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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第一章 値札を付けられた少女は旅を選ぶ

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第六話 ~食卓には三人いる~

 宿の看板には、後ろ脚で跳ねる鹿の絵が描かれていた。

 文字は読めない。

 それでも、入口から漏れる明かりと食事の匂いから、宿であることはすぐに分かった。

「ここは、比較的評判のよい宿です」

 隣に立つアイリスが説明する。

「宿泊費は少し高めですが、食事と井戸水の管理がしっかりしています。旅人組合からも近いため、初めてこの街を訪れた方には安全かと」

「じゃあ、ここにしよう」

「ですが、もう少し安い宿もございます」

「安全な方がいい」

「わたくしは、どのような場所でも眠れます」

「アイリスが眠れるかだけじゃなくて、俺も安心して寝たいんだよ」

「……そうなのですか」

「そうなの」

 結人は扉を開けた。

 中へ入ると、焼いた肉と香草、それに温かいパンの匂いが広がっていた。

 一階は食堂になっている。

 長い木の机がいくつも並び、旅人や商人らしい客が夕食を取っていた。

 奥の受付には、恰幅のよい女性が立っている。

「いらっしゃい。泊まりかい?」

「はい。二部屋空いてますか?」

「二部屋?」

 女性は結人とアイリスを交互に見る。

 そして、アイリスの首元にある契約印へ視線を止めた。

「一部屋でいいんじゃないのかい?」

「二部屋でお願いします」

「主人と奴隷で別の部屋を?」

「はい」

 女性は少し不思議そうな顔をしたが、深くは尋ねなかった。

「小さい部屋なら二つ空いてるよ。食事付きで、一部屋銀貨一枚と銅貨四枚」

「それでお願いします」

 結人が硬貨を出そうとすると、アイリスが小さく手を上げた。

「ご主人様。やはり、わたくしは床で――」

「寝台で寝てくれた方が、俺も安心できる」

 受付の女性が、面白そうに二人を見比べた。

「分かったよ。二部屋だね」

 女性は笑いながら鍵を二本取り出した。

 木製の札に、それぞれ部屋番号らしき文字が書かれている。

「階段を上がって右側。手前と、その隣だよ。夕食はまだ出せる。荷物を置いたら降りてきな」

「ありがとうございます」

 結人は鍵を一つ、アイリスへ差し出した。

 少女はすぐには受け取らなかった。

「これは?」

「アイリスの部屋の鍵」

「わたくしが持つのですか」

「自分の部屋なんだから」

「ですが、鍵は主人が管理するものでは?」

「誰かが勝手に入ってきたら困るだろ」

「ご主人様が入られる場合は?」

「先に扉を叩く」

 アイリスは鍵と結人を交互に見た。

「入室の許可を、わたくしに求められるのですか」

「それが普通だと思うけど」

 少女の指先が、恐る恐る鍵へ触れる。

 結人が手を離すと、小さな鍵は完全にアイリスのものになった。

「なくさないようにな」

「はい」

 アイリスは鍵を両手で包むように持った。

 まるで、扱い方の分からない大切なものを渡されたようだった。


◇


 部屋へ荷物を置いた後、二人は一階の食堂へ戻った。

 空いている机へ向かおうとすると、アイリスが結人の後ろで立ち止まった。

「座らないの?」

「はい。ご用がございましたら、お申し付けください」

「食事に来たんだけど」

「ご主人様のお食事が終わるまで、こちらでお待ちします」

「アイリスの食事は?」

「後ほど、残ったものをいただければ十分です」

「十分じゃない」

「ですが、奴隷が主人と同じ食卓へ座ることは――」

「俺は気にしない」

「周囲の方が、不快に思われる可能性があります」

 結人は食堂を見回した。

 こちらを気にしている客はいない。

 酒を飲み、大声で笑う者。

 黙々と料理を食べる者。

 疲れて机へ突っ伏している者。

 誰も、見知らぬ旅人と少女のことなど見ていなかった。

「誰も見てないよ」

「今は、そうかもしれません」

「じゃあ、今は座れるだろ」

「それは……」

 アイリスは困ったように目を伏せる。

 結人は椅子を一脚引いた。

「座って」

 口にしてから、命令のように聞こえたことへ気づく。

「いや、違うな」

 アイリスが顔を上げる。

「一緒に食べよう」

「一緒に」

「一人で食べても、味気ないだろ」

「わたくしが必要だから、でしょうか」

「食事に必要とか、そういうのはないよ」

 結人は向かい側の椅子を指した。

「二人で来たんだから、二人で食べる。それだけ」

 アイリスは、しばらく椅子を見つめた。

 やがて、音を立てないよう慎重に腰を下ろす。

 背筋はまっすぐに伸び、両手は膝の上へ置かれた。

 くつろいでいるようには、とても見えない。

「何を食べる?」

「ご主人様と同じものを」

「好きなものは?」

「特にございません」

「嫌いなものは?」

「ございません」

「本当に?」

「出されたものは、すべていただきます」

 好き嫌いがないのではない。

 選ぶことを許されてこなかったのだろう。

 結人は壁へ掛けられた料理札を見る。

 当然、一文字も読めない。

「アイリス。何が書いてある?」

「本日の煮込み料理、焼き魚、香草鶏、豆と野菜のスープ、チーズ、黒パン、白パンです」

「おすすめは?」

「煮込み料理が、この宿の名物です」

「じゃあ、それを二人分」

「わたくしは、スープだけで十分です」

「食べきれなかったら、俺がもらうよ。名物なら、俺もたくさん食べたいし」

 アイリスは何か言いかけて、やがて小さくうなずいた。

 結人が宿の女性へ注文すると、ほどなくして料理が運ばれてきた。

 深い皿に入った煮込み料理。

 大きく切られた肉と根菜。

 焼きたてらしい白パン。

 香草の入った温かなスープ。

 結人の空腹が、一気に意識へ上がってきた。

「うまそうだな」

『のう』

 胸元から声がした。

 結人は無視した。

『結人』

 もう一度聞こえる。

 先ほどより大きい。

「……何だよ」

 小声で返す。

『何だよ、ではない。わらわの分は?』

「今、取り込み中」

『その白いパンを寄越せ』

「お前、さっき串焼きも食べ損ねたからって」

『結局、奴隷商館へ直行したではないか! わらわはずっと空腹なのじゃ!』

「実体ないのに、空腹になるの?」

『食べたいと思う心に、実体が必要かの?』

「それは空腹じゃなくて、食欲だろ」

 アイリスが、じっと結人を見ていた。

「どうかされましたか」

「いや。その……」

 結人は胸元の懐中時計を押さえる。

「ちょっと、時計がうるさくて」

「時計が?」

「正確には、時計の中にいる人が」

 アイリスの表情が固まった。

「人が、入っておられるのですか」

「入ってるというか、つながってるというか」

『説明が下手すぎるのじゃ!』

「お前にだけは言われたくない」

 アイリスの視線が、懐中時計と結人の顔を往復する。

 門番や旅人組合の受付には、独り言として流された。

 だが、これから一緒に旅をする相手へ、いつまでもフィリアの存在を隠しておくのは難しい。

「なあ」

『何じゃ』

「アイリスにも姿を見せられる?」

 時計の中が、しばらく静かになる。

『できぬことはない』

「なら――」

『待て』

 フィリアの声が真面目になる。

『わらわの姿をその娘の意識へ映すには、娘自身の同意が必要じゃ。無理に見せることもできるが、他人の心へ勝手に入り込むのと変わらぬ』

「分かった」

 結人はアイリスへ向き直った。

「この時計を通じて、俺に話しかけてくる人がいる」

「人、ですか」

「本人は女神だって言ってる」

『本人は、とは何じゃ! 本物の女神じゃ!』

「今も怒ってる」

 アイリスの顔から、わずかに血の気が引いた。

「女神様が?」

「信じにくいと思うけど」

「お名前は」

「フィリア・ミラ・クロノス」

 その名を口にした瞬間。

 椅子が床を擦る音が響いた。

 アイリスが立ち上がる。

「アイリス?」

 少女は、その場で膝をつこうとした。

「待って待って!」

 結人は慌てて立ち上がり、彼女の肩を支えた。

「何で急に膝をつくんだよ」

「時空神フィリア・ミラ・クロノス様は、王国と人々を守護される主神です」

「主神?」

『言っておらんかったかの?』

「聞いてない」

『では、今知ったのう』

「それで済ませるなよ!」

 周囲の客が、さすがに何人かこちらを見た。

 結人は慌てて声を落とす。

「とにかく、ここだと目立つ。部屋で話そう」

「ですが、お食事が」

『パンを忘れるでないぞ』

「お前は少し黙ってろ」


◇


 料理を部屋へ運んでもらい、三人は結人の部屋へ集まった。

 正確には、二人と懐中時計だった。

 部屋には寝台、小さな机、椅子が二脚ある。

 結人は机の上へ懐中時計を置いた。

 アイリスはその前で背筋を伸ばし、緊張した表情を浮かべている。

「まず、膝をつくのは禁止」

「ですが、女神様の御前で――」

『結人』

 フィリアが割り込む。

『そこは本人に選ばせればよい。おぬしが禁止することでもあるまい』

「でも」

『わらわも、ひれ伏せとは命じぬ。アイリスとやら。楽な姿勢でよいぞ』

 アイリスには、まだ声が聞こえていない。

「今、フィリアが楽にしていいって言ってる」

「直接お言葉を聞くことは、できますでしょうか」

「できるらしい。ただ、アイリスの同意が必要だって」

「同意?」

「時計を通じて、フィリアの姿と声を意識へ映す。嫌なら断っていい」

「わたくしが、女神様のお姿を?」

 アイリスの目が大きくなる。

 恐れと、驚き。

 その奥に、ごく小さな好奇心も見えた。

「どうする?」

「……お願いいたします」

 結人は懐中時計の蓋を開く。

 中央の青いガラス飾りが、淡く光った。

『時計へ指を触れよ』

「この青いところに、指で触れてみて」

 アイリスは、おそるおそる人差し指を伸ばした。

 指先が青いガラスへ触れる。

 光が一度だけ強くなる。

 文字盤の上へ、水色の光が集まった。

 腰を越える淡い水色の髪。

 白い着物。

 深い赤の帯。

 小さな身体。

 手のひらほどのフィリアが、腕を組んで現れる。

『初めましてじゃな、アイリス』

 アイリスの瞳に、はっきりとフィリアの姿が映った。

 次の瞬間、フィリアの声が、結人を介さずアイリスへ届いた。

「フィリア……様」

 声が震える。

 今度こそ膝をつこうとする。

『待て待て待て! それはやめよ!』

 フィリアが両手を振った。

『この狭い部屋で、いちいちひれ伏されては話しにくくてかなわぬ!』

「ですが」

『わらわがよいと言うておる。椅子へ座れ』

「はい」

 アイリスは、椅子へ浅く腰掛けた。

 手は膝の上。

 背筋は先ほど以上にまっすぐだ。

「さっき、本人に選ばせろって言わなかった?」

『……神とて、慌てることはある』

 フィリアは小さく咳払いした。

『楽に過ごせるようになるには、時間を掛けるしかあるまい。わらわたちも、気長に待つとしようぞ』

 フィリアは文字盤の縁へ腰掛けた。

 アイリスは、瞬きもせずにその姿を見つめている。

「本当に……フィリア様なのですか」

『疑うかの?』

「いいえ! そのようなつもりでは」

『冗談じゃ。無理もない』

 フィリアは小さく笑った。

『世に出回っておるわらわの絵姿は、実物よりずいぶん大人びて描かれておるからの』

「確かに、神殿の像はもっと大きかったです」

『威厳を出したかったのであろう』

「自分で小さいのは認めるんだ」

『何か申したかの?』

「何も」

 アイリスの視線が、結人へ移る。

「ご主人様は、フィリア様の使徒でいらっしゃるのですか」

「一応、そういうことらしい」

『一応とは何じゃ。一応とは』

「使徒という割に、聞かされてないことが多すぎるんだよ」

『必要なことは、必要なときに伝えておる』

「身分証も文字も用意してなかったけど」

『旅とは、不便を楽しむものじゃ』

「今日初めて聞いたぞ、その方針」

 アイリスは二人の会話を聞きながら、困惑した表情を浮かべている。

 無理もない。

 信仰する女神が、使徒らしき男と言い争っている。

 神殿で教えられた姿とは、かなり違うのだろう。

「フィリア様へ、そのような口を利いてもよろしいのですか」

「本人がいいなら」

『よいとは言っておらぬぞ』

「駄目なの?」

『もう少し敬意は欲しい』

「善処します」

『そこは言い切れ!』

 門番と同じことを言われた。

 結人が笑うと、アイリスの口元がほんのわずかに動いた。

 笑いかけたようにも見えたが、すぐに元へ戻る。

『ところで』

 フィリアが机の上の料理へ顔を向ける。

『そろそろ本題へ戻らぬか』

「本題?」

『パンじゃ』

「女神としての自己紹介は、もういいの?」

『焼きたてのパンは、今しか食べられぬ』

「さっきまで神秘的だったのに」

『神秘で腹は満たされぬ!』

「実体ないだろ」

『またその話をするのか!』

 フィリアが文字盤の上で立ち上がる。

 アイリスは目を丸くした。

「フィリア様も、お食事をなさるのですか」

『うむ。供物として時計へ近づければ、味と香りを受け取れる』

「神殿の供物と同じ仕組みなのでしょうか」

『おおよそはな。ただし、神殿へ捧げられたものは、わらわ一人へ届くわけではない。今ここで捧げられたものなら、すべてわらわのものじゃ』

「食い意地が張ってるだけじゃないか」

『神への供物をそのように言うでない!』

 結人は白パンを小さくちぎり、懐中時計の青い飾りへ近づけた。

 淡い光がパンを包む。

 形は消えない。

 それでも、フィリアは満足そうに目を細めた。

『うむ。柔らかく、香りもよい』

「残ったパンは俺が食べても?」

『構わぬ。味は受け取った』

「便利だな」

『もっと捧げてもよいぞ』

「一つで十分」

『ケチ』

 アイリスが、目の前の光景をじっと見つめている。

 結人はパンを半分に分けた。

「アイリスも食べよう」

「はい」

 少女は手を伸ばしかけ、止めた。

 結人がまだ食べ始めていないことに気づいたらしい。

「先に食べていいよ」

「主人より先に口を付けることはできません」

「じゃあ、同時に食べる?」

「同時に?」

「せーので」

『幼子ではあるまいし』

「じゃあ、フィリアは参加しなくていい」

『誰が参加せぬと言うた!』

 結人はパンを二つにちぎり、左右の手に一つずつ持った。

 アイリスも、慎重にパンを手に取る。

「せーの」

 合図とともに、片方のパンを時計の青い飾りへ寄せ、もう片方を自分の口へ運んだ。

 パンが淡く光り、向かいではアイリスも小さくかじった。

 三人で、同時に食べた。

 焼きたての白パンは、外側がわずかに香ばしく、中は柔らかかった。

 小麦の甘い香りが口へ広がる。

「うまいな」

『うむ』

 アイリスは何も言わない。

 だが、一口をゆっくりとかみしめている。

「おいしい?」

「はい」

 返事は小さかった。

 それでも、作られた言葉には聞こえなかった。

「白パンは、久しぶりです」

「普段は何を食べてたの?」

「黒パンとスープです。時折、体調を崩さないよう肉や卵もいただけました」

 商品として見栄えを整えるためだろう。

 結人は怒りを顔へ出さないよう、煮込み料理を口へ運んだ。

 今ここで暗い顔をすれば、アイリスは自分が余計なことを言ったと思うかもしれない。

「この肉、柔らかいな」

「長時間、火へ掛けているのだと思います」

「作り方も分かる?」

「似た料理であれば」

「そのうち教えてよ」

「わたくしが、お作りします」

「一緒に作ろう」

「ご主人様も、料理をなさるのですか」

「一人暮らしだったから、簡単なものなら」

『わらわにも毎日供えるのじゃぞ』

「毎日は約束しない」

『使徒のくせに信仰心が足りぬ!』

「食事の要求を信仰に混ぜるなよ」

 会話をしながら、食事は少しずつ減っていった。

 アイリスは最初、一口ごとに結人の様子を確認していた。

 自分が食べる速さ。

 パンを取る回数。

 肉を口へ運んでよいか。

 すべて許可を探している。

 結人は気づいても、何も言わなかった。

 急にやめさせようとすれば、余計に意識させる。

 自分は普通に食べ、フィリアとくだらない言い争いを続けた。

 やがてアイリスの視線が、少しずつ食事へ向くようになった。

 煮込み料理をもう一口。

 スープを一口。

 白パンへ手を伸ばす。

 誰の許可も待たずに取ったのは、最後の一切れだった。

 結人は見ていないふりをした。


◇


 食事を終え、空になった皿を持って一階へ降りた。

 食堂の客は、いつの間にか少なくなっている。

 宿の女性へ皿を返してから、二人は二階へ戻った。

 アイリスの部屋の前で、結人は足を止めた。

「今日は、疲れただろ」

「問題ございません」

「何かあったら、隣にいるから」

「ご用があれば、すぐに参ります」

「俺の用じゃなくて、アイリスが困ったとき」

 少女は鍵を持ったまま、結人を見る。

「わたくしが困ったときも、お呼びしてよろしいのですか」

「もちろん」

「夜中でも?」

「できれば火事とか、具合が悪いとか、本当に困ったときで頼む」

「承知しました」

「それと、扉には鍵を掛けて」

「ご主人様も入れなくなります」

「入るつもりないから大丈夫」

「……はい」

 アイリスは扉を開ける。

 部屋へ入る直前、もう一度振り返った。

「ご主人様」

「何?」

「本日の食事を、ありがとうございました」

「宿代に含まれてるよ」

「そうではなく」

 アイリスは少し言葉を探した。

「同じ机で食べることを、お許しいただいたことです」

 結人は返事に迷った。

 許したつもりはない。

 最初から、許可が必要なことだと思っていない。

 けれど、その違いを今説明しても、彼女を困らせるだけかもしれない。

「明日も一緒に食べよう」

「……はい」

「おやすみ、アイリス」

「おやすみなさいませ」

 扉が静かに閉じる。

 しばらくして、内側から鍵の掛かる音がした。

 結人はそれを確認してから、自分の部屋へ戻った。


◇


 翌朝。

 結人が食堂へ降りると、アイリスはすでに机の近くで待っていた。

「おはようございます、ご主人様」

「おはよう。ちゃんと眠れた?」

「はい」

「寝台で?」

「……はい」

 わずかな間があった。

 もしかすると、最初は床で眠ろうとしたのかもしれない。

 それでも寝台を使ったなら、今日はそれで十分だ。

「朝ごはんにしよう」

 宿の女性が、焼きたてのパンと卵料理を運んでくる。

 結人はパンを一つ取り、懐中時計の横へ置いた。

『よく分かってきたではないか』

 フィリアが満足そうに現れる。

「これで騒がれずに済むからな」

『動機が不純じゃ』

 アイリスも、もう驚かなかった。

「フィリア様、おはようございます」

『うむ。おはよう、アイリス』

「今日もお供えは、パンでよろしいでしょうか」

『できれば卵も欲しいのう』

「甘やかさなくていいよ」

『おぬしは黙っておれ!』

 アイリスが、ほんの少し笑った。

 今度は見間違いではなかった。

 口元へ浮かんだ、小さな笑み。

 すぐに消えてしまったが、結人は何も言わなかった。

 机の上には、二人分の朝食がある。

 そして、その間に一つの懐中時計が置かれている。

 食べる身体は二人分。

 けれど、この食卓には三人いる。

 結人はパンへ手を伸ばしかけ、ふとアイリスの服へ目を止めた。

 昨日と同じ、灰色のワンピース。

 清潔ではある。

 だが身体に合っておらず、袖口も裾も使い込まれていた。

「そういえば」

「はい」

「アイリスの服、ほかにもある?」

「着替えが一着ございます」

「同じ服?」

「はい。支給品ですので」

「じゃあ、今日は服を買いに行こう」

 アイリスの表情が固まった。

「わたくしの、ですか」

「ほかに誰がいるんだよ」

『わらわの新しい着物でも構わぬぞ』

「お前は光の姿だろ」

『気分の問題じゃ!』

 アイリスは自分の服を見下ろした。

「新しい服は必要ありません」

「必要かどうかは、見に行ってから決めよう」

「ですが」

「それに、俺はこの世界の服を選べない」

 結人は自分の旅装を見下ろした。

 すべてフィリアから与えられたものだ。

「だから、案内してほしい」

 アイリスが顔を上げる。

「わたくしが、案内を?」

「そう。俺の買い物に付き合ってもらう。その途中で、アイリスの服も見る」

「それでしたら……」

 完全には納得していない。

 それでも、自分のためだけではない理由があれば受け入れやすいらしい。

「承知しました」

『回りくどい男じゃのう』

「聞こえてるぞ」

『聞かせておる』

 フィリアが楽しそうに笑う。

 朝食の湯気が、三人の間をゆっくりと昇っていった。


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