第十話 ~「嫌だ」は言っていい~
切るべき場所は、はっきりと見えていた。
魔力核からアイリスの契約印へ伸びる、赤黒い一本。
結人は右手の光刃を振った。
抵抗があった。
金属でも、肉でもない。
強く張られた糸へ刃を押し当てたような感触。
「っ……!」
押す。
青白い刃が、赤黒い線へ食い込む。
その瞬間。
頭の中へ線が持つ「意味」が流れ込んだ。
所有者の命令。
身体の拘束。
声の封印。
契約印を経由して、一時的に意思を押さえつけるための接続。
結人が今、理解している関係。
「いらないよな」
アイリスを見る。
少女の瞳が、まっすぐ結人を見返した。
答えは変わらない。
「じゃあ――切る」
二本目の光刃を重ねる。
赤黒い線が震えた。
そして。
切れた。
乾いた音はしなかった。
ただ、魔力の光が途中からほどけ、細かな粒になって消えていく。
「……っ!」
アイリスの身体が大きく傾いた。
「アイリス!」
結人が駆け寄る。
両手にあった二振りの光刃は、その意思を察したように同時にほどけた。
光となって消える。
空いた両腕で、倒れかけたアイリスを受け止めた。
「大丈夫?」
「……ご、主人……様」
かすれた声。
戻っている。
「よかった」
『アイリス、わらわの声は聞こえるかの?』
少女が小さくうなずく。
「……はい。まだ、少し遠いですが」
『それで十分じゃ』
結人はアイリスを床へ座らせる。
「契約印は?」
首元を見る。印は、まだ消えていない。
『断てたのは、魔力核から命令を流していた魔力線じゃ。契約そのものを消したわけではない』
「所有者の記録も?」
『残っておる』
「なら、あとでちゃんと手続きが必要か」
『そうなる』
「ずいぶん余裕ですね」
男の声。
結人が振り返る。
商館の男は、魔力核のすぐ横まで下がっていた。
杖の先が黒い装置へ触れている。
「一人を切り離しただけでしょう」
核が光る。
部屋の外から、苦しげな息が重なった。
「やめろ!」
「動かないでください」
男が笑う。
「ここには、まだ三十一人いる」
赤黒い線が壁の向こうへ伸びている。
アイリスの分が消えたことで、残りがかえって鮮明に見えた。
三十一。
「一斉に命令を流せば、どうなるでしょうね」
ガルドが足を止める。
短槍の女も動けない。
組合の魔法使いが、核をにらんだ。
「無理に破壊しないでください。契約印側へ反動が返る可能性があります」
「だったら線を切ればいい」
結人が言う。
胸元から光が集まりかける。
『待て』
フィリアが止めた。
「何で」
『おぬしは、今見えておる三十一本のすべてを理解しておるのか』
「アイリスと同じだろ」
『本当にそうかの?』
結人は黙る。
『見えることと、切ってよいことは同じではない』
「でも」
『アイリスの線を切れたのは、おぬしが何を断つかを理解し、アイリス自身の拒絶を確かめたからじゃ』
フィリアの声は厳しい。
『他の者を縛る線も、同じとは限らぬ。何を押しつけられ、何を拒んでおるのか。そこを確かめずに刃を入れるな』
「……本人の意思が要る」
『うむ』
男が笑う。
「本人の意思?」
杖を振る。
別室から声にならないうめきが聞こえた。
「彼らは話せませんよ」
「分かってる」
「身体も満足に動かせない。どうやって聞くつもりです?」
結人は答えられない。
アイリスが立ち上がろうとした。
「まだ座ってて」
「……いえ」
膝が震えている。
それでも机へ手をつき、身体を支える。
「皆さんは、嫌だと思っています」
男が鼻で笑う。
「それを君が決めるのですか?」
アイリスの顔が強張る。
机についた指へ、力がこもった。
「……答えられなくしているのは、あなたです」
声は震えていた。それでも、男から目をそらさなかった。
「何か、返事をもらう方法はないのか」
結人が魔法使いを見る。
灰色の外套の男は、魔力核へ視線を固定していた。
「……この形式」
「分かるんですか?」
「古い避難術式に似ています」
魔法使いはガルドの背後から、核の表面を見つめた。
「本来は、核から印へ呼びかけを届けるためのものです。印を持つ者が、助けを求める意思を返す経路もあるはずです」
「声を出せなくても?」
「ええ。ですが、奴隷制御へ流用するときに、戻りの経路を塞いだのでしょう」
『そうじゃ』
フィリアが小さく言う。結人は黙って続きを待った。
「塞いでいる術を完全に解くのは難しい。一時的に経路を開くことなら、できるかもしれません」
「やれそうですか?」
「時間をください」
魔法使いが杖を構え、術式を描き始めた。
商館の男が、核に向けていた杖を魔法使いへ振り上げた。
「させると思いますか」
その瞬間を、ガルドが逃さなかった。
踏み込んだ剣が杖を外へ弾く。杖の先から、火花のような魔力が散った。
「お前の相手はこっちだ」
短槍の女も横から迫り、男を核から引き離す。
男が杖を核へ向け直そうとするたび、剣と槍がそれを阻んだ。
弓の男は出口へ回り、逃げ道を塞いだ。
「ユウト!」
「はい!」
「そっちは任せた!」
「任せられた!」
『喜んでおる場合か!』
「喜んでない!」
結人は魔力核を見る。
三十一本の赤黒い線。
今は切れない。
なら。
返事を待つ。
◇
「開きます!」
魔法使いが叫んだ。
核の表面を走っていた赤黒い光の一部が、青白く変わる。
「長くは持ちません!」
「アイリス!」
「はい」
少女が核へ近づく。
「皆さん。アイリスです」
少女が核へ呼びかけた。
「助けに来ました。声を出さなくても、大丈夫です」
反応はない。
「動かされたくない、やめてほしい。そう思っているなら、その気持ちを返してください」
赤黒い線だけが脈打っている。
届いていないのか。
それとも、また命令されるのだと怯えているのか。
アイリスには分からない。
時間がない。けれど、急かす言葉は喉で止まった。
唇を噛み、小さく息を吸う。
歌い始めた。
歌詞のない、温かく静かな旋律だった。
子供を眠らせるときに歌うような、ゆっくりとした音。
「アイリス?」
結人が見ると、少女は目を閉じていた。
ときおり音が途切れる。次の音を探すように同じ節を繰り返し、また先へ進んだ。
『知ってる歌かの?』
「分かりません」
アイリスが歌の合間に答えた。
「昔……誰かが」
それ以上は思い出せないらしい。
けれど、次の息でまた歌い始めた。
魔力核の表面へ、青白い光が一筋流れる。
「何だ?」
結人が見る。
核からではない。
壁の向こうから。
一本の細い光が戻ってきている。
赤黒い魔力線の横を。
青白い線が走る。
「反応です」
魔法使いが息をのむ。
「契約印から、核へ返っている」
二本目。
三本目。
アイリスの歌が続く。
別室で。
声を封じられた誰かが、何かを返している。
言葉ではない。
明確な文章でもない。
それでも。
拒絶だと分かった。
嫌だ。
やめてほしい。
自分を勝手に動かすな。
そんな感情が、細い光になって戻ってくる。
「……増えてる」
十。
十五。
二十。
歌は続く。
アイリスの声は大きくない。
でも。
魔力線を通じて、一人ずつへ届いている。
二十八。
二十九。
三十。
「あと一人」
最後の線だけが、まだ赤黒いまま。
アイリスは歌を止めない。
途切れかけるたび、同じ節を繰り返す。
しばらくして。
かすかな光。
本当に弱い。
消えそうな青白い光が、最後の一本に沿って戻ってきた。
「トマス……?」
結人には、なぜかそう思えた。
確証はない。
けれど。
三十一本。
全部が返った。
赤黒い魔力線の横に。
青白い光が並んでいる。
『結人』
フィリアが言う。
今度は止めなかった。
『これは、あやつら自身の意思じゃ』
結人は両手を開く。
青白い光が集まる。
二振りの細身の光刃が、再び形を取った。
「じゃあ」
結人は三十一本の線を見る。
「始めようか」




