第五話 ~自由には書類が足りない~
「ご主人様」
その呼び方を聞いた瞬間、結人の胸に重いものが沈んだ。
自分が望んだわけではない。
けれど、否定できる立場でもない。
金を払い、契約内容に同意し、アイリスの印を自分へつなげた。
今、この世界の法律では、アイリスは結人の所有物だった。
「……その呼び方、やめられない?」
結人が尋ねると、アイリスはわずかに首を傾けた。
「ご不快でしたでしょうか」
「不快というか」
言葉を探す。
「俺は、君の主人になるつもりで買ったわけじゃない」
受付の男が、不思議そうにこちらを見た。
「ですが、所有権はすでにお客様へ移っております」
「それは分かってます」
「でしたら、この娘がお客様をご主人様と呼ぶことに問題はないかと」
「法律上は、でしょう」
「法律上でなければ、何が問題なのです?」
男の表情に悪意はない。
本当に分からないのだ。
結人は説明を諦め、アイリスへ視線を戻した。
「俺の名前は、久世結人」
「ユウト・クゼ様」
「結人でいい」
「では、ユウト様と」
「様もいらない」
アイリスが黙る。
男も黙る。
なぜか結人だけが、無理を言っているような空気になった。
『焦るでない』
胸元からフィリアの声がした。
『その娘にとっては、呼び方も身を守るための決まりなのじゃ。急に捨てよと言われても、困るだけであろう』
「……分かったよ」
結人は小さく息を吐いた。
「無理に変えなくていい」
「ありがとうございます、ご主人様」
結人は小さくうなずいた。
その呼び方に慣れるには、自分にも少し時間が掛かりそうだった。
結人は受付の男へ向き直る。
「解放手続きができる役所は、どこですか」
「今から行かれるのですか?」
「できるだけ早い方がいいので」
男は窓の外を見た。
日はすでに沈み、通りには魔石灯の明かりがともっている。
「通常の役所はもう閉まっておりますが、奴隷登録所の窓口であれば、まだ開いているでしょう。所有権の移転が多い日は、夜まで受け付けております」
「場所を教えてください」
「承知いたしました」
男は地図へ印を付けた。
その間、アイリスは何も言わなかった。
ただ、結人の言葉の意味を考えるように、じっと横顔を見つめていた。
◇
奴隷登録所は、人材斡旋所から歩いて十分ほどの場所にあった。
灰色の石造りの建物。
入口の上には、鎖と羽根を組み合わせた紋章が掲げられている。
鎖を管理し、同時に解く場所。
そういう意味なのかもしれない。
「ここで合ってる?」
「はい」
アイリスが答える。
「以前、所有権の移転で訪れたことがあります」
「何回くらい?」
「はっきりとは覚えておりません」
「覚えてないほど?」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい」
「……はい」
答えた後、アイリスはすぐに目を伏せた。
謝ることが習慣になっている。
結人は何か言おうとしたが、今はやめた。
一度にすべてを変えようとしても、彼女を困らせるだけだ。
建物へ入る。
中には長い受付台があり、何人かの職員が書類を整理していた。
人材斡旋所ほど明るくはない。
紙とインク、乾いた革の匂いがする。
「次の方」
空いた窓口から声が掛かる。
受付にいたのは、疲れた顔の女性だった。
結人は先ほど受け取った書類を差し出す。
「この子を解放したいんですが」
女性は書類を受け取り、視線だけを上げた。
「本日、購入されたばかりですね」
「はい」
「購入直後の解放を希望される、ということですね?」
「はい。できるだけ早く」
「なるほど」
女性は特に驚かなかった。
書類を一枚ずつ確認していく。
「購入直後に解放する方も、まれにはおります。借金奴隷を親族が買い戻す場合などですね」
「それなら、できますか?」
「記録に問題がなければ」
女性はアイリスへ目を向けた。
「こちらへ」
受付台の横に、低い金属製の台がある。
アイリスが慣れた様子で前へ立った。
女性が首元の契約印へ小さな板を近づける。
板に刻まれた文字が光り、黒い輪の上へ細い線が浮かんだ。
女性の表情が曇る。
「これは……古いですね」
「何がです?」
「最初に使われた契約術式です。今の王国式ではありません」
板を少し動かす。
光の線が増える。
「所有者の変更記録が、上から何重にも重ねられています。最初の契約内容が読み取れません」
「今の所有者が俺なら、俺が解放を認めればいいんじゃないんですか」
「通常なら、それで構いません」
「通常なら?」
「この印には、最初の契約がまだ残っています」
女性は机の下から分厚い本を取り出した。
ページをめくり、何かと見比べる。
「借金による年季契約なのか、犯罪奴隷なのか、戦時捕虜なのか。それとも別の契約なのか。出身地の記録もありません」
「本人が自由になりたいと言えば?」
「本人の意思だけで解放できる制度なら、奴隷制度は成り立ちません」
あまりに当然のように言われ、結人は返す言葉を失った。
「じゃあ、どうすればいいんです」
「最初の登録所を特定し、契約の理由と未払いの債務がないかを確認します。犯罪記録が関係している場合は、司法局の許可も必要です」
「最初の登録所は?」
「不明です」
「不明?」
「記号の一部が欠けています。印を付けた術者も記録にありません」
「それを今まで放置して、売買だけは続けてたんですか」
声が強くなる。
受付の女性が、わずかに眉を寄せた。
「所有権の移転と、身分の解放は別の手続きです」
「それが、おかしいって言ってるんです」
「私に言われましても」
女性の声は冷静だった。
結人は口を閉じる。
ここで職員へ怒鳴っても、アイリスが自由になるわけではない。
「……すみません」
「いえ」
女性は慣れているのか、特に気にした様子もなかった。
「調査を申請することはできます。ただし、複数の記録所へ照会を掛けるため、時間が必要です」
「どのくらい?」
「早ければ数週間。古い記録が見つからなければ、数か月以上掛かることもあります」
「その間、アイリスは?」
「所有者であるあなたの奴隷です」
結人の奥歯に力が入る。
「契約印だけ消すことは?」
「危険です」
女性の答えは早かった。
「印は身分記録だけではなく、本人の魔力と結び付いています。最初の契約が分からない状態で無理に消せば、身体や記憶へ障害が出る可能性があります」
『同じことを申したであろう』
フィリアの声がする。
「分かってる」
「何がです?」
「いえ、こっちの話です」
結人は額へ手を当てた。
解放には確認が必要だと、商館でも聞いていた。
それでも、役所へ来れば手続きの道筋はつくと思っていた。
最初の登録所すら分からず、調査には数か月以上掛かるかもしれない。その間も、アイリスは奴隷のままだ。
「調査を申請します」
「承知しました」
女性が一枚の用紙を取り出す。
「所有者の署名と、対象者の確認が必要です」
「文字が書けないんですが」
「代筆を認める場合は、本人の魔力印を添えます」
結人が困っていると、隣から細い声がした。
「わたくしが記入いたします」
アイリスだった。
「ありがとう。お願いするよ」
「はい」
受付の女性から羽根ペンを受け取る。
アイリスは書類へ目を通し、迷いなく文字を書き始めた。
小さな手が、整った文字を連ねていく。
アイリスは、自分の解放を願う書類を、結人の名義で書いている。
彼女自身の自由を扱う手続きなのに、最後に必要なのは「所有者」の承認だ。
そのことが、結人にはひどく歪に思えた。
「こちらのお名前は、ユウト・クゼ様でよろしいでしょうか」
「うん」
「年齢をお願いいたします」
「二十二歳」
「出身地は」
「不明で」
アイリスの手が一瞬止まった。
それでも何も尋ねず、言われた通りに記入する。
「申請理由は、どのようにいたしましょう」
結人は考えた。
「本人の自由を望むため」
アイリスが顔を上げる。
「そのまま書いて」
「……はい」
羽根ペンが紙の上を進む。
最後に結人が金属板へ手を置き、魔力を流した。
青白い光が書類の端へ残る。
受付の女性は申請書を確認し、受領印を押した。
「調査が進みましたら、旅人組合を通じて連絡します」
「この街を離れても?」
「組合へ届け出を出しておけば、別の支部でも受け取れます」
「分かりました」
女性は書類をまとめる。
「それまでは、現在の契約が有効です。所有者として、適切な管理をお願いします」
適切な管理。
その言葉に、また反発が湧く。
だが、結人は飲み込んだ。
◇
登録所を出ると、街はすでに夜になっていた。
魔石灯の淡い明かりが、石畳を照らしている。
昼間より人通りは減ったが、酒場や宿の周辺はまだにぎやかだった。
結人は歩きながら、何度も申請書の控えを見た。
文字は読めない。
アイリスが何を書いたのか、自分では確認することもできない。
「ご主人様」
「ん?」
「よろしかったのでしょうか」
「何が?」
「わたくしの解放に、手間と費用を掛けていただくことです」
「よくない理由がある?」
「わたくしを解放すれば、ご主人様は金貨十二枚を失うことになります」
「もう払った金だろ」
「ですが、売却すれば一部は戻ります」
結人は足を止めた。
アイリスも二歩ほど先で立ち止まり、振り返る。
「君を売るつもりはない」
「能力が足りなかった場合でも?」
「ない」
「ご命令へ背いた場合は?」
「売らない」
「旅の負担になった場合は?」
「売らないって」
強く言いすぎた。
アイリスの肩が、わずかに縮む。
「……ごめん」
「なぜ、ご主人様が謝られるのですか」
「怖がらせたから」
「怖がってはおりません」
すぐに返ってきた。
けれど、彼女の手はワンピースの裾を握っている。
結人は少し考え、声を落とした。
「とにかく、君を売ることはない」
「はい」
「契約印を使って、言うことを聞かせるつもりもない」
「ですが、命令へ従うことが、わたくしの役目です」
「その役目は、俺が決めたものじゃない」
「所有者には、役目を決める権利があります」
「そういうことじゃなくてさ」
言葉がうまく届かない。
法律上の立場を否定したところで、現実には結人が所有者だ。
その矛盾を、アイリスも分かっているのだろう。
「俺が言うのも変だけど」
結人は頭をかいた。
「君を、物として扱うつもりはない」
アイリスは黙っている。
「旅のことを教えてほしい。文字も教えてほしい。代わりに、俺も君が困ってたら手を貸す」
「それは、従者契約でしょうか」
「違う」
「では、雇用契約ですか」
「そういう書類上の話じゃなくて」
結人は少し迷ってから言った。
「仲間みたいなものかな」
「仲間」
アイリスが、その言葉を繰り返す。
意味を知らないわけではない。
ただ、自分へ向けられる言葉だと思っていなかったようだ。
『初日から、ずいぶん大きく出たのう』
フィリアが小声で笑う。
「うるさいな」
結人は胸元を押さえた。
アイリスが懐中時計を見る。
「先ほどから、どなたかとお話しされていますか?」
「これは……」
『まだ黙っておけ』
フィリアの声が、結人にだけ届く。
「どうして?」
『今は、その娘も混乱しておる。女神まで現れれば、何を信じればよいか分からなくなるぞ』
「それもそうか」
「ご主人様?」
「ごめん。独り言」
「そうなのですね」
納得してはいないだろう。
それでも、アイリスは追及しなかった。
結人は再び歩き始める。
「まず、宿を探そう」
「はい」
「部屋は二つ取る」
アイリスの足が止まった。
「わたくしの部屋も、ですか?」
「そうだけど」
「床で休めます」
「休めないだろ」
「慣れております」
「慣れてるかどうかの話じゃない」
「ですが、宿代が」
「金はある」
言った直後、フィリアがため息をついた。
『また、その言い方をしておるぞ』
「本当にあるんだから仕方ないだろ」
「わたくしに一部屋を使う価値はありません」
結人は足を止めた。
今度は、すぐに言葉を返さなかった。
怒るべき相手はアイリスではない。
彼女にそう思わせた誰かと、そういう状態を当たり前にした仕組みだ。
「価値で部屋を決めるわけじゃない」
「では、何でお決めになるのですか」
「一人一部屋で寝た方が、落ち着くだろ」
「ご主人様が、そうお望みであれば」
まただ。
結人が何かを決めるたび、彼女はそれを主人の望みへ置き換える。
自分の希望を口にしなくて済むように。
「アイリス」
「はい」
「今すぐじゃなくていい」
結人は言った。
「でも、そのうち君がどうしたいかも教えてほしい」
「わたくしが、どうしたいか」
「ああ」
「それは、ご命令でしょうか」
「違う」
「では、必ずお答えする必要は?」
「ない」
アイリスはますます困った顔をした。
答えなくてよい質問を、なぜ尋ねられるのか。
理解できないのだろう。
「難しいな」
結人が苦笑すると、アイリスは不安そうに目を伏せた。
「申し訳ありません」
「君のことじゃないよ」
自由にする。
言葉にすれば簡単だった。
契約印を消し、書類上の身分を変えれば終わると思っていた。
だが、本当の意味で自由になるには、それだけでは足りない。
何を食べるか。
どこで眠るか。
誰と歩くか。
嫌なものを嫌だと言うこと。
自分が何を望んでいるのか、考えること。
アイリスは、その一つ一つを取り戻さなければならない。
そして結人は、彼女が取り戻すまで待つ必要がある。
「とりあえず」
結人は明るい看板の出た宿を指した。
「今日は休もう」
「はい」
「これは命令じゃないからな」
「では、お願いでしょうか」
「それでもない」
「……難しいです」
「俺もそう思う」
アイリスが、ほんのわずかに顔を上げた。
笑ったわけではない。
それでも先ほどまでより、表情が少し柔らかくなったように見えた。
二人は宿へ向かって歩き出した。
歩幅は合っていない。
結人が少し速く、アイリスがその後ろを追っている。
結人はそれに気づき、足を緩めた。
アイリスが隣へ並ぶ。
「ご主人様?」
「何でもない」
自由にするための書類は、まだ足りない。
けれど、隣を歩くことくらいなら、今からでも始められる。
そう思った。




