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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第一章 値札を付けられた少女は旅を選ぶ

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第二話 ~魔法は思ったより不親切~

 最初に戻ってきたのは、匂いだった。

 湿った土。

 青い草。

 どこか甘い花の香り。

 次に、頬をなでる風の感触。

 久世結人は、ゆっくりと目を開いた。

 視界いっぱいに、青空が広がっていた。

「……空だ」

 当たり前のことを口にしてから、結人は何度かまばたきをした。

 白でも黒でもない。

 先ほどまでいた、何もない空間とは違う。

 風に流される雲。降り注ぐ太陽の光。視界の端で揺れる草の穂。

 世界には、色があった。

 結人はしばらく空を見上げたまま動かなかった。

 死んだはずなのに、息をしている。

 胸が上下する。

 肺へ空気が入り、少し冷たい風が喉を通る。

 手を握れば、指先が手のひらへ食い込んだ。

「本当に……生きてる」

 声に出した途端、急に現実味が増した。

 結人は勢いよく上体を起こした。

 周囲には、腰ほどの高さまで草が生えた平原が広がっている。

 少し離れた場所には木々が集まり、林を作っていた。地面はなだらかに下り、その先には細い川らしきものが光っている。

 建物は見えない。

 道もない。

 人の姿もなかった。

「ってかここどこだよ!?」

 結人は立ち上がろうとして、足元に何かがあることへ気づいた。

 黒い旅鞄。

 濃紺の外套。

 フィリアが用意したという旅道具が、きれいにまとめられている。

 自分の服装も、すでにスーツではなかった。

 白に近い灰色のシャツ。

 黒く丈夫そうなズボン。

 足には革靴。

 腰には小さな道具袋と、さやへ収まった短剣が下がっている。

「着替えた覚えもないんだけどな」

『わらわが着せたわけではないぞ』

 突然、胸元から声が聞こえた。

 結人は反射的に飛びのいた。

「うわっ!」

『何を驚いておる』

「急に話しかけるなよ!」

『時計を通じて助言すると申したではないか』

「胸元から急に声がするとは聞いてない」

『では、今分かったな』

「雑だな!」

 結人は胸元へ手を入れた。

 そこには、銀色の懐中時計が鎖で留められている。

 蓋を開く。

 文字盤の上に淡い光が集まり、少しずつ人の形へ変わっていく。

 やがて現れたのは、小さなフィリアだった。

 手のひらへ乗りそうなほど小さい。

 白い着物も、赤い帯も、腰を越えて流れる淡い水色の髪もそのままだ。

『どうじゃ。愛らしかろう』

「自分で言うのか」

『もっと驚くところではないのかの? 女神が手のひらサイズで現れたのじゃぞ?』

「さっきまで普通の大きさで会ってたからな」

『感動が薄いのう』

 フィリアは文字盤の縁へ腰掛け、頬を膨らませた。

「これは幻みたいなものか?」

『正確には、わらわの姿をおぬしの意識へ映しておる。実体はない。触れることもできぬ』

 結人は試しに、フィリアの肩へ指先を伸ばした。

 指は光の中をすり抜ける。

『ちょっ!……本当に触ろうとするでない!』

「確認しただけだろ」

『乙女の身体へ、ためらいなく指を伸ばすとは』

「実体はないんだろ?」

『気分の問題じゃ!』

 フィリアは着物の袖を押さえ、文字盤の端へ逃げるように移動した。

 実際には、数センチしか離れていない。

 結人は懐中時計を手にしたまま、もう一度周囲を見回した。

「それで、ここはどこなんだ」

『わらわが見守っておる世界の、西方域じゃ』

「西方域のどこ」

『そこまでは分からぬ』

「管理してるんじゃないのか」

『転生の際には、魂と肉体を安全に定着させられる地域を選ぶ。安全第一だからそんな細かいことには気を使ってないのじゃ』

「近くの街は?」

『ある』

「どっちに?」

『……あることは確かじゃ』

「方向は?」

『風にでも聞け』

「役に立たないな、この残念女神」

『何じゃと!』

 フィリアの声が時計から響く。

 結人は小さく息を吐いた。

 最初から彼女だけを頼りにするのは危険そうだ。

「とりあえず、状況を確認する」

『ふむ。何をするのじゃ』

「水。食料。日が沈むまでの時間。人里の方向。危険な動物がいるか。それと、自分の身体の状態」

『ずいぶん現実的じゃな』

「異世界へ来たからって、感動して寝転がってたら死ぬだろ」

『先ほど死んだばかりとは思えぬ発言じゃ』

「……二回目は避けたいんだよ」

 結人は旅鞄を開いた。

 口は普通の鞄ほどしかない。

 だが中をのぞくと、底が見えなかった。

「……広いな」

『見た目より多く入るようにしてある』

 中へ手を入れ、水筒を思い浮かべる。

 すぐに指先へ金属の感触が触れた。

 引き上げると、革で包まれた水筒が出てくる。

「欲しいものが勝手に出てくるのか?」

『中に入っておる物だけじゃ。何もないところから作り出してはおらぬ』

「それでも十分便利だな」

 水筒の中身を確認する。

 透明で、変な匂いもない。

「飲める?」

『わらわが用意した水じゃぞ』

「安全かどうか聞いてる」

『飲めるわ!』

 結人は一口だけ口へ含んだ。

 少し冷たい、普通の水だった。

 続いて保存食、火起こしの道具、簡単な薬、毛布、替えの衣服を取り出して並べる。

 地図らしきものも入っていた。

 期待しながら広げる。

「読めない」

『当然じゃな』

「当然なの?」

『おぬしはこちらの文字を知らぬじゃろう』

「読めるようにしてくれてもよかったんじゃないか」

『肉体を作り、言葉が通じるよう整え、魔力まで与えたのじゃぞ。文字くらい自分で学びなんし』

「会話は通じるんだ」

『そうじゃ。耳で聞いた言葉を、おぬしが理解できる形へ置き換える。逆も同じじゃ』

「便利だな」

『もっと敬ってよいぞ』

「文字も頼む」

『欲張るでない』

 結人は地図を畳み、鞄へ戻した。

 続いて自分の身体を確認する。手足の長さは生前とほとんど変わらず、事故の傷も痛みも残っていない。就職活動で寝不足だった朝より、むしろ身体は軽かった。

「顔も、そのままなんだよな?」

『おぬしの魂が、自分自身だと認識できる姿にしてある。心と身体が合わなくなっては困るからの。隈を消し、肌と姿勢は少し整えておいたが』

「神の力を美容に使うなよ」

『見栄えも大切じゃ!』

 フィリアは胸を張った。

 結人は少しだけ安心した。誰かの身体を奪ったわけでも、知らない姿へ変えられたわけでもない。自分の身体として扱えるなら、それでよかった。

 太陽はまだ高い。

 林の近くには川もある。

 水と食料も持っている。

 すぐに命の危険がある状況ではなさそうだ。

「よし」

『何がよしなのじゃ』

「次は魔法だな」

 フィリアの表情がぱっと明るくなった。

『うむ! ようやく異世界らしい話になったのう!』

「使えるんだろ?」

『もちろんじゃ。おぬしの身体には、すでに魔力が流れておる』

「どうやって使う」

『魔力を感じ、望む現象を思い描き、ぐっと力を込めるのじゃ』

 結人は黙った。

 フィリアも、自信に満ちた表情で見返してくる。

「終わり?」

『うむ』

「説明が?」

『そうじゃ』

「魔力は、どうやって感じる」

『身体の内側にあるものを感じるのじゃ』

「どこにある」

『全身じゃ』

「力を込めるって、筋肉に?」

『違う。魔力にじゃ』

「その魔力が分からない」

『感じよ』

「だから、どうやって」

『ぐっとじゃ!』

「精神論しかないのか!」

『魔法とは感覚なのじゃ!』

「教えるの下手すぎるだろ!」

 フィリアが文字盤の上で立ち上がった。

『わらわは神じゃぞ! 魔法など、生まれたときから使えて当然であったのじゃ!』

「教える側として一番駄目なタイプだな」

『失礼な!』

「運動が得意な人が、苦手な人に感覚だけで教えるやつだ」

『おぬしの世界の例えは知らぬが、馬鹿にされておることだけは分かるぞ!』

 結人は草の上へ腰を下ろした。

 フィリアの説明を待っていても進まない。

「まず、魔力が本当にあるか確認しよう」

『あると言うておるじゃろう』

「自分で確認したい」

 目を閉じる。

 呼吸を整え、身体の内側へ意識を向けた。

 心臓の鼓動。

 肺の動き。

 腹部の温かさ。

 指先の感覚。

 特別なものは分からない。

「何も感じない」

『集中が足りぬ』

「具体的には?」

『もっと無心になれ』

「その助言、たぶん今後も役に立たないぞ」

 結人は目を開いた。

 別の方法を考える。

 魔法が身体の中にある力を使うものなら、何らかの変化が起きるはずだ。

 温度。

 疲労。

 呼吸。

 皮膚の感覚。

 まずは大きな現象を起こすのではなく、小さな変化を探す。

 結人は足元の草を一本抜き、手のひらへ乗せた。

「何をすれば一番簡単?」

『火を出すのはどうじゃ』

「危ない」

『では風』

「見えない」

『水』

「最初から濡れたくない」

『注文が多いのう!』

 結人は手のひらの草を見た。

「これを少し動かす」

『地味じゃな』

「最初の実験なんて、地味でいい」

 草の葉へ意識を向ける。

 動け。

 浮け。

 念じる。

 何も起こらない。

『ぐっとじゃ』

「今やってる」

『もっと強く』

「何を強くすればいいんだよ」

 試しに腹へ力を入れる。

 草は動かない。

 肩へ力を入れても、息を止めても同じだった。

『顔が赤くなっておるぞ』

「分かってる」

『魔法を使おうとして気絶した者は、まだ見たことがないのう』

「不吉なことを言うな」

 結人は息を吐いた。

 次に、草が動く場面を頭の中で具体的に描く。

 風に揺らされるのではなく、下から押し上げられるように浮かぶ。

 高さは一センチ。

 時間は一秒。

 必要な力は、ごくわずか。

 条件を細かく決める。

 その瞬間。

 胸の奥で、何かが動いた。

 温かいものが細い流れとなり、肩から腕、指先へ抜けていく。

「今のか」

『む?』

「何か流れた」

『それじゃ。それが魔力じゃ』

 同じ感覚を再現しようとする。

 草の葉が、ごくわずかに震えた。

 風ではない。

 周囲の草は動いていない。

 手のひらにある一本だけが、わずかに持ち上がった。

「動いた」

『うむ。見事じゃ』

 草は一秒も浮かず、すぐに手のひらへ落ちた。

 それでも、確かに動いた。

 結人はもう一度試す。

 一回目よりも魔力の流れが分かりやすい。

 胸の奥から腕へ。

 腕から指先へ。

 草の葉が、今度は指一本分ほど浮き上がった。

「できた」

『できたのう』

「魔法だ」

『そうじゃ。魔法じゃ』

 結人は浮かんだ草を見つめた。

 異世界。

 女神。

 転生。

 言葉では理解していた。

 だが、自分の意思で物が浮いた瞬間、ようやく本当に別の世界へ来たのだと実感した。

 口元が自然に緩む。

『嬉しそうじゃな』

「そりゃ、まあ」

『先ほどまで、わらわを役立たず扱いしておったくせに』

「教え方は役に立ってない」

『素直に感謝せぬか!』

「魔力をくれたことには感謝してる」

『ならばよい』

 フィリアは満足そうに腕を組んだ。

 結人は草を手のひらへ戻した。

「次は条件を変える」

『何をするのじゃ』

「距離と重さ。あと、使う魔力の量」

『いきなり研究を始めるのかの?』

「分からないまま使う方が怖いだろ」

 結人は大きさの違う小石をいくつか拾った。

 草より重い。

 同じように浮かせようとすると、胸の奥から流れる魔力が増える。

 小さな石はわずかに持ち上がったが、大きな石は震えるだけだった。

 地面に置き、少し離れると、さらに難しくなる。

「重さと距離で、必要な力が変わる」

『当然ではないか』

「当然かどうかを確かめてる」

 石の大きさ。

 対象までの距離。

 魔力を流す時間。

 成功と失敗の違い。

 結人は一つずつ条件を変え、同じ実験を繰り返していく。

 最初は退屈そうに眺めていたフィリアも、やがて興味を持ち始めた。

『おぬし、同じことを何度も試すのう』

「何が違うと失敗するのか、知っておきたい。いざ使う時に動かなかったら困るだろ」

『普通は師から術式と感覚を教わる。そこまで一つずつ確かめる者は少ないのじゃが』

 フィリアは口元へ指を当て、並んだ小石を見下ろした。

 小石を浮かせる実験の次は、温度を変える実験へ移った。

 いきなり火を出すのは危険だ。

 まずは、水筒の金属部分を少しだけ温める。

 結人は両手で水筒を包み、温度がゆっくり上がる様子を想像した。

 胸の奥の魔力が、今度は熱を帯びて流れる。

 冷たかった金属が、少しずつ温かくなった。

「これもいける」

『飲み物を温めるくらいなら、すぐに使えそうじゃな』

「料理にも使えるかも」

『最初に考える用途がそれか』

「実生活で使えない力は困るだろ」

 水筒の表面へ触れる。

 まだ手で持てる程度だ。

 結人は、流す魔力を少しだけ増やした。

『結人』

 フィリアの声が低くなる。

「何だ?」

『少し急に上げすぎではないかの?』

「どこまでいけるか確かめたい」

『待て。それは――』

 水筒が、ぶるりと震えた。

 次の瞬間。

 蓋が勢いよく弾け飛んだ。

「え?」

 中で熱せられた水が、白い湯気とともに噴き出す。

「熱っ!」

 結人は反射的に水筒を手放した。

 だが、わずかに遅い。

 熱い水がシャツの胸元と腕へ降りかかった。

 慌てて立ち上がり、服を引っ張る。

「熱い熱い熱い!」

 重いやけどをするほどではない。

 それでも、十分に熱かった。

 川の方角へ走り出そうとして、足元の草へつまずく。

 前のめりに倒れ、そのまま草の上を転がった。

 懐中時計から、フィリアの笑い声が響く。

『あはははは! 何をしておるのじゃ、おぬし!』

「笑うな!」

『魔法を覚えて最初に自分を煮る者がおるか!』

「煮えてない!」

『水筒は見事に煮立っておったぞ!』

「止めろよ!」

『止めたではないか!』

「遅いんだよ!」

 結人は草の上へ座り込み、濡れたシャツを引っ張った。

 フィリアはまだ笑っている。

 小さな身体を折り、文字盤の縁を叩いていた。

「神様が人の失敗を笑うなよ」

『すまぬ、すまぬ。じゃが……ふふっ』

「まだ笑ってるだろ」

『あれほど慎重に小石を浮かせておったのに、水になると急に雑になるから……』

「温度が、こんなに速く上がると思わなかったんだよ」

『それを確かめるのが実験ではないのかの?』

「うるさいな」

 結人は濡れた袖を絞った。

 小石を浮かせたときは、結果が目に見えた。

 温度は変化が見えにくい。

 知らないうちに、想像以上の熱を加えていたらしい。

「見えない変化ほど、慎重にしないと駄目か」

『よい教訓になったのう』

「誰かさんが、最初に説明してくれればよかった」

『ぐっとやりすぎるな、と申せばよかったかの?』

「今後それは禁止な」

『便利な言葉なのじゃが』

「便利なのは教える側だけだ」

 結人は鞄から替えのシャツを取り出した。

 林の陰へ移動し、濡れた服を着替える。

 フィリアには、懐中時計の蓋を閉じておいた。

『のう、結人』

「何だ」

『暗いぞ』

「着替えてるんだよ」

『わらわは見ても気にせぬぞ』

「俺が気にする」

『おぬしの身体を作ったのは、わらわじゃ』

「なおさら嫌だ」

『ケチ』

 蓋の向こうで、フィリアが不満を漏らす。

 着替えを終え、懐中時計を開いた。

『遅い』

「一分もかかってない」

『神にとっては長い一分であった』

「大げさだな」

 結人は濡れたシャツを草の上へ広げた。

 太陽が高いうちなら乾くだろう。

 先ほどの失敗で、魔法の怖さも少し分かった。

 便利だが、思った通りに動くとは限らない。

 使う側が理解していない部分は、そのまま危険になる。

「魔法って、思ったより不親切だな」

『何を今さら』

「使いたいと思ったら、ある程度は勝手に調整してくれるものかと」

『魔法は願いをかなえる奇跡ではない。力を使い、世界へ働きかける技じゃ』

「それ、最初に言ってほしかったな」

『今言ったからよいではないか』

「やっぱり教えるの下手だよ」

『おぬしが細かすぎるのじゃ!』

 フィリアは、むっとした顔で腕を組んだ。

 結人は笑いながら草原へ戻り、転がっていた水筒を拾った。少し離れた場所に落ちていた蓋も拾い上げる。

 幸い、どちらも壊れてはいない。

 水筒の中には、まだ少し湯が残っていた。蓋を外したまま脇へ置き、冷めるのを待つことにした。


◇


 その後も、結人は小さな魔法をいくつか試した。

 枯れ葉を動かす。

 水滴を浮かせる。

 小石を転がす。

 指先だけを温める。

 大きな現象は起こさない。

 魔力を使いすぎると、軽い疲れが出ることも分かった。

 腕や脚が疲れるのとは少し違う。

 頭を使い続けた後に似た、ぼんやりとした重さがある。

「今日はここまでだな」

『もうよいのかの?』

「人里を探す方が先だ」

『ようやく旅立つ気になったか』

「方向が分からないんだけど」

『川に沿って下れば、いずれ道か集落へ出るじゃろう』

「最初からそれを言ってくれ」

『聞かれなんだからの』

「聞いたよ!」

 結人は旅道具を鞄へ戻し、濃紺の外套を肩へ掛けた。

 太陽は少し傾き始めている。

 日が沈むまでに、人のいる場所へ着きたい。

 川へ向かって草原を下る。

 歩き始めてすぐ、結人は自分の足取りが軽いことに気づいた。

 新しい身体は、元の身体より少しだけ体力があるらしい。

「身体能力も調整した?」

『健康な成人男性の範囲じゃ。怪物を素手で倒せるほどではない』

「それでいい。使いこなせない力をもらっても、水筒の二の舞だ」

『思い出すと、まだ笑えるのう』

「忘れろ」

 川の近くまで来ると、草の背が低くなった。

 水は透明で、流れも穏やかだ。

 魚らしき影が走る。

 対岸の泥には、小さな動物の足跡が残っていた。

「危険な生き物はいる?」

『おる』

「先に言えよ」

『この辺りには、そう強い魔物は少ない』

「少ないだけ?」

『絶対におらぬとは言えぬ』

 結人は腰の短剣へ手を置いた。

 使った経験はない。

 護身用と言われても、刃物を持っているだけで安心できるほど楽観的ではなかった。

「魔物に会ったら、どうすればいい」

『弱い相手なら、魔法で追い払え』

「使える魔法、草を浮かせるのと水を沸かすくらいだけど」

『熱湯を掛ければよいではないか』

「水筒が必要だろ」

『戦うたびに湯を沸かす使徒……』

「自分で言っておいて笑うな」

 幸い、魔物らしきものには出会わなかった。

 川に沿って一時間ほど歩く。

 途中で細い獣道が現れ、やがて人の足跡らしきものが増えていく。

 さらに進むと、地面が踏み固められた道へ合流した。

「道だ」

『うむ』

「人がいる」

『そうじゃな』

 土の道には、車輪の跡が残っている。

 最近通ったものらしく、雨で崩れてはいない。

 道は川と並ぶように続いていた。

 結人は歩調を速めた。

 空が茜色へ変わり始める。

 遠くの地平に、黒い影が見えた。

 壁。

 塔。

 そして、その内側で灯るいくつもの淡い光。

「街か?」

『ようやく見つけたのう』

「魔法の光?」

『魔石を使った灯りじゃ。あれほどの規模なら、それなりに大きな街じゃろう』

 結人は足を止めた。

 異世界へ来て初めて目にする、人の暮らし。

 壁の向こうには、自分の知らない文化がある。

 魔法が日常の中で使われ、見たこともない種族が歩き、地球とは違う常識の中で人々が生きている。

 死んで、女神と出会い、見知らぬ平原へ放り出された。

 それでも、遠くにともる街の明かりを見た瞬間。

 ようやく自分の旅が始まるのだと、結人は思った。

 胸が、少しだけ高鳴った。

『楽しみかの?』

「少しは」

『素直ではないのう』

「不安もあるんだよ」

『案ずるな。わらわがおる』

「さっき、現在地も分からなかったけど」

『細かいことを気にするでない』

「大事なことだろ」

 街へ近づくにつれ、道を行き交う人の姿が増えていった。

 荷車を引く男。

 大きな籠を背負った女。

 腰に剣を下げた旅人。

 遠目には普通の人間に見える者もいれば、頭に獣の耳を持つ者もいる。

 結人は思わず二度見した。

「今、耳が」

『獣人じゃな』

「本物?」

『偽物の耳を付けて歩く意味があるのかの?』

「俺の世界にはあった」

『おぬしの世界は妙なところじゃのう』

 結人は視線を向けすぎないよう注意した。

 こちらでは、当たり前の存在なのだろう。

 日が沈む少し前、ようやく街の門へたどり着いた。

 石造りの高い壁。

 大きく開かれた木製の門。

 その前には、短い列ができている。

 荷車や旅人が、順番に衛兵の確認を受けていた。

「普通に入れるかな」

『悪事をしておらぬのじゃ。堂々としておれ』

「異世界から来ました、って言っても?」

『それは言わぬ方がよい』

「だろうな」

 順番が近づく。

 衛兵は一人ずつ、木札や金属製の札を確認していた。

 旅人の一人が札を差し出し、門を通る。

 次の商人も同じだった。

 結人は、嫌な予感がした。

「なあ」

『何じゃ』

「今、あの人たちが見せてるのは?」

『身分証じゃな』

「俺の身分証は?」

『ないのう』

「ないの?」

『おぬしは今日、この世界へ来たばかりじゃぞ』

「用意してないのかよ!」

 前の旅人が門を通った。

 いよいよ結人の番になる。

 鎧を着た衛兵が、疲れた表情で手を差し出した。

「次。身分証を」

 結人は黙って衛兵を見た。

 衛兵も結人を見る。

 胸元の懐中時計から、フィリアが小さな声でささやいた。

『何とかせよ、使徒よ』

「お前が何とかしろよ」

「何か言ったか?」

 衛兵が眉を寄せる。

 結人は乾いた笑みを浮かべた。

「いえ。少し、事情がありまして」

 異世界で迎える最初の夜は、宿を探すより先に、自分が何者なのかを説明するところから始まりそうだった。


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