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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十七話 ~白い狐は神様に文句を言う~

 白音が顔を上げたのは、しばらくしてからだった。

 赤い目でフィリアを見て、それから、掴んでいた袖へ視線を落とす。

「……濡らしてしもうた」

「乾く」

 フィリアの返事は短かった。

 白音は何か言いかけ、結局、小さく息を吐いた。

 アイリスが荷物から布を取り出す。

「よかったら、こちらを」

 差し出されると、白音は一瞬だけ迷った。

 それから、自分でフィリアの手をほどき、布を受け取った。

「……借りる」

「はい」

 白音が目元を押さえている間に、フィリアが膝を動かした。

 立とうとしたのか、座り直そうとしたのか。

 どちらにしても、身体がわずかに揺れた。

「ねえさま」

「何じゃ」

「休んでおれ」

「座っておるであろう」

「今、立とうとした」

「姿勢を直しただけじゃ」

 白音は布を下ろし、じっと見た。

 フィリアも見返す。

 先に目を逸らしたのは、神様の方だった。

「……少し、休む」

「そうせよ」

 結人は、そこでようやく肩の力を抜いた。

 足元には、まだ濡れた土と、薄くなっていく氷がある。

 アカツキはそのそばへ伏せていた。リンも腰を下ろしたまま、右脚の置き場を直している。

「リン。帰り、どうかな」

 結人が聞くと、紅い耳が動いた。

 リンは空を見上げ、石段の向こうへ目を向ける。

「そろそろ、支度はした方がいいの」

「うん」

「でも、急いで歩くのは駄目なの」

「分かってる」

 川辺では馬車が待っている。

 それを忘れるわけにはいかなかった。

 結人が荷物へ手を伸ばすと、白音がこちらを見た。

「帰り道で、食べるつもりのものはあるのかや」

「パンと、干し肉なら」

「ならば、今のうちに少し食べていけ。歩きながらでは、休んだことにならぬ」

「……そうだね」

 結人は座り直した。

 急いで立ち上がる理由を探していたのは、自分も同じだったらしい。

 荷物から食べ物の包みを取り出す。

 アイリスがそばの石を拭き、そこへパンを並べた。

 四つだった。

 リンが数え、フィリアを見る。

「今は、五人なの」

 結人もフィリアを見た。

 フィリアは少し眉を寄せる。

「なぜ、そこでわらわを見る」

「いつものつもりで持ってきたから」

「わらわとて、腹は減るぞ」

「減るのは知ってるんだけど」

 時計へ供えれば、味と香りは渡せる。

 けれど、食べ物そのものは残る。

 今日は、その神様が目の前に座っていた。

「分ければよかろう」

 フィリアが言った。

 白音も頷く。

「うむ。童は、ねえさまと分ける」

 そう言って、パンを一つ取った。

 フィリアが手を出す。

「わらわが割ろう」

「大きさを、揃えるのじゃぞ」

「分かっておる」

 ぱきりと、焼けた表面が割れた。

 フィリアは片方を白音へ渡し、残りを自分の方へ引き寄せる。

 白音が二つを見比べた。

「ねえさま」

「何じゃ」

「そちらが大きい」

「気のせいじゃ」

「並べてみよ」

「そこまでせずともよかろう」

「では、そちらを童に寄越せ」

 フィリアの手が止まった。

 結人は笑いそうになり、先に脇腹へ手を当てた。

 白音がそれに気づいて、こちらを見る。

「おぬしも、そう思うであろう」

「うん。並べなくても分かる」

「ほれ」

 白音が手を差し出す。

 フィリアはしばらくパンを見ていたが、やがて大きい方の端を少しちぎり、白音の分へ載せた。

「これでよかろう」

「初めから、そうすればよい」

「おぬしは細かいのう」

「ねえさまが大雑把なのじゃ」

 そのまま二人が、ほとんど同時にパンをかじった。

 結人は顔を伏せた。

 紙芝居の老人は、確かに言っていた。

 三日三晩喧嘩をしたあと、四日目には一緒に飯を食っていた、と。

 今なら、その絵が少しよく分かる。

「何を笑っておる」

 フィリアが言った。

「いや。二人とも、ちゃんと食べるんだなって」

「口に入れておるのじゃから、当たり前であろう」

「そうなんだけどさ」

 神様の手の中で、パンが少しずつ小さくなっていた。

 結人はそれを見てから、自分の分をかじった。

 少し硬い。

 けれど、噛んでいるうちに甘みが出た。

「肉も分けるの」

 リンが干し肉を取り出す。

 自分の分を確保してから、白音の方へ差し出した。

「さっきのも、まだ食べておらぬぞ」

「じゃあ、そっちを先に食べるの」

「分かった」

 アカツキが鼻先を上げると、リンはそちらにも手を伸ばした。

「アカツキのもあるの」

「有り難い」

 白銀の狼は素直に受け取った。

 リンが、その頭を軽く撫でる。

 誰かが食べている音がする。

 器を置く音もする。

 結人はパンを飲み込み、残っていた茶を口に含んだ。

 冷めていたが、喉を通るのが気持ちよかった。

 白音も少しずつ食べていた。

 時々、フィリアの手元を見る。

 そのたびに、神様が何か言いたそうな顔をするので、白音も負けずに見返した。

 やがて、白音が口を開いた。

「ねえさま。一つ、言うておくぞ」

「何じゃ。まだパンの話か」

「違う」

 白音は残りを膝の上へ置いた。

「この山へ来た時も、時計の中におったのじゃろう」

「……うむ」

「ひと言くらい、名を呼んでくれればよかったのじゃ」

 フィリアの手が止まった。

 白音は、その顔を見ていた。

「童には、分からなんだ。ねえさまがおるなど、思いもしなかった」

「合わせる顔がないと、思うておった」

 低い返事だった。

 白音は目を伏せた。

 少し考え、それから顔を上げる。

「それを、童が察するのは無理じゃ」

「……そうじゃな」

「顔が出せぬなら、せめて声を出せ」

 フィリアが白音を見た。

 白音はまっすぐ見返した。

「来ておるなら、来ておると言え。童が気づくまで、黙っておるでない」

 フィリアは、ゆっくり頷いた。

「次は、声をかける」

「うむ。それから」

「一つではなかったのか」

「同じ話じゃ」

 白音は懐中時計へ目を向けた。

 開いたままの時計が、石の上に置かれている。

「その中へ戻る時も、童に言え。姿が見えなくなる前に」

「分かった」

「今、戻るつもりなら、今言うのじゃぞ」

「まだ戻らぬ。まずは、これを食べる」

 フィリアがパンを持ち上げた。

 白音はそれを見て、頷いた。

「ならば、よい」

 自分も残りを口へ運ぶ。

 それ以上、問い詰めることはしなかった。

 結人も、間へ言葉を入れなかった。

 パンを食べ終えると、アイリスが包みを畳んだ。

 リンは足元に落ちた食べかすを拾い、アカツキへ見せている。

「これは食べるの?」

「それくらい、おぬしが食べればよかろう」

「地面に落ちたの」

「それを私へ渡そうとするな」

「アカツキなら平気かと思ったの」

「平気かどうかの話ではない」

 白音が、小さく笑った。

 フィリアも笑った。

 結人は二人を見てから、水の残りを確かめた。


 帰り支度は、少しずつ進んだ。

 紙と地図をしまい、食べ物の包みを戻す。使った布をまとめると、白音が自分の器へ手を伸ばした。

「川までは、童も送ろう」

 結人が顔を上げる。

「休んでなくて、平気?」

「ゆっくり行くならな。送ったあとは、戻って休む」

 白音はリンの脚へ目を向けた。

「帰りは、童が乗せよう。狼も、少し休ませてやれ」

 アカツキが白音を見る。

「よいのか」

「背は空いておる」

「……では、少し世話になる」

 白音は頷いた。

 リンはアカツキと白音を交互に見てから、杖を握り直す。

「跳ばないでほしいの」

「跳ばぬ」

「坂も、ゆっくりなの」

「分かっておる」

「なら、お願いするの」

 白音はもう一度頷き、器を片付けに立った。

 フィリアも身体を動かしかける。

 白音が振り返った。

「ねえさまは、座っておれ」

「まだ何もしておらぬ」

「しそうな顔をしておった」

「顔で決めるでない」

 結人は荷物の紐を結びながら、少し笑った。

 白音が器を片付けて戻ってくると、フィリアが呼びかけた。

「白音」

「何じゃ」

「そろそろ、時計へ戻る」

 白音の足が止まった。

 フィリアの顔を見て、それから時計を見る。

 少しの間を置いて、頷いた。

「分かった。休むのじゃぞ」

「うむ」

 結人は時計を手に取った。

 フィリアの姿が、淡い光へ変わっていく。

 白い袖が薄れ、長い髪がほどけ、光が文字盤へ収まった。

 白音はその様子を見ていた。

 手を伸ばして追おうとはしなかった。

『戻ったぞ』

 時計から声がした。

 白音の耳が、そちらへ向く。

「見ておった」

『知らせろと言うたであろう』

「戻る前に、とは言うた」

『戻ったあとも知らせて、何が悪い』

「悪いとは言うておらぬ」

 結人は、時計を持ったまま二人のやり取りを聞いた。

 白音がこちらを見る。

「閉じてよいぞ。ねえさまも、休むのであろう」

「うん」

 蓋を閉じ、胸元へ戻す。

 白音はその位置を一度確かめてから、社へ向き直った。

 戸の前で足を止め、手を添える。

 振り返れば、畳んだ布も、片付けた器も、元の場所にある。

 社の前には、自分たちが座っていた跡が残っていた。

「……では、少し出てくる」

 小さく言って、白音は石段の方へ歩いた。


 ◇


 白い狐は、ゆっくり歩いた。

 リンと、子犬ほどの姿になったアカツキを背へ乗せ、根の少ないところを選んで進んでいく。

 九本の尾は、後ろを歩く結人たちへ当たらないよう、少し持ち上げられていた。

「枝があるの」

 リンが言う。

「見えておる」

 白音が背を低くした。

 リンも身体を伏せ、枝の下をくぐる。

「今の、上手なの」

「童の方が、ここの木には詳しい」

「そうなの」

 リンは素直に頷いた。

 結人はその後ろを歩いた。

 前へ進むたび、社が遠くなっていく。

 足を置いたところには土があり、木の根があり、踏めば小さく沈む落ち葉があった。

 白音が選ぶ道は、遠回りになるところもあった。

 けれど、そのたびに坂が緩くなり、足元が歩きやすくなる。

「助かる」

 結人が言うと、白音が少し首を向けた。

「まだ痛むか」

「歩くのは平気。急ぐと、ちょっと」

「ならば、急ぐでない」

「うん」

 白音は歩調を変えなかった。

 少し先で、リンが背の上から木立を見回す。

「川の音、近くなってきたの」

「そうじゃな」

「もう少しなの」

 その声を聞いて、結人は木の間へ目を向けた。

 行きにも聞いた川の音だった。

 今度は、白い背が迷わずそちらへ進んでいく。

 途中で一度休み、また歩いた。

 アイリスが水を渡してくれた時には、結人も素直に受け取った。

 白音はその間、何も言わずに待っていた。


 ◇


 木立の向こうに、馬車の幌が見えた。

 まだ人目につかないところで、白音が伏せる。

 アカツキが先に降り、リンも杖を受け取って、ゆっくり足を下ろした。

 白い狐の姿が変わる。

 長い白髪と赤い瞳を持つ少女が立ち上がり、耳と尾も、人の目には見えなくなった。

「童は、ここまでじゃ」

「ありがとう。ずいぶん楽に帰ってこられた」

 結人が言うと、白音は軽く首を振った。

「無事に帰してやるくらいは、せねばな」

 そう言ってから、少し黙った。

 結人も、その場を離れずに待った。

「……結人」

「何?」

「礼を言う」

 白音はまっすぐこちらを見た。

「ねえさまの剣を、止めてくれたこと。それから、もう一度、その剣に頼んでくれたこと」

 結人は白音を見返した。

 赤い目は、もう伏せられていなかった。

「うん。間に合ってよかった」

「怖くは、なかったのかや」

「怖かったよ」

 結人は答えた。

「最初も、さっきも」

 白音の指が、袖の端へ触れる。

 結人は続けた。

「でも、さっきは白音が止めようとしてるのが分かったから」

「……そうか」

「怪我したことは、まだ困ってる。リンの脚も、俺の脇腹も、早く治ってほしいし」

「うむ」

「それでも、白音が助かってよかったって思ってる。それは、本当」

 白音はしばらく、何も言わなかった。

 やがて、袖から手を離す。

「……覚えておく」

「うん」

 川辺で、馬が鼻を鳴らした。

 アイリスがそちらへ目を向け、それから白音へ向き直る。

「また、お借りした布などがありましたら、お返しに来ますね」

「布は、おぬしが貸してくれた方じゃ」

「あ……そうでした」

 アイリスが自分の荷物を見て、少し頬を赤くした。

 白音は小さく笑った。

「洗って、取っておく」

「ありがとうございます」

「それで」

 白音の視線が、結人へ戻る。

「先ほどの甘い菓子は、町の店で買うたのじゃな」

「うん。宿の近くのパン屋」

「あれも、パンの店にあるのか」

「あるよ。ほかにも、何種類か並んでた」

 白音は少し考えた。

 木立の間から見える道へ目を向ける。

「そなたらは、まだ町におるのかや」

「もう少し休むつもり。組合にも、返事を届けないといけないし」

「そうか」

 白音は頷いた。

 それから、もう一度結人を見る。

「童が、訪ねてもよいか」

 結人はすぐに頷いた。

「もちろん。来てくれるなら、宿の場所を教えておくよ」

「……うむ」

 アイリスが紙を取り出した。

「門からの道も書いておきますね」

 紙の端へ、短く道順を書き添える。

 白音は受け取り、宿の名と、通りの名前を確かめた。

「買い物なら、リンも行くの」

 リンが言った。

「食べ物を見るの、得意なの」

「菓子もか」

「肉は得意なの」

「菓子の話をしておる」

「肉もあるの」

 白音はリンを見た。

 リンも、当然のように見返す。

 先に笑ったのは、白音だった。

「……では、そちらも見ようかのう」

「うん」

 結人は、白音が紙を畳むのを見ていた。

 今までは、こちらから知らせを持って山へ上がっていた。

 次は白音が、この道を下りてくる。

「組合にも、町へ来るかもしれないって伝えておく。宿が分からなかったら、マレナに聞いて」

「分かった」

 白音は紙を袖へしまった。

 山へ戻る道を見て、町へ続く方を見た。

 それから、結人たちへ向き直る。

「今度は、童が行く」

「うん。待ってる」

 その返事を聞いてから、白音は山へ引き返した。

 結人たちはしばらくその背を見送り、それから、待っていた馬車へ歩き出した。


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