第九話 ~名前は支配者の懐に~
結人は階段を駆け下りた。
宿の一階には、先ほどの騒ぎを聞きつけた宿の主人が立っている。
「どうしたんだい?」
「連れがさらわれました」
「え?」
「旅人組合へ行きます。部屋はそのままにしておいてください」
返事を待たず、結人は外へ出た。
走る。
胸元では、フィリアがアイリスの気配を追っている。
『まだ動いておる』
「方向は?」
『商館側じゃ。地下へ下りておるように感じる』
「分かった」
それ以上は聞かなかった。
人通りを縫い、旅人組合へ飛び込む。
受付には、今朝も応対してくれた女性がいた。
結人を見るなり、彼女は立ち上がった。
「ユウトさん。何かありましたか」
「アイリスが連れていかれました」
女性の表情が変わる。
だが、声は落ち着いていた。
「順番にお願いします」
「組合の使いを名乗る男が宿へ来ました。支部長からの伝言だって」
「特徴は」
「若い男。旅装。胸に組合章。形は本物と同じでした。でも、持ち主の魔力登録が通ってなかった」
女性の目が細くなる。
「登録のない組合章、ですか」
「はい。偽物だと気づいた途端、男が逃げました。追いかけたけど見失って、部屋へ戻るとアイリスはいなかった。窓から連れ出されたみたいです」
「連れ去られた際の痕跡は?」
「椅子が倒れてました。髪留めが窓に残ってた。あと、契約印を使って身体と声を抑えられてる可能性があります」
フィリアの名は出さない。
時計のことも話さない。
今必要なのは、組合が動ける事実だけだった。
「場所に心当たりはありますか」
「奴隷商館の地下です」
「根拠を伺っても?」
結人は青灰色の帳面を開いた。
「消えた人たちの契約印に、同じ古い記号がありました。複数の契約印を一つの魔力核へつなぐ術式らしいです。アイリスの印も同じ系統です」
「それで、地下にいると?」
「場所を確かめる手段があります。ただ、今は方法まで話せません」
女性の視線が結人へ戻る。
「俺が案内します。地下に魔力核があるか、組合の方にも確かめてもらえませんか」
受付の女性は帳面へ目を落とした。
「少々お待ちください」
奥へ消える。
待っている時間が長い。
数十秒のはずなのに、結人には何分にも感じられた。
『結人』
「分かってる」
『まだ生きておる』
「……うん」
それだけで、足を止めていられた。
やがて女性が戻ってくる。
その後ろには、片眼鏡の老人と、体格のいい男がいた。
老人は、今朝、行方不明者の照会に対応した組合の責任者だった。
男は短く刈った黒髪に、使い込まれた革鎧を着ている。
「ユウト・クゼ」
「はい」
「支部長のガルドだ」
男が名乗る。
「事情は聞いた。こちらで君へ使いを出した記録はない」
「じゃあ、完全に偽物ですね」
「そうなる」
ガルドは受付の女性を見る。
「人を選べ。外へ漏らすな」
「承知しました」
彼女はすぐに奥へ向かう。
「衛兵には?」
結人が聞く。
「信頼できる者へ連絡する。ただし、大人数で正面から商館へ入れば、地下にいる者を盾にされる恐れがある」
「俺もそう思います」
「だから、先に少人数で入口と人数を確認する」
ガルドの目が結人へ向く。
「君は場所が分かるのか」
「地下にいることまでは」
「なら同行してもらう。ただし勝手に走るな」
「……はい」
「返事が遅い」
「努力します」
ガルドはため息をついた。
「若い頃の俺みたいな返事をするな」
少しだけ、結人の肩から力が抜けた。
◇
組合から出たのは五人だった。
ガルド。
短槍を持つ女旅人。
弓を背負った男。
灰色の外套を着た組合付きの魔法使い。
そして結人。
衛兵は別方向から動く。
商館へ正面から踏み込まず、裏手の古い倉庫街を回る。
「ここです」
結人が足を止めた。
今朝、アイリスと帳簿を見た商館から、通りを二本隔てた場所。
使われていない染料倉庫が並んでいる。
古い木戸。
色の抜けた壁。
人の気配はほとんどない。
『下じゃ』
フィリアの声。
「地下です」
結人は自分の判断として言った。
灰色の外套の魔法使いが地面へ手を触れる。
「確かに。地下へ大きな魔力の流れがあります」
ガルドが短くうなずく。
「入口を探す」
倉庫の中へ入る。
染料の匂いはもうほとんど残っていない。
空の樽。
壊れた棚。
床には新しい靴跡があった。
「使われてない倉庫にしては、綺麗な足跡ですね」
結人が言う。
「同感だ」
弓の男が棚を動かすと、その下に鉄の輪が付いた床板が現れた。輪をつかんで引き上げると、地下へ続く階段が口を開ける。
「当たりだな」
ガルドが剣を抜いた。
「先頭は俺だ。ユウトは後ろへ」
「分かりました」
魔法使いが浮かべた小さな光を頼りに、一行は階段を下りた。湿った石壁に囲まれた通路は、思っていたより広い。
数十歩進んだところで、角から男が現れた。
「誰だ!」
男の目がガルドの組合章へ止まる。
「侵入者だ!」
男が剣を抜くと同時に、ガルドが踏み込んだ。金属音が一度響き、相手の剣が床へ落ちる。続いて、短槍の女が男の足を払った。
「声を出すなと言っても遅いか」
「急ぐぞ」
通路の奥から、複数の足音が近づいてきた。
結人も短剣へ手を掛けたが、前には出なかった。今の自分が、この四人より戦えるとは思わない。
角から現れた二人のうち、一人の肩を矢が射抜く。もう一人はガルドが止めた。
結人は壁際へ下がり、魔法使いの前を空ける。そのとき、視界の右端で杖が持ち上がった。
「右、もう一人!」
短槍の女が向き直り、男の手元へ槍を突き出した。杖が床へ落ちる。
「助かる」
「見えただけです」
通路を抜ける。
扉。
鍵が掛かっている。
ガルドが蹴破る。
その向こうにいた人々を見て、全員の動きが止まった。
十人以上。
壁際へ座らされている。
首や腕に契約印。
誰も声を出さない。
いや。
出せない。
「トマス?」
結人はアイリスから聞いた名前を口にした。
足を悪くしているという五十歳ほどの男。
一人が、わずかに顔を上げる。
アイリスの記憶にあった特徴と一致する。
「生きてた」
七人。
少なくとも、その一人はここにいる。
「他にも部屋がある」
弓の男が言う。
「先に核だ」
魔法使いの顔が険しい。
「この先から、かなり強い魔力を感じます」
『結人』
フィリアの声も重なる。
『近いぞ』
走る。
次の扉を開けた瞬間。
結人は、息を止めた。
◇
大きな部屋だった。
中央には、黒い金属と石を組み合わせた円柱状の装置が立っている。
表面を赤黒い光が走っていた。そのすぐそばの椅子に、青い服の少女が座っている。
「アイリス!」
結人は思わず、その名を呼んだ。
鎖で縛られてはいない。
椅子へ座らされ、両手を膝の上へ置いている。
ただし、自分からそうしているわけではない。
指一本動かせないように見えた。
顔を上げる。
結人と目が合う。
「……」
声は出ない。
『アイリス!』
フィリアが呼ぶ。
少女の瞳が、わずかに揺れた。
届いている。
完全には切れていない。
けれど、厚い壁を挟んだように遠い。
「ずいぶん早かったですね」
部屋の奥から声がした。
痩せた中年の男が、細い杖を手に立っていた。
アイリスの売買や、今朝の返金に応じた受付の職員とは別人だ。
「組合まで連れてくるとは思いませんでした」
ガルドが剣を向ける。
「魔力核から離れろ」
「それは困ります」
男は笑った。
「ここにいる者たちは、私の大事な商品ですから」
「人だろ」
結人の声が低くなる。
「書類上は商品です」
「名前もある」
「記録から消せば、ないのと同じです」
結人は男を見る。
「……なんだと?」
「身寄りがない。所有者も頻繁に変わる。移送記録は私たちが作る。そういう者は、帳簿から一行消せば誰も探さない」
男は肩をすくめる。
「名前も、家族も、帰る場所もない者です。いなくなったところで、最初から存在しなかったのと変わりません」
アイリスの目が、はっきりと男へ向いた。
怒っている。
声を奪われていても分かった。
「どうしてアイリスに命令できる。所有者は俺だろ」
「所有者記録なら、書き換えました」
「俺の同意なしに?」
「契約印には、以前の所有者の魔力がわずかに残ります」
男は杖を核へ向ける。
「それを写し、必要な形へ整える。少し手間はかかりますが、古い型なら難しくありません」
「偽造だろ」
「記録の上では、正しい譲渡になっていますよ」
ガルドが一歩進む。
「今から証拠ごと確保する」
「そう簡単には」
男が杖を振った。
魔力核が強く光る。
部屋の外から、何人もの息を詰める音が聞こえた。
アイリスの身体も震える。
「動くな!」
魔法使いが叫ぶ。
「核から複数の契約印へ命令が流れています!」
結人の視界に。
線が見えた。
赤黒い。
魔力核から伸び、アイリスの契約印へ刺さる一本。
その向こう。
壁を抜けて、さらに何本も。
一。
二。
十。
二十。
数え切れない。
『三十二』
フィリアが言った。
『アイリスを含め、三十二の契約印がつながれておる』
「三十二……」
男が結人を見る。
「見えるのですか?」
答えない。
別の線もあった。
アイリスから。
懐中時計へ。
細い。
淡い青。
赤黒い線に押しつぶされそうになりながら、それでも切れていない。
「アイリス」
結人が呼ぶ。
少女がこちらを見る。
「聞こえてる?」
ほんの少しだけ。
まぶたが動いた。
「嫌か」
男が眉をひそめる。
「何を聞いている」
結人は無視した。
「今、あいつに身体を動かされるのは」
アイリスの指が震える。
動けないはずの指が。
わずかに。
握られた。
拒絶。
答えは、それで十分だった。
『結人』
フィリアの声がする。
『おぬしの目に見えておるものをよく見よ』
「見てる」
『何と何を結んでおる』
「魔力核と、アイリスの契約印」
『何を運んでおる』
「命令」
『その関係を、アイリスは望んでおるか』
「望んでない」
胸元の懐中時計が熱を持った。
青い光が漏れる。
「何だ?」
ガルドが振り返る。
結人にも分からない。
ただ。
手を伸ばすべきだと思った。
右手へ光が集まる。
左手にも。
形になる。
細身の剣。
まっすぐな、青白い刃。
中心には、ごく細い実体のような光。
二振り。
片方だけが、わずかに長い。
普通の剣とは違う。
物を斬るためだけの形ではない。
『クロノワールド』
フィリアが、低くその名を告げた。
「これのことか?」
『そうじゃ。だが今は名などどうでもよい』
結人は二振りを構える。
赤黒い線を見る。
全部ではない。
まず一つ。
アイリスへ流れ込む命令。
アイリスが拒んでいる関係。
切るべき場所は、はっきりと見えていた。




