第十八話 ~目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ~
白音が町へ来たのは、山で別れてから三日後だった。
宿の扉が開き、白い髪の少女が顔を出す。
ちょうど階段を下り終えた結人と目が合うと、少女は手にしていた紙を下ろした。
「ここで、合うておるな」
「うん。いらっしゃい」
「来たぞ」
「待ってた」
白音は少しだけ口元を緩め、それから袖の中へ紙をしまった。
耳も尾も隠している。
行き交う人から見れば、白い髪が少し珍しい、旅の少女なのだろう。
宿の主人が顔を出したので、結人は山で知り合った客だと伝えた。
「皆、上にいるよ」
「脚は、もうよいのかや」
「前よりはね。階段で止まらなくてもよくなった」
「そうか」
白音はそれだけ答え、結人の後ろへついた。
歩く速さを合わせてくれているのが、振り返らなくても分かった。
部屋の扉を開けると、リンの耳が立った。
「白音なの!」
「名を忘れられておらなんで、何よりじゃ」
「忘れないの」
白音は部屋へ入り、扉が閉まるのを待ってから、小さな包みを取り出した。
差し出した先は、アイリスだった。
「借りておった布じゃ。遅くなったな」
「ありがとうございます」
洗って畳まれた布を受け取り、アイリスが笑う。
白音は頷き、次に結人の方を見た。
結人は時計を取り出して、机へ置いた。
蓋を開く前に、声がした。
『白音。来たか』
白音の目が、時計へ向く。
「うむ」
『道は分かったかの』
「そのための紙を貰うておったからな」
結人が蓋を開くと、文字盤の上にフィリアが姿を現した。
膝を抱えて座り、白音を見上げている。
白音もその顔を見た。
しばらく見てから、机のそばの椅子へ腰を下ろす。
「今日こそ、菓子の店へ案内してくれ」
「そのために来たんだ」
「それも、用の一つじゃ」
白音は澄ました顔で答えた。
リンが結人を見る。
「リンも行くの」
「うん。休みながらね」
「分かってるの」
アイリスも、畳んだ布を荷物へしまった。
「その前に、組合へも寄りますか?」
「そうしようか。白音が来るかもしれないって、マレナには話してある」
結人が言うと、白音は頷いた。
「童も、一つ確かめたいことがある」
「何?」
「山のことじゃ」
それ以上、白音は言わなかった。
結人も、その場では聞かなかった。
◇
組合には、すでに地図と白音の返事を届けてあった。
住処を守る範囲。近づく者には、まず声をかけること。退く者の道を塞がないこと。
傷つけた人たちへの言葉も、皿の修理を断ったことも伝えた。
再び力を乱したことは、隠さなかった。
フィリアのことは伏せたが、白音自身が火を止めようとしていたことと、収まったあとは自分で火を消し、川まで送り届けてくれたことを話した。
マレナはその経緯も書き留め、山の作業を止めたまま、約束を現場へ伝える手配を進めてくれた。
白音を見つけると、マレナは手元の書類を置いて立ち上がった。
「来てくださったんですね」
「うむ。少し、よいか」
「もちろんです」
机へ案内されると、白音は椅子へ座る前に地図を見た。
あの神社がある。
裏手の洞も、岩場の位置も、書き加えられていた。
その周囲には、広い線が引かれている。
「現場で使う地図にも、写しました」
マレナが説明した。
「こちらには、工事の予定を入れません。麓の分かれ道にも、住人がいることを知らせる札を立てています」
「……そうか」
白音の指が、神社の印のそばで止まった。
「童が、留守にしておってもか」
マレナは白音を見た。
「はい」
「しばらく、山を離れたとしても?」
「留守だからと、予定を元へ戻すことはありません。白音さんが帰る住処として、伝えています」
白音は黙った。
地図を見たまま、少しだけ顎を引く。
「ならば、よい」
「長く出かける予定ですか?」
「まだ、決めてはおらぬ」
白音は答え、地図から手を離した。
「確かめておきたかっただけじゃ」
マレナはそれ以上尋ねなかった。
代わりに、結人たちが届けた言葉を、山で働いていた人たちへ伝えたことを話した。
傷の手当てを続けている者がいることも、仕事へ戻るにはまだ時間のかかる者がいることも。
白音は口を挟まずに聞いていた。
最後に、静かに頭を下げた。
「伝えてくれたこと、礼を言う」
「返事があれば、お知らせします」
「うむ」
机を離れる前に、リンが家族のことを尋ねた。
マレナは別の紙を確かめたが、首を横に振った。
まだ、確かな知らせは来ていなかった。
「引き続き、聞いておきます。町を出る時は、次に向かう場所を教えてください」
「うん」
リンは頷いた。
組合の外へ出ると、少しの間、誰も話さなかった。
通りの向こうでは、荷車から石を下ろしていた。
最初にこの町へ着いた時、途中で途切れていた土台へ、職人が一つずつ石を合わせている。
「届いたんだな」
結人が呟くと、アイリスもそちらを見た。
「川下から運んできた石でしょうか」
「たぶん」
白音は、作業の様子を見ていた。
石を受け取る人と、置く場所を指す人。
その隣では、別の男が木材を削っている。
「……忙しい町じゃな」
「来た時から、ずっとこんな感じ」
結人は答えた。
「全部できるまでには、まだかかりそうだけど」
「そうであろうな」
白音はしばらく見てから、視線を戻した。
「それで、菓子の店はどちらじゃ」
リンの耳が、少し上を向く。
「あっちなの」
「案内を頼めるかや」
「任せるの」
リンは歩き出した。
駆け出さず、皆がついてこられる速さで。
白音もその隣へ並んだ。
パン屋には、焼けたばかりのものが並んでいた。
扉の近くまで来ると、温かい匂いが通りへ流れてくる。
白音は店先で足を止め、棚を上から下まで眺めた。
「山へ持ってきたのは、どれじゃ」
「これ」
結人が指すと、白音はその隣にも目を向けた。
木の実を入れたものと、蜜を塗ったものがある。
「こちらは、別の味か」
「そうだね。俺もまだ食べてない」
「では、それも見せてもらおう」
白音は店の人へ声をかけた。
値段を聞き、日持ちするかを尋ね、包めるものを選んでいく。
リンがその横から棚を覗いた。
「こっちは、肉が入ってるの」
「それは菓子ではなかろう」
「でも、ここの店なの」
「それは見れば分かる」
アイリスが小さく笑った。
結人は皆が選んだものをまとめて頼み、代金を渡した。
包みを受け取ろうとすると、白音が一つを手に取る。
「これは、童が持つ」
「助かる」
白音は頷き、落とさないよう両手で抱えた。
宿へ戻って包みを開くと、白音は菓子を分け始めた。
結人へ一つ。
アイリスとリンにも一つずつ。
自分の前にも置き、最後の一つを時計のそばへ運んだ。
『わらわの分もあるのか』
「初めから数えておけば、揉めずに済むであろう」
『前も、別に揉めてはおらぬ』
「パンの大きさで文句を言うたのは、どこの神様じゃ」
『おぬしが言うたのであろう!』
「ねえさまが、大きい方を取るからじゃ」
結人は自分の菓子を見下ろした。
今日は、どれも同じくらいの大きさだった。
その日の白音は、日が傾く前に山へ帰った。
帰り際には、次に来てもよいかと聞かなかった。
「また来る」
そう言って、宿の前で手を上げた。
結人も手を上げて見送った。
◇
白音は、二日後にまた来た。
その次にも来た。
毎回、同じものを買うわけではなかった。
菓子の袋を持っていることもあれば、何も持たずに現れることもある。
リンが食堂で待っていると、そのまま隣へ座った。
アイリスが荷物を繕っている時には、話しながら糸の先を押さえた。
結人が地図を広げていれば、どこへ行くつもりなのかと覗き込んだ。
時計から声がすれば、いつもの調子で言い返す。
ただし、それは扉を閉めた部屋の中でだけだった。
宿の主人も、白い髪を見つけると、上にいるよと教えてくれるようになった。
その間に、皆の怪我も少しずつよくなった。
結人は脇腹を押さえずに荷物を持てるようになり、アイリスも左腕を使う時のためらいが減った。
リンは杖を置いて、宿の前の通りを歩いた。
戻ってきた時、耳が少し得意げに立っていた。
「走ってないの」
「見てた」
結人が答えると、リンは頷いた。
「ちゃんと歩いたの」
「うん」
アカツキも、その足元を歩いていた。
毛並みに残った跡はまだ消えていなかったが、肩をかばうことは少なくなっていた。
やがて、長い道は休みながら歩くという条件で、旅を続けてもよいと言われた。
結人たちは、そのことを白音にも話した。
「そろそろ、町を出るつもり」
地図を広げながら言うと、白音は頷いた。
「次の町でも、家族のことを聞くのであろう」
「うん」
リンが答えた。
「この先も、道に沿って行くの?」
「まずはそうするつもり。組合のある町を回って、話を聞こうと思ってる」
結人が指で道をたどる。
白音も、その先を見た。
「そのあとは?」
「聞けた話によるかな。今は、そこまで」
「……そうか」
白音は地図から目を上げた。
何か考えているようだったが、その日はそれ以上尋ねなかった。
帰り際、宿の扉の前で足を止める。
「出発は、いつにする」
「三日後くらい。前の日には荷物をまとめておくつもり」
「分かった」
白音は頷いた。
「その前に、もう一度来る」
「うん」
結人が返事をすると、白音は町の外へ向かって歩き出した。
◇
約束した日の昼過ぎ、扉を叩く音がした。
「おるかや」
「いるよ。どうぞ」
入ってきた白音は、小さな包みを持っていた。
菓子の袋よりは大きい。
けれど、結人たちの旅荷物と並べると、ずいぶん小さく見えた。
「今日は、荷物があるんだ」
「うむ」
白音は包みを床へ置いた。
結び目を一度確かめてから、結人を見る。
「旅の支度じゃ」
結人の手が止まった。
リンが顔を上げ、アイリスも畳んでいた布を膝へ置く。
アカツキが目を開いた。
机の上では、蓋を開けた時計から、フィリアが白音を見ていた。
白音は一人ずつの顔を見た。
最後に結人へ視線を戻す。
「童も、一緒に行きたい」
静かな声だった。
結人は白音を見返した。
白音は目を逸らさなかった。
「おぬしらと、旅をしたい」
「……うん」
結人は頷き、リンとアイリスを見た。
「二人は、どう?」
「リンは、一緒がいいの」
返事は早かった。
「白音の知らない道も、教えるの」
「おぬしが通ってきた道か」
「うん」
「それは、助かる」
白音が答えると、リンの尾が揺れた。
アイリスも頷く。
「わたくしも、白音さんに来ていただけると嬉しいです」
「そうか」
「はい」
白音の指が、包みの紐から離れた。
アカツキが身体を起こす。
「ゆっくり歩く旅だぞ」
「知っておる。帰り道で、よう分かった」
「ならば、よい」
白音が少し笑った。
結人も笑い、もう一度頷いた。
「じゃあ、一緒に行こう」
白音は息を吐いた。
長く止めていたわけではないのだろう。
それでも、そのあとで肩が少し下がった。
目が、時計へ向く。
「ねえさまは」
フィリアが、文字盤の上で姿勢を直した。
『うむ。一緒に行こう』
白音はしばらく、その顔を見ていた。
それから、小さく頷いた。
「……うむ」
結人は床の包みへ目を落とす。
「神社の方は、大丈夫?」
「戸は閉めてきた。持っていくものも、選んだ」
「残りは?」
「置いてきた」
白音は当然のように答えた。
「留守にするだけじゃ。戻る場所まで、畳んで持ってくることはあるまい」
結人は、組合で見た地図を思い出した。
住人がいると書かれた神社。
その周囲に、工事を入れないと決めた線。
白音が出かけても、それは消えない。
「そっか」
結人は頷いた。
「じゃあ、今日は宿に泊まろう。部屋を頼んでくる」
「うむ」
「明日は朝から出るつもりだけど、荷物はそれで足りる?」
白音が、自分の包みを見る。
「足りぬものがあれば、途中で揃える」
アイリスが少し身を乗り出した。
「でしたら、今のうちに一緒に見てもよろしいですか。皆で使えるものもありますから」
「構わぬ」
白音は結び目をほどいた。
布や身の回りの道具が、少しずつ机へ並ぶ。
リンもそばへ寄り、持っていく食べ物の話を始めた。
アカツキが、その中から毛の手入れに使うものを見つけて鼻先を寄せる。
白音が説明し、リンが自分たちの櫛と見比べた。
結人は扉へ向かいかけ、少しだけ足を止めた。
白音の荷物は、もう彼女の前だけには収まっていなかった。
アイリスの布の隣に置かれ、リンの食料の包みと並び、皆で使う道具を挟んでいる。
「ご主人様?」
アイリスに呼ばれ、結人は顔を上げた。
「何でもない。部屋、頼んでくる」
宿の主人へもう一部屋を頼み、その夜の食事も一人分増やしてもらった。
白音が自分の部屋へ荷物を置きに行っている間に、結人は出発の予定を組合へ知らせた。
白音も同行することを伝えると、マレナは少し驚いた顔をした。
それから頷き、次の町の名前を書き留めた。
「山のことは、こちらで引き継いでおきます」
「お願いします」
「ご家族の情報が入ったら、向かう先へ知らせを送りますね」
「ありがとう」
結人は礼を言い、宿へ戻った。
食堂では、椅子が一つ増えていた。
白音はそこへ座り、リンに皿の中身を説明されている。
結人を見つけると、空いている席の方へ顔を向けた。
「遅いぞ。冷める」
「今、来た」
結人は椅子を引き、皆と同じ卓についた。
◇
出発の朝、宿の前には木を運ぶ荷車が停まっていた。
結人たちは通りを塞がないよう端へ寄り、荷物を背負い直した。
リンは両足を地面へ置き、靴の紐を確かめる。
アイリスは水袋の口を締め、白音は小さな包みを肩へ掛けた。
アカツキは今日も、町の中では子犬ほどの姿だった。
宿の主人が、戸口から手を上げる。
「気をつけておいで」
「お世話になりました」
結人が頭を下げると、皆もそれぞれ挨拶をした。
白音も一度、宿の扉を振り返った。
それから、結人たちの方へ向き直る。
「行こうか」
「うん」
通りでは、もう仕事が始まっていた。
槌の音がする。
材木を受け渡す声がする。
来た時には枠だけだったところへ、壁が増えていた。
まだ屋根のない家も、石の足りない土台も残っている。
その間を、別の場所から石を積んできた荷車が通っていった。
白音は少し足を緩め、荷車を先へ行かせた。
結人も隣で待った。
車輪が通り過ぎると、また歩き出す。
町の外へ出て、屋根が木立の向こうへ隠れるまで、白音は人の姿のままだった。
ほかに人影がないのを確かめてから、白い耳が現れる。
九本の尾が、ふわりと広がった。
「白音、そっちの尻尾、踏みそうなの」
リンが足を止めた。
「おっと」
白音が尾を寄せる。
空いたところをリンが通り、その隣へ並んだ。
アカツキも大きな姿へ戻り、ゆっくりと身体を伸ばす。
結人は肩紐を直して、皆を見た。
「今日は、早めに休む場所を探そう。無理して先まで行かなくていいから」
「分かったの」
「はい」
「童も、異存はない」
白音が答えた。
その目が、一度だけ山の方へ向く。
社は、ここからでは見えない。
けれど、どちらへ戻ればいいかは分かっているのだろう。
白音はほどなく前を向いた。
「ねえさま」
『何じゃ』
「行くぞ」
『うむ』
白音が一歩を踏み出す。
結人もその隣へ並んだ。
白い尾が歩くたびに揺れ、皆の足音に、もう一人分の音が重なった。




