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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第一章 値札を付けられた少女は旅を選ぶ

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第十話 ~「嫌だ」は言っていい~

 切るべき場所は、はっきりと見えていた。

 魔力核からアイリスの契約印へ伸びる、赤黒い一本。

 結人は右手の光刃を振った。

 抵抗があった。

 金属でも、肉でもない。

 強く張られた糸へ刃を押し当てたような感触。

「っ……!」

 押す。

 青白い刃が、赤黒い線へ食い込む。

 その瞬間。

 頭の中へ線が持つ「意味」が流れ込んだ。

 所有者の命令。

 身体の拘束。

 声の封印。

 契約印を経由して、一時的に意思を押さえつけるための接続。

 結人が今、理解している関係。

「いらないよな」

 アイリスを見る。

 少女の瞳が、まっすぐ結人を見返した。

 答えは変わらない。

「じゃあ――切る」

 二本目の光刃を重ねる。

 赤黒い線が震えた。

 そして。

 切れた。

 乾いた音はしなかった。

 ただ、魔力の光が途中からほどけ、細かな粒になって消えていく。

「……っ!」

 アイリスの身体が大きく傾いた。

「アイリス!」

 結人が駆け寄る。

 両手にあった二振りの光刃は、その意思を察したように同時にほどけた。

 光となって消える。

 空いた両腕で、倒れかけたアイリスを受け止めた。

「大丈夫?」

「……ご、主人……様」

 かすれた声。

 戻っている。

「よかった」

『アイリス、わらわの声は聞こえるかの?』

 少女が小さくうなずく。

「……はい。まだ、少し遠いですが」

『それで十分じゃ』

 結人はアイリスを床へ座らせる。

「契約印は?」

 首元を見る。印は、まだ消えていない。

『断てたのは、魔力核から命令を流していた魔力線じゃ。契約そのものを消したわけではない』

「所有者の記録も?」

『残っておる』

「なら、あとでちゃんと手続きが必要か」

『そうなる』

「ずいぶん余裕ですね」

 男の声。

 結人が振り返る。

 商館の男は、魔力核のすぐ横まで下がっていた。

 杖の先が黒い装置へ触れている。

「一人を切り離しただけでしょう」

 核が光る。

 部屋の外から、苦しげな息が重なった。

「やめろ!」

「動かないでください」

 男が笑う。

「ここには、まだ三十一人いる」

 赤黒い線が壁の向こうへ伸びている。

 アイリスの分が消えたことで、残りがかえって鮮明に見えた。

 三十一。

「一斉に命令を流せば、どうなるでしょうね」

 ガルドが足を止める。

 短槍の女も動けない。

 組合の魔法使いが、核をにらんだ。

「無理に破壊しないでください。契約印側へ反動が返る可能性があります」

「だったら線を切ればいい」

 結人が言う。

 胸元から光が集まりかける。

『待て』

 フィリアが止めた。

「何で」

『おぬしは、今見えておる三十一本のすべてを理解しておるのか』

「アイリスと同じだろ」

『本当にそうかの?』

 結人は黙る。

『見えることと、切ってよいことは同じではない』

「でも」

『アイリスの線を切れたのは、おぬしが何を断つかを理解し、アイリス自身の拒絶を確かめたからじゃ』

 フィリアの声は厳しい。

『他の者を縛る線も、同じとは限らぬ。何を押しつけられ、何を拒んでおるのか。そこを確かめずに刃を入れるな』

「……本人の意思が要る」

『うむ』

 男が笑う。

「本人の意思?」

 杖を振る。

 別室から声にならないうめきが聞こえた。

「彼らは話せませんよ」

「分かってる」

「身体も満足に動かせない。どうやって聞くつもりです?」

 結人は答えられない。

 アイリスが立ち上がろうとした。

「まだ座ってて」

「……いえ」

 膝が震えている。

 それでも机へ手をつき、身体を支える。

「皆さんは、嫌だと思っています」

 男が鼻で笑う。

「それを君が決めるのですか?」

 アイリスの顔が強張る。

 机についた指へ、力がこもった。

「……答えられなくしているのは、あなたです」

 声は震えていた。それでも、男から目をそらさなかった。

「何か、返事をもらう方法はないのか」

 結人が魔法使いを見る。

 灰色の外套の男は、魔力核へ視線を固定していた。

「……この形式」

「分かるんですか?」

「古い避難術式に似ています」

 魔法使いはガルドの背後から、核の表面を見つめた。

「本来は、核から印へ呼びかけを届けるためのものです。印を持つ者が、助けを求める意思を返す経路もあるはずです」

「声を出せなくても?」

「ええ。ですが、奴隷制御へ流用するときに、戻りの経路を塞いだのでしょう」

『そうじゃ』

 フィリアが小さく言う。結人は黙って続きを待った。

「塞いでいる術を完全に解くのは難しい。一時的に経路を開くことなら、できるかもしれません」

「やれそうですか?」

「時間をください」

 魔法使いが杖を構え、術式を描き始めた。

 商館の男が、核に向けていた杖を魔法使いへ振り上げた。

「させると思いますか」

 その瞬間を、ガルドが逃さなかった。

 踏み込んだ剣が杖を外へ弾く。杖の先から、火花のような魔力が散った。

「お前の相手はこっちだ」

 短槍の女も横から迫り、男を核から引き離す。

 男が杖を核へ向け直そうとするたび、剣と槍がそれを阻んだ。

 弓の男は出口へ回り、逃げ道を塞いだ。

「ユウト!」

「はい!」

「そっちは任せた!」

「任せられた!」

『喜んでおる場合か!』

「喜んでない!」

 結人は魔力核を見る。

 三十一本の赤黒い線。

 今は切れない。

 なら。

 返事を待つ。


◇


「開きます!」

 魔法使いが叫んだ。

 核の表面を走っていた赤黒い光の一部が、青白く変わる。

「長くは持ちません!」

「アイリス!」

「はい」

 少女が核へ近づく。

「皆さん。アイリスです」

 少女が核へ呼びかけた。

「助けに来ました。声を出さなくても、大丈夫です」

 反応はない。

「動かされたくない、やめてほしい。そう思っているなら、その気持ちを返してください」

 赤黒い線だけが脈打っている。

 届いていないのか。

 それとも、また命令されるのだと怯えているのか。

 アイリスには分からない。

 時間がない。けれど、急かす言葉は喉で止まった。

 唇を噛み、小さく息を吸う。

 歌い始めた。

 歌詞のない、温かく静かな旋律だった。

 子供を眠らせるときに歌うような、ゆっくりとした音。

「アイリス?」

 結人が見ると、少女は目を閉じていた。

 ときおり音が途切れる。次の音を探すように同じ節を繰り返し、また先へ進んだ。

『知ってる歌かの?』

「分かりません」

 アイリスが歌の合間に答えた。

「昔……誰かが」

 それ以上は思い出せないらしい。

 けれど、次の息でまた歌い始めた。

 魔力核の表面へ、青白い光が一筋流れる。

「何だ?」

 結人が見る。

 核からではない。

 壁の向こうから。

 一本の細い光が戻ってきている。

 赤黒い魔力線の横を。

 青白い線が走る。

「反応です」

 魔法使いが息をのむ。

「契約印から、核へ返っている」

 二本目。

 三本目。

 アイリスの歌が続く。

 別室で。

 声を封じられた誰かが、何かを返している。

 言葉ではない。

 明確な文章でもない。

 それでも。

 拒絶だと分かった。

 嫌だ。

 やめてほしい。

 自分を勝手に動かすな。

 そんな感情が、細い光になって戻ってくる。

「……増えてる」

 十。

 十五。

 二十。

 歌は続く。

 アイリスの声は大きくない。

 でも。

 魔力線を通じて、一人ずつへ届いている。

 二十八。

 二十九。

 三十。

「あと一人」

 最後の線だけが、まだ赤黒いまま。

 アイリスは歌を止めない。

 途切れかけるたび、同じ節を繰り返す。

 しばらくして。

 かすかな光。

 本当に弱い。

 消えそうな青白い光が、最後の一本に沿って戻ってきた。

「トマス……?」

 結人には、なぜかそう思えた。

 確証はない。

 けれど。

 三十一本。

 全部が返った。

 赤黒い魔力線の横に。

 青白い光が並んでいる。

『結人』

 フィリアが言う。

 今度は止めなかった。

『これは、あやつら自身の意思じゃ』

 結人は両手を開く。

 青白い光が集まる。

 二振りの細身の光刃が、再び形を取った。

「じゃあ」

 結人は三十一本の線を見る。

「始めようか」


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