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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十五話 ~白い狐は会いたかったと言えない~

「……腹が立つのじゃ」

 最初に出てきたのは、その言葉だった。

 白音は竹の器を両手で持ったまま、冷めた茶を見下ろしていた。

『わらわにか』

「ねえさまにも、童にも」

 フィリアは答えず、続きを待った。

 白音の指が、器の縁をなぞる。

「治してから来いと、童が言うた。怪我をさせたのも童じゃ。急がせてよいはずがない」

 そこで一度、リンの脚へ目を向けた。

「それでも日が暮れると、今日も来なんだと思うのじゃ。便りを貰うて、まだ休んでおると知っておるのに」

 結人は口を開きかけた。

 白音が首を振る。

「謝るでない。おぬしらに急げと言うておるのではない」

「……うん」

「分かっておるつもりなのじゃ。それなのに、思うことまで変わらぬ」

 白い尾が、地面の上でゆっくり動いた。

 一本だけ、ほかとは逆の方へ曲がる。白音はそれを膝の後ろへ寄せ直した。

「来たら、何を言おうかと考えた。茶くらいは出そうとも思うた」

 器の向こうで、フィリアが座っている。

 白音はその顔を見て、すぐに視線を下げた。

「いざ声を聞くと、考えておったことが、どこぞへ行ってしまうのじゃ」

『……そうか』

「そうじゃ」

 返事だけが、少し強かった。

 風が社の屋根を撫でていく。

 軒から落ちた小さな葉が、白音の尾に引っかかった。彼女はそれに気づいていないようだった。

「ねえさまは、変わらぬのう」

『そう見えるか』

「リンと話しておる時はな」

 名前を呼ばれたリンが顔を上げた。

 白音はその様子を見て、わずかに目を細める。

「すぐ言い返す。つまらぬことで張り合う。茶が濃いだけで文句を言う」

『茶のことまで、そこへ入れるでない』

「ほれ」

 白音の口元が、少しだけ緩んだ。

 けれど、笑いきる前に止まった。

「童に向かうと、手を止める」

 フィリアの指が、膝の上で動かなくなった。

「そうして気を遣われると、腹が立つ。そんな顔をせずともよいと言いたくなる」

 白音は器を置いた。

 置いた手を、すぐには離さなかった。

「それなのに、ねえさまが手を止めると、ほっとするのじゃ」

 結人は時計を見た。

 フィリアは両手を膝に載せたまま、白音を見上げていた。

 剣はない。

 あの日のように立ち上がろうともしていない。

 それでも白音の目は、時々、その手へ落ちた。

「……ほっとするのが、嫌なのじゃ」

 低い声だった。

「ねえさまに近づいてほしくないわけではない。声を聞きとうないわけでもない。それなのに、手が動くと、身体が先に逃げようとする」

『白音』

「童はな」

 呼びかけを遮ったあとで、白音は唇を噛んだ。

 言葉を引っ込めようとしているように見えた。

 けれど、今度は続けた。

「ねえさまを、怖いと思いたくはなかった」

 フィリアの顔が、わずかに伏せられた。

 白音はその顔を追わなかった。器から離した手を、自分の膝で握っている。

「声が聞こえた時は、夢でもよいと思うたのじゃ」

 結人は、止まった炎の前に現れた白い着物を思い出した。

 白音が初めて、ねえさまと呼んだ時の声も。

「人を追い返して、また眠ればよいと思うておった。そこへ、ねえさまの声がした。いるはずのない者が、目の前におった」

 白音の目が、時計へ戻った。

「そのねえさまが、剣を向けた」

『……うむ』

「童を、斬る覚悟で向けたのであろう」

 フィリアは、すぐには答えなかった。

 白音も目を逸らさなかった。

『……そうじゃ』

 結人の膝の上で、指が強張った。

 けれど、口は挟まなかった。

 あの場で何が起きたのかを知っている。

 自分たちが、どうなりかけていたかも。

 だからこそ、簡単な言葉で白音の受け取ったものを変えることはできなかった。

 白音はゆっくり頷いた。

「分かっておる。童が、この者たちを傷つけた」

 アイリスが、膝に置いた左腕を少し引いた。

 白音の視線が、その包帯で止まる。

「逃げる道まで奪うた。退くと言うておったのに、聞かなんだ」

 アイリスは腕を隠し直そうとはしなかった。

 ただ、右手を左手の上へ重ねた。

「……分かっておるのじゃ」

 白音の声が細くなった。

「それでも、怖かった」

『怖がらせたのは、わらわじゃ』

「……うむ」

『すまぬ』

 白音は目を閉じた。

 そのまま、長く息を吐く。

「謝ってほしくないわけではない」

 言いながら、自分の言葉を確かめるように眉を寄せた。

「じゃが、謝られると、もう何も言えなくなる。童も悪かった。それで終わらせねばならぬような気がする」

『今、終わらせずともよい』

「……ねえさまは、待てるのかや」

『今は、ここで聞いておる』

 白音はフィリアを見た。

 すぐそばにいる、小さな神様を。

 それから、結人たちへ順に目を向けた。

 リンの脚も、アイリスの腕も、アカツキの肩も見ていた。

「童は、何に怒ればよいのじゃろうな」

 返事を求める声ではなかった。

「眠りを邪魔した人間か。ねえさまか。それとも、嬉しい時にさえ、こんなことを言う童自身か」

 結人は何か言おうとして、やめた。

 どれか一つを選べるようには、聞こえなかった。

 白音も答えを選べずにいるのだと思った。

「戻ってきたのにのう」

 白音が呟く。

「ねえさまは、戻ってきた。約束したところへ、ちゃんと戻ってきた」

『うむ』

「ならば、笑えばよいではないか」

 その言葉だけ、自分へ言い聞かせるようだった。

 白音は顔を上げた。

 笑おうとしたのだと、結人にも分かった。

 けれど口元が動いただけで、目は笑わなかった。

「童は、ただ……」

 背後で、小さな青い光が弾けた。

 白音の肩が跳ねる。

 尾の一本に灯った火が、空中で細く伸びていた。

「……違う」

 白音が振り返った。

 尾を引き寄せると、火はすぐに消えた。

 結人は膝から手を離す。

「白音。少し休もう」

「分かっておる」

 返事は早かった。

 早すぎるほどだった。

「火を出すつもりではない。今のは、童が」

 そこで声が止まった。

 別の尾の間から、青白い火が漏れた。

 白音は立ち上がった。

 社からも、結人たちからも離れようとする。石段とは逆側の、木立に近い方へ二歩下がった。

 火は尾から離れ、低く地面を走った。

 アカツキが身体を起こす。

「皆、私の後ろへ」

 冷気が地面を這い、枯れ葉へ届く寸前の火を包んだ。

 白い霜の中で、青い光が細く消える。

 結人も立ち上がろうとした。

 脇腹が痛んだ。

 片手を石へつき、身体を支える。

「ご主人様」

 アイリスが時計を取り上げ、開いたまま差し出した。

 受け取る時、その指が震えているのが分かった。

「ありがとう。リンと一緒に」

「はい」

 リンは杖を握り、アカツキの後ろへ下がっていた。

 結人もそちらへ足を出す。

 平らだったはずの地面が、急に傾いた。

『動くでない』

 時計からフィリアの声がした。

『足元は崩れておらぬ。今、見えておる段差へ足を下ろすな』

 結人は踏み出しかけた足を戻した。

 社の戸が、三つに増えていた。

 軒が横へ長く伸び、木立の間から足音が聞こえてくる。

 一人ではなかった。

 何人もが、こちらへ上がってくるような音だった。

 けれど、石段には誰もいない。

「……また、幻か」

 結人が呟くと、白音がこちらを向いた。

「すぐ消す」

 赤い瞳が、大きく開かれていた。

「今、消すゆえ」

 九本の尾が広がった。

 増えていた戸が重なり、軒が元の長さへ戻る。

 足音も止んだ。

 その直後、白音の背後で火が膨らんだ。

「なぜじゃ……」

 白音が尾を伏せる。

 押さえ込まれた火が、その隙間から吹き出した。

 アカツキの前に薄い氷が立ち上がる。火を受けた表面から、白い湯気が流れた。

「白音、火をこちらへ向けるな」

「向けておらぬ!」

 白音の声が裏返った。

 叫んだ本人が、息を呑む。

「向けて……おらぬのじゃ」

 白い尾が、今度は彼女自身を囲んだ。

 結人たちへ伸びかけた火が、その内側へ引き戻される。

 白音の顔が歪んだ。

 片膝をつき、それでも尾を開こうとはしなかった。

「離れてくれ」

 低い声がした。

「童から、離れるのじゃ」

 リンが杖を握り直す。

「白音、もうやめるの!」

「やめようとしておる!」

 火が高くなった。

 白音はすぐに口を閉じた。

 リンの耳が伏せられたのを見て、苦しそうに首を振る。

「そなたに、怒っておるのではない」

「……分かってるの」

「違うのじゃ。童は」

 言葉が途切れるたびに、火が形を変えた。

 社が遠ざかり、木々の影が幾重にも重なる。

 結人の足元には、いつの間にか水があった。

 靴の中へ冷たさが染みてくる。

 視線を落とすと、乾いた土を踏んでいた。

 何を信じればいいのか分からなくなる、あの感覚だった。

 結人は時計を握り直した。

 けれど、前とは違うものも見えていた。

 白音は、こちらを追ってこない。

 炎が結人たちへ伸びるたびに、自分の方へ引き戻そうとしている。

 そのせいで火が彼女の周りへ溜まり、また別のところから漏れ出していた。

「……止められないんだな」

『うむ』

 フィリアは、白音から目を離していなかった。

『あやつ自身が、抑えきれなくなっておる』

 アカツキが地面へ前脚を置いた。

 霜が広がり、白音の周囲から飛び出す火を、木立へ届く前に受け止める。

 白音を囲う尾には、冷気を向けていなかった。

 火を消すたびに、また次の火が生まれた。

 アカツキの喉から、低い息が漏れる。

「結人。あれを、このままにはできぬぞ」

「分かってる」

 結人は空いた手を握った。

 あの剣なら、火を斬ることはできる。

 服へまとわりついた炎を、そこから切り離したように。

 けれど、白音の周りでは、一つの火が消える間に次の火が生まれていた。

 目に見えるものだけを消しても、終わらない。

「フィリア。火が出てくる方を、何とかしないと」

『元は、白音の中じゃ』

 短い返事だった。

『怒りも、恐れも、ほかの思いも、ほどけぬまま力を引きずっておる』

 結人は白音を見た。

 九本の尾を押さえ、肩を震わせながら、それでもこちらへ火が向かないようにしている。

 何に怒ればいいのか分からないと、彼女は言った。

 嬉しいのに、笑えないとも。

 どこからどこまでが怒りなのか。

 そのすぐ隣にある思いと、どうやって分ければいいのか。

 結人には分からなかった。

 名前をつけることさえできないものへ、あの剣を入れる。

 考えただけで、握った指に力が入った。

「……俺じゃ、間違える」

 フィリアが顔を上げた。

「火を止めたいからって、中の何かをまとめて斬ったら駄目なんだよな」

『うむ』

 結人は手を開いた。

 白音へ刃を向けることはしなかった。

「フィリア、頼めるか」

 青い瞳が、結人を見た。

 神社の前へ吹き出した火が、氷に触れて音を立てる。

 結人はその音を聞きながら、続けた。

「俺には、何を斬って何を残せばいいのか分からない。白音自身も、分からなくなってる」

『……そうじゃな』

「白音を助けてほしい」

 フィリアはすぐには頷かなかった。

 白音へ視線を戻し、その顔を見た。

 尾の隙間で、赤い瞳が揺れている。

 こちらへ何か言おうとして、火が漏れるたびに口を閉じていた。

 フィリアは、文字盤の上で立ち上がった。

『わらわが出て、見極める』

 結人は息を吐いた。

「頼む」

『おぬしらは、アカツキのそばを離れるでない』

「うん」

 結人が答える間にも、白音の周囲では炎が膨らんでいた。

 彼女は自分の腕を抱き、身体を小さくしている。

 背後の社へ火が近づくと、そちらへ尾を伸ばした。今度は結人たちの方へ漏れ、それを慌てて引き戻す。

 何かを守ろうとするたびに、別のものを傷つけかけていた。

「……もう」

 白音の声がした。

「もう、やめよ」

 誰へ向けた言葉なのかは、明らかだった。

「童は、何も命じておらぬ。誰も、傷つけとうない」

 炎は消えなかった。

 白音の肩が震える。

 その手が、自分の袖をきつく握り込んだ。

「せっかく、戻ってきたのに」

 結人の胸が詰まった。

 白音は時計を見ていた。

 炎越しに、小さなフィリアを捜していた。

「こんなことを、したかったのではない」

『白音』

 呼ばれて、彼女の顔が上がった。

『声は届いておる』

 赤い瞳が、フィリアを捉えた。

 次の瞬間、そこに怯えが浮かぶ。

 フィリアが文字盤の上で立っている。

 それだけで、白音の身体がわずかに後ろへ引けた。

 けれど、今度は目を逸らさなかった。

「……ねえさまが、出てくるのかや」

『うむ』

 白音の唇が震えた。

 尾がまた一つ、彼女を隠すように立ち上がる。

 その向こうから、途切れた声がした。

「また、怖がるかもしれぬ」

『分かっておる』

「ねえさまを見て、逃げようとするかもしれぬ」

 フィリアは、白音の方へ手を伸ばさなかった。

『それでも、助けに行きたい』

 白音は何度か、短く息を吸った。

 声を出すために息を整えているのだと、結人には分かった。

 その間も、アカツキの氷が火を受け止めていた。

 リンは杖を握ったまま、白音を見ている。

 アイリスも、結人の隣から動かなかった。

 白音の視線が、一人ずつを確かめた。

 それから、時計へ戻る。

「……止めてくれ」

 小さな声だった。

 フィリアは聞き返さなかった。

 白音が、自分の袖を握っていた手をほどく。

 震えるその手が、ほんの少し、時計のある方へ伸びた。

「ねえさま。童を、止めてくれ」

 フィリアが頷いた。

『今、行くぞ』


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