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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第一章 値札を付けられた少女は旅を選ぶ

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第五話 ~自由には書類が足りない~

「ご主人様」

 その呼び方を聞いた瞬間、結人の胸に重いものが沈んだ。

 自分が望んだわけではない。

 けれど、否定できる立場でもない。

 金を払い、契約内容に同意し、アイリスの印を自分へつなげた。

 今、この世界の法律では、アイリスは結人の所有物だった。

「……その呼び方、やめられない?」

 結人が尋ねると、アイリスはわずかに首を傾けた。

「ご不快でしたでしょうか」

「不快というか」

 言葉を探す。

「俺は、君の主人になるつもりで買ったわけじゃない」

 受付の男が、不思議そうにこちらを見た。

「ですが、所有権はすでにお客様へ移っております」

「それは分かってます」

「でしたら、この娘がお客様をご主人様と呼ぶことに問題はないかと」

「法律上は、でしょう」

「法律上でなければ、何が問題なのです?」

 男の表情に悪意はない。

 本当に分からないのだ。

 結人は説明を諦め、アイリスへ視線を戻した。

「俺の名前は、久世結人」

「ユウト・クゼ様」

「結人でいい」

「では、ユウト様と」

「様もいらない」

 アイリスが黙る。

 男も黙る。

 なぜか結人だけが、無理を言っているような空気になった。

『焦るでない』

 胸元からフィリアの声がした。

『その娘にとっては、呼び方も身を守るための決まりなのじゃ。急に捨てよと言われても、困るだけであろう』

「……分かったよ」

 結人は小さく息を吐いた。

「無理に変えなくていい」

「ありがとうございます、ご主人様」

 結人は小さくうなずいた。

 その呼び方に慣れるには、自分にも少し時間が掛かりそうだった。

 結人は受付の男へ向き直る。

「解放手続きができる役所は、どこですか」

「今から行かれるのですか?」

「できるだけ早い方がいいので」

 男は窓の外を見た。

 日はすでに沈み、通りには魔石灯の明かりがともっている。

「通常の役所はもう閉まっておりますが、奴隷登録所の窓口であれば、まだ開いているでしょう。所有権の移転が多い日は、夜まで受け付けております」

「場所を教えてください」

「承知いたしました」

 男は地図へ印を付けた。

 その間、アイリスは何も言わなかった。

 ただ、結人の言葉の意味を考えるように、じっと横顔を見つめていた。


◇


 奴隷登録所は、人材斡旋所から歩いて十分ほどの場所にあった。

 灰色の石造りの建物。

 入口の上には、鎖と羽根を組み合わせた紋章が掲げられている。

 鎖を管理し、同時に解く場所。

 そういう意味なのかもしれない。

「ここで合ってる?」

「はい」

 アイリスが答える。

「以前、所有権の移転で訪れたことがあります」

「何回くらい?」

「はっきりとは覚えておりません」

「覚えてないほど?」

「申し訳ありません」

「謝らなくていい」

「……はい」

 答えた後、アイリスはすぐに目を伏せた。

 謝ることが習慣になっている。

 結人は何か言おうとしたが、今はやめた。

 一度にすべてを変えようとしても、彼女を困らせるだけだ。

 建物へ入る。

 中には長い受付台があり、何人かの職員が書類を整理していた。

 人材斡旋所ほど明るくはない。

 紙とインク、乾いた革の匂いがする。

「次の方」

 空いた窓口から声が掛かる。

 受付にいたのは、疲れた顔の女性だった。

 結人は先ほど受け取った書類を差し出す。

「この子を解放したいんですが」

 女性は書類を受け取り、視線だけを上げた。

「本日、購入されたばかりですね」

「はい」

「購入直後の解放を希望される、ということですね?」

「はい。できるだけ早く」

「なるほど」

 女性は特に驚かなかった。

 書類を一枚ずつ確認していく。

「購入直後に解放する方も、まれにはおります。借金奴隷を親族が買い戻す場合などですね」

「それなら、できますか?」

「記録に問題がなければ」

 女性はアイリスへ目を向けた。

「こちらへ」

 受付台の横に、低い金属製の台がある。

 アイリスが慣れた様子で前へ立った。

 女性が首元の契約印へ小さな板を近づける。

 板に刻まれた文字が光り、黒い輪の上へ細い線が浮かんだ。

 女性の表情が曇る。

「これは……古いですね」

「何がです?」

「最初に使われた契約術式です。今の王国式ではありません」

 板を少し動かす。

 光の線が増える。

「所有者の変更記録が、上から何重にも重ねられています。最初の契約内容が読み取れません」

「今の所有者が俺なら、俺が解放を認めればいいんじゃないんですか」

「通常なら、それで構いません」

「通常なら?」

「この印には、最初の契約がまだ残っています」

 女性は机の下から分厚い本を取り出した。

 ページをめくり、何かと見比べる。

「借金による年季契約なのか、犯罪奴隷なのか、戦時捕虜なのか。それとも別の契約なのか。出身地の記録もありません」

「本人が自由になりたいと言えば?」

「本人の意思だけで解放できる制度なら、奴隷制度は成り立ちません」

 あまりに当然のように言われ、結人は返す言葉を失った。

「じゃあ、どうすればいいんです」

「最初の登録所を特定し、契約の理由と未払いの債務がないかを確認します。犯罪記録が関係している場合は、司法局の許可も必要です」

「最初の登録所は?」

「不明です」

「不明?」

「記号の一部が欠けています。印を付けた術者も記録にありません」

「それを今まで放置して、売買だけは続けてたんですか」

 声が強くなる。

 受付の女性が、わずかに眉を寄せた。

「所有権の移転と、身分の解放は別の手続きです」

「それが、おかしいって言ってるんです」

「私に言われましても」

 女性の声は冷静だった。

 結人は口を閉じる。

 ここで職員へ怒鳴っても、アイリスが自由になるわけではない。

「……すみません」

「いえ」

 女性は慣れているのか、特に気にした様子もなかった。

「調査を申請することはできます。ただし、複数の記録所へ照会を掛けるため、時間が必要です」

「どのくらい?」

「早ければ数週間。古い記録が見つからなければ、数か月以上掛かることもあります」

「その間、アイリスは?」

「所有者であるあなたの奴隷です」

 結人の奥歯に力が入る。

「契約印だけ消すことは?」

「危険です」

 女性の答えは早かった。

「印は身分記録だけではなく、本人の魔力と結び付いています。最初の契約が分からない状態で無理に消せば、身体や記憶へ障害が出る可能性があります」

『同じことを申したであろう』

 フィリアの声がする。

「分かってる」

「何がです?」

「いえ、こっちの話です」

 結人は額へ手を当てた。

 解放には確認が必要だと、商館でも聞いていた。

 それでも、役所へ来れば手続きの道筋はつくと思っていた。

 最初の登録所すら分からず、調査には数か月以上掛かるかもしれない。その間も、アイリスは奴隷のままだ。

「調査を申請します」

「承知しました」

 女性が一枚の用紙を取り出す。

「所有者の署名と、対象者の確認が必要です」

「文字が書けないんですが」

「代筆を認める場合は、本人の魔力印を添えます」

 結人が困っていると、隣から細い声がした。

「わたくしが記入いたします」

 アイリスだった。

「ありがとう。お願いするよ」

「はい」

 受付の女性から羽根ペンを受け取る。

 アイリスは書類へ目を通し、迷いなく文字を書き始めた。

 小さな手が、整った文字を連ねていく。

 アイリスは、自分の解放を願う書類を、結人の名義で書いている。

 彼女自身の自由を扱う手続きなのに、最後に必要なのは「所有者」の承認だ。

 そのことが、結人にはひどく歪に思えた。

「こちらのお名前は、ユウト・クゼ様でよろしいでしょうか」

「うん」

「年齢をお願いいたします」

「二十二歳」

「出身地は」

「不明で」

 アイリスの手が一瞬止まった。

 それでも何も尋ねず、言われた通りに記入する。

「申請理由は、どのようにいたしましょう」

 結人は考えた。

「本人の自由を望むため」

 アイリスが顔を上げる。

「そのまま書いて」

「……はい」

 羽根ペンが紙の上を進む。

 最後に結人が金属板へ手を置き、魔力を流した。

 青白い光が書類の端へ残る。

 受付の女性は申請書を確認し、受領印を押した。

「調査が進みましたら、旅人組合を通じて連絡します」

「この街を離れても?」

「組合へ届け出を出しておけば、別の支部でも受け取れます」

「分かりました」

 女性は書類をまとめる。

「それまでは、現在の契約が有効です。所有者として、適切な管理をお願いします」

 適切な管理。

 その言葉に、また反発が湧く。

 だが、結人は飲み込んだ。


◇


 登録所を出ると、街はすでに夜になっていた。

 魔石灯の淡い明かりが、石畳を照らしている。

 昼間より人通りは減ったが、酒場や宿の周辺はまだにぎやかだった。

 結人は歩きながら、何度も申請書の控えを見た。

 文字は読めない。

 アイリスが何を書いたのか、自分では確認することもできない。

「ご主人様」

「ん?」

「よろしかったのでしょうか」

「何が?」

「わたくしの解放に、手間と費用を掛けていただくことです」

「よくない理由がある?」

「わたくしを解放すれば、ご主人様は金貨十二枚を失うことになります」

「もう払った金だろ」

「ですが、売却すれば一部は戻ります」

 結人は足を止めた。

 アイリスも二歩ほど先で立ち止まり、振り返る。

「君を売るつもりはない」

「能力が足りなかった場合でも?」

「ない」

「ご命令へ背いた場合は?」

「売らない」

「旅の負担になった場合は?」

「売らないって」

 強く言いすぎた。

 アイリスの肩が、わずかに縮む。

「……ごめん」

「なぜ、ご主人様が謝られるのですか」

「怖がらせたから」

「怖がってはおりません」

 すぐに返ってきた。

 けれど、彼女の手はワンピースの裾を握っている。

 結人は少し考え、声を落とした。

「とにかく、君を売ることはない」

「はい」

「契約印を使って、言うことを聞かせるつもりもない」

「ですが、命令へ従うことが、わたくしの役目です」

「その役目は、俺が決めたものじゃない」

「所有者には、役目を決める権利があります」

「そういうことじゃなくてさ」

 言葉がうまく届かない。

 法律上の立場を否定したところで、現実には結人が所有者だ。

 その矛盾を、アイリスも分かっているのだろう。

「俺が言うのも変だけど」

 結人は頭をかいた。

「君を、物として扱うつもりはない」

 アイリスは黙っている。

「旅のことを教えてほしい。文字も教えてほしい。代わりに、俺も君が困ってたら手を貸す」

「それは、従者契約でしょうか」

「違う」

「では、雇用契約ですか」

「そういう書類上の話じゃなくて」

 結人は少し迷ってから言った。

「仲間みたいなものかな」

「仲間」

 アイリスが、その言葉を繰り返す。

 意味を知らないわけではない。

 ただ、自分へ向けられる言葉だと思っていなかったようだ。

『初日から、ずいぶん大きく出たのう』

 フィリアが小声で笑う。

「うるさいな」

 結人は胸元を押さえた。

 アイリスが懐中時計を見る。

「先ほどから、どなたかとお話しされていますか?」

「これは……」

『まだ黙っておけ』

 フィリアの声が、結人にだけ届く。

「どうして?」

『今は、その娘も混乱しておる。女神まで現れれば、何を信じればよいか分からなくなるぞ』

「それもそうか」

「ご主人様?」

「ごめん。独り言」

「そうなのですね」

 納得してはいないだろう。

 それでも、アイリスは追及しなかった。

 結人は再び歩き始める。

「まず、宿を探そう」

「はい」

「部屋は二つ取る」

 アイリスの足が止まった。

「わたくしの部屋も、ですか?」

「そうだけど」

「床で休めます」

「休めないだろ」

「慣れております」

「慣れてるかどうかの話じゃない」

「ですが、宿代が」

「金はある」

 言った直後、フィリアがため息をついた。

『また、その言い方をしておるぞ』

「本当にあるんだから仕方ないだろ」

「わたくしに一部屋を使う価値はありません」

 結人は足を止めた。

 今度は、すぐに言葉を返さなかった。

 怒るべき相手はアイリスではない。

 彼女にそう思わせた誰かと、そういう状態を当たり前にした仕組みだ。

「価値で部屋を決めるわけじゃない」

「では、何でお決めになるのですか」

「一人一部屋で寝た方が、落ち着くだろ」

「ご主人様が、そうお望みであれば」

 まただ。

 結人が何かを決めるたび、彼女はそれを主人の望みへ置き換える。

 自分の希望を口にしなくて済むように。

「アイリス」

「はい」

「今すぐじゃなくていい」

 結人は言った。

「でも、そのうち君がどうしたいかも教えてほしい」

「わたくしが、どうしたいか」

「ああ」

「それは、ご命令でしょうか」

「違う」

「では、必ずお答えする必要は?」

「ない」

 アイリスはますます困った顔をした。

 答えなくてよい質問を、なぜ尋ねられるのか。

 理解できないのだろう。

「難しいな」

 結人が苦笑すると、アイリスは不安そうに目を伏せた。

「申し訳ありません」

「君のことじゃないよ」

 自由にする。

 言葉にすれば簡単だった。

 契約印を消し、書類上の身分を変えれば終わると思っていた。

 だが、本当の意味で自由になるには、それだけでは足りない。

 何を食べるか。

 どこで眠るか。

 誰と歩くか。

 嫌なものを嫌だと言うこと。

 自分が何を望んでいるのか、考えること。

 アイリスは、その一つ一つを取り戻さなければならない。

 そして結人は、彼女が取り戻すまで待つ必要がある。

「とりあえず」

 結人は明るい看板の出た宿を指した。

「今日は休もう」

「はい」

「これは命令じゃないからな」

「では、お願いでしょうか」

「それでもない」

「……難しいです」

「俺もそう思う」

 アイリスが、ほんのわずかに顔を上げた。

 笑ったわけではない。

 それでも先ほどまでより、表情が少し柔らかくなったように見えた。

 二人は宿へ向かって歩き出した。

 歩幅は合っていない。

 結人が少し速く、アイリスがその後ろを追っている。

 結人はそれに気づき、足を緩めた。

 アイリスが隣へ並ぶ。

「ご主人様?」

「何でもない」

 自由にするための書類は、まだ足りない。

 けれど、隣を歩くことくらいなら、今からでも始められる。

 そう思った。


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