第七話 ~青い服は自分で選ぶ~
朝食を終えた後、結人たちは街の商業区へ向かった。
昨日通った大通りとは違い、こちらには衣服や靴、日用品を扱う店が集まっている。
軒先には染められた糸束や刺しゅう入りのハンカチが並び、建物の間には色鮮やかな衣服が風を受けて揺れていた。
『服を買う店というものは、どこも華やかじゃのう』
「目を引かないと、客が入らないからじゃないか」
『わらわも、そう思うておったところじゃ』
「今、俺の意見に乗っただろ」
『神と使徒の考えが一致しただけじゃ』
「ご主人様は、どのような服をお求めですか」
隣を歩くアイリスが尋ねる。
「俺は、文字を習う道具が欲しい。何を買えばいいか、後で教えてもらえる?」
「はい。服は、お求めにならないのですか」
「俺のは今のところ足りてるから、先にアイリスのを見よう」
少女の歩みが、ほんの少し遅くなった。
「わたくしの服は、二着ございます」
「二着とも同じ服だろ」
「丈夫で、洗いやすいものです」
「身体に合ってない」
「袖を折れば、問題ありません」
「裾も長い」
「歩く際には、持ち上げます」
「毎回?」
「はい」
当然のように答えられる。
結人は灰色のワンピースへ目を向けた。
清潔には保たれている。
だが、生地は硬く、肩や腰の形がアイリスの身体に合っていない。
袖口には何度も折り返した跡が残り、裾も靴の甲へ触れそうな長さだった。
「旅をするなら、動きにくい服は危ないよ」
「必要であれば、裾を切っていただいても構いません」
「そうじゃなくて、新しいのを買おう」
「ですが」
「これは旅の準備」
アイリスは口を閉じた。
自分のために服を買うと言われれば断る。
だが、旅に必要な装備と言われると、完全には拒めないらしい。
『結人も、少し扱い方を覚えてきたのう』
「言い方が悪い」
『実際、回りくどく誘導しておるではないか』
「本人が受け取りやすい理由を付けてるだけだよ」
「わたくしは、誘導されているのでしょうか」
アイリスが二人の会話へ入る。
「いや、旅の準備なのは本当だから」
『本人まで巻き込んで言い訳をするでない』
「どっちの味方なんだよ」
『面白い方じゃ』
「神様としてどうなんだ、それ」
アイリスは二人を見比べた後、小さく首を傾けた。
◇
アイリスが案内したのは、大通りから一本入った場所にある店だった。
窓の向こうには、子供用の上着や外套、革靴が並べられている。
入口の看板には、糸巻きと小鳥を組み合わせた絵が描かれていた。
「ここは?」
「既製服のほか、簡単な仕立て直しも頼める店です。旅人向けの衣服も扱っています」
「値段は?」
「品質の割には良心的です。ただし、装飾の多いものは高くなります」
「詳しいな」
「以前の所有者の使いで、何度か訪れました」
その言葉に、結人は一瞬だけ反応しそうになる。
だが、何も聞かなかった。
「じゃあ、入ろうか」
扉を開くと、小さな鈴が鳴った。
店内には、棚と衣装掛けが整然と並んでいる。
麻や綿を使った普段着。
厚手の毛織物で作られた外套。
刺しゅうの入ったブラウス。
革のベルトや靴。
色も形もさまざまで、結人には何が旅向きなのか判断できなかった。
「いらっしゃいませ」
奥から、巻き尺を首へ掛けた女性が現れた。
四十歳ほどだろうか。
栗色の髪を後ろでまとめ、指先には小さな針刺しを付けている。
「旅支度ですか?」
「はい。この子に合う服を探してます」
女性はアイリスへ視線を向けた。
灰色のワンピース。
折り返された袖。
そして首元の契約印。
一瞬だけ目が止まったが、余計なことは言わなかった。
「普段着でしょうか。それとも移動用?」
「両方に使えるものがいいです」
「長く歩く予定は?」
「これから、たぶん」
「たぶん?」
「まだ旅の計画を立ててるところで」
「なるほど。では、動きやすさを優先しましょう」
女性はアイリスの前へしゃがみ、肩幅や袖の長さを目で確認する。
「少し細いですね。既製品のままでは腰回りが余りそうです」
「直せますか?」
「今日中にできる範囲なら」
女性は立ち上がり、店の奥から数着の衣服を持ってきた。
最初に広げたのは、淡い茶色のブラウスと深緑のスカートだった。
丈夫そうで、旅には向いていそうだ。
「こちらは丈夫な綿麻です。汗を吸いやすく、乾きも早いですよ」
「よさそうだな」
「アイリスはどう?」
「問題ございません」
「好き?」
「旅に適した服だと思います」
「そうじゃなくて、見た目は」
「汚れが目立ちにくい色です」
服の評価をしている。
自分が着たいかどうかには答えていない。
女性は、二人のやり取りを静かに見ていた。
次に取り出したのは、赤い服だった。
深い紅色の身頃。
高い襟と、肩に控えめな膨らみを持たせた袖。
腰には金色の細い飾りひもが付き、重ねたスカートの裾には花模様の刺しゅうが入っている。
旅着というより、裕福な家の子供が外出時に着る服に見えた。
「こちらは仕立てのよい品です。少し値は張りますが、身体の線もきれいに見えますよ」
『よいではないか』
フィリアが興味を示す。
『赤は目を引く。アイリスの髪にも合いそうじゃ』
女性が服をアイリスの胸元へ当てる。
その瞬間。
アイリスの身体が固まった。
肩が小さく上がる。
顔から色が消える。
視線は、赤い身頃の一点へ張り付いていた。
「アイリス?」
呼びかけても、返事がない。
少女の指先が、わずかに震えている。
「大丈夫?」
「……はい」
答えは返ってきた。
だが、声がひどく遠い。
結人は服を持つ女性へ目を向けた。
「すみません。それは戻してください」
「ええ」
女性も異変に気づいていたらしい。
すぐに赤い服を畳み、アイリスの視界から外した。
それでも少女は、しばらく動かなかった。
「アイリス」
「申し訳、ございません」
「謝らなくていい」
「服を選んでいただいているのに」
「気に入らなかった?」
アイリスは唇を閉じる。
結人は返事を待った。
命令はしない。
急かさない。
しばらくして、少女が小さく口を開いた。
「……赤は、嫌です」
「分かった」
理由は尋ねなかった。
何があったのか。
なぜ赤を見て、あれほど怯えたのか。
気にはなる。
けれど、今聞いてよいことではないと思った。
「赤はやめよう」
「よろしいのですか」
「嫌なんだろ」
「ですが、先ほどは、よいと……」
「着るのはアイリスだから」
アイリスが顔を上げる。
「君が嫌な服を選ぶ理由はないよ」
『うむ。わらわも、その服でなければならぬとは申しておらぬ』
フィリアの声も、先ほどまでより柔らかかった。
『アイリスの好きな色を選べばよい』
「好きな色」
「店の中に、気になるものはある?」
アイリスの視線が、恐る恐る周囲へ動く。
何着もの衣服。
茶色。
緑。
白。
黄色。
そして、少し離れた衣装掛けで目が止まった。
深い青。
夜明け前の空を思わせる、落ち着いた青色だった。
女性がその視線に気づく。
「こちらですか?」
取り出されたのは、深い瑠璃色のジャケットと、濃淡の違う青い布を重ねたスカートだった。
腰までの短いジャケットには、小さな銀色の留め金が付いている。合わせるブラウスは淡い灰白色で、身体へ沿いすぎない形だった。袖口には細い銀糸の刺しゅうがある。
アイリスの視線が、その刺しゅうをたどるように動いた。
スカートの裾は足首より上で、歩くときに脚へ絡みにくい。内側には動きやすい短い下衣が付いていた。
淡い青灰色のケープも、取り外しができる。水をはじく加工が施され、首元には銀色の留め具が付いていた。
「旅人向けの型です」
女性が説明する。
「ジャケットとケープを外せば、街中でも着られます。スカートも裾が広がりすぎません。少し仕立て直せば、この子の身体に合うでしょう」
「靴は?」
「同じ組み合わせで作られた革靴があります。足首を支える形なので、長く歩くにも向いていますよ」
女性は靴と、小さな肩掛け鞄も持ってきた。
鞄は深い青色で、蓋の端に白銀の刺しゅうが入っている。
アイリスは、服から目を離さなかった。
「これがいい?」
結人が尋ねる。
「高価に見えます」
「値段じゃなくて」
「旅には適していると思います」
「アイリス」
少女が黙る。
「好きか、嫌いかで答えてみて」
「…………」
店の女性は何も言わずに待っている。
フィリアも、今回は口を挟まなかった。
アイリスは何度か青い服を見た。
そして、自分の灰色の袖を見下ろす。
「青い方が」
声は小さい。
「青い方が、いいです」
結人は笑った。
「じゃあ、それにしよう」
アイリスの目が大きくなる。
「よろしいのですか」
「自分で選んだんだろ」
「はい」
「なら決まり」
『うむ。よく似合うであろう』
フィリアも満足そうにうなずく。
『赤も悪くないと思うたが、青ならわらわとそろいじゃな』
「最後は自分の話かよ」
『大切なことじゃ』
店の女性がアイリスへ手を差し出す。
「試着してみましょうか」
アイリスは結人を見る。
「俺じゃなくて、自分で決めていいよ」
ほんの少し迷った後。
「お願いします」
アイリスは、店の女性へ向き直って答えた。
◇
試着には、思ったより時間が掛かった。
ジャケットの肩幅を調整する。
ブラウスの袖を詰める。
スカートの腰回りを合わせる。
革靴も、歩いたときにかかとが浮かないものを選んだ。
結人は店の隅に置かれた椅子へ座り、仕立て直しが終わるのを待った。
『女の買い物とは、時間が掛かるものじゃ』
「お前も女だろ」
『ゆえに、理解しておる』
「アイリスは必要な確認しかしてないけど」
『結人』
「何?」
『髪飾りも買うのじゃ』
「必要?」
『必要じゃ』
「旅装に?」
『心にじゃ』
「急にそれらしいこと言うなよ」
『わらわは常に深いことを考えておる』
「パンのこととか?」
『それも大切じゃ』
やがて、試着室の仕切りが開いた。
青い服へ着替えたアイリスが、ゆっくりと出てくる。
灰色のワンピースを着ていたときより、身体が少し大きく見えた。
ジャケットが細い肩を包み、重ねたスカートが歩くたびに軽く揺れる。
濃い青の中で、白に近いブラウスと銀色の刺しゅうがよく映えていた。
足元の革靴も、今までのものより身体に合っている。
「どうでしょうか」
アイリスが尋ねる。
「似合ってる」
「旅装として、でしょうか」
「普通に」
「普通に?」
「アイリスに似合ってるよ」
少女は、自分の袖口へ目を落とした。
銀糸の刺しゅうを指先でそっとなぞる。
『くるりと回ってみよ』
「わたくしが、ですか?」
『うむ。嫌なら、無理にせずともよいぞ』
アイリスは少し迷った。
それから、ほんの少しだけ身体を回す。
重ねたスカートが、青い波のように広がった。
すぐに元へ戻る。
だが、その顔には、わずかな照れが見えた。
『うむ。かわいらしいではないか』
「……ありがとうございます」
「俺もそう思う」
「ご主人様まで」
「本当のことだから」
店の女性も満足そうにうなずいた。
「よくお似合いですよ。髪へ何か付けるなら、白か銀がいいでしょうね」
『聞いたか、結人』
「はいはい」
結人は髪飾りの棚を見る。
大きな装飾は、旅には邪魔になりそうだ。
その中に、小さな銀色の留め具があった。
青いガラス玉が一つだけ付いている。
「これくらいなら?」
アイリスは髪留めを見つめた後、値札へ目を落とした。
「必要ありません」
結人はいったん、髪留めを棚へ戻した。
『ほかのものも見てみるとよい。気に入らねば、買わずともよいのじゃ』
アイリスの視線が、棚をゆっくりと巡る。
大きな花飾りを通り過ぎ、白いリボンで止まり、それから青いガラス玉へ戻った。
「……こちらを」
少女は、小さな銀色の髪留めへ手を伸ばした。
「付けてみたいです」
「じゃあ、それにしよう」
アイリスはうなずき、自分の手で髪留めを店の女性へ差し出した。
◇
会計の段階で、アイリスは再び金額を気にした。
「ご主人様」
「何?」
「衣服一式と靴、鞄、仕立て直しを含めますと、金貨二枚と銀貨七枚です」
「聞いてたよ」
「同等の旅装であれば、装飾を減らすことで銀貨八枚ほど安くできます」
「今のが気に入ったんだろ」
「はい。ですが、旅に必要な機能は同じです」
「じゃあ、銀貨八枚は見た目のため?」
「おおよそは」
「なら、それでいい」
「よろしいのですか」
「見た目も大事だって、さっき誰かが言ってた」
『わらわの教えが役立ったのう』
フィリアが得意げに胸を張る。
「それに」
結人は青い服を着たアイリスを見る。
「自分で最初に選んだ服なんだから、安い方へ変えなくていいよ」
アイリスは何も言わなかった。
ただ、小さな肩掛け鞄を両手で持ち直した。
支払いを済ませる。
元の灰色の服は畳んでもらい、青い鞄へ収めた。
店を出ると、昼前の光が通りへ差していた。
深い青のジャケットが、陽の下で少し明るく見える。
「歩きにくくない?」
「問題ありません」
「靴は?」
「足に合っています」
「よかった」
アイリスは数歩進む。
今までの服とは違い、裾を持ち上げなくても歩ける。
そのことへ気づいたのか、少しずつ歩幅が広くなった。
結人の半歩後ろ。
やがて、隣へ並ぶ。
『よい買い物であったな』
「そうだな」
『次は、わらわの着物じゃ』
「買えないって」
『想像して供えれば、姿へ反映できるかもしれぬぞ』
「今度な」
『約束じゃぞ』
「してない」
『ケチ』
「そこだけは、はっきり言うんだな」
アイリスの口元が、わずかに緩んだ。
◇
服屋を出た後、結人たちは文具を扱う店へ立ち寄った。
アイリスへ文字を教えてもらうためだ。
紙。
インク。
羽根ペン。
練習用の木板。
店内には、大小さまざまな帳面も並んでいる。
「どれが使いやすい?」
結人が尋ねると、アイリスは棚を見回した。
「文字の練習であれば、紙より木板の方がよろしいかと思います。表面へ薄く蝋を塗ったものなら、何度も消して使えます」
「じゃあ、それを」
「紙も少量あった方がよいです。旅先の地名や、重要な言葉を記録できます」
「帳面は?」
「ご主人様がお使いになるのであれば、こちらが丈夫です」
アイリスが選んだのは、濃い茶色の革で表紙を覆った帳面だった。
背には糸が何重にも通され、頻繁に開いても壊れにくい作りになっている。
「アイリスの分は?」
「わたくしには必要ありません」
「文字を教えるなら、見本を書くものがいるだろ」
「余った紙で十分です」
「帳面にしよう」
「ですが」
結人は棚から、少し小さな帳面を取った。
表紙は青灰色。
角には銀色の金具が付いている。
「服と合ってる」
「帳面は、衣服へ合わせて選ぶものではありません」
「そうなの?」
『気分がよければ、それでよい』
「気分がいいなら、それも理由になるだろ」
「先ほどから、見た目を優先されすぎではないでしょうか」
アイリスが、ほんの少しだけ疑問を口にした。
結人とフィリアが同時に黙る。
少女は自分が何を言ったのか気づき、表情を強ばらせた。
「申し訳ございません」
『謝る必要はない』
フィリアが答える。
『アイリスの言う通り、わらわは見た目を大切にしておる』
「認めるんだ」
『美しいものは、心を少しだけ軽くする。役に立たぬことではないぞ』
アイリスは青灰色の帳面を見る。
「では」
ゆっくりと手を伸ばす。
「こちらを、使ってもよろしいでしょうか」
「もちろん」
この帳面も、アイリスが自分で選んだものになった。
◇
宿へ戻ると、アイリスはすぐに机の上へ買ったものを並べた。
結人の文字練習は、夕食の後から始めることになった。
それまで休めばいいと言ったのだが、アイリスは青灰色の帳面を開き、羽根ペンを手に取った。
「何を書いてるの?」
「本日の支出です」
「全部覚えてるの?」
「はい」
帳面には、結人には読めない文字と数字が整然と並んでいる。
「衣服一式。靴。肩掛け鞄。仕立て直し。髪留め。文具。それから、昨日の食事を含む宿代です」
「昨日の分も?」
「金額は覚えています」
アイリスは硬貨袋を受け取ってよいか尋ねた。
結人が渡すと、机の上へ種類ごとに硬貨を並べる。
金貨。
銀貨。
銅貨。
それぞれの枚数を数える動作に、迷いがない。
「フィリアにもらった金が、どれくらい残ってるか分かる?」
「少々お待ちください」
旅鞄の中にあった硬貨袋。
門で支払った保証金。
旅人登録。
食事込みの宿代。
奴隷商館で支払った金貨十二枚。
今日の衣服に支払った金貨二枚。
銀貨と銅貨で支払った、そのほかの費用。
アイリスは一つずつ確認し、帳面へ数字を書き込む。
「現在お持ちの金貨は、九百八十六枚です」
「九百八十六?」
『最初に千枚渡したからの』
「金貨十二枚と、今日の二枚を引いて……確かに九百八十六か」
「はい。銀貨と銅貨は別に記録しております」
アイリスは帳面の下段を指した。
銀貨と銅貨の残りも、細かく分けて記録されている。
「かなりあるな」
『十分に用意したと言ったであろう』
「ここまで多いとは思ってなかった」
「現在と同程度の支出であれば、数年間旅を続けても、生活費に困ることはないと思われます」
「本当に数年分あるんだな」
『女神の使徒を、日々の宿代で悩ませるつもりはないからの』
「そこは素直に助かるよ」
『もっと褒めてもよいぞ』
「調子に乗るからやめとく」
『ケチ』
「さっきも聞いた」
「ただし」
アイリスが帳面の一か所を指した。
「昨日、奴隷商館から受け取った書類に、登録手数料として銀貨四枚が記載されていました」
「払ったよ」
「役所で確認したところ、所有権移転の登録料は銀貨二枚でした」
「二枚多い?」
「商館の手数料である可能性もあります。ただ、契約前の説明には含まれていませんでした」
「つまり?」
「確認すれば、返金を求められるかもしれません」
結人はアイリスを見る。
昨日一度見ただけの書類。
口頭で説明された金額。
役所で目にした登録料。
それらをすべて覚え、違いに気づいている。
「よく覚えてたな」
「お金の記録は、間違えると叱られますので」
理由は明るいものではなかった。
それでも、彼女の能力が優れていることに変わりはない。
「この帳面、アイリスに管理してもらっていい?」
「旅費を、ですか」
「うん。俺だけだと、相場も文字も分からないから」
「すべてお預かりすることもできます」
「全部は俺が持つよ。使った金額と、残ってる金を記録してほしい」
「承知しました」
「それと、何か必要なものがあったら、ここに書いて」
「わたくしに必要なものを?」
「そう」
「旅に必要な物資ではなく?」
「それも含めて。アイリスが欲しいものも」
少女の羽根ペンが止まる。
「欲しいものがない場合は?」
「空欄でいい」
「書けば、購入していただけるのでしょうか」
「相談はする。何でも無条件は難しいけど」
「では、書かない方がご迷惑になりません」
「書いたからって、迷惑にはならないよ」
アイリスは帳面の空いた行を見つめた。
「難しいです」
「ゆっくりでいい」
結人はそれ以上、急かさなかった。
「ところで、最初のページには何て書いたの?」
「本日の支出です」
「一番上」
アイリスが帳面を少しだけ自分の方へ寄せる。
隠すほどではない。
けれど、見られるのが少し恥ずかしいらしい。
「帳面の名前です」
「何て名前?」
少女は小さな声で続けた。
「……青い服の旅費帳、と」
旅費帳とだけ書けば、用途は分かる。
それでも、アイリスは「青い服」を名前に添えた。
今日選んだ色を、自分の帳面にも残したかったのかもしれない。
「いい名前だな」
「旅費帳としては、不適切です」
「最初のページくらい、好きに書いていいだろ」
「そういうものでしょうか」
「そういうものにしよう」
アイリスは帳面へ目を落とした。
青灰色の表紙。
銀色の角金具。
整然と並ぶ数字の一番上に、自分で選んだ服の名前がある。
少女は羽根ペンを持ち直した。
そして、その隣へ小さな文字を付け加える。
「今度は何て書いたの?」
「わたくしが、選びました」
結人は何も言わなかった。
ただ、うなずいた。
窓の外では、夕暮れの街に魔石灯がともり始めている。
その淡い光の中で、アイリスの新しいジャケットは、静かな青色に輝いていた。




