第三話 ~名前のない者は門を通れない~
身分証を見せない結人に対して衛兵は眉間に深いしわを寄せた。
「いえ。少し、事情がありまして」
結人が乾いた笑みを浮かべる。
「事情?」
「身分証を持っていません」
「雰囲気からしてそのようだな」
「ですよね〜」
衛兵は差し出していた手を引っ込め、結人を頭から足元まで眺めた。
年齢は四十前後だろうか。
日に焼けた顔。使い込まれた革鎧。腰には短い剣が下がっている。
背後に並ぶ旅人たちから、早くしろと言いたげな視線が刺さった。
『堂々としておれと言うたであろう』
胸元からフィリアが小声で口を挟む。
「堂々としても、身分証は生えてこないだろ」
「さっきから誰と話している」
「独り言です」
「怪しいことをするな」
衛兵の警戒が一段上がった。
結人は懐中時計の蓋を閉じる。
『あっ、暗くするでない!』
声が聞こえなくなったわけではない。
単にフィリアの姿が見えなくなっただけだ。
「名前は?」
「久世結人です」
「クゼ……ユウト?」
「はい」
「どちらが名前だ」
「結人の方です」
「では、ユウト・クゼか」
「俺の国では姓が先なんです」
「変わった国だな」
衛兵は腰から小さな板を取り出した。
表面に紙を置き、何かを書き込んでいく。
結人には一文字も読めない。
「出身は?」
予想していた質問が来た。
結人は答えに詰まる。
異世界です、と正直に言ったところで信じてもらえるとは思えない。
『遠い辺境の村とでも申せ』
閉じた懐中時計の中から、フィリアがささやく。
「適当な嘘を勧めるなよ」
「やはり誰かいるのか?」
「いません」
「今、返事をしただろう」
「気のせいです」
衛兵の手が、腰の剣へ少し近づいた。
これ以上ごまかすのは逆効果だ。
「……出身地は、ここでは説明できません」
「なぜだ」
「説明しても信じてもらえないと思うので」
「ますます怪しいな」
「自覚はあります」
結人が認めると、衛兵は深く息を吐いた。
「密偵か?」
「違います」
「犯罪者か?」
「違います」
「追われているのか?」
「少なくとも、俺の知る限りでは違います」
「歯切れが悪い」
「今日ここへ来たばかりなので」
「話にならん」
話が見事に一周した。
後ろの列から、露骨な舌打ちが聞こえる。
衛兵は結人をにらんだ後、門の脇にある小さな詰め所を指した。
「そこで待て。他の者は列を崩すな」
「入れてもらえるんですか?」
「まだ入れるとは言っていない」
「ですよね〜」
結人は素直に列から外れた。
門の脇には石造りの小部屋があり、机と長椅子が置かれている。
壁には何枚もの手配書らしき紙が貼られていたが、当然読めない。
結人が長椅子へ座ると、懐中時計の蓋が内側からかすかに鳴った。
「自分で開けられないんだな」
『早う開けよ!』
蓋を開く。
文字盤の上に、小さなフィリアが腕を組んで現れた。
『まったく。女神を暗闇へ閉じ込めるとは、罰当たりな使徒じゃ』
「お前のせいで怪しまれたんだけど」
『じゃから、遠い辺境の村から来たと申せばよかったのじゃ』
「その村の名前を聞かれたら?」
『……そこまでは考えておらなんだ』
「考えてから勧めてくれ」
フィリアは文字盤の上で視線を逸らした。
「身分証くらい作れないのか?」
『作ろうと思えば、形だけなら作れるぞ』
「本物として?」
『それらしい物を、それらしく見せることはできる』
「偽造じゃないか」
『細かいことを気にするのう』
「異世界に来た初日から公文書を偽造したくない」
『真面目な男じゃな』
「普通だよ」
やがて、先ほどの衛兵とは別の男が詰め所へ入ってきた。
白髪交じりの短髪に、丸い眼鏡。
鎧は着ておらず、灰色の上着の胸元に金属製の印を付けている。
「君が身分証を持っていない旅人か」
「はい」
「名前はユウト・クゼ。出身は説明できない。独り言が多い」
「最後の情報、必要ですか?」
「門番からの報告には、すべて目を通す」
男は机の向こうへ座り、結人にも椅子を勧めた。
「私はこの門の記録官だ。身分証を持たぬ者が、すべて犯罪者というわけではない。辺境の集落には出生記録すらないこともある」
「助かります」
「ただし、無条件で街へ入れるわけにもいかない」
記録官は机の引き出しから、透明な石を取り出した。
卵ほどの大きさで、内部に薄い霧が漂っている。
「手を置け」
「これは?」
「登録石だ。犯罪者に付けられる追跡印や、重大な契約違反の印がないかを確認する」
「何か危険は?」
「手が爆発したという記録はない」
「それ以外は?」
「冗談だ」
真顔だった。
結人は一瞬迷ってから、透明な石へ手を置いた。
石の内部で霧が動く。
白。
青。
そして一瞬だけ、細い金色の光が混ざった。
記録官が眼鏡の位置を直す。
「妙だな」
「何がです?」
「登録された魔力の記録が、まったくない」
「今日来たばかりなので」
「どこから来たのだ、君は」
「それを説明すると長くなります」
記録官はしばらく石を見つめた。
フィリアは懐中時計の中で黙っている。
その沈黙が、結人には妙に気に掛かった。先ほどの金色の光について、何か知っているのだろうか。
「犯罪印はない。強制契約の跡もなし。少なくとも、手配中の犯罪者ではないようだ」
「それなら、街へ?」
「三日間だけ有効な仮入市証を発行する」
記録官は小さな木札を取り出した。
表面へ結人の名前らしき文字を書き、登録石を押し当てる。
木札に青い線が一本浮かんだ。
「三日の間に、街の旅人組合で正式な登録を行え。登録しなければ、この札は失効する」
「費用は?」
「保証金を含めて銀貨二枚」
結人は単位が分からず、固まった。
『鞄の左側にある、小さな銀貨じゃ』
フィリアが小声で教える。
旅鞄へ手を入れると、すぐに硬貨の入った袋が触れた。
言われた通り、やや小さな銀貨を二枚取り出す。
記録官は硬貨を確認し、うなずいた。
「保証金は正式登録後に一枚戻る。木札は首か腰に付け、求められたらすぐ見せろ」
「分かりました」
「それから」
記録官は結人の胸元を見た。
「時計へ話しかける癖は、人の少ない場所だけにした方がいい」
「やっぱり聞こえてました?」
「門番は耳がよい」
『余計な世話じゃ』
結人は返事を飲み込み、記録官へ頭を下げた。
結人は木札を腰の道具袋へ結び付け、詰め所を出た。
門番がちらりとこちらを見る。
結人が木札を掲げると、ようやく道を空けた。
「三日以内に登録しろよ」
「ありがとうございます」
「問題を起こすな」
「善処します」
「そこは言い切れ」
門をくぐる。
その瞬間、空気が変わった。
◇
街の中は、音と匂いで満ちていた。
石を敷き詰めた大通り。
左右に並ぶ、二階建てや三階建ての建物。
店先からは焼いた肉と香辛料の匂いが流れ、通りでは商人たちが大声で客を呼び込んでいる。
頭上には、建物と建物をつなぐ細い綱。
色鮮やかな旗や洗濯物が、風を受けて揺れていた。
荷車の車輪が石畳を鳴らす。
鐘の音が響く。
小さな子供たちが笑いながら通りを駆け抜けていく。
「すごいな」
『何がじゃ』
「本当に人が暮らしてる」
『街なのじゃから、当たり前じゃろう』
「分かってるけどさ」
遠くから眺めていた灯りが、今は自分の頭上にある。
建物の軒下には、握り拳ほどの白い石が埋め込まれていた。
夕暮れが近づくにつれて、その石が一つ、また一つと淡い光を放ち始める。
火ではない。
電球とも違う。
「これが魔石の灯りか」
『うむ。蓄えた魔力を、光へ変えておる』
「街中にあるけど、高くないのか?」
『質による。あれは日用品じゃな。明るさも大したものではない』
結人が見上げている間にも、一人の店員が長い棒で魔石灯へ触れた。
先端に刻まれた模様が光り、暗かった石が明るくなる。
「術式か」
『よく分かったのう』
「さっき見たからな。決まった道具と動作で、同じ結果を出してる」
『おぬしの使った魔法より、ずっと安定しておる』
「水筒の話はもういい」
道を行く人々も、地球とは違っていた。
人間。
尖った耳を持つ者。
頭に獣の耳を生やした者。
小柄で、胸元まで届く立派なひげを持つ男。
背丈が結人の倍近くある大男。
誰もが当たり前のように同じ道を歩き、同じ店で買い物をしている。
結人は珍しさから視線を向けそうになるたび、慌てて前へ戻した。
『気になるなら見ればよいではないか』
「じろじろ見るのは失礼だろ」
『その辺りは律儀じゃのう』
「お前も知らない世界で見世物みたいに見られたら嫌だろ」
『わらわほど美しければ、見られるのは当然じゃ』
「聞いた俺が悪かった」
大通りの先に、大きな建物が見えた。
入口の上には、翼の付いた靴と杖を組み合わせたような紋章が掲げられている。
人の出入りも多い。
『あれが旅人組合ではないかの』
「看板で分かったのか?」
『紋章は各地で似ておる』
「最初から案内してくれればよかったのに」
『わらわも、今見つけたところじゃ』
「頼りになるなあ」
『心がこもっておらぬぞ!』
結人は旅人組合の扉を開けた。
◇
内部は酒場と役所を足して二で割ったような造りだった。
奥には長い受付台があり、壁一面へ紙が貼られている。
左側には大きなテーブルが並び、旅装の男女が食事をしたり、地図を広げたりしていた。
剣や槍を持つ者もいる。
明らかに人間ではない姿の者もいた。
入口付近で立ち止まっていると、受付の女性が声を掛けてきた。
「ご用件は?」
「門で、ここへ登録するよう言われました」
結人は仮入市証を差し出した。
受付の女性は木札へ目を通す。
「新規の旅人登録ですね。読み書きはできますか?」
「できません」
「自信を持って言うことではないですよ」
「俺の国の文字なら読めます」
「この国では役に立ちませんね」
「ですよね〜」
女性は机の下から数枚の紙を取り出した。
「登録には名前、出身、年齢、職能が必要です。出身は……空欄?」
「事情がありまして」
「門を通れたなら、犯罪者ではないのでしょう。出身不明として登録できますが、しばらくは移動先で確認を受けることがあります」
「問題ありません」
「職能は?」
結人は言葉に詰まる。
「大学生でした」
「だいがくせい?」
「……学問をしていました」
「何の?」
「物理とか、化学とか」
「聞いたことのない流派ですね」
「魔法は、今日少しだけ使いました」
受付の女性が顔を上げる。
「魔法使いですか?」
「たぶん、初心者です」
「たぶん?」
「教えてくれた人が、感覚でしか説明してくれなくて」
『誰のことじゃ』
フィリアが不満そうに割り込む。
結人は懐中時計の上から服を押さえた。
「魔力適性を確認しましょう。こちらへ」
受付の女性に案内され、建物の奥にある小部屋へ入る。
部屋の中央には、石でできた台があった。
上には金属板が置かれ、いくつもの細い溝が刻まれている。
「この導板へ手を置いてください」
「何が起きます?」
「流した魔力量に応じて、外周の文字が光ります。属性の傾向もおおよそ分かります」
「この板に、魔力を流せばいいんですか?」
「体内の魔力を感じて、手のひらへ集めるだけです」
「ぐっと?」
「そうですね。ぐっと」
懐中時計の中から、フィリアが吹き出した。
『ほれ見よ。わらわの説明は正しかったではないか』
「まさか、世界共通なのか……」
「どうかしましたか?」
「いえ。やってみます」
結人は導板へ手を置いた。
草を浮かせたときの感覚を思い出す。
胸の奥から、腕へ。
腕から手のひらへ。
魔力を流す。
金属板の溝に沿って、淡い光が走った。
外周の文字が三つほど光る。
青。
白。
わずかに金色。
受付の女性が首を傾げた。
「量は初心者として平均的ですね。属性は……風と水。金色は何でしょう」
「珍しいんですか?」
「導板の誤差かもしれません。古い道具ですから」
『誤差ではないと思うがの。……じゃが、今は気にするでない』
フィリアが声を落とした。
結人は胸元へ一度だけ目を落とし、問い返すのをこらえた。
受付へ戻ると、女性は測定の結果を紙へ書き込んだ。
「仮登録だけなら、銀貨一枚です。ただし正式な旅人証を発行するには、組合の依頼を一件完了してもらいます」
「試験みたいなものですか?」
「身元のない方が、最低限の約束を守れるかを見るためです。危険な仕事は頼みません」
結人は壁に貼られた大量の紙を見る。
読めないため、内容はまったく分からない。
「すぐ終わるものはあります?」
「倉庫の荷物整理が人手不足です。魔法を使う仕事なので、実地試験にもなります」
「それでお願いします」
「報酬は銅貨八枚です」
「金のためじゃないですけど、もらえるなら助かります」
『路銀は十分にあると言うたであろう』
「働いた報酬は別だろ」
『妙なところで律儀じゃのう』
受付の女性は、やはり結人の独り言として処理したらしい。
紙へ印を押し、建物の裏手を指した。
「倉庫は裏庭です。責任者へ、この札を見せてください」
◇
倉庫での仕事は、結人が想像していたより面白かった。
作業員たちは、重い木箱を腕力だけで運んでいるわけではない。
床には溝の入った金属板が敷かれ、その上へ低い荷台が置かれている。
作業員が短い言葉を唱え、棒状の道具で荷台へ触れる。
すると木箱を積んだ荷台が、床からわずかに浮き上がった。
「すごいな」
「何がだ?」
責任者らしい大柄な男が振り返る。
「この道具です。魔力で浮かせてるんですよね」
「浮走板を見たことがないのか?」
「今日初めて街へ来たので」
「とんだ田舎者だな」
「そうですね」
結人へ渡されたのは、荷台を操作する短い杖だった。
先端に四角い金属片が付いている。
「箱を積んだら、杖を板へ当てて魔力を流せ。浮いたら、後ろから押す。止めるときは、少しずつ魔力を抜け。急に切ると荷台が落ちるぞ」
「詠唱は?」
「初心者なら『浮け』でいい。慣れれば声は要らん」
「それだけ?」
「それだけだ」
結人はフィリアを見る。
『ぐっとより分かりやすいのう』
「お前が言うな」
木箱を載せた荷台へ杖を当てる。
「浮け」
魔力を流す。
床の金属板が光り、荷台が数センチ浮いた。
手で押すと、驚くほど軽く進む。
「おお」
「遊んでないで運べ」
「すみません」
何度か荷物を運ぶうちに、結人は道具の仕組みが少しずつ分かってきた。
自分で木箱そのものを浮かせるより、必要な魔力がずっと少ない。
術式が、魔力を使う場所と方向を決めてくれている。
さらに床の金属板が荷台を支え、横へ流れる力を抑えているらしい。
「なるほど。だから安定するのか」
『一から現象を起こすより、道具に任せた方が楽なのじゃ』
「現地の人は理屈を知らなくても、使い方を積み重ねてるんだな」
『理屈を知らぬと決めつけるでない。おぬしとは違う言葉で理解しておるだけかもしれぬぞ』
「それもそうか」
フィリアの言葉に、結人は素直にうなずいた。
地球の知識があるからといって、この世界の人間より何でも分かるわけではない。
彼らは何世代も魔法と共に暮らし、安全な使い方を覚えている。
自分は今日、水筒を破裂させたばかりだ。
「おい、そこの新人!」
責任者の声が飛ぶ。
考え事をしている間に、荷台が進路からずれかけていた。
「止まれ!」
結人は慌てるあまり、流していた魔力を一度に切ってしまった。
荷台が床へ落ち、がくんと止まる。
積んでいた木箱だけが勢いを保ち、前へ傾いた。
「まずい!」
結人は反射的に手を伸ばした。
箱を止める場面を頭に描く。
胸から腕へ魔力が流れる。
落ちかけた木箱が、空中で一瞬だけ止まった。
完全には支えきれない。
それでも、そのわずかな時間に作業員たちが駆け寄り、箱を受け止めた。
責任者が結人をにらむ。
「止めるときは、ゆっくり魔力を抜けと言っただろう」
「すみません。慌てて、一度に切ってしまいました」
責任者は鼻を鳴らした。
「箱を直接止めたのは悪くない。だが、道具を使うなら道具の扱いを覚えろ。操作を間違えれば、そのうち誰かを怪我させるぞ」
「はい」
結人は素直に頭を下げた。
魔法を使えたことより、最後の言葉の方が強く残った。
力があることと、正しく使えることは別だ。
結人は残りの作業を、最初より慎重に進めた。
◇
仕事を終えて組合へ戻ると、正式な旅人証が発行された。
今度は木札ではなく、手のひらより小さな金属板だった。
表面には結人の名前と、組合の紋章が刻まれているらしい。
「低位の旅人証です。身分証として各地で使えます」
「これで門のたびに捕まらずに済む」
「紛失しないでください。再発行は有料です」
「気をつけます」
報酬の銅貨も受け取る。
必要な金ではない。
それでも、自分で仕事をして手に入れた最初の硬貨だった。
結人は銅貨を一枚だけ手に取り、光へかざす。
『嬉しそうじゃな』
「この世界で、初めて自分で稼いだ金だからな」
『わらわが渡した路銀より価値があると申すか』
「そういう話じゃない」
『少しだけ傷ついたぞ』
「神様のくせに面倒くさい奴だな」
受付の女性へ、宿と街の案内人について尋ねる。
宿はすぐに何軒か教えてもらえた。
だが、案内人については少し考え込む。
「文字も地理も分からないなら、専門の案内人を雇った方がいいでしょうね」
「組合で紹介できますか?」
「短期間の護衛ならできます。ただ、生活習慣や各地の制度まで教えられる人となると、人材斡旋所の方が確実です」
「どこにあります?」
受付の女性は紙へ簡単な地図を書いた。
結人には文字が読めないため、曲がり角と建物の形を絵で示してくれる。
「大通りを南へ進み、噴水広場を右です。青い屋根と、銀の秤の看板があります」
「ありがとうございます」
「旅のお供を探していると伝えれば、条件に合う人を紹介してくれるはずです」
結人は紙を受け取り、組合を出た。
空はすでに暗くなり始めていた。
魔石灯が通りを淡く照らし、昼とは違うにぎわいが生まれている。
酒場から歌声が聞こえる。
屋台では、串に刺した肉が香ばしい匂いを上げていた。
「何か食べてから行くか」
『よい提案じゃ』
「お前、食べられるの?」
『味は感じられるぞ』
「実体ないのに?」
『供物として時計へ近づければ、わらわにも届く』
「便利な仕組みだな」
『その串焼きを買え』
「即決かよ」
結人が屋台へ近づこうとしたとき、通りの向こうから鐘の音が聞こえた。
人々が自然に道の端へ避ける。
何か大きな荷車でも通るのかと思い、結人も流れに合わせて足を止めた。
最初に現れたのは、胸へ同じ紋章を付けた数人の男だった。
その後ろを、十人ほどの人間が歩いてくる。
年齢も種族もばらばらだった。
成人した男。
痩せた女。
獣の耳を持つ少年。
結人よりもずっと幼い子供もいる。
全員の首元に、黒い輪が付けられていた。
金属の首輪ではない。
皮膚へ直接刻まれた、細い文字の輪。
ときおり赤黒い光が走る。
列の両側を歩く男たちは武器を持っていたが、怒鳴り声を上げてはいない。
歩いている者たちも、鎖でつながれてはいなかった。
ただ黙って、前の者の背中を追っている。
「……何だ、あれ」
結人の声が低くなる。
『奴隷じゃな』
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「奴隷?」
『そうじゃ』
列の後ろには、商人らしき男が歩いていた。
道端の人間と笑顔で言葉を交わしている。
「奥の男は農作業向きだ」
「獣人の子は、まだ若い。仕込めば使えるぞ」
「読み書きができる者は?」
「次の競りへ回す。ここにはおらん」
会話の内容が、耳へ入ってくる。
人間の話をしている。
なのに、荷物や家畜の値踏みと何も変わらない。
結人の胃の奥が、冷たく縮んだ。
嫌だった。
理解できないのではない。
不快だった。
人間の首へ印を付け、能力を並べ、値段を決める。
それを誰も異常とは思わず、通りの日常として受け流している。
列の中にいた小さな少女が、ふと顔を上げた。
結人と目が合う。
すぐに視線を落とした。
助けを求めたわけではない。
期待すること自体を諦めたような目だった。
結人の手に力が入る。
「これが、普通なのか」
『この国では、法に認められた制度じゃ』
「だから何だよ」
思ったより強い声が出た。
近くを歩いていた通行人が振り返る。
結人は口を閉じた。
フィリアは静かに続ける。
『犯罪を犯した者。借金を返せぬ者。戦で捕らえられた者。身寄りを失い、生きるため自ら契約した者。成り立ちは一つではない』
「事情が複雑なら、人に値札を付けていいのか?」
『よいとは申しておらぬ』
列は結人の前を通り過ぎていく。
「今ここで、あの印を消せる?」
『できぬ』
「お前でも?」
『あれは魔法だけで成り立っておらぬ。法、記録、所有権、本人の身分。それらが一つにつながっておる。印だけ壊せば、契約違反として本人の命を傷つけることもある』
「じゃあ、何もできないのか」
『今のおぬしにはな』
その言葉は冷たかった。
だが、嘘ではない。
結人は魔法で草を浮かせられる。
水筒を沸騰させられる。
短剣も持っている。
だからといって、目の前の列へ飛び込めば全員を救えるわけではない。
護衛へ取り押さえられる。
解放された者たちも、身分を失って再び捕まるかもしれない。
軽い正義感だけで動けば、状況を悪くする。
分かっている。
分かっているからこそ、何もできない自分が腹立たしかった。
『忘れる必要はない』
フィリアが言う。
『じゃが、今ここで己まで捕まるのは、救うこととは違うぞ』
「分かってる」
結人は、遠ざかっていく列を見送った。
最後まで、目を逸らさなかった。
◇
人材斡旋所は、噴水広場のすぐ近くにあった。
青い屋根。
銀の秤をかたどった看板。
受付の女性から聞いた通りの建物だ。
結人は入口の前で足を止める。
「ここか」
『そのようじゃな』
大きな窓。
磨かれた扉。
中には明るい魔石灯がともっている。
先ほど見た奴隷の列とは結び付かないほど、清潔で落ち着いた建物だった。
結人は扉を開く。
室内には受付台と、客が待つための椅子が並んでいた。
壁には何枚もの肖像画と、細かな文字が書かれた札が飾られている。
受付台にいた男が、すぐに立ち上がった。
整えられた服。
柔らかな物腰。
商人らしい、よく作られた笑顔。
「いらっしゃいませ。本日は、どのような人材をお探しでしょうか」
「旅の案内人を探しています」
「期間は?」
「まだ決めていません。文字と地理、それから、この世界の常識を教えられる人がいいです」
「なるほど」
男は結人の旅人証を確認した。
「登録されたばかりでいらっしゃいますね」
「今日、この街へ来たばかりです」
「それでしたら、単なる道案内よりも、長期契約のできる者がよろしいでしょう」
「長期契約?」
「はい。雇用契約、従者契約、年季契約。ご予算や目的に応じ、いくつかご提案できます」
男は一冊の帳面を開いた。
ページには名前らしき文字と、年齢、金額らしき数字が並んでいる。
結人の胸に、嫌な予感が戻ってきた。
「ここは、人材斡旋所ですよね」
「もちろんです」
「奴隷も扱っている?」
男は特に隠す様子もなく、笑顔でうなずいた。
「当所は正式な許可を受けた奴隷商館も兼ねております。ご安心ください。違法な仕入れは一切ございません」
違法でなければいい。
その言い方に、先ほどと同じ冷たさを感じる。
「奴隷を買うつもりはありません」
「そうおっしゃるお客様も多くいらっしゃいます」
「なら――」
「ただ」
男は帳面の一か所へ指を置いた。
「旅の知識、複数の言語、読み書き。それらすべてを備え、長期の同行が可能な者となりますと、通常の雇用ではかなり高額になります」
「金ならあります」
『おぬし、言い方に気をつけよ』
フィリアが小さくささやく。
男の笑みが、ほんの少し深くなった。
「でしたら、なおさら一度ご覧になってはいかがでしょう」
「話を聞いてました?」
「ええ。だからこそです」
男は帳面を閉じる。
「ちょうど明日、別の施設へ移る予定の娘がおります」
結人は黙った。
「年齢は幼いですが、頭のよい娘です。礼儀、読み書き、各地の習慣にも通じております」
男は奥の扉へ手を向けた。
「旅のお供をお探しでしたら、これ以上ないほど条件に合うかと」
扉の向こうで、小さく鎖の鳴る音がした。




