

「すみません。それは戻してください」

「ええ」

 女性も異変に気づいていたらしい。

 すぐに赤い服を畳み、アイリスの視界から外した。

 それでも少女は、しばらく動かなかった。

「アイリス」

「申し訳、ございません」

「謝らなくていい」

「服を選んでいただいているのに」

「気に入らなかった?」

 アイリスは唇を閉じる。

 結人は返事を待った。

 命令はしない。

 急かさない。

 しばらくして、少女が小さく口を開いた。

「……赤は、嫌です」

「分かった」

 理由は尋ねなかった。

 何があったのか。

 なぜ赤を見て、あれほど怯えたのか。

 気にはなる。

 けれど、今聞いてよいことではないと思った。

「赤はやめよう」

「よろしいのですか」

「嫌なんだろ」

「ですが、先ほどは、よいと……」

「着るのはアイリスだから」

 アイリスが顔を上げる。

「君が嫌な服を選ぶ理由はないよ」

『うむ。わらわも、その服でなければならぬとは申しておらぬ』

 フィリアの声も、先ほどまでより柔らかかった。

『アイリスの好きな色を選べばよい』

「好きな色」

「店の中に、気になるものはある?」

 アイリスの視線が、恐る恐る周囲へ動く。

 何着もの衣服。

 茶色。

 緑。

 白。

 黄色。

 そして、少し離れた衣装掛けで目が止まった。

 深い青。

 夜明け前の空を思わせる、落ち着いた青色だった。

 女性がその視線に気づく。

「こちらですか?」

 取り出されたのは、深い瑠璃色のジャケットと、濃淡の違う青い布を重ねたスカートだった。

 腰までの短いジャケットには、小さな銀色の留め金が付いている。合わせるブラウスは淡い灰白色で、身体へ沿いすぎない形だった。袖口には細い銀糸の刺しゅうがある。

 アイリスの視線が、その刺しゅうをたどるように動いた。

 スカートの裾は足首より上で、歩くときに脚へ絡みにくい。内側には動きやすい短い下衣が付いていた。

 淡い青灰色のケープも、取り外しができる。水をはじく加工が施され、首元には銀色の留め具が付いていた。

「旅人向けの型です」

 女性が説明する。

「ジャケットとケープを外せば、街中でも着られます。スカートも裾が広がりすぎません。少し仕立て直せば、この子の身体に合うでしょう」

「靴は?」

「同じ組み合わせで作られた革靴があります。足首を支える形なので、長く歩くにも向いていますよ」

 女性は靴と、小さな肩掛け鞄も持ってきた。

 鞄は深い青色で、蓋の端に白銀の刺しゅうが入っている。

 アイリスは、服から目を離さなかった。

「これがいい?」

 結人が尋ねる。

「高価に見えます」

「値段じゃなくて」

「旅には適していると思います」

「アイリス」

 少女が黙る。

「好きか、嫌いかで答えてみて」

「…………」

 店の女性は何も言わずに待っている。

 フィリアも、今回は口を挟まなかった。

 アイリスは何度か青い服を見た。

 そして、自分の灰色の袖を見下ろす。

「青い方が」

 声は小さい。

「青い方が、いいです」

 結人は笑った。

「じゃあ、それにしよう」

 アイリスの目が大きくなる。

「よろしいのですか」

「自分で選んだんだろ」

「はい」

「なら決まり」

『うむ。よく似合うであろう』

 フィリアも満足そうにうなずく。

『赤も悪くないと思うたが、青ならわらわとそろいじゃな』

「最後は自分の話かよ」

『大切なことじゃ』

 店の女性がアイリスへ手を差し出す。

「試着してみましょうか」

 アイリスは結人を見る。

「俺じゃなくて、自分で決めていいよ」

 ほんの少し迷った後。

「お願いします」

 アイリスは、店の女性へ向き直って答えた。


◇


 試着には、思ったより時間が掛かった。

 ジャケットの肩幅を調整する。

 ブラウスの袖を詰める。

 スカートの腰回りを合わせる。

 革靴も、歩いたときにかかとが浮かないものを選んだ。

 結人は店の隅に置かれた椅子へ座り、仕立て直しが終わるのを待った。

『女の買い物とは、時間が掛かるものじゃ』

「お前も女だろ」

『ゆえに、理解しておる』

「アイリスは必要な確認しかしてないけど」

『結人』

「何?」

『髪飾りも買うのじゃ』

「必要?」

『必要じゃ』

「旅装に?」

『心にじゃ』

「急にそれらしいこと言うなよ」

『わらわは常に深いことを考えておる』

「パンのこととか?」

『それも大切じゃ』

 やがて、試着室の仕切りが開いた。

 青い服へ着替えたアイリスが、ゆっくりと出てくる。

 灰色のワンピースを着ていたときより、身体が少し大きく見えた。

 ジャケットが細い肩を包み、重ねたスカートが歩くたびに軽く揺れる。

 濃い青の中で、白に近いブラウスと銀色の刺しゅうがよく映えていた。

 足元の革靴も、今までのものより身体に合っている。

「どうでしょうか」

 アイリスが尋ねる。

「似合ってる」

「旅装として、でしょうか」

「普通に」

「普通に?」

「アイリスに似合ってるよ」

 少女は、自分の袖口へ目を落とした。

 銀糸の刺しゅうを指先でそっとなぞる。

『くるりと回ってみよ』

「わたくしが、ですか?」

『うむ。嫌なら、無理にせずともよいぞ』

 アイリスは少し迷った。

 それから、ほんの少しだけ身体を回す。

 重ねたスカートが、青い波のように広がった。

 すぐに元へ戻る。

 だが、その顔には、わずかな照れが見えた。

『うむ。かわいらしいではないか』

「……ありがとうございます」

「俺もそう思う」

「ご主人様まで」

「本当のことだから」

 店の女性も満足そうにうなずいた。

「よくお似合いですよ。髪へ何か付けるなら、白か銀がいいでしょうね」

『聞いたか、結人』

「はいはい」

 結人は髪飾りの棚を見る。

 大きな装飾は、旅には邪魔になりそうだ。

 その中に、小さな銀色の留め具があった。

 青いガラス玉が一つだけ付いている。

「これくらいなら?」

 アイリスは髪留めを見つめた後、値札へ目を落とした。

「必要ありません」

 結人はいったん、髪留めを棚へ戻した。

『ほかのものも見てみるとよい。気に入らねば、買わずともよいのじゃ』

 アイリスの視線が、棚をゆっくりと巡る。

 大きな花飾りを通り過ぎ、白いリボンで止まり、それから青いガラス玉へ戻った。

「……こちらを」

 少女は、小さな銀色の髪留めへ手を伸ばした。

「付けてみたいです」

「じゃあ、それにしよう」

 アイリスはうなずき、自分の手で髪留めを店の女性へ差し出した。


◇


 会計の段階で、アイリスは再び金額を気にした。

「ご主人様」

「何?」

「衣服一式と靴、鞄、仕立て直しを含めますと、金貨二枚と銀貨七枚です」

「聞いてたよ」

「同等の旅装であれば、装飾を減らすことで銀貨八枚ほど安くできます」

「今のが気に入ったんだろ」

「はい。ですが、旅に必要な機能は同じです」

「じゃあ、銀貨八枚は見た目のため?」

「おおよそは」

「なら、それでいい」

「よろしいのですか」

「見た目も大事だって、さっき誰かが言ってた」

『わらわの教えが役立ったのう』

 フィリアが得意げに胸を張る。

「それに」

 結人は青い服を着たアイリスを見る。

「自分で最初に選んだ服なんだから、安い方へ変えなくていいよ」

 アイリスは何も言わなかった。

 ただ、小さな肩掛け鞄を両手で持ち直した。

 支払いを済ませる。

 元の灰色の服は畳んでもらい、青い鞄へ収めた。

 店を出ると、昼前の光が通りへ差していた。

 深い青のジャケットが、陽の下で少し明るく見える。

「歩きにくくない?」

「問題ありません」

「靴は?」

「足に合っています」

「よかった」

 アイリスは数歩進む。

 今までの服とは違い、裾を持ち上げなくても歩ける。

 そのことへ気づいたのか、少しずつ歩幅が広くなった。

 結人の半歩後ろ。

 やがて、隣へ並ぶ。

『よい買い物であったな』

「そうだな」

『次は、わらわの着物じゃ』

「買えないって」

『想像して供えれば、姿へ反映できるかもしれぬぞ』

「今度な」

『約束じゃぞ』

「してない」

『ケチ』

「そこだけは、はっきり言うんだな」

 アイリスの口元が、わずかに緩んだ。


◇


 服屋を出た後、結人たちは文具を扱う店へ立ち寄った。

 アイリスへ文字を教えてもらうためだ。

 紙。

 インク。

 羽根ペン。

 練習用の木板。

 店内には、大小さまざまな帳面も並んでいる。

「どれが使いやすい?」

 結人が尋ねると、アイリスは棚を見回した。

「文字の練習であれば、紙より木板の方がよろしいかと思います。表面へ薄く蝋を塗ったものなら、何度も消して使えます」

「じゃあ、それを」

「紙も少量あった方がよいです。旅先の地名や、重要な言葉を記録できます」

「帳面は?」

「ご主人様がお使いになるのであれば、こちらが丈夫です」

 アイリスが選んだのは、濃い茶色の革で表紙を覆った帳面だった。

 背には糸が何重にも通され、頻繁に開いても壊れにくい作りになっている。

「アイリスの分は?」

「わたくしには必要ありません」

「文字を教えるなら、見本を書くものがいるだろ」

「余った紙で十分です」

「帳面にしよう」

「ですが」

 結人は棚から、少し小さな帳面を取った。

 表紙は青灰色。

 角には銀色の金具が付いている。

「服と合ってる」

「帳面は、衣服へ合わせて選ぶものではありません」

「そうなの?」

『気分がよければ、それでよい』

「気分がいいなら、それも理由になるだろ」

「先ほどから、見た目を優先されすぎではないでしょうか」

 アイリスが、ほんの少しだけ疑問を口にした。

 結人とフィリアが同時に黙る。

 少女は自分が何を言ったのか気づき、表情を強ばらせた。

「申し訳ございません」

『謝る必要はない』

 フィリアが答える。

『アイリスの言う通り、わらわは見た目を大切にしておる』

「認めるんだ」

『美しいものは、心を少しだけ軽くする。役に立たぬことではないぞ』

 アイリスは青灰色の帳面を見る。

「では」

 ゆっくりと手を伸ばす。

「こちらを、使ってもよろしいでしょうか」

「もちろん」

 この帳面も、アイリスが自分で選んだものになった。


◇


 宿へ戻ると、アイリスはすぐに机の上へ買ったものを並べた。

 結人の文字練習は、夕食の後から始めることになった。

 それまで休めばいいと言ったのだが、アイリスは青灰色の帳面を開き、羽根ペンを手に取った。

「何を書いてるの?」

「本日の支出です」

「全部覚えてるの?」

「はい」

 帳面には、結人には読めない文字と数字が整然と並んでいる。

「衣服一式。靴。肩掛け鞄。仕立て直し。髪留め。文具。それから、昨日の食事を含む宿代です」

「昨日の分も?」

「金額は覚えています」

 アイリスは硬貨袋を受け取ってよいか尋ねた。

 結人が渡すと、机の上へ種類ごとに硬貨を並べる。

 金貨。

 銀貨。

 銅貨。

 それぞれの枚数を数える動作に、迷いがない。

「フィリアにもらった金が、どれくらい残ってるか分かる?」

「少々お待ちください」

 旅鞄の中にあった硬貨袋。

 門で支払った保証金。

 旅人登録。

 食事込みの宿代。

 奴隷商館で支払った金貨十二枚。

 今日の衣服に支払った金貨二枚。

 銀貨と銅貨で支払った、そのほかの費用。

 アイリスは一つずつ確認し、帳面へ数字を書き込む。

「現在お持ちの金貨は、九百八十六枚です」

「九百八十六?」

『最初に千枚渡したからの』

「金貨十二枚と、今日の二枚を引いて……確かに九百八十六か」

「はい。銀貨と銅貨は別に記録しております」

 アイリスは帳面の下段を指した。

 銀貨と銅貨の残りも、細かく分けて記録されている。

「かなりあるな」

『十分に用意したと言ったであろう』

「ここまで多いとは思ってなかった」

「現在と同程度の支出であれば、数年間旅を続けても、生活費に困ることはないと思われます」

「本当に数年分あるんだな」

『女神の使徒を、日々の宿代で悩ませるつもりはないからの』

「そこは素直に助かるよ」

『もっと褒めてもよいぞ』

「調子に乗るからやめとく」

『ケチ』

「さっきも聞いた」

「ただし」

 アイリスが帳面の一か所を指した。

「昨日、奴隷商館から受け取った書類に、登録手数料として銀貨四枚が記載されていました」

「払ったよ」

「役所で確認したところ、所有権移転の登録料は銀貨二枚でした」

「二枚多い?」

「商館の手数料である可能性もあります。ただ、契約前の説明には含まれていませんでした」

「つまり?」

「確認すれば、返金を求められるかもしれません」

 結人はアイリスを見る。

 昨日一度見ただけの書類。

 口頭で説明された金額。

 役所で目にした登録料。

 それらをすべて覚え、違いに気づいている。

「よく覚えてたな」

「お金の記録は、間違えると叱られますので」

 理由は明るいものではなかった。

 それでも、彼女の能力が優れていることに変わりはない。

「この帳面、アイリスに管理してもらっていい?」

「旅費を、ですか」

「うん。俺だけだと、相場も文字も分からないから」

「すべてお預かりすることもできます」

「全部は俺が持つよ。使った金額と、残ってる金を記録してほしい」

「承知しました」

「それと、何か必要なものがあったら、ここに書いて」

「わたくしに必要なものを?」

「そう」

「旅に必要な物資ではなく?」

「それも含めて。アイリスが欲しいものも」

 少女の羽根ペンが止まる。

「欲しいものがない場合は?」

「空欄でいい」

「書けば、購入していただけるのでしょうか」

「相談はする。何でも無条件は難しいけど」

「では、書かない方がご迷惑になりません」

「書いたからって、迷惑にはならないよ」

 アイリスは帳面の空いた行を見つめた。

「難しいです」

「ゆっくりでいい」

 結人はそれ以上、急かさなかった。

「ところで、最初のページには何て書いたの?」

「本日の支出です」

「一番上」

 アイリスが帳面を少しだけ自分の方へ寄せる。

 隠すほどではない。

 けれど、見られるのが少し恥ずかしいらしい。

「帳面の名前です」

「何て名前?」

 少女は小さな声で続けた。

「……青い服の旅費帳、と」

 旅費帳とだけ書けば、用途は分かる。

 それでも、アイリスは「青い服」を名前に添えた。

 今日選んだ色を、自分の帳面にも残したかったのかもしれない。

「いい名前だな」

「旅費帳としては、不適切です」

「最初のページくらい、好きに書いていいだろ」

「そういうものでしょうか」

「そういうものにしよう」

 アイリスは帳面へ目を落とした。

 青灰色の表紙。

 銀色の角金具。

 整然と並ぶ数字の一番上に、自分で選んだ服の名前がある。

 少女は羽根ペンを持ち直した。

 そして、その隣へ小さな文字を付け加える。

「今度は何て書いたの?」

「わたくしが、選びました」

 結人は何も言わなかった。

 ただ、うなずいた。

 窓の外では、夕暮れの街に魔石灯がともり始めている。

 その淡い光の中で、アイリスの新しいジャケットは、静かな青色に輝いていた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。