第一話 ~懐中時計には女神が住んでいる~
最初に感じたのは、静けさだった。
耳を澄ませても、何も聞こえない。
風もない。
地面に立っている感覚も、横たわっている感覚もない。
久世結人は、ゆっくりと目を開いた。
「……どこだ、ここ」
声は出た。
だが、自分の口が動いた感覚は妙に薄かった。
周囲には何もない。
白くも黒くもない。
色というものだけを抜き取ったような空間が、どこまでも続いている。
身体はあるように見えた。
手を動かせば指も動く。
服装も、家を出たときのスーツ姿のままだ。
しかしシャツに触れても、生地の感触がはっきりしない。
身体も衣服も、結人の記憶から形だけを作り直したようだった。
「事故……」
ブレーキ音。
白い光。
手から離れた懐中時計。
直前の記憶が戻る。
結人は胸や腹に手を当てた。
怪我はない。
血も出ていない。
それ以前に、心臓が動いている感覚がなかった。
「まさか、死んだ?」
「まさかも何も、見事な死にっぷりじゃったぞ」
背後から声がした。
結人は振り返る。
少し離れた場所に、一人の少女が立っていた。
中学生ほどに見える、小柄で華奢な少女だった。
白に近い淡い水色の髪は腰を越え、毛先で柔らかく広がっている。まっすぐな前髪の下には、大きな青い瞳があった。
白い着物に、深い赤の帯。幼さの残る顔立ちなのに、その眼差しだけは不釣り合いなほど静かで深い。
少女がそこに立っているだけで、何もなかった空間の中心が定まったように感じられた。
「驚かせてしもうたかの?」
少女は口元へ指先を添え、どこか楽しげに微笑んだ。
「わらわはフィリア・ミラ・クロノス。時と空間の理を預かる女神じゃ」
澄んだ声が、何もない空間へ広がっていく。
「短き生を終えた異界の旅人よ。そなたの魂をここへ拾い上げたのは、ほかならぬわらわじゃ」
結人は数秒、黙って少女を見た。
少女も、威厳に満ちた笑みを保っている。
「……女神?」
「いかにも」
「本物の?」
「偽物の女神など、そうそうおらぬじゃろう」
「コスプレではなく?」
少女の眉が、ぴくりと動いた。
「死後の世界でコスプレを披露する少女に見えると申すか?」
「状況が状況だから、確認は必要だろ」
「もう少し畏れ敬うところではないかのう!?」
少女――フィリアが、両手を大きく広げた。
先ほどまで周囲を満たしていた神秘的な空気が、一瞬で崩れた気がした。
「わらわは女神じゃぞ! それも時空神じゃ! 普通なら、ひれ伏すか泣いて感謝する場面ではないのか!」
「泣いて感謝する前に、何が起きたか確認したい」
「おぬし、死んだ直後にしては図太すぎぬか?」
「まだ実感がないんだよ」
結人は、自分の手を見下ろした。
指は透けていない。
けれど、生きている感覚もなかった。
恐怖が押し寄せてこないのは、現実を理解する材料が足りないからだろう。
「俺は、本当に死んだのか」
そう尋ねると、フィリアの表情から軽さが消えた。
「うむ」
短い答えだった。
「おぬしが元いた世界での身体は、すでに命を失っておる。残念じゃが、元へ戻してやることはできぬ」
「そうか」
両親の顔が浮かんだ。大学の友人たちの顔も。
最後に両親と話したのは、いつだっただろう。
特別な話などしなかった。また連絡すればいいと思っていた。
その両親に、これから事故の知らせが届く。
突然いなくなった息子を、どう受け止めるのだろう。
「家族に、何か伝えられるか」
フィリアは静かに首を横へ振った。
「異なる世界へ直接言葉を届ければ、双方の境界を傷つける。わらわにも許されておらぬ」
「夢に出るとか」
「できぬ」
「手紙は?」
「届かぬ」
「一言だけでも?」
「……すまぬ」
結人は息を吐こうとした。
肺が動いた感覚はなかった。
それでも、胸の奥が重くなる。
「じゃあ、本当に終わりなんだな」
フィリアは答えなかった。
できないことを、軽い慰めでごまかさないためだろう。
しばらくしてから、結人は顔を上げた。
「それで、どうして俺がここにいる?」
「話が早くて助かるのう」
「死んだ人間が全員、女神と面談するわけじゃないだろ」
「もちろんじゃ。そんなことをしておったら、わらわは休む暇もない」
「割と暇そうに見えるけど」
「どこをどう見ればそうなるのじゃ!」
フィリアは反射的に声を上げた。
そして、はっとする。
「……こほん」
小さく咳払いをして、淡い水色の髪を肩の後ろへ払った。
再び、神らしい笑みを作る。
「話を戻すぞ。おぬしがここへ来た理由は、あの懐中時計にある」
結人は周囲を見回した。
何もなかった空間に、いつの間にか懐中時計が浮かんでいる。
朝、家電量販店で買ったものと同じ。
銀色の蓋。
中央の青いガラス飾り。
フィリアが指を動かすと、懐中時計はゆっくりと結人の前まで移動した。
「これは、ただの時計ではない」
「家電量販店で現品限りの商品として普通に売ってたぞ?」
「……そこが、わらわにも分からぬところなのじゃ」
「女神なのに?」
「神にも知らぬことくらいある!」
フィリアは悔しそうに唇を尖らせた。
「わらわの力へつながる品が、なぜおぬしの世界で売られておったのか。誰が作り、どうしてあの店へ流れ着いたのか。わらわが調べようとしたときには、すでに世界同士の道が閉じておった」
「ずいぶん身近なところに神具が流通してたんだな」
「わらわも困惑しておるのじゃ!」
結人は懐中時計を見る。
新品として売られていた、ごく普通の時計。
少なくとも、今朝まではそう見えていた。
「ともかく、その時計を通じて、おぬしの魂とわらわの力が一瞬だけつながった。わらわは消えかけていた魂を見つけ、ここへ引き寄せたのじゃ」
「青く光ったのは?」
結人の問いに、フィリアの瞳がわずかに揺れた。
「光?」
「事故の直前、時計が青く光った。俺はそれに気を取られた」
「……なるほどの」
フィリアは懐中時計へ視線を向ける。
指先をかざし、何かを確かめるように目を細めた。
「おぬしの死が近づいたことで、時計とわらわの力がつながった可能性はある」
「逆は?」
「逆?」
「時計が光ったから、俺は事故に遭ったんじゃないのか」
空間が静まる。
フィリアは、すぐには答えなかった。
先ほどまでの軽口も、誇らしげな笑みも消えている。
「わらわが、おぬしを殺したのではないかと疑っておるのかの?」
「分からないから聞いてる」
「わらわが意図して、あの事故を起こしたことはない」
声はまっすぐだった。
「魂を別の世界へ招くため、あえて人を殺すような真似はせぬ。そこまで落ちた覚えもない」
「時計が勝手にとか?」
「断言はできぬ」
フィリアは懐中時計を見つめたまま答える。
「光がおぬしの注意を奪い、事故を招いたのか。死が迫ったことで時計が反応したのか。あるいは、危険を知らせようとしていたのかもしれぬ」
「警告だった可能性もあるのか」
「ある。じゃが、今のわらわには確かめようがない」
正直な答えだった。
嘘をついているようには見えない。
だが、すべてを話しているとも限らない。
結人はそう感じた。
「その顔は何じゃ」
「いや。神様でも分からないことがあるんだな、と」
「また馬鹿にしたであろう」
「三割くらいは」
「少し減らせば許されると思うたか!」
フィリアの声が裏返る。
結人は、ほんの少しだけ笑った。
死んだことを忘れたわけではない。
状況を受け入れたわけでもない。
ただ、この女神と話している間だけは、何もない空間へ沈まずに済んだ。
「それで」
結人は言った。
「俺の魂を拾って、どうするつもりなんだ」
「ようやく本題じゃな」
フィリアは両手を背中へ回し、ゆっくりと歩き始めた。
足元まで続く白い裾が揺れ、内側に重ねた黒い着物と、その赤い縁取りがのぞく。長い袖と裾には、雲と星の軌跡を描いた淡い青銀の刺しゅうが施されていた。
帯締めには細い金糸が通り、その脇で、時計の針を重ねた小さな銀の飾りが揺れている。
足元には何もないはずなのに、草履の音だけが小さく響く。
「おぬしの元の身体は戻せぬ。されど、このまま魂を失わせる必要もない」
「成仏とか、輪廻転生とかは」
「おぬしの世界にも、おぬしの世界なりの流れがある。じゃが、一度わらわの力に触れて流れから外れた魂を、無理に戻すのは危険じゃ」
「つまり、迷子か」
「もっと格好のよい言い方があるじゃろう!」
フィリアが振り向いた。
「世界の境界を越えた特別な魂とか、時空に選ばれた旅人とか!」
「どこの厨二病だよ!?」
「そういうところじゃぞ、おぬし!」
フィリアは一度だけ額へ手を当て、それから話を続けた。
「わらわは、おぬしの魂を別の世界へ移し、新たな身体へ定着させることができる」
「別の世界」
「剣と魔法。人と魔族。神と魔王。おぬしの世界とは異なる理で動く場所じゃ」
「ずいぶん分かりやすい異世界だな」
「ともかくじゃ」
フィリアは結人の前に戻る。
「おぬしはそこで、もう一度生きられる。食べ、眠り、歩き、人と出会える」
そして少しだけ、声を柔らかくする。
「今度こそ、自分が何を望んでおるのか。それを探す時間も得られよう」
その言葉が、結人の中へ静かに落ちた。
もう一度、生きる。
先ほどまで予定されていた人生とは、まったく違う場所で。
何になりたいのかも分からないまま死んだ自分が、再び時間を与えられる。
だが、結人はフィリアの言葉に、意図的に抜かれた部分を感じた。
「条件は?」
「む」
「ただで生き返らせてくれるわけじゃないんだろ」
フィリアは視線を逸らした。
分かりやすい。
「その顔で無償ですと言われても、信用できないぞ」
「顔とは何じゃ、顔とは!」
「頼みがある顔」
「神の表情を勝手に分類するでない!」
「頼みは?」
「……ある」
フィリアは小さく答えた。
結人が黙って待つと、彼女は観念したように正面へ向き直った。
「おぬしを送る世界では、近年、いくつもの異常が起きておる」
「異常……ね」
「土地の魔力が乱れ、消えるはずのない集落が消え、古い封印が動き始めておる。そして各地で、魔王を名乗る者、あるいは魔王と呼ばれる者が現れておる」
「魔王を倒せと?」
「最初からすべて斬れとは申さぬ」
フィリアは人差し指を立てた。
「旅をし、見極めてほしいのじゃ。その者が世界を害するのであれば止める。話が通じるのであれば話す。何が起きておるのか、わらわの代わりに確かめてほしい」
「自分で行けないのか」
「行けぬ」
答えは早かった。
「神が地上へ直接力を振るえば、世界の釣り合いを崩す。わらわは時計を通じ、おぬしへ助言と限られた力を渡すことしかできぬ」
「危険は?」
「ある」
「また死ぬ可能性は?」
「……ある」
「拒否したら?」
フィリアは口を閉じた。
結人は続きを待った。
「拒否しても構わぬ。わらわは無理強いせぬ」
「その場合、俺はどうなる」
「この魂のまま、おぬしの世界へ戻すことはできぬ。別の世界へ定着させるにも、わらわの力が必要じゃ」
「つまり、現実的には選択肢がない」
「完全にないとは申しておらぬ」
「というと?」
「長い時間をかけ、魂が自然な流れへ戻るのを待つ」
「どのくらい」
「はて。数百年か、数千年か」
「それを選択肢に数えるのは無理があるだろ」
「……じゃから、わらわも言いづらかったのじゃ」
フィリアは指先を合わせ、気まずそうに目を伏せた。
神秘的な少女の姿をしているのに、こういうところだけ妙に人間くさい。
「要するに」
結人は整理する。
「別の世界で生き直す。その代わりに旅をして、魔王と異常を調べる。必要なら戦う」
「うむ」
「危険について、まだ隠していることは?」
フィリアの肩が、ごくわずかに動いた。
結人は見逃さなかった。
「あるのか」
「異世界で生きること自体に、未知の危険はある。おぬしの魂がどこまで適応できるかも、完全には分からぬ」
「それだけ?」
「……今伝えるべきことは、それだけじゃ」
フィリアはそう答えた。
嘘ではない。
だが、言葉の選び方が慎重すぎる。
結人は、それ以上追及しなかった。
今の自分には、判断するための情報が少なすぎる。
そして何より。
「分かった」
結人は言った。
「やるよ」
フィリアが目を見開く。
「よいのか?」
「ここで数百年、何もせず待つよりはいい」
「いや、そうではなく……」
フィリアは一度、言葉を止めた。
「おぬしは、元の世界への未練や、恐怖はないのかの?」
「ある」
結人は答えた。
「家族に何も言えなかった。友達にも。死んだ実感だって、まだあまりない。異世界で戦えと言われても、正直できる気はしない」
「ならば――」
「でも」
結人は、浮かんでいる懐中時計へ手を伸ばした。
指先が銀色の蓋へ触れる。
今度は、はっきりとした冷たさが伝わった。
「死ぬ直前に思ったんだ。俺は何をしたかったのかって」
答えは出なかった。
用意していた志望動機にも、予定表にも、自分が本当に望んだものは書かれていなかった。
「もう一度生きられるなら、それを探してみたい」
フィリアは、しばらく何も言わなかった。
やがて、小さく笑う。
先ほどまでの大げさな威厳ではない。
心の底から、ほっとしたような笑顔だった。
「よかろう」
フィリアは結人の前へ立つ。
「ならば時空神フィリア・ミラ・クロノスの名において、おぬしへ二度目の生を授けよう」
両手を広げる。
何もなかった空間へ、無数の青い光が灯った。
一つ一つが星のようにまたたき、結人の周囲を巡り始める。
フィリアの淡い水色の髪と、着物の長い袖が光の中で静かに揺れる。
「その身に、異なる世界を歩むための身体を」
声が重なる。
少女の声の奥から、世界そのものが語りかけてくる。
「その魂に、魔力を受け入れるための道を」
青い光が結人の胸へ集まる。
温かい。
同時に、身体の形がほどけていくような感覚があった。
「そして、その手に――」
フィリアは一瞬だけ言葉を止めた。
結人には見えない場所で、彼女の指がかすかに震える。
ためらい。
恐れ。
そして、誰にも言えない小さな願い。
それらを飲み込み、フィリアは懐中時計を結人の胸へ押し当てた。
「わらわへ至る、一筋の道を」
青い光が、結人の周囲を包み始めた。
「待て」
結人が慌てて声を上げると、フィリアは手を止めた。
「何じゃ?」
「異世界に行くのはいいが、金とか装備とかは?」
フィリアは数秒、目を丸くした。
それから、ゆっくりと胸を張る。
「ふふん。その程度、わらわが考えておらぬとでも思うたか」
フィリアが指を鳴らす。
光の中から、一式の旅道具が現れた。
動きやすいシャツとズボン。
丈夫な革靴。
雨風を防げる濃紺の外套。
腰に付ける小さな道具袋と、護身用の短剣。
水筒、火起こしの道具、簡単な薬、数日分の保存食。
さらに、肩から掛けられる黒い旅鞄。
「旅を始めるために必要なものは、ひと通りそろえてある。鞄の中は見た目より広く、持ち主であるおぬし以外には開けられぬ」
「便利すぎない?」
「女神の使徒を丸腰で野山へ放り出すほど、わらわは雑ではないのじゃ」
「さっきまでの説明は割と雑だったけど」
「そこは今、関係なかろう!」
フィリアは旅鞄を開く。
中には替えの衣服や生活用品のほか、現地の硬貨が入った袋も納められていた。
「路銀も十分に用意した。しばらくは宿や食事へ困ることもなかろう」
「しばらくって?」
「普通に旅をする限り、そう簡単には尽きぬ。必要なものは、必要なときに選べばよい」
「ずいぶん準備がいいな」
「当然じゃろう」
フィリアは満足そうに笑った。
「わらわを誰だと思うておる」
「説明は雑だけど、手当ては手厚い女神」
「ひと言もふた言も余計じゃ!」
結人は、少しだけ笑った。
これから何が待っているのかは分からない。
魔王。
魔法。
見知らぬ世界。
すべてが現実離れしている。
それでも、完全な暗闇へ消えるよりはよかった。
フィリアが再び手をかざすと、結人を包む青い光が強まった。
「歓迎しよう、久世結人」
その声には、再び女神としての威厳が宿っていた。
「ここから先は、おぬしの二度目の時間じゃ」
懐中時計の蓋が閉じる。
小さな音とともに、結人の意識は新しい世界へ落ちていった。




