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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第一章 値札を付けられた少女は旅を選ぶ

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第四話 ~少女には値段がついていた~

 扉の向こうで、小さく鎖の鳴る音がした。

 結人は、男が示した先を見つめた。

「娘……ですか」

「はい。少々お待ちください」

 受付の男が机を離れ、奥の扉へ向かう。

 鍵を取り出し、慣れた手つきで錠を開けた。

 扉の向こうは暗い廊下になっていた。

 牢屋のような場所を想像したが、鉄格子は見えない。壁も床もきれいに掃除され、魔石灯の淡い光が一定の間隔で並んでいる。

 その清潔さが、かえって気味悪く感じられた。

 扱っているものが人間でなければ、どこにでもありそうな商館だった。

「こちらへ」

 男に促され、結人は廊下へ足を踏み入れた。

『行くのかの?』

 胸元からフィリアが問いかける。

「見るだけだ」

『見るだけ、のう』

「何だよ」

『別に何も申しておらぬ』

 廊下の先には、いくつかの扉があった。

 そのうちの一つを、男が二度軽く叩く。

「入るぞ」

 返事はなかった。

 男が扉を開ける。

 中は、応接室を小さくしたような部屋だった。

 机。

 二脚の椅子。

 壁際には棚があり、本や木の板が整然と並べられている。

 そして部屋の奥に、一人の少女が立っていた。

 結人より、頭二つ以上小さい。

 年齢は十歳を少し越えた程度だろう。

 身体は細く、肩や手首には幼さが残っている。着ている灰色のワンピースは清潔だったが、少女の身体にはわずかに大きく、袖口を折り返して調整してあった。

 淡い金色の髪は、肩より少し下まで伸びていた。きれいにとかされてはいるものの、毛先には乾いた傷みが残っている。

 灰青色の瞳が、静かに結人を見返していた。

 少女は結人たちが入ってくると、すぐに背筋を伸ばした。

 両手を身体の前で重ねる。

 視線を上げ、結人を見る。

 その動きに、迷いがなかった。

 誰かが部屋へ入ってきたとき、どのように立ち、どこを見て、どんな顔をすればよいか。

 すべて教え込まれている。

 そう思わせるほど、整った動作だった。

「こちらが、先ほどお話しした娘です」

 男が少女の横へ立つ。

「名前を」

「アイリスと申します」

 少女が小さく頭を下げた。

 声は穏やかだった。

 震えてはいない。

 けれど、感情らしい揺れもほとんどなかった。

「年齢は十一歳。人族です。読み書き、計算、一般的な礼儀作法を身に付けています。王国共通語のほか、西部地方の言葉をいくつか理解しております」

「十一歳……」

 結人がつぶやく。

 男は少女の年齢を、商品の大きさでも説明するように口にした。

 そのことに何の疑問も感じていない。

「旅に同行させるには少々幼いように思われるかもしれませんが、物覚えは非常によい娘です。体力が必要な仕事には向きませんが、身の回りの世話や記録、買い物の補助には十分役立つでしょう」

「いつから、ここに?」

「当所へ来たのは一年ほど前です」

「奴隷になったのは?」

 男は帳面を開いた。

「記録上では、三年ほど前ですね」

 結人は少女を見る。

 十一歳。

 三年前なら、八歳だ。

 その間、彼女は何人の前で今と同じように立ったのだろう。

「三年……」

「何か問題でも?」

「いや」

 問題しかない。

 だが、男にそれを言ったところで、会話がかみ合うとは思えなかった。

「アイリス」

 男が少女へ声を掛ける。

「こちらのお客様は、旅の案内役を探しておられる。できることを説明しなさい」

「はい」

 アイリスは結人へ向き直った。

「文字の読み書きができます。簡単な帳簿の整理と、日々の支出の計算も可能です。料理は基本的なものだけですが、掃除、洗濯、衣服の手入れは一通り教わっています」

 淡々と続ける。

「この街と周辺の地理、主要な街道、宿場の位置を覚えています。旅に必要な物資の相場も、おおよそ分かります」

「それを、全部三年で覚えたのか?」

「はい」

「誰かに教わって?」

「必要なことを、教えていただきました」

 必要なこと。

 誰にとって必要だったのか。

 結人には聞けなかった。

「実際に確認なさいますか?」

 男が棚から一枚の地図を取り出した。

「お願いします」

「アイリス。西門から隣の都市までの道を」

「はい」

 少女は机へ地図を広げた。

 結人には読めない文字と線の集まりにしか見えない。

 アイリスは地図の上を細い指でなぞった。

「西門から主街道を北西へ進みます。二日目に石橋がありますが、大雨の後は北側の道が通れなくなります。その場合はこちらの村を経由します」

 分かれ道を指す。

「通常より一日ほど長くなりますが、宿と井戸があります。南側の近道には水場がなく、魔物の目撃も多いため、少人数での移動には向きません」

「宿代は?」

「時期によります。今の季節であれば、食事を含めて一人銅貨六枚から銀貨一枚ほどです。馬や荷車がある場合は、別に費用が必要です」

「旅道具は、この装備で足りるかな?」

 結人が尋ねる。

 アイリスの視線が、外套から靴、旅鞄、腰の短剣へと移った。

「基本的な物は、すでにお持ちに見えます」

「足りないものは?」

「お持ちでなければ、雨の日に履く靴と簡単な修理道具を。街道を外れるのであれば、虫よけと予備の水袋も必要です」

「ほかには?」

「申し上げてもよろしいでしょうか」

「もちろん」

「短剣の位置が少し高いです」

 結人は腰へ目を落とした。

「高い?」

「今の位置では、外套を着たときに柄が引っ掛かります。右手で抜くのであれば、もう少し前へ下げた方がよろしいかと」

 言われた通りに外套を動かしてみる。

 短剣の柄が裾へ引っ掛かった。

「本当だ」

「失礼いたしました」

「いや、助かった」

 結人が礼を言うと、アイリスの表情が一瞬だけ止まった。

 驚いたようにも見えた。

 しかし、それはすぐに消える。

「お役に立てたのであれば、幸いです」

 整った言葉が戻ってきた。

「ご覧の通りです」

 男は満足そうに笑う。

「こちらが何を求めているのかを理解するのが早い。余計な口答えもしません。長旅のお供には、非常に扱いやすい娘ですよ」

 扱いやすい。

 その言葉に、結人の眉が動いた。

「さっき、明日には別の施設へ移すと言ってましたよね」

「ええ」

「これだけできるのに?」

「少々、事情がありまして」

 男は帳面のページをめくった。

「この娘は出身の記録が不完全なのです。最初に登録された地域も不明。奴隷契約の印も古い形式で、移転のたびに確認が必要になります」

「それの何が問題なんです?」

「高い身分の方へお売りするには、記録が整っていない者は敬遠されます。能力だけなら申し分ないのですが、正式な従者として屋敷へ置くには、面倒が多い」

「面倒……」

「当所でも一年ほど買い手を探しました。しかし維持費も掛かりますので、明日には北部の商館へまとめて移す予定です」

「そこへ行ったら、何をするんですか」

「まだ決まっておりません」

「決まってない?」

「商館の判断次第です。工房、農園、鉱山。買い手の希望に応じて配属されます」

 男の答えに、特別な悪意はなかった。

 だからこそ、余計に気分が悪かった。

 アイリス本人の希望は、一つも話題に上がらない。

「この子を、普通に雇うことはできないんですか」

「普通に?」

「給料を払って、案内人として」

 男は不思議そうな顔をした。

「奴隷へ給料を?」

「仕事を頼むなら、払うものでしょう」

「小遣いを与える主人はおります。しかし、この娘の所有権は現在、当所にあります。雇用契約を結ぶには、まず所有権を移していただく必要があります」

「つまり、買うしかない」

「その方が簡単です」

 簡単。

 結人にとっては、一番簡単ではない方法だった。

「値段は?」

 尋ねた自分の声が、嫌になる。

 男は帳面へ視線を落とした。

「教育費を含め、金貨十二枚です」

 その金額が高いのか安いのか、結人には分からない。

 ただ、人一人に値段が付けられたことだけは分かった。

『払えぬ額ではない』

 フィリアが静かに言う。

 結人は胸元へ目を落としかけ、アイリスへ視線を戻した。少女は黙って、次の言葉を待っている。

「少し、考えさせてください」

「もちろんでございます」

 男は帳面を閉じた。

『買えば、おぬしはその娘の主人となる。買わねば、娘は明日ここを離れる』

 結人は唇を引き結んだ。

『決めるのは、おぬしじゃ』

 フィリアは、それ以上何も言わなかった。

 正しい判断を教えてくれる様子もない。

 女神なら、もっと簡単な答えを持っていると思っていた。

 だが、結人が選ぼうとしているのは、この世界で実際に生きている一人の未来だ。

 誰かに正解を決めてもらってよいことではない。

「アイリス」

 結人は少女の名前を呼んだ。

「はい」

「君は、どうしたい?」

 少女は、すぐには答えなかった。

 それまで整えていた表情が、ほんのわずかに揺れる。

「質問が分からなかった?」

「いいえ」

「なら、君がどうしたいか教えてほしい」

「お客様がお求めであれば、お仕えいたします」

「俺が求めるかじゃなくて」

 結人は言葉を切った。

「君が、俺と一緒に行きたいかどうかを聞いてる」

 アイリスは結人を見つめた。

 目の奥で、何かを探している。

 相手が望んでいる答え。

 口にすれば、評価される答え。

 間違えれば罰を受けるかもしれない答え。

 そうしたものを、必死に読み取ろうとしているようだった。

「……それは」

 少女の唇が動く。

「正しく答えれば、買っていただける質問でしょうか」

 結人は何も言えなかった。

 十一歳の少女が、自分の希望を尋ねられて最初に考えたこと。

 それは、希望そのものではない。

 どの答えを口にすれば、自分の商品価値が上がるかだった。

「正しい答えなんてない」

「では、何とお答えすればよろしいでしょうか」

「それを、君に決めてほしい」

「わたくしが?」

「ああ」

 アイリスは困ったように視線を落とした。

 男が横から口を挟む。

「この娘は、命令へ従うよう教育されています。急に本人の希望を尋ねても、困らせるだけですよ」

 言い返しかけて、結人は口を閉じた。

 どんな相手かも分からない男についていきたいかと聞かれても、答えようがない。自分のことを、まだ何も話していなかった。

「……ごめん。先に、俺のことを話す」

 結人はもう一度、アイリスを見る。

「俺は今日、この街へ来たばかりだ」

 少女の顔が少し上がる。

「文字も読めない。地理も知らない。魔法だって、さっき初めて使った」

「……はい」

「たぶん、君に教えてもらうことばかりになる」

 主人と奴隷。

 そういう関係を求めているわけではない。

 だが、今ここでどんなきれいな言葉を使っても、彼女を金で買う事実は変わらない。

「一緒に来るなら、できないことを無理にしろとは言わない。殴ったり、食事を抜いたりもしない」

 口にしてから、それがあまりにも低い条件だと気づく。

 人間として当たり前のことを、約束として並べなければならない。

「すぐに信用しろとも言わない」

「…………」

「それでも、俺と来るのが嫌なら、嫌だと言っていい」

 アイリスは長い間、黙っていた。

 男は少し退屈そうに待っている。

 やがて、少女が小さく息を吸った。

「北へ行くのは、少し怖いです」

 声が、初めて揺れた。

 ほんのわずかだった。

「寒いと聞いています。鉱山へ行った者は、戻ってこないことも多いと」

「そうか」

「ですから……」

 少女の手が、ワンピースの裾を握る。

「あなた様が、お怒りにならない方であるなら」

 それは自分の意思と呼ぶには、あまりにも控えめな言葉だった。

 それでも、彼女が最初に選んだ答えだった。

「こちらへ行きたいです」

 結人はうなずいた。

「分かった」

 男へ向き直る。

「買います」

 その言葉を口にした瞬間、胸の奥に重いものが沈んだ。

 助ける。

 保護する。

 どのように言い換えても、この場で行う手続きは売買だった。

「ありがとうございます」

 男の笑顔が深くなる。

「よいお買い物でございます」

 結人は返事をしなかった。


◇


 手続きは、驚くほど早く進んだ。

 受付へ戻り、男が数枚の書類を机へ並べる。

 結人には文字が読めないため、内容を一つずつ読み上げてもらった。

 アイリスの名前。

 年齢。

 登録番号。

 購入金額。

 所有権の移転。

 逃亡、命令違反、契約破棄に関する決まり。

「待ってください」

 結人が途中で止める。

「この、命令違反への罰則というのは?」

「主人の命令へ明確に背いた場合、契約印が痛みを与えます」

「命令の内容に関係なく?」

「契約で禁じられている命令には、反応しない仕組みです」

「それ以外なら、従わなければ痛むんですか」

「命令が契約の範囲内であれば」

「消せないんですか」

「所有権を放棄するには、役所で解放手続きを行う必要があります」

「買って、すぐに解放することは?」

 男の手が止まる。

「不可能ではありません」

「なら、それを――」

「ただし、この娘は出身記録と最初の契約記録が不完全です」

 先ほど聞いた話だ。

「複数の記録所へ確認を取り、契約印の型を調べる必要があります。ここで購入手続きを終えた後、役所へご相談ください」

「どのくらい掛かるんです?」

「私どもでは分かりかねます」

 結人は唇をかんだ。

『今ここで印を壊すなよ』

 フィリアが低い声で言う。

『契約の仕組みを理解せずに触れれば、娘の魂や身体を傷つける』

「分かってる」

「何か?」

「いえ。続けてください」

 男は書類の説明を再開した。

 結人は内容を聞き、分からない部分を何度も確認する。

 男は少し面倒そうな顔をしたが、金貨十二枚の客を追い返す気はないらしい。

 結人は旅鞄の中の袋から、金貨を十二枚取り出して机へ並べた。

 男は枚数を確かめると、結人の前へ契約用の金属板を置いた。

「こちらへ手を」

 結人が金属板へ手を置く。

 向かい側では、アイリスも小さな手を載せた。

 男が短い言葉を唱える。

 板に刻まれた文字が、赤黒く光った。

 アイリスの首元にある輪にも、同じ色の光が走る。

 結人の胸の奥へ、細い糸が触れたような感覚があった。

 不快だった。

 誰かとつながったのではない。

 誰かを自分の下へ縛った。

 そんな感触だった。

『結人』

 フィリアの声が聞こえる。

「分かってる」

 何を分かっているのか、自分でも判然としない。

 金属板の光が消える。

 男が書類をまとめた。

「これで、所有権はユウト・クゼ様へ移りました」

 アイリスの首元にあった黒い輪が、一度だけ青白く光った。

 形そのものは消えない。

 ただ、その一部に新しい印が加わった。

「おめでとうございます」

 男が言う。

 何を祝われているのだろう。

「アイリス」

 男が少女へ声を掛けた。

「新しい主人へ、ご挨拶を」

 アイリスは結人の前へ進み出た。

 静かに膝をつこうとする。

「待った」

 結人は反射的に止めた。

 少女の動きが止まる。

「立ったままでいい」

「ですが」

「いいから」

「……はい」

 アイリスは立ち上がり、両手を身体の前で重ねた。

 そして深く頭を下げる。

「これより、誠心誠意お仕えいたします」

 顔を上げる。

 先ほどまでと同じ、相手の望む答えを探す目。

「ご主人様」

 結人は、その呼び方をすぐに訂正できなかった。

 自分が彼女を買ったという事実だけが、重く胸に残っていた。


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