第十五話 ~白い狐は会いたかったと言えない~
「……腹が立つのじゃ」
最初に出てきたのは、その言葉だった。
白音は竹の器を両手で持ったまま、冷めた茶を見下ろしていた。
『わらわにか』
「ねえさまにも、童にも」
フィリアは答えず、続きを待った。
白音の指が、器の縁をなぞる。
「治してから来いと、童が言うた。怪我をさせたのも童じゃ。急がせてよいはずがない」
そこで一度、リンの脚へ目を向けた。
「それでも日が暮れると、今日も来なんだと思うのじゃ。便りを貰うて、まだ休んでおると知っておるのに」
結人は口を開きかけた。
白音が首を振る。
「謝るでない。おぬしらに急げと言うておるのではない」
「……うん」
「分かっておるつもりなのじゃ。それなのに、思うことまで変わらぬ」
白い尾が、地面の上でゆっくり動いた。
一本だけ、ほかとは逆の方へ曲がる。白音はそれを膝の後ろへ寄せ直した。
「来たら、何を言おうかと考えた。茶くらいは出そうとも思うた」
器の向こうで、フィリアが座っている。
白音はその顔を見て、すぐに視線を下げた。
「いざ声を聞くと、考えておったことが、どこぞへ行ってしまうのじゃ」
『……そうか』
「そうじゃ」
返事だけが、少し強かった。
風が社の屋根を撫でていく。
軒から落ちた小さな葉が、白音の尾に引っかかった。彼女はそれに気づいていないようだった。
「ねえさまは、変わらぬのう」
『そう見えるか』
「リンと話しておる時はな」
名前を呼ばれたリンが顔を上げた。
白音はその様子を見て、わずかに目を細める。
「すぐ言い返す。つまらぬことで張り合う。茶が濃いだけで文句を言う」
『茶のことまで、そこへ入れるでない』
「ほれ」
白音の口元が、少しだけ緩んだ。
けれど、笑いきる前に止まった。
「童に向かうと、手を止める」
フィリアの指が、膝の上で動かなくなった。
「そうして気を遣われると、腹が立つ。そんな顔をせずともよいと言いたくなる」
白音は器を置いた。
置いた手を、すぐには離さなかった。
「それなのに、ねえさまが手を止めると、ほっとするのじゃ」
結人は時計を見た。
フィリアは両手を膝に載せたまま、白音を見上げていた。
剣はない。
あの日のように立ち上がろうともしていない。
それでも白音の目は、時々、その手へ落ちた。
「……ほっとするのが、嫌なのじゃ」
低い声だった。
「ねえさまに近づいてほしくないわけではない。声を聞きとうないわけでもない。それなのに、手が動くと、身体が先に逃げようとする」
『白音』
「童はな」
呼びかけを遮ったあとで、白音は唇を噛んだ。
言葉を引っ込めようとしているように見えた。
けれど、今度は続けた。
「ねえさまを、怖いと思いたくはなかった」
フィリアの顔が、わずかに伏せられた。
白音はその顔を追わなかった。器から離した手を、自分の膝で握っている。
「声が聞こえた時は、夢でもよいと思うたのじゃ」
結人は、止まった炎の前に現れた白い着物を思い出した。
白音が初めて、ねえさまと呼んだ時の声も。
「人を追い返して、また眠ればよいと思うておった。そこへ、ねえさまの声がした。いるはずのない者が、目の前におった」
白音の目が、時計へ戻った。
「そのねえさまが、剣を向けた」
『……うむ』
「童を、斬る覚悟で向けたのであろう」
フィリアは、すぐには答えなかった。
白音も目を逸らさなかった。
『……そうじゃ』
結人の膝の上で、指が強張った。
けれど、口は挟まなかった。
あの場で何が起きたのかを知っている。
自分たちが、どうなりかけていたかも。
だからこそ、簡単な言葉で白音の受け取ったものを変えることはできなかった。
白音はゆっくり頷いた。
「分かっておる。童が、この者たちを傷つけた」
アイリスが、膝に置いた左腕を少し引いた。
白音の視線が、その包帯で止まる。
「逃げる道まで奪うた。退くと言うておったのに、聞かなんだ」
アイリスは腕を隠し直そうとはしなかった。
ただ、右手を左手の上へ重ねた。
「……分かっておるのじゃ」
白音の声が細くなった。
「それでも、怖かった」
『怖がらせたのは、わらわじゃ』
「……うむ」
『すまぬ』
白音は目を閉じた。
そのまま、長く息を吐く。
「謝ってほしくないわけではない」
言いながら、自分の言葉を確かめるように眉を寄せた。
「じゃが、謝られると、もう何も言えなくなる。童も悪かった。それで終わらせねばならぬような気がする」
『今、終わらせずともよい』
「……ねえさまは、待てるのかや」
『今は、ここで聞いておる』
白音はフィリアを見た。
すぐそばにいる、小さな神様を。
それから、結人たちへ順に目を向けた。
リンの脚も、アイリスの腕も、アカツキの肩も見ていた。
「童は、何に怒ればよいのじゃろうな」
返事を求める声ではなかった。
「眠りを邪魔した人間か。ねえさまか。それとも、嬉しい時にさえ、こんなことを言う童自身か」
結人は何か言おうとして、やめた。
どれか一つを選べるようには、聞こえなかった。
白音も答えを選べずにいるのだと思った。
「戻ってきたのにのう」
白音が呟く。
「ねえさまは、戻ってきた。約束したところへ、ちゃんと戻ってきた」
『うむ』
「ならば、笑えばよいではないか」
その言葉だけ、自分へ言い聞かせるようだった。
白音は顔を上げた。
笑おうとしたのだと、結人にも分かった。
けれど口元が動いただけで、目は笑わなかった。
「童は、ただ……」
背後で、小さな青い光が弾けた。
白音の肩が跳ねる。
尾の一本に灯った火が、空中で細く伸びていた。
「……違う」
白音が振り返った。
尾を引き寄せると、火はすぐに消えた。
結人は膝から手を離す。
「白音。少し休もう」
「分かっておる」
返事は早かった。
早すぎるほどだった。
「火を出すつもりではない。今のは、童が」
そこで声が止まった。
別の尾の間から、青白い火が漏れた。
白音は立ち上がった。
社からも、結人たちからも離れようとする。石段とは逆側の、木立に近い方へ二歩下がった。
火は尾から離れ、低く地面を走った。
アカツキが身体を起こす。
「皆、私の後ろへ」
冷気が地面を這い、枯れ葉へ届く寸前の火を包んだ。
白い霜の中で、青い光が細く消える。
結人も立ち上がろうとした。
脇腹が痛んだ。
片手を石へつき、身体を支える。
「ご主人様」
アイリスが時計を取り上げ、開いたまま差し出した。
受け取る時、その指が震えているのが分かった。
「ありがとう。リンと一緒に」
「はい」
リンは杖を握り、アカツキの後ろへ下がっていた。
結人もそちらへ足を出す。
平らだったはずの地面が、急に傾いた。
『動くでない』
時計からフィリアの声がした。
『足元は崩れておらぬ。今、見えておる段差へ足を下ろすな』
結人は踏み出しかけた足を戻した。
社の戸が、三つに増えていた。
軒が横へ長く伸び、木立の間から足音が聞こえてくる。
一人ではなかった。
何人もが、こちらへ上がってくるような音だった。
けれど、石段には誰もいない。
「……また、幻か」
結人が呟くと、白音がこちらを向いた。
「すぐ消す」
赤い瞳が、大きく開かれていた。
「今、消すゆえ」
九本の尾が広がった。
増えていた戸が重なり、軒が元の長さへ戻る。
足音も止んだ。
その直後、白音の背後で火が膨らんだ。
「なぜじゃ……」
白音が尾を伏せる。
押さえ込まれた火が、その隙間から吹き出した。
アカツキの前に薄い氷が立ち上がる。火を受けた表面から、白い湯気が流れた。
「白音、火をこちらへ向けるな」
「向けておらぬ!」
白音の声が裏返った。
叫んだ本人が、息を呑む。
「向けて……おらぬのじゃ」
白い尾が、今度は彼女自身を囲んだ。
結人たちへ伸びかけた火が、その内側へ引き戻される。
白音の顔が歪んだ。
片膝をつき、それでも尾を開こうとはしなかった。
「離れてくれ」
低い声がした。
「童から、離れるのじゃ」
リンが杖を握り直す。
「白音、もうやめるの!」
「やめようとしておる!」
火が高くなった。
白音はすぐに口を閉じた。
リンの耳が伏せられたのを見て、苦しそうに首を振る。
「そなたに、怒っておるのではない」
「……分かってるの」
「違うのじゃ。童は」
言葉が途切れるたびに、火が形を変えた。
社が遠ざかり、木々の影が幾重にも重なる。
結人の足元には、いつの間にか水があった。
靴の中へ冷たさが染みてくる。
視線を落とすと、乾いた土を踏んでいた。
何を信じればいいのか分からなくなる、あの感覚だった。
結人は時計を握り直した。
けれど、前とは違うものも見えていた。
白音は、こちらを追ってこない。
炎が結人たちへ伸びるたびに、自分の方へ引き戻そうとしている。
そのせいで火が彼女の周りへ溜まり、また別のところから漏れ出していた。
「……止められないんだな」
『うむ』
フィリアは、白音から目を離していなかった。
『あやつ自身が、抑えきれなくなっておる』
アカツキが地面へ前脚を置いた。
霜が広がり、白音の周囲から飛び出す火を、木立へ届く前に受け止める。
白音を囲う尾には、冷気を向けていなかった。
火を消すたびに、また次の火が生まれた。
アカツキの喉から、低い息が漏れる。
「結人。あれを、このままにはできぬぞ」
「分かってる」
結人は空いた手を握った。
あの剣なら、火を斬ることはできる。
服へまとわりついた炎を、そこから切り離したように。
けれど、白音の周りでは、一つの火が消える間に次の火が生まれていた。
目に見えるものだけを消しても、終わらない。
「フィリア。火が出てくる方を、何とかしないと」
『元は、白音の中じゃ』
短い返事だった。
『怒りも、恐れも、ほかの思いも、ほどけぬまま力を引きずっておる』
結人は白音を見た。
九本の尾を押さえ、肩を震わせながら、それでもこちらへ火が向かないようにしている。
何に怒ればいいのか分からないと、彼女は言った。
嬉しいのに、笑えないとも。
どこからどこまでが怒りなのか。
そのすぐ隣にある思いと、どうやって分ければいいのか。
結人には分からなかった。
名前をつけることさえできないものへ、あの剣を入れる。
考えただけで、握った指に力が入った。
「……俺じゃ、間違える」
フィリアが顔を上げた。
「火を止めたいからって、中の何かをまとめて斬ったら駄目なんだよな」
『うむ』
結人は手を開いた。
白音へ刃を向けることはしなかった。
「フィリア、頼めるか」
青い瞳が、結人を見た。
神社の前へ吹き出した火が、氷に触れて音を立てる。
結人はその音を聞きながら、続けた。
「俺には、何を斬って何を残せばいいのか分からない。白音自身も、分からなくなってる」
『……そうじゃな』
「白音を助けてほしい」
フィリアはすぐには頷かなかった。
白音へ視線を戻し、その顔を見た。
尾の隙間で、赤い瞳が揺れている。
こちらへ何か言おうとして、火が漏れるたびに口を閉じていた。
フィリアは、文字盤の上で立ち上がった。
『わらわが出て、見極める』
結人は息を吐いた。
「頼む」
『おぬしらは、アカツキのそばを離れるでない』
「うん」
結人が答える間にも、白音の周囲では炎が膨らんでいた。
彼女は自分の腕を抱き、身体を小さくしている。
背後の社へ火が近づくと、そちらへ尾を伸ばした。今度は結人たちの方へ漏れ、それを慌てて引き戻す。
何かを守ろうとするたびに、別のものを傷つけかけていた。
「……もう」
白音の声がした。
「もう、やめよ」
誰へ向けた言葉なのかは、明らかだった。
「童は、何も命じておらぬ。誰も、傷つけとうない」
炎は消えなかった。
白音の肩が震える。
その手が、自分の袖をきつく握り込んだ。
「せっかく、戻ってきたのに」
結人の胸が詰まった。
白音は時計を見ていた。
炎越しに、小さなフィリアを捜していた。
「こんなことを、したかったのではない」
『白音』
呼ばれて、彼女の顔が上がった。
『声は届いておる』
赤い瞳が、フィリアを捉えた。
次の瞬間、そこに怯えが浮かぶ。
フィリアが文字盤の上で立っている。
それだけで、白音の身体がわずかに後ろへ引けた。
けれど、今度は目を逸らさなかった。
「……ねえさまが、出てくるのかや」
『うむ』
白音の唇が震えた。
尾がまた一つ、彼女を隠すように立ち上がる。
その向こうから、途切れた声がした。
「また、怖がるかもしれぬ」
『分かっておる』
「ねえさまを見て、逃げようとするかもしれぬ」
フィリアは、白音の方へ手を伸ばさなかった。
『それでも、助けに行きたい』
白音は何度か、短く息を吸った。
声を出すために息を整えているのだと、結人には分かった。
その間も、アカツキの氷が火を受け止めていた。
リンは杖を握ったまま、白音を見ている。
アイリスも、結人の隣から動かなかった。
白音の視線が、一人ずつを確かめた。
それから、時計へ戻る。
「……止めてくれ」
小さな声だった。
フィリアは聞き返さなかった。
白音が、自分の袖を握っていた手をほどく。
震えるその手が、ほんの少し、時計のある方へ伸びた。
「ねえさま。童を、止めてくれ」
フィリアが頷いた。
『今、行くぞ』




