第十四話 ~神様は帰ると言った場所へ戻る~
石段が見えたところで、結人は足を止めた。
「ここで、もう一回休もう」
返事を待たず、道端の倒木へ腰を下ろす。脇腹をかばってゆっくり息を吐くと、隣でアイリスも荷物を置いた。
山へ戻ることになったのは、焼き菓子が届いてから、さらに五日が過ぎてからだった。
痛みがなくなったわけではない。
けれど、途中で休み、帰りも馬車を使うならと、ようやく出かけることを許された。
荷物はできるだけ減らした。
地図と、組合から預かった書き付け。水と食べ物。それから、布で包んだ焼き菓子。
川辺で馬車を降りてからは、急がずに歩いてきた。
「リンは?」
「平気なの」
声は、アカツキの背から返ってきた。
長く歩くのはまだ避けるように言われているリンは、人目がなくなったところで、大きな姿へ戻ったアカツキに乗せてもらっていた。
白銀の毛並みには、まだ傷の跡が残っている。
「アカツキも、痛かったら言うの」
「分かっておる」
「ほんとに?」
「おぬしもな」
「……分かってるの」
アカツキは倒木のそばへ伏せた。
結人も、もう立とうとはしなかった。
木々の向こうから、川の音が聞こえている。風が通ると葉が擦れ、その少しあとで、頭の上の枝が揺れた。
聞こえた音のある方を見れば、ちゃんと理由が分かる。
結人はしばらく、揺れる枝を見上げていた。
「……前も、こうだったんだよな」
「何がですか?」
「森の音」
アイリスが耳を澄ませる。
「今は、近いものと遠いものが分かりますね」
「うん」
リンの耳も、ゆっくり動いていた。
「川は、あっちなの」
振り返らずに指す。
「鳥は上。今、二羽飛んでったの」
「そっか」
結人は膝に手を置いて立ち上がった。
石段は、すぐそこだった。
◇
「白音」
下から呼びかけると、社の軒下で白いものが動いた。
白髪の少女が顔を上げる。
背後には、幾重にも重なった白い尾があった。
「結人だ。来たよ」
「……見えておる」
白音は石段の上まで歩いてきた。
結人を見て、アイリスを見て、それからアカツキの背のリンへ目を向ける。
「上がってよい。急がずとも、社は逃げぬ」
「それは助かる」
結人が答えると、白音は少しだけ眉を動かした。
笑ったのかどうかは、よく分からなかった。
石段を上がりきったところで、アカツキが背を低くする。
リンは差し出された杖を受け取り、左足から地面へ下ろした。
「そこへ座れ」
白音が指した軒下には、布が畳んで置かれていた。
そのそばに、口の形が少しずつ違う竹の器が並んでいる。土瓶からは、細く湯気が上がっていた。
「用意してくれてたんだ」
「来ると、知らせがあったからの」
それだけ言って、白音は布の端を直した。
リンが右脚を楽に置けるのを確かめ、少し離れる。
「……ねえさまも、おるのかや」
結人が胸元へ手を伸ばすより先に、時計から声がした。
『おるぞ』
白音の耳が動いた。
結人は懐中時計を取り出し、平らな石の上へ置いた。
「ここ、借りるね」
「うむ」
蓋を開く。
文字盤の上に、淡い青の髪が現れた。
フィリアは小さな姿で座り、白音を見上げていた。
『戻ったぞ』
白音はすぐには答えなかった。
視線が、フィリアの顔から袖へ下りる。
膝の上に置かれた両手を見てから、もう一度、顔へ戻った。
「……戻って、きたのじゃな」
『うむ』
「そうか」
白音はそれだけ言って、土瓶の方へ向き直った。
持ち手へ伸ばした指が、少しだけ迷った。
「先に、話をするかや」
「うん。持ってきたものがあるんだ」
結人は荷物から地図を取り出した。
地図を広げると、白音は膝をついて覗き込んだ。
神社の印を見つけ、その裏手から尾根へ指を滑らせる。
「ここが、沢か」
「そう聞いてる。違う?」
「いや。こちらへ曲がって流れておる」
白音の指が、その少し上で止まった。
「この岩場の下にも、洞は続いておる。外から見える口だけではないぞ」
アイリスが身を寄せ、指された場所へ小さく印をつけた。
組合が引いた大きな線は、その岩場も内側に含んでいた。
「この辺りでは、作業をしないことになった。石も、しばらくは別のところから運ぶって」
「……ここを削るのは、やめるのかや」
「うん。この山で新しい石場を探すのも、やめるそうだ」
白音は結人を見た。
「それで、人の町は困らぬのか」
「困るって言ってた」
結人は正直に答えた。
「運ぶのに時間がかかるし、お金も余計にかかる。だから、工事の順番を変えるって」
「そうか」
「でも、そのやり方で進めることにしてくれた」
白音は地図へ目を戻した。
細い線を、爪の先でたどる。
その先には、途中で消された道があった。
「これは?」
「最初に通そうとしてた道。神社の方へは来ないように、考え直すって」
白音は長い間、その線を見ていた。
やがて、神社を囲む広い方の線へ指を置く。
「……この中へ、土を掘る者を入れんでくれ」
「分かった。この範囲でいいんだね」
「うむ。童の寝所は、この中に収まっておる」
アイリスが、白音の返事を書き留めた。
結人は別の紙を開く。
「それと、組合から頼みがある」
白音の指が止まった。
「山へ入る人には知らせるし、分かれ道にも札を立てる。でも、知らない人や、迷って来る人までは止めきれないかもしれない」
「……来た者を、すべて通せと言うのかや」
「まず声をかけて、引き返させてほしいんだ」
結人は、神社へ続く石段を見た。
「帰ろうとしてる相手の道は、残しておいてほしい」
リンが、膝に置いていた手を開いた。
「道が分からなくなるの、怖いの」
白音がそちらを見る。
「音も匂いも、どっちへ行けばいいのか教えてくれなかったの」
リンは白音を見ていた。
責めるために声を張ることも、笑って済ませることもしなかった。
白音は、少しずつ視線を下げた。
「……次は、先に声をかけよう」
九本の尾のうち、一つが地面を撫でた。
「退く者は追わぬ。道も塞がぬ」
「うん」
リンが頷く。
結人も、息を吐いてから頷いた。
「ありがとう。それを伝える」
紙の端を押さえていた白音の手は、まだ動かなかった。
「……あの小屋におった者たちは」
「みんな町に戻ってる。手当ても受けてるよ」
「傷は」
「まだ治ってない人もいる。すぐ仕事に戻れるわけじゃないって」
白音は目を伏せた。
社の前を風が抜け、紙の角が持ち上がる。
彼女はそれを押さえ直した。
「火を向けた者たちにも……すまなんだと、伝えてくれ」
「分かった」
結人は答えた。
「そのまま、伝える」
白音は小さく頷いた。
それから結人は、欠けた皿を直す手配ならできるという、親方からの申し出も伝えた。
白音は社の脇へ目を向けた。
裏手へ回る細い道は、静かだった。
「皿は、そのままでよい」
「いいの?」
「そこまで人を通す気には、まだなれぬ」
「……そっか」
結人は、それ以上勧めなかった。
「じゃあ、そう返事をしておく」
白音が頷くのを待って、紙を重ねた。
地図を畳みかけた時、白音の指が、もう一度その端へ触れた。
「何?」
「そこに」
神社の脇に書かれた字を指す。
「童の名がある」
「ここに住んでるのが誰か、分かるようにね」
「……そうか」
白音は、その字をしばらく見ていた。
今度は指を離すまで、結人も地図を畳まなかった。
話が一段落すると、白音が竹の器へ茶を注いだ。
少し青い、草の匂いがする。
結人とアイリスとリン。それから、白音自身の分。
最後の一つを持ち上げたところで、白音の手が止まった。
器の向こうにいるのは、文字盤の上の小さなフィリアだった。
「……これは」
『わらわの分も、用意してくれたのか』
「前は、出さねば文句を言うたであろう」
『そうじゃったかの』
「そうじゃ」
白音は器を下ろしかけた。
結人が口を開く。
「味と香りなら、渡せるよ」
赤い瞳がこちらを向いた。
「供えるような感じで。飲み物そのものは残るけど、フィリアも味は分かるんだ」
「……ねえさま」
『うむ。おぬしがよいなら、貰おうかの』
白音は器を持ち直した。
時計のすぐ前まで運びかけ、少し手前へ置く。
「冷めてしまうぞ」
『では、いただこう』
フィリアが目を閉じた。
竹の器から上がる湯気が、ゆっくりとほどけていく。
白音は何も言わず、その顔を見ていた。
『……ちと、濃いの』
「ねえさまが、薄い茶は湯と変わらぬと言うたからじゃ」
『そこまで濃くせよとは言うておらぬ』
「文句の多い神様じゃのう」
言ってから、白音は口を閉じた。
フィリアが顔を上げる。
その拍子に袖が動くと、白音の指が器の縁で止まった。
一瞬だけだった。
けれど、フィリアは動かしかけた手を、そのまま膝へ戻した。
『……湯を、少し足してくれぬか』
白音は俯き、土瓶のそばにあった別の器へ手を伸ばした。
「それくらいなら、最初から言えばよい」
『今、言うたであろう』
足された湯が、茶の表面を揺らした。
結人はその揺れが収まってから、布包みを膝へ載せた。
「こっちも、開けていい?」
「何じゃ、それは」
「町で買ってきた」
紐を引くと、結び目がほどけた。
布の中から焼き菓子を取り出す。
リンの耳が立った。
「ようやく食べるの」
「宿でも別の分、食べてたでしょ」
「これは食べてないの」
「同じ店のやつだよ」
「これは山で食べるの」
「それは違うのか」
「違うの」
結人は笑い、菓子を一つずつ渡した。
白音は差し出されたものを見てから、結人を見た。
「童にもか」
「持ってきた相手に渡さなかったら、何しに持ってきたのか分かんないよ」
「……それは、そうじゃな」
白音は菓子を受け取った。
すぐには口へ運ばず、焼き色のついた表面を眺めている。
「フィリアも、甘いものは好きだろうって言ってた」
白音の視線が、時計へ移った。
「覚えておったのかや」
『それくらいは、覚えておる』
白音はもう一度、手の中を見た。
小さくかじる。
少し間を置いて、もう一口食べた。
「……甘いのう」
「苦手だった?」
「いや」
返事は早かった。
リンが、自分の荷物を探る。
「肉もあるの」
「そっちも出すんだ」
「白音、肉は食べるの?」
「食うが」
「なら、これもなの」
干し肉を差し出され、白音は菓子を持った手と、空いている方の手を見比べた。
「そなた、どれほど食わせるつもりじゃ」
「食べられる分なの」
「童の食べられる量を、知っておるのかや」
「知らないの」
「ならば、一度に渡すでない」
リンは一瞬考え、干し肉を包みの上へ置いた。
「ここに置いておくの」
「……うむ」
その横から、アカツキが鼻を寄せる。
「そっちは白音のなの」
「匂いを見ただけだ」
「アカツキのは、こっちなの」
「分かっておる」
白音は二人を見ていた。
それから、自分のそばの干し肉へ目を戻し、小さく息を漏らした。
笑ったのだと、今度は分かった。
茶を飲みながら、リンは白い尾を見ていた。
白音が少し姿勢を変えると、地面に広がっていた尾が、それぞれ違う方へ動く。
「……やっぱり、九本あるの」
「数は減らぬぞ」
「寝る時、どうするの?」
「どう、とは」
「顔にかかったり、絡まったりしないの?」
白音は自分の尾を振り返った。
一本を身体の脇へ寄せ、別の一本をその上へ重ねる。
「こうして置けばよかろう。寒ければ、かぶる」
リンの耳が、ぴんと立った。
「あったかそうなの」
「冬には便利じゃな」
リンは自分の紅い尾を見た。
それから、白音の尾へもう一度目を向ける。
「……九本、便利なの」
「手入れも九本分じゃぞ」
「それは大変なの」
今度の返事は、ひどく真剣だった。
アイリスが口元を押さえる。
「リンさんは、一本でも乾かすのに困っていましたものね」
「あれは、街のお湯がいっぱいあったからなの」
「尻尾が濡れたのは、お湯の量のせいではないと思いますけど」
「全部洗うって言ったのは、アイリスなの」
「洗わなくてよいところはありませんでしたから」
結人は茶を飲みながら、二人のやり取りを聞いた。
白音も聞いていた。
時々、菓子をかじる。
そのたびに、時計の方へ視線が戻っていた。
フィリアもそこにいた。
話に口を挟み、リンに言い返され、いつものように鼻を鳴らす。
白音は、その声がするたびに耳を向けた。
自分の茶が冷めていることには、まだ気づいていないようだった。
軒の影が、少しずつ長くなっていた。
アイリスが空になった包みを畳み始めると、白音が顔を上げた。
「……もう、戻るのかや」
「そろそろ支度はしておこうかと思って」
結人は石段の向こうを見る。
「帰りも休みながらになるし、川辺で馬車を待たせてるから」
「そうか」
白音は器を置いた。
置いたあとで、まだ茶が残っているのを見て、もう一度手に取った。
「町では、まだ休むのか」
「うん。組合に返事も届けるし、怪我も、もう少し治したい」
「そのあとは」
結人が白音を見る。
赤い瞳は、地図をしまった袋へ向いていた。
「……また、旅に出るのかや」
「そのつもりだよ」
結人は答えた。
「リンの家族も、捜さないといけないから」
リンが頷いた。
「お父さんと、お母さんなの」
白音はリンを見た。
膝に載せた手と、その下の脚を見てから、ゆっくり頷く。
「……そうか。それは、捜さねばならぬな」
「うん」
リンの返事を聞き終えてから、白音は時計へ目を向けた。
「ねえさまも」
フィリアは、すぐには答えなかった。
白音の手が、器を包み直す。
『……わらわも、こやつらと行く』
「そう、じゃな」
白音は頷いた。
分かっていた、というように。
それでも、器を持った手は動かなかった。
結人は畳みかけていた布を膝へ戻した。
「白音」
「何じゃ」
「まだ、少しならいられるよ」
白音が顔を上げた。
結人はリンを見る。
「川まで、暗くなる前に戻れる?」
リンは空を見て、木々の影へ目を落とした。
「もう少しなら、大丈夫なの」
「そっか」
結人は、布を横へ置いた。
白音は何かを言いかけた。
けれど、声にならないまま、唇を閉じる。
その視線が時計へ戻った時、フィリアが口を開いた。
『白音』
「……うむ」
『もう少し、ここにおる』
九本の尾が、かすかに動いた。
白音は目を伏せる。
「冷めた茶しか、残っておらぬぞ」
「俺は、それで平気」
「わたくしも」
アイリスが答えると、リンも頷いた。
白音は土瓶を持ち上げ、残っていた茶を器へ分けた。
今度は、フィリアの分をどこへ置くか迷わなかった。
時計の少し手前。
先ほどと同じ場所へ、静かに置く。
そこから手を離すまでに、少し時間がかかった。
「……戻ってきたら」
白音が言った。
誰も、先を促さなかった。
「言おうと思うておったことが、あるのじゃ」
『うむ』
「あるはずなのにのう」
白音は器へ目を落とした。
水面に映った白い髪が、細かく揺れていた。
フィリアは膝の上に両手を置いたまま、待っていた。
白音が、次の言葉を見つけるまで。




