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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十六話 ~神様は白い狐の大切なものを斬らない~

 結人の手の中で、懐中時計が青く輝いた。

 開いた蓋の内側から光がこぼれ、地面へ降りる。

 白い袖が現れた。

 淡い青の髪がほどけるように広がり、その向こうで、小さな神様が顔を上げた。

 地面を走っていた火が止まった。

 アカツキの氷へ食い込もうとしていた炎も、木立へ伸びかけた青い舌も、その形のまま動かなくなる。

 重なって見えていた社の戸が、一つへ戻った。

 誰もいない石段から聞こえていた足音も消える。

「アカツキ。もう、力を緩めてよい」

 フィリアの声が、すぐ目の前でした。

 耳で聞く声だった。

 アカツキが一度、彼女を見た。

 それから冷気を放つのをやめ、ゆっくり息を吐く。それでも、結人たちの前からは退かなかった。

 フィリアは頷き、白音へ向き直った。

 差し出しかけていた白音の手が、宙で止まっている。

 身体の周りには、まだ九本の尾が巻きついていた。

 その隙間に、青白い火が浮いている。

「……動ける」

 白音が呟いた。

 指を曲げ、尾を少しだけ引く。

 火だけが、その場に残った。

「そうじゃ。火は、わらわが止めておる」

 フィリアは歩き出した。

 一歩近づくと、白音の肩が強張る。

 そこで足を止めた。

 白音が顔を上げるのを待ってから、もう一歩進む。

 その手には、まだ何もなかった。

「白音」

 呼びかけて、目の前へ膝をつく。

 フィリアは片方の手を差し出した。

 白音は、その掌を見た。

 顔を見て、また手を見る。

「……触れても、よいのかや」

「そのために、出しておる」

 白音の指が動いた。

 フィリアの指先へ触れ、ほんの少し引っ込む。

 今度は、もう少し深く触れた。

 すり抜けなかった。

 フィリアは手を動かさずに待っていた。

 やがて白音の指が、その掌へ重なる。

 そこで初めて、フィリアが握り返した。

「……ねえさま」

「うむ」

 白音は顔を伏せた。

 握った手を、自分の方へ少し引く。

 フィリアは逆らわず、身体を寄せた。

 その間も、炎は止まっていた。

 結人は開いた時計を胸元へ寄せ、二人を見ていた。

 白音の肩は、まだ震えている。

 けれど、巻きついていた尾の一本が緩み、地面へ下りた。

「白音。これから、剣を使う」

 フィリアが言った。

 白音の手に力が入る。

「……童にか」

「おぬしの中で、収まらなくなった怒りにじゃ」

 フィリアは握った手を見下ろした。

「ほかの思いから分ける。斬るのは、それだけじゃ」

「斬れば、どうなる」

「おぬしを焼くほどに膨れ上がった、その怒りは消える」

 白音は黙った。

 フィリアの手を握ったまま、もう片方の手を胸元へ当てる。

「……ねえさまのことを、忘れはせぬか」

「忘れぬ」

 返事は、すぐだった。

「ねえさまと、旅をしたことも」

「残る」

「おらぬ間に、寂しかったこともか」

 フィリアが顔を上げた。

「それも、おぬしのものじゃ」

 白音の唇が動く。

 一度は閉じ、もう一度開いた。

「童は、まだねえさまに腹を立てておるぞ」

「うむ」

「言いたいことも、残っておる」

「あとで聞く」

「斬ったら、言わずに済むようになるのではないかや」

 フィリアは、白音の顔をまっすぐ見た。

「わらわに都合のよい白音を、作りに来たのではない」

 白音の指が、わずかに緩んだ。

「腹が立つなら、言えばよい。悲しければ、それも言え。おぬしが怒れぬようにするつもりはない」

「……では」

「今、おぬし自身にも止められず、望まぬ火を生んでおるものを斬る。ほかのものを巻き込まぬよう、わらわが分ける」

 白音は長い間、フィリアを見ていた。

 その目が、握り合った手へ下りる。

「できるのかや」

「そのために来た」

 フィリアは、空いている方の手を開いた。

 青白い光が集まる。

 そこへ現れたのは、クロノワールドの短い方の剣だった。

 細く、澄んだ刃。

 止まっている炎の光を受け、その縁だけが静かに輝く。

 白音の身体が、後ろへ引けた。

「待ってくれ」

 刃が止まった。

 フィリアはすぐに切っ先を下ろし、白音から離した。

「待つ」

 短い返事だった。

 白音は何度か息を吸った。

 握っている手を見つめ、空いている方の手で、自分の袖を掴む。

 フィリアは動かなかった。

 結人も、何も言わなかった。

 早くしなければならないのかもしれない。

 それでも、その一言を外から差し込むことはできなかった。

 白音が、自分で顔を上げるまで待った。

「手は」

 かすれた声がした。

「離さぬでくれ」

「離さぬ」

「童が、また怖がっても」

「握っておる」

 白音は頷いた。

 一度では足りないように、もう一度頷く。

 それから、握った手をわずかに持ち上げた。

「……頼む」

 フィリアが剣を戻した。

 切っ先は、白音の身体へは向かなかった。

 握り合った二人の手の、そのすぐ上で止まる。

 何もないはずの場所に、細い光が浮かんだ。

 糸のように見えた。

 けれど、一本ではなかった。

 目を凝らすと、その内側に何本もの光が重なっている。絡まり、折れ曲がり、同じところへ幾度も巻きついていた。

 結人には、それがどこから始まり、どこで終わっているのかさえ分からなかった。

 フィリアが、刃先をわずかに動かす。

 重なった光の間に、細い隙間ができた。

 そこへ刃が入り、一筋をそっとすくい上げる。

 ほかの光まで引かれかけると、剣の角度が変わった。

 引っ張られていたものが戻り、必要な隙間だけが残る。

 白音の呼吸が乱れた。

 握る指が震える。

 刃先も、その震えと同じだけ動いた。

 二人の手と剣の間の距離は、変わらなかった。

「……ねえさま」

「おるぞ」

 それだけ答え、フィリアは刃を進めた。

 光が一つほどけるたび、白音の肩から少し力が抜けた。

 けれど、次のところへ触れると、また強張る。

 嬉しかったことも、怖かったことも、白音の中では近くにあったのだろう。

 結人には、どれがどれか分からない。

 目の前に見えていても、斬ってよいものを選ぶことはできなかった。

 フィリアの剣は、その全部を確かめながら進んでいた。

 白音が指を握り込むと、足を止めるように刃も止まる。

 呼吸が戻ると、また動いた。

 大きく振りかぶることは、一度もなかった。

 薄い光の重なりへ潜り、少しだけ持ち上げ、別の光をそこから逃がす。

 それを、何度も繰り返した。

 フィリアの額に、小さな汗が浮いた。

 白音はそれを見て、何か言いかけた。

 けれど、その前にフィリアが口を開いた。

「握っておれ」

 白音の手が、もう一度しっかりと握り返す。

 細い光の奥で、ひときわ強く絡み合った部分が現れた。

 周りの光を引き込みながら、幾重にも締まっている。

 フィリアは、すぐには斬らなかった。

 その外側へ刃を回し、巻き込まれていた一筋を外へ出す。

 もう一筋も。

 そこへ触れた時、白音の目から涙が落ちた。

 フィリアは剣を止めず、握っている手へ少しだけ力を込めた。

 最後の一筋が離れる。

 残ったものは、小さかった。

 先ほどまで見えていた光の、ほんの一部にすぎなかった。

 それでも、白音の手が引かれるほど強く、内側へ縮もうとしていた。

「白音」

 フィリアが呼ぶ。

「ここだけじゃ」

 赤い瞳が、剣の先へ向いた。

 白音は唇を噛み、それから頷いた。

「……うむ」

 短い針が動いた。

 指一本分ほどの、小さな動きだった。

 音はしなかった。

 切り離された光が一つ、宙へ浮く。

 青く揺らぎ、薄くなり、やがて何もないところへほどけて消えた。

 残った光は、斬られなかった。

 絡みを解かれたまま、握り合った手の間へ、静かに沈んでいった。

 白音の肩が落ちた。

 大きく息を吸い、長く吐く。

 もう一度吸った時には、喉に引っかかるような音はしなかった。

 フィリアは剣を遠ざけた。

 短い刃が光へ戻り、指の間から消える。

 白音の手だけは、そのまま握っていた。

「……どうじゃ」

 白音はすぐには答えなかった。

 胸元へ置いていた手を下ろし、膝へ載せる。

 自分の指を曲げ、伸ばした。

 背後で、九本の尾がゆっくりとほどけていく。

「静かじゃ」

 小さな声だった。

「さっきまで、何を押さえても、別のところから出てきておったのに」

 白音は顔を上げた。

 止まったままの火を見た。

 青白い炎が、社の前にいくつも浮いている。

「……消せると思う」

「では、少しずつ時を戻すぞ」

「うむ」

 フィリアが、空いた手を上げた。

 近くの火が一つ、揺れ始める。

 白音の尾が、その方へわずかに向いた。

 火が細くなった。

 地面へ落ちる前に、ふっと消える。

 次の火も。

 その次も。

 白音は一つずつ確かめながら、自分の火を消していった。

 最後に残ったのは、アカツキの氷のすぐ前にあった炎だった。

 白音がそちらを見る。

 アカツキは動かなかった。

 炎が揺れ、静かに消えた。

 濡れた地面に、焦げた跡だけが残った。

「……もう、ない」

 リンが言った。

 白音の耳が動く。

 こちらを見た顔には、まだ涙が残っていた。

「そなたらは」

「みんな、ここにいる」

 結人が答えた。

 白音は一人ずつを見た。

 アイリスが頷く。

「火は届きませんでした」

「神様とアカツキが、止めてくれたの」

 リンも言った。

 アカツキはようやく前脚の力を抜き、身体を伏せた。

「自分で消せたなら、何よりだ」

 白音は目を閉じた。

 握っているフィリアの手へ、額を寄せる。

「……すまぬ」

 誰か一人へ向けた言葉ではなかった。

 結人は足元を確かめてから、少し近づいた。

 さっき見えていた段差は、もうない。

 靴の中へ染みていた冷たさも消えていた。

 それでも、慎重に歩いた。

 白音は顔を上げ、こちらを見た。

「覚えておる」

「うん?」

「おぬしらへ火を向けたことも、道を塞いだことも。ねえさまに、剣を向けられたことも」

 結人はフィリアを見た。

 神様は、白音の言葉を遮らなかった。

「なくなっては、おらぬのじゃな」

「ああ」

 結人が答えると、白音はゆっくり頷いた。

 それから、フィリアへ顔を向けた。

「ねえさまに、腹が立ったことも残っておる」

「聞くと言うたであろう」

「……言うたな」

「うむ」

 白音は握っている手を見下ろした。

 自分の指が、フィリアの指の間へ入り込んでいる。

 今度は、それを抜こうとしなかった。

「怖かったのじゃぞ」

 声に、少しだけ強さが戻った。

「分かっておる」

「ねえさまが思うておるより、ずっとじゃ」

「……うむ」

「顔を見ても、剣の方を思い出してしもうた。声を聞きとうて、見たいと思うたのに、近づかれると逃げたくなった」

 フィリアは頷いた。

 言い訳もしなかった。

 白音の指が、また強く握る。

「今も、あの剣は覚えておる」

 フィリアが、空いた手を膝へ戻そうとした。

 白音の視線がそちらへ動く。

 けれど、身体は引かなかった。

 その手が膝へ置かれるのを、ただ見ていた。

「じゃが」

 白音は、自分から少し身を寄せた。

「今は、離したくない」

 フィリアの口元が、わずかに動いた。

「……そうか」

 白音が頷く。

 その拍子に、溜まっていた涙が頬を伝った。

 フィリアは空いている手を上げた。

 今度は、白音もその動きを見ていた。

 指が頬へ触れる。

 白音は目を閉じ、触れた手の方へ顔を寄せた。

 結人は、そこから先へ近づかなかった。

 懐中時計をそばの石へ置き、ゆっくり腰を下ろす。

 脇腹は、まだ痛かった。

 焼けた地面も、溶けかけた氷も、そのままだった。

 白音のしたことが消えたわけでも、フィリアの向けた剣がなかったことになったわけでもない。

 けれど、白音はその手から逃げなかった。

 フィリアも、目を逸らさなかった。

 しばらくして、神様の肩から力が抜けた。

 身体がわずかに傾く。

 白音が、握っていた手を引き寄せた。

「ねえさま」

「……少し、力を使うた」

「少しではなかろう」

「細かいことを言うでない」

「細かくない」

 返事は早かった。

 フィリアが白音を見る。

 白音も、赤い目で見返した。

 その顔を見て、フィリアが小さく息を漏らす。

「文句は、ちゃんと残ったようじゃな」

「残ると言うたのは、ねえさまじゃ」

「そうじゃった」

 白音は何か言い返そうとして、口を開いた。

 けれど、言葉より先に息が震えた。

 フィリアの手を握り直す。

 もう片方の手も添えた。

 それでも足りないように、身体を近づける。

「……ねえさま」

「うむ」

 額が、白い着物の肩へ触れた。

 フィリアは動かなかった。

 白音がそこへ体重を預けてから、空いた腕を、その背へ回した。

「童は」

 声が詰まる。

 一度息を吸い、白音は続きを言おうとした。

 誰も、代わりに言わなかった。

 結人も、リンも、アイリスも。

 フィリアも、急がせなかった。

「……会いたかったのじゃ」

 ようやく出てきた言葉は、小さかった。

 白音はそれを言い終えると、フィリアの肩へ顔を伏せた。

 嗚咽が漏れた。

 九本の尾が、地面の上で静かに揺れる。

 火は灯らなかった。

 フィリアは白音の背へ回した腕に、少しだけ力を込めた。

「……会えて、よかった」

 その声を聞いて、白音の手が白い袖を掴んだ。

 今度は、怖くて握ったのではなかった。


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