第十七話 ~白い狐は神様に文句を言う~
白音が顔を上げたのは、しばらくしてからだった。
赤い目でフィリアを見て、それから、掴んでいた袖へ視線を落とす。
「……濡らしてしもうた」
「乾く」
フィリアの返事は短かった。
白音は何か言いかけ、結局、小さく息を吐いた。
アイリスが荷物から布を取り出す。
「よかったら、こちらを」
差し出されると、白音は一瞬だけ迷った。
それから、自分でフィリアの手をほどき、布を受け取った。
「……借りる」
「はい」
白音が目元を押さえている間に、フィリアが膝を動かした。
立とうとしたのか、座り直そうとしたのか。
どちらにしても、身体がわずかに揺れた。
「ねえさま」
「何じゃ」
「休んでおれ」
「座っておるであろう」
「今、立とうとした」
「姿勢を直しただけじゃ」
白音は布を下ろし、じっと見た。
フィリアも見返す。
先に目を逸らしたのは、神様の方だった。
「……少し、休む」
「そうせよ」
結人は、そこでようやく肩の力を抜いた。
足元には、まだ濡れた土と、薄くなっていく氷がある。
アカツキはそのそばへ伏せていた。リンも腰を下ろしたまま、右脚の置き場を直している。
「リン。帰り、どうかな」
結人が聞くと、紅い耳が動いた。
リンは空を見上げ、石段の向こうへ目を向ける。
「そろそろ、支度はした方がいいの」
「うん」
「でも、急いで歩くのは駄目なの」
「分かってる」
川辺では馬車が待っている。
それを忘れるわけにはいかなかった。
結人が荷物へ手を伸ばすと、白音がこちらを見た。
「帰り道で、食べるつもりのものはあるのかや」
「パンと、干し肉なら」
「ならば、今のうちに少し食べていけ。歩きながらでは、休んだことにならぬ」
「……そうだね」
結人は座り直した。
急いで立ち上がる理由を探していたのは、自分も同じだったらしい。
荷物から食べ物の包みを取り出す。
アイリスがそばの石を拭き、そこへパンを並べた。
四つだった。
リンが数え、フィリアを見る。
「今は、五人なの」
結人もフィリアを見た。
フィリアは少し眉を寄せる。
「なぜ、そこでわらわを見る」
「いつものつもりで持ってきたから」
「わらわとて、腹は減るぞ」
「減るのは知ってるんだけど」
時計へ供えれば、味と香りは渡せる。
けれど、食べ物そのものは残る。
今日は、その神様が目の前に座っていた。
「分ければよかろう」
フィリアが言った。
白音も頷く。
「うむ。童は、ねえさまと分ける」
そう言って、パンを一つ取った。
フィリアが手を出す。
「わらわが割ろう」
「大きさを、揃えるのじゃぞ」
「分かっておる」
ぱきりと、焼けた表面が割れた。
フィリアは片方を白音へ渡し、残りを自分の方へ引き寄せる。
白音が二つを見比べた。
「ねえさま」
「何じゃ」
「そちらが大きい」
「気のせいじゃ」
「並べてみよ」
「そこまでせずともよかろう」
「では、そちらを童に寄越せ」
フィリアの手が止まった。
結人は笑いそうになり、先に脇腹へ手を当てた。
白音がそれに気づいて、こちらを見る。
「おぬしも、そう思うであろう」
「うん。並べなくても分かる」
「ほれ」
白音が手を差し出す。
フィリアはしばらくパンを見ていたが、やがて大きい方の端を少しちぎり、白音の分へ載せた。
「これでよかろう」
「初めから、そうすればよい」
「おぬしは細かいのう」
「ねえさまが大雑把なのじゃ」
そのまま二人が、ほとんど同時にパンをかじった。
結人は顔を伏せた。
紙芝居の老人は、確かに言っていた。
三日三晩喧嘩をしたあと、四日目には一緒に飯を食っていた、と。
今なら、その絵が少しよく分かる。
「何を笑っておる」
フィリアが言った。
「いや。二人とも、ちゃんと食べるんだなって」
「口に入れておるのじゃから、当たり前であろう」
「そうなんだけどさ」
神様の手の中で、パンが少しずつ小さくなっていた。
結人はそれを見てから、自分の分をかじった。
少し硬い。
けれど、噛んでいるうちに甘みが出た。
「肉も分けるの」
リンが干し肉を取り出す。
自分の分を確保してから、白音の方へ差し出した。
「さっきのも、まだ食べておらぬぞ」
「じゃあ、そっちを先に食べるの」
「分かった」
アカツキが鼻先を上げると、リンはそちらにも手を伸ばした。
「アカツキのもあるの」
「有り難い」
白銀の狼は素直に受け取った。
リンが、その頭を軽く撫でる。
誰かが食べている音がする。
器を置く音もする。
結人はパンを飲み込み、残っていた茶を口に含んだ。
冷めていたが、喉を通るのが気持ちよかった。
白音も少しずつ食べていた。
時々、フィリアの手元を見る。
そのたびに、神様が何か言いたそうな顔をするので、白音も負けずに見返した。
やがて、白音が口を開いた。
「ねえさま。一つ、言うておくぞ」
「何じゃ。まだパンの話か」
「違う」
白音は残りを膝の上へ置いた。
「この山へ来た時も、時計の中におったのじゃろう」
「……うむ」
「ひと言くらい、名を呼んでくれればよかったのじゃ」
フィリアの手が止まった。
白音は、その顔を見ていた。
「童には、分からなんだ。ねえさまがおるなど、思いもしなかった」
「合わせる顔がないと、思うておった」
低い返事だった。
白音は目を伏せた。
少し考え、それから顔を上げる。
「それを、童が察するのは無理じゃ」
「……そうじゃな」
「顔が出せぬなら、せめて声を出せ」
フィリアが白音を見た。
白音はまっすぐ見返した。
「来ておるなら、来ておると言え。童が気づくまで、黙っておるでない」
フィリアは、ゆっくり頷いた。
「次は、声をかける」
「うむ。それから」
「一つではなかったのか」
「同じ話じゃ」
白音は懐中時計へ目を向けた。
開いたままの時計が、石の上に置かれている。
「その中へ戻る時も、童に言え。姿が見えなくなる前に」
「分かった」
「今、戻るつもりなら、今言うのじゃぞ」
「まだ戻らぬ。まずは、これを食べる」
フィリアがパンを持ち上げた。
白音はそれを見て、頷いた。
「ならば、よい」
自分も残りを口へ運ぶ。
それ以上、問い詰めることはしなかった。
結人も、間へ言葉を入れなかった。
パンを食べ終えると、アイリスが包みを畳んだ。
リンは足元に落ちた食べかすを拾い、アカツキへ見せている。
「これは食べるの?」
「それくらい、おぬしが食べればよかろう」
「地面に落ちたの」
「それを私へ渡そうとするな」
「アカツキなら平気かと思ったの」
「平気かどうかの話ではない」
白音が、小さく笑った。
フィリアも笑った。
結人は二人を見てから、水の残りを確かめた。
帰り支度は、少しずつ進んだ。
紙と地図をしまい、食べ物の包みを戻す。使った布をまとめると、白音が自分の器へ手を伸ばした。
「川までは、童も送ろう」
結人が顔を上げる。
「休んでなくて、平気?」
「ゆっくり行くならな。送ったあとは、戻って休む」
白音はリンの脚へ目を向けた。
「帰りは、童が乗せよう。狼も、少し休ませてやれ」
アカツキが白音を見る。
「よいのか」
「背は空いておる」
「……では、少し世話になる」
白音は頷いた。
リンはアカツキと白音を交互に見てから、杖を握り直す。
「跳ばないでほしいの」
「跳ばぬ」
「坂も、ゆっくりなの」
「分かっておる」
「なら、お願いするの」
白音はもう一度頷き、器を片付けに立った。
フィリアも身体を動かしかける。
白音が振り返った。
「ねえさまは、座っておれ」
「まだ何もしておらぬ」
「しそうな顔をしておった」
「顔で決めるでない」
結人は荷物の紐を結びながら、少し笑った。
白音が器を片付けて戻ってくると、フィリアが呼びかけた。
「白音」
「何じゃ」
「そろそろ、時計へ戻る」
白音の足が止まった。
フィリアの顔を見て、それから時計を見る。
少しの間を置いて、頷いた。
「分かった。休むのじゃぞ」
「うむ」
結人は時計を手に取った。
フィリアの姿が、淡い光へ変わっていく。
白い袖が薄れ、長い髪がほどけ、光が文字盤へ収まった。
白音はその様子を見ていた。
手を伸ばして追おうとはしなかった。
『戻ったぞ』
時計から声がした。
白音の耳が、そちらへ向く。
「見ておった」
『知らせろと言うたであろう』
「戻る前に、とは言うた」
『戻ったあとも知らせて、何が悪い』
「悪いとは言うておらぬ」
結人は、時計を持ったまま二人のやり取りを聞いた。
白音がこちらを見る。
「閉じてよいぞ。ねえさまも、休むのであろう」
「うん」
蓋を閉じ、胸元へ戻す。
白音はその位置を一度確かめてから、社へ向き直った。
戸の前で足を止め、手を添える。
振り返れば、畳んだ布も、片付けた器も、元の場所にある。
社の前には、自分たちが座っていた跡が残っていた。
「……では、少し出てくる」
小さく言って、白音は石段の方へ歩いた。
◇
白い狐は、ゆっくり歩いた。
リンと、子犬ほどの姿になったアカツキを背へ乗せ、根の少ないところを選んで進んでいく。
九本の尾は、後ろを歩く結人たちへ当たらないよう、少し持ち上げられていた。
「枝があるの」
リンが言う。
「見えておる」
白音が背を低くした。
リンも身体を伏せ、枝の下をくぐる。
「今の、上手なの」
「童の方が、ここの木には詳しい」
「そうなの」
リンは素直に頷いた。
結人はその後ろを歩いた。
前へ進むたび、社が遠くなっていく。
足を置いたところには土があり、木の根があり、踏めば小さく沈む落ち葉があった。
白音が選ぶ道は、遠回りになるところもあった。
けれど、そのたびに坂が緩くなり、足元が歩きやすくなる。
「助かる」
結人が言うと、白音が少し首を向けた。
「まだ痛むか」
「歩くのは平気。急ぐと、ちょっと」
「ならば、急ぐでない」
「うん」
白音は歩調を変えなかった。
少し先で、リンが背の上から木立を見回す。
「川の音、近くなってきたの」
「そうじゃな」
「もう少しなの」
その声を聞いて、結人は木の間へ目を向けた。
行きにも聞いた川の音だった。
今度は、白い背が迷わずそちらへ進んでいく。
途中で一度休み、また歩いた。
アイリスが水を渡してくれた時には、結人も素直に受け取った。
白音はその間、何も言わずに待っていた。
◇
木立の向こうに、馬車の幌が見えた。
まだ人目につかないところで、白音が伏せる。
アカツキが先に降り、リンも杖を受け取って、ゆっくり足を下ろした。
白い狐の姿が変わる。
長い白髪と赤い瞳を持つ少女が立ち上がり、耳と尾も、人の目には見えなくなった。
「童は、ここまでじゃ」
「ありがとう。ずいぶん楽に帰ってこられた」
結人が言うと、白音は軽く首を振った。
「無事に帰してやるくらいは、せねばな」
そう言ってから、少し黙った。
結人も、その場を離れずに待った。
「……結人」
「何?」
「礼を言う」
白音はまっすぐこちらを見た。
「ねえさまの剣を、止めてくれたこと。それから、もう一度、その剣に頼んでくれたこと」
結人は白音を見返した。
赤い目は、もう伏せられていなかった。
「うん。間に合ってよかった」
「怖くは、なかったのかや」
「怖かったよ」
結人は答えた。
「最初も、さっきも」
白音の指が、袖の端へ触れる。
結人は続けた。
「でも、さっきは白音が止めようとしてるのが分かったから」
「……そうか」
「怪我したことは、まだ困ってる。リンの脚も、俺の脇腹も、早く治ってほしいし」
「うむ」
「それでも、白音が助かってよかったって思ってる。それは、本当」
白音はしばらく、何も言わなかった。
やがて、袖から手を離す。
「……覚えておく」
「うん」
川辺で、馬が鼻を鳴らした。
アイリスがそちらへ目を向け、それから白音へ向き直る。
「また、お借りした布などがありましたら、お返しに来ますね」
「布は、おぬしが貸してくれた方じゃ」
「あ……そうでした」
アイリスが自分の荷物を見て、少し頬を赤くした。
白音は小さく笑った。
「洗って、取っておく」
「ありがとうございます」
「それで」
白音の視線が、結人へ戻る。
「先ほどの甘い菓子は、町の店で買うたのじゃな」
「うん。宿の近くのパン屋」
「あれも、パンの店にあるのか」
「あるよ。ほかにも、何種類か並んでた」
白音は少し考えた。
木立の間から見える道へ目を向ける。
「そなたらは、まだ町におるのかや」
「もう少し休むつもり。組合にも、返事を届けないといけないし」
「そうか」
白音は頷いた。
それから、もう一度結人を見る。
「童が、訪ねてもよいか」
結人はすぐに頷いた。
「もちろん。来てくれるなら、宿の場所を教えておくよ」
「……うむ」
アイリスが紙を取り出した。
「門からの道も書いておきますね」
紙の端へ、短く道順を書き添える。
白音は受け取り、宿の名と、通りの名前を確かめた。
「買い物なら、リンも行くの」
リンが言った。
「食べ物を見るの、得意なの」
「菓子もか」
「肉は得意なの」
「菓子の話をしておる」
「肉もあるの」
白音はリンを見た。
リンも、当然のように見返す。
先に笑ったのは、白音だった。
「……では、そちらも見ようかのう」
「うん」
結人は、白音が紙を畳むのを見ていた。
今までは、こちらから知らせを持って山へ上がっていた。
次は白音が、この道を下りてくる。
「組合にも、町へ来るかもしれないって伝えておく。宿が分からなかったら、マレナに聞いて」
「分かった」
白音は紙を袖へしまった。
山へ戻る道を見て、町へ続く方を見た。
それから、結人たちへ向き直る。
「今度は、童が行く」
「うん。待ってる」
その返事を聞いてから、白音は山へ引き返した。
結人たちはしばらくその背を見送り、それから、待っていた馬車へ歩き出した。




