第十六話 ~神様は白い狐の大切なものを斬らない~
結人の手の中で、懐中時計が青く輝いた。
開いた蓋の内側から光がこぼれ、地面へ降りる。
白い袖が現れた。
淡い青の髪がほどけるように広がり、その向こうで、小さな神様が顔を上げた。
地面を走っていた火が止まった。
アカツキの氷へ食い込もうとしていた炎も、木立へ伸びかけた青い舌も、その形のまま動かなくなる。
重なって見えていた社の戸が、一つへ戻った。
誰もいない石段から聞こえていた足音も消える。
「アカツキ。もう、力を緩めてよい」
フィリアの声が、すぐ目の前でした。
耳で聞く声だった。
アカツキが一度、彼女を見た。
それから冷気を放つのをやめ、ゆっくり息を吐く。それでも、結人たちの前からは退かなかった。
フィリアは頷き、白音へ向き直った。
差し出しかけていた白音の手が、宙で止まっている。
身体の周りには、まだ九本の尾が巻きついていた。
その隙間に、青白い火が浮いている。
「……動ける」
白音が呟いた。
指を曲げ、尾を少しだけ引く。
火だけが、その場に残った。
「そうじゃ。火は、わらわが止めておる」
フィリアは歩き出した。
一歩近づくと、白音の肩が強張る。
そこで足を止めた。
白音が顔を上げるのを待ってから、もう一歩進む。
その手には、まだ何もなかった。
「白音」
呼びかけて、目の前へ膝をつく。
フィリアは片方の手を差し出した。
白音は、その掌を見た。
顔を見て、また手を見る。
「……触れても、よいのかや」
「そのために、出しておる」
白音の指が動いた。
フィリアの指先へ触れ、ほんの少し引っ込む。
今度は、もう少し深く触れた。
すり抜けなかった。
フィリアは手を動かさずに待っていた。
やがて白音の指が、その掌へ重なる。
そこで初めて、フィリアが握り返した。
「……ねえさま」
「うむ」
白音は顔を伏せた。
握った手を、自分の方へ少し引く。
フィリアは逆らわず、身体を寄せた。
その間も、炎は止まっていた。
結人は開いた時計を胸元へ寄せ、二人を見ていた。
白音の肩は、まだ震えている。
けれど、巻きついていた尾の一本が緩み、地面へ下りた。
「白音。これから、剣を使う」
フィリアが言った。
白音の手に力が入る。
「……童にか」
「おぬしの中で、収まらなくなった怒りにじゃ」
フィリアは握った手を見下ろした。
「ほかの思いから分ける。斬るのは、それだけじゃ」
「斬れば、どうなる」
「おぬしを焼くほどに膨れ上がった、その怒りは消える」
白音は黙った。
フィリアの手を握ったまま、もう片方の手を胸元へ当てる。
「……ねえさまのことを、忘れはせぬか」
「忘れぬ」
返事は、すぐだった。
「ねえさまと、旅をしたことも」
「残る」
「おらぬ間に、寂しかったこともか」
フィリアが顔を上げた。
「それも、おぬしのものじゃ」
白音の唇が動く。
一度は閉じ、もう一度開いた。
「童は、まだねえさまに腹を立てておるぞ」
「うむ」
「言いたいことも、残っておる」
「あとで聞く」
「斬ったら、言わずに済むようになるのではないかや」
フィリアは、白音の顔をまっすぐ見た。
「わらわに都合のよい白音を、作りに来たのではない」
白音の指が、わずかに緩んだ。
「腹が立つなら、言えばよい。悲しければ、それも言え。おぬしが怒れぬようにするつもりはない」
「……では」
「今、おぬし自身にも止められず、望まぬ火を生んでおるものを斬る。ほかのものを巻き込まぬよう、わらわが分ける」
白音は長い間、フィリアを見ていた。
その目が、握り合った手へ下りる。
「できるのかや」
「そのために来た」
フィリアは、空いている方の手を開いた。
青白い光が集まる。
そこへ現れたのは、クロノワールドの短い方の剣だった。
細く、澄んだ刃。
止まっている炎の光を受け、その縁だけが静かに輝く。
白音の身体が、後ろへ引けた。
「待ってくれ」
刃が止まった。
フィリアはすぐに切っ先を下ろし、白音から離した。
「待つ」
短い返事だった。
白音は何度か息を吸った。
握っている手を見つめ、空いている方の手で、自分の袖を掴む。
フィリアは動かなかった。
結人も、何も言わなかった。
早くしなければならないのかもしれない。
それでも、その一言を外から差し込むことはできなかった。
白音が、自分で顔を上げるまで待った。
「手は」
かすれた声がした。
「離さぬでくれ」
「離さぬ」
「童が、また怖がっても」
「握っておる」
白音は頷いた。
一度では足りないように、もう一度頷く。
それから、握った手をわずかに持ち上げた。
「……頼む」
フィリアが剣を戻した。
切っ先は、白音の身体へは向かなかった。
握り合った二人の手の、そのすぐ上で止まる。
何もないはずの場所に、細い光が浮かんだ。
糸のように見えた。
けれど、一本ではなかった。
目を凝らすと、その内側に何本もの光が重なっている。絡まり、折れ曲がり、同じところへ幾度も巻きついていた。
結人には、それがどこから始まり、どこで終わっているのかさえ分からなかった。
フィリアが、刃先をわずかに動かす。
重なった光の間に、細い隙間ができた。
そこへ刃が入り、一筋をそっとすくい上げる。
ほかの光まで引かれかけると、剣の角度が変わった。
引っ張られていたものが戻り、必要な隙間だけが残る。
白音の呼吸が乱れた。
握る指が震える。
刃先も、その震えと同じだけ動いた。
二人の手と剣の間の距離は、変わらなかった。
「……ねえさま」
「おるぞ」
それだけ答え、フィリアは刃を進めた。
光が一つほどけるたび、白音の肩から少し力が抜けた。
けれど、次のところへ触れると、また強張る。
嬉しかったことも、怖かったことも、白音の中では近くにあったのだろう。
結人には、どれがどれか分からない。
目の前に見えていても、斬ってよいものを選ぶことはできなかった。
フィリアの剣は、その全部を確かめながら進んでいた。
白音が指を握り込むと、足を止めるように刃も止まる。
呼吸が戻ると、また動いた。
大きく振りかぶることは、一度もなかった。
薄い光の重なりへ潜り、少しだけ持ち上げ、別の光をそこから逃がす。
それを、何度も繰り返した。
フィリアの額に、小さな汗が浮いた。
白音はそれを見て、何か言いかけた。
けれど、その前にフィリアが口を開いた。
「握っておれ」
白音の手が、もう一度しっかりと握り返す。
細い光の奥で、ひときわ強く絡み合った部分が現れた。
周りの光を引き込みながら、幾重にも締まっている。
フィリアは、すぐには斬らなかった。
その外側へ刃を回し、巻き込まれていた一筋を外へ出す。
もう一筋も。
そこへ触れた時、白音の目から涙が落ちた。
フィリアは剣を止めず、握っている手へ少しだけ力を込めた。
最後の一筋が離れる。
残ったものは、小さかった。
先ほどまで見えていた光の、ほんの一部にすぎなかった。
それでも、白音の手が引かれるほど強く、内側へ縮もうとしていた。
「白音」
フィリアが呼ぶ。
「ここだけじゃ」
赤い瞳が、剣の先へ向いた。
白音は唇を噛み、それから頷いた。
「……うむ」
短い針が動いた。
指一本分ほどの、小さな動きだった。
音はしなかった。
切り離された光が一つ、宙へ浮く。
青く揺らぎ、薄くなり、やがて何もないところへほどけて消えた。
残った光は、斬られなかった。
絡みを解かれたまま、握り合った手の間へ、静かに沈んでいった。
白音の肩が落ちた。
大きく息を吸い、長く吐く。
もう一度吸った時には、喉に引っかかるような音はしなかった。
フィリアは剣を遠ざけた。
短い刃が光へ戻り、指の間から消える。
白音の手だけは、そのまま握っていた。
「……どうじゃ」
白音はすぐには答えなかった。
胸元へ置いていた手を下ろし、膝へ載せる。
自分の指を曲げ、伸ばした。
背後で、九本の尾がゆっくりとほどけていく。
「静かじゃ」
小さな声だった。
「さっきまで、何を押さえても、別のところから出てきておったのに」
白音は顔を上げた。
止まったままの火を見た。
青白い炎が、社の前にいくつも浮いている。
「……消せると思う」
「では、少しずつ時を戻すぞ」
「うむ」
フィリアが、空いた手を上げた。
近くの火が一つ、揺れ始める。
白音の尾が、その方へわずかに向いた。
火が細くなった。
地面へ落ちる前に、ふっと消える。
次の火も。
その次も。
白音は一つずつ確かめながら、自分の火を消していった。
最後に残ったのは、アカツキの氷のすぐ前にあった炎だった。
白音がそちらを見る。
アカツキは動かなかった。
炎が揺れ、静かに消えた。
濡れた地面に、焦げた跡だけが残った。
「……もう、ない」
リンが言った。
白音の耳が動く。
こちらを見た顔には、まだ涙が残っていた。
「そなたらは」
「みんな、ここにいる」
結人が答えた。
白音は一人ずつを見た。
アイリスが頷く。
「火は届きませんでした」
「神様とアカツキが、止めてくれたの」
リンも言った。
アカツキはようやく前脚の力を抜き、身体を伏せた。
「自分で消せたなら、何よりだ」
白音は目を閉じた。
握っているフィリアの手へ、額を寄せる。
「……すまぬ」
誰か一人へ向けた言葉ではなかった。
結人は足元を確かめてから、少し近づいた。
さっき見えていた段差は、もうない。
靴の中へ染みていた冷たさも消えていた。
それでも、慎重に歩いた。
白音は顔を上げ、こちらを見た。
「覚えておる」
「うん?」
「おぬしらへ火を向けたことも、道を塞いだことも。ねえさまに、剣を向けられたことも」
結人はフィリアを見た。
神様は、白音の言葉を遮らなかった。
「なくなっては、おらぬのじゃな」
「ああ」
結人が答えると、白音はゆっくり頷いた。
それから、フィリアへ顔を向けた。
「ねえさまに、腹が立ったことも残っておる」
「聞くと言うたであろう」
「……言うたな」
「うむ」
白音は握っている手を見下ろした。
自分の指が、フィリアの指の間へ入り込んでいる。
今度は、それを抜こうとしなかった。
「怖かったのじゃぞ」
声に、少しだけ強さが戻った。
「分かっておる」
「ねえさまが思うておるより、ずっとじゃ」
「……うむ」
「顔を見ても、剣の方を思い出してしもうた。声を聞きとうて、見たいと思うたのに、近づかれると逃げたくなった」
フィリアは頷いた。
言い訳もしなかった。
白音の指が、また強く握る。
「今も、あの剣は覚えておる」
フィリアが、空いた手を膝へ戻そうとした。
白音の視線がそちらへ動く。
けれど、身体は引かなかった。
その手が膝へ置かれるのを、ただ見ていた。
「じゃが」
白音は、自分から少し身を寄せた。
「今は、離したくない」
フィリアの口元が、わずかに動いた。
「……そうか」
白音が頷く。
その拍子に、溜まっていた涙が頬を伝った。
フィリアは空いている手を上げた。
今度は、白音もその動きを見ていた。
指が頬へ触れる。
白音は目を閉じ、触れた手の方へ顔を寄せた。
結人は、そこから先へ近づかなかった。
懐中時計をそばの石へ置き、ゆっくり腰を下ろす。
脇腹は、まだ痛かった。
焼けた地面も、溶けかけた氷も、そのままだった。
白音のしたことが消えたわけでも、フィリアの向けた剣がなかったことになったわけでもない。
けれど、白音はその手から逃げなかった。
フィリアも、目を逸らさなかった。
しばらくして、神様の肩から力が抜けた。
身体がわずかに傾く。
白音が、握っていた手を引き寄せた。
「ねえさま」
「……少し、力を使うた」
「少しではなかろう」
「細かいことを言うでない」
「細かくない」
返事は早かった。
フィリアが白音を見る。
白音も、赤い目で見返した。
その顔を見て、フィリアが小さく息を漏らす。
「文句は、ちゃんと残ったようじゃな」
「残ると言うたのは、ねえさまじゃ」
「そうじゃった」
白音は何か言い返そうとして、口を開いた。
けれど、言葉より先に息が震えた。
フィリアの手を握り直す。
もう片方の手も添えた。
それでも足りないように、身体を近づける。
「……ねえさま」
「うむ」
額が、白い着物の肩へ触れた。
フィリアは動かなかった。
白音がそこへ体重を預けてから、空いた腕を、その背へ回した。
「童は」
声が詰まる。
一度息を吸い、白音は続きを言おうとした。
誰も、代わりに言わなかった。
結人も、リンも、アイリスも。
フィリアも、急がせなかった。
「……会いたかったのじゃ」
ようやく出てきた言葉は、小さかった。
白音はそれを言い終えると、フィリアの肩へ顔を伏せた。
嗚咽が漏れた。
九本の尾が、地面の上で静かに揺れる。
火は灯らなかった。
フィリアは白音の背へ回した腕に、少しだけ力を込めた。
「……会えて、よかった」
その声を聞いて、白音の手が白い袖を掴んだ。
今度は、怖くて握ったのではなかった。




