プロローグ ~止まった時計は一秒だけ進む~
久世結人は、時計を見ることに慣れていた。
午前七時十二分、起床。
七時四十五分、自宅を出る。
八時二十三分発の電車に乗り、九時十分までに受付を済ませる。
手帳に書き込んだ予定は、今日も隙間なく並んでいた。
企業説明会。適性検査。エントリーシートの提出期限。大学の就職支援課に出す書類。
一つ終われば、次が現れる。
決められた時間に、決められた場所へ行き、前もって用意した答えを話す。
そうしていれば、少なくとも立ち止まらずには済んだ。
「……よりによって今日かよ」
スーツの袖をまくり、結人は眉を寄せた。
昨日まで問題なく動いていた腕時計が、午前六時五十八分を指したまま止まっている。
軽く振ってみる。
裏側を指で叩いてみる。
もちろん、直らない。
スマートフォンがあれば時刻は分かる。
それでも面接中や受付の前で、何度も画面を取り出すのは落ち着かない。就職活動には腕時計があった方がいいと、誰かが言っていた気もする。
誰だったかまでは覚えていなかった。
結人は壊れた腕時計を机に置き、ネクタイを締めた。
鏡の中には、短く整えた黒い髪と黒い瞳の、どこにでもいそうな大学生がいる。
シャツに目立つしわはない。寝癖も直した。面接で聞かれそうなことは、昨夜のうちに頭へ入れてある。
志望動機。
自己PR。
入社後に挑戦したいこと。
十年後、どのような人間になっていたいか。
答えはすべて用意してあった。
どれも、それなりに正しく聞こえる言葉だった。
それが本当に自分の答えなのかは、よく分からない。
「まあ、いいか」
考え込んでいる時間はない、電車に乗り遅れてしまう。
結人は鞄を持ち、家を出た。
◇
駅前の大型家電量販店は、通勤客に合わせて朝早くから営業していた。
結人は一本早い電車を諦め、時計売り場へ足を向ける。
スマートウォッチ、高級腕時計、安価なクォーツ時計。
明るい照明の下に、商品が種類と価格帯ごとに整然と並んでいる。
高価なものを買うつもりはなかった。
今日を乗り切れればいい。
時刻が分かって、スーツから大きく浮かず、できれば安いもの。
それだけでよかった。
「懐中時計……?」
腕時計売り場の端に、小さな展示台があった。
手のひらに収まる銀色の懐中時計。
蓋には蔓草を思わせる細い模様が入り、中央には青いガラス飾りが埋め込まれている。
少し昔風の形をしているが、骨董品ではない。
磨かれた表面には傷もなく、鎖や留め具も新品らしい光沢を保っている。
展示台の札には、赤い文字が添えられていた。
――生産終了品・現品限り。
結人は手に取り蓋を開いた。
白い文字盤。
銀色の長針と短針。
細い秒針が、規則正しく一目盛りずつ進んでいる。
耳元へ近づけると、小さな音が聞こえた。
カチ。
カチ。
カチ。
珍しいというだけで、怪しいところはない。
値段も、話の種として買うにはぎりぎり許せる範囲だった。
「そちらは生産終了品で、最後の一点になります」
声を掛けてきた店員へ、結人は時計を差し出した。
「生産終了品ですので、同じ商品の在庫はございません。展示品ではありますが、動作には問題ありません」
店員は時刻を合わせ、動作を確かめてから結人へ返す。
「就活用なのですが、腕時計じゃなくても変には見えませんかね?」
「珍しくはありますが、落ち着いたデザインですし、問題ないと思いますよ」
「分かりました。それならこの時計をください」
面接で話題に困ったとき、時計の話くらいはできるかもしれない。
それに、銀色と青の組み合わせが個人的には気に入った。
そんな軽い理由で、結人は懐中時計を購入した。
会計を済ませ、店員から渡された鎖をスーツの内ポケットへ留める。
◇
店を出た時点で、次の電車までは残り七分。
結人は駅へ向かいながら、買ったばかりの懐中時計を開いた。
針は、購入時に合わせてもらった時刻を示している。
ただし。
「……止まってる」
秒針が、十二の少し手前で静止していた。
耳元へ近づけても、先ほどまでの音は聞こえない。
つまみを軽く動かす。
長針と短針は回ったが、秒針はぴくりともしなかった。
「現品限りって、こういう意味じゃないだろ」
返品へ戻る時間はない。
今日の予定が終わったら、店に持っていくしかなさそうだ。
結人は深く息を吐いた。
「大事な日に限って壊れるとか、本当に運がないな……」
電池切れか、接触不良か。
あるいは展示中に、たまたま寿命を迎えただけか。
大した問題ではない。時刻はスマートフォンで確かめればいい。
そのはずだった。
交差点の信号が青へ変わる。
駅へ急ぐ人々と一緒に、結人も横断歩道へ足を踏み出した。
何気なく、もう一度懐中時計を開く。
止まった文字盤の奥で、青い光が揺れた。
中央のガラス飾りに、朝日が反射したのではない。
淡い炎のように。
呼吸よりも短い、ほんの一瞬だけ。
「……今、光った?」
結人は、確かめようと時計を顔へ近づけた。
その直後。
鋭いブレーキ音が、朝の雑踏を切り裂いた。
誰かの悲鳴。
タイヤが路面を滑る音。
結人が顔を上げたときには、視界の端いっぱいに、制御を失った車体が迫っていた。
避けるという判断に至るより早く、世界が白く弾けた。
痛みは、ほとんど感じなかった。
衝撃とともに身体の感覚が消え、音だけが急速に遠ざかっていく。
自分が青い光に気を取られなければ、避けられたのだろうか。
それとも、あの光は危険を知らせようとしていたのか。
結人には、もう確かめる時間がなかった。
手から懐中時計が離れる。
銀色の蓋を開いたまま、朝の光の中をゆっくりと回った。
止まっていた秒針が、一目盛りだけ進む。
それが結人の見た、最後の光景だった。
何も成し遂げていない。
誰かを救ったわけでもない。
自分の未来さえ、はっきりとは決めていなかった。
なのに、時間だけが終わってしまう。
意識が暗闇へ沈む直前。
結人は初めて、自分自身へ問いかけた。
――俺は、何をしたかったんだろう。
答えは出なかった。
代わりに、闇の向こうから女の声が聞こえた。
「それを知りたいのなら、もう一度生きてみるかの?」
何年も前に書いた「異世界のお供に懐中時計はいかが!?」というお話のリメイク作品を予定しています。
色々な事情が重なり最後まで書ききれなかったお話を再構成し、新たな物語を書き起こそうと思いました。
旧作の面影を残しつつ、新約として別の世界線を意識していますので単純な書き直しではありません。




