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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十四話 ~神様は帰ると言った場所へ戻る~

 石段が見えたところで、結人は足を止めた。

「ここで、もう一回休もう」

 返事を待たず、道端の倒木へ腰を下ろす。脇腹をかばってゆっくり息を吐くと、隣でアイリスも荷物を置いた。

 山へ戻ることになったのは、焼き菓子が届いてから、さらに五日が過ぎてからだった。

 痛みがなくなったわけではない。

 けれど、途中で休み、帰りも馬車を使うならと、ようやく出かけることを許された。

 荷物はできるだけ減らした。

 地図と、組合から預かった書き付け。水と食べ物。それから、布で包んだ焼き菓子。

 川辺で馬車を降りてからは、急がずに歩いてきた。

「リンは?」

「平気なの」

 声は、アカツキの背から返ってきた。

 長く歩くのはまだ避けるように言われているリンは、人目がなくなったところで、大きな姿へ戻ったアカツキに乗せてもらっていた。

 白銀の毛並みには、まだ傷の跡が残っている。

「アカツキも、痛かったら言うの」

「分かっておる」

「ほんとに?」

「おぬしもな」

「……分かってるの」

 アカツキは倒木のそばへ伏せた。

 結人も、もう立とうとはしなかった。

 木々の向こうから、川の音が聞こえている。風が通ると葉が擦れ、その少しあとで、頭の上の枝が揺れた。

 聞こえた音のある方を見れば、ちゃんと理由が分かる。

 結人はしばらく、揺れる枝を見上げていた。

「……前も、こうだったんだよな」

「何がですか?」

「森の音」

 アイリスが耳を澄ませる。

「今は、近いものと遠いものが分かりますね」

「うん」

 リンの耳も、ゆっくり動いていた。

「川は、あっちなの」

 振り返らずに指す。

「鳥は上。今、二羽飛んでったの」

「そっか」

 結人は膝に手を置いて立ち上がった。

 石段は、すぐそこだった。


 ◇


「白音」

 下から呼びかけると、社の軒下で白いものが動いた。

 白髪の少女が顔を上げる。

 背後には、幾重にも重なった白い尾があった。

「結人だ。来たよ」

「……見えておる」

 白音は石段の上まで歩いてきた。

 結人を見て、アイリスを見て、それからアカツキの背のリンへ目を向ける。

「上がってよい。急がずとも、社は逃げぬ」

「それは助かる」

 結人が答えると、白音は少しだけ眉を動かした。

 笑ったのかどうかは、よく分からなかった。

 石段を上がりきったところで、アカツキが背を低くする。

 リンは差し出された杖を受け取り、左足から地面へ下ろした。

「そこへ座れ」

 白音が指した軒下には、布が畳んで置かれていた。

 そのそばに、口の形が少しずつ違う竹の器が並んでいる。土瓶からは、細く湯気が上がっていた。

「用意してくれてたんだ」

「来ると、知らせがあったからの」

 それだけ言って、白音は布の端を直した。

 リンが右脚を楽に置けるのを確かめ、少し離れる。

「……ねえさまも、おるのかや」

 結人が胸元へ手を伸ばすより先に、時計から声がした。

『おるぞ』

 白音の耳が動いた。

 結人は懐中時計を取り出し、平らな石の上へ置いた。

「ここ、借りるね」

「うむ」

 蓋を開く。

 文字盤の上に、淡い青の髪が現れた。

 フィリアは小さな姿で座り、白音を見上げていた。

『戻ったぞ』

 白音はすぐには答えなかった。

 視線が、フィリアの顔から袖へ下りる。

 膝の上に置かれた両手を見てから、もう一度、顔へ戻った。

「……戻って、きたのじゃな」

『うむ』

「そうか」

 白音はそれだけ言って、土瓶の方へ向き直った。

 持ち手へ伸ばした指が、少しだけ迷った。

「先に、話をするかや」

「うん。持ってきたものがあるんだ」

 結人は荷物から地図を取り出した。


 地図を広げると、白音は膝をついて覗き込んだ。

 神社の印を見つけ、その裏手から尾根へ指を滑らせる。

「ここが、沢か」

「そう聞いてる。違う?」

「いや。こちらへ曲がって流れておる」

 白音の指が、その少し上で止まった。

「この岩場の下にも、洞は続いておる。外から見える口だけではないぞ」

 アイリスが身を寄せ、指された場所へ小さく印をつけた。

 組合が引いた大きな線は、その岩場も内側に含んでいた。

「この辺りでは、作業をしないことになった。石も、しばらくは別のところから運ぶって」

「……ここを削るのは、やめるのかや」

「うん。この山で新しい石場を探すのも、やめるそうだ」

 白音は結人を見た。

「それで、人の町は困らぬのか」

「困るって言ってた」

 結人は正直に答えた。

「運ぶのに時間がかかるし、お金も余計にかかる。だから、工事の順番を変えるって」

「そうか」

「でも、そのやり方で進めることにしてくれた」

 白音は地図へ目を戻した。

 細い線を、爪の先でたどる。

 その先には、途中で消された道があった。

「これは?」

「最初に通そうとしてた道。神社の方へは来ないように、考え直すって」

 白音は長い間、その線を見ていた。

 やがて、神社を囲む広い方の線へ指を置く。

「……この中へ、土を掘る者を入れんでくれ」

「分かった。この範囲でいいんだね」

「うむ。童の寝所は、この中に収まっておる」

 アイリスが、白音の返事を書き留めた。

 結人は別の紙を開く。

「それと、組合から頼みがある」

 白音の指が止まった。

「山へ入る人には知らせるし、分かれ道にも札を立てる。でも、知らない人や、迷って来る人までは止めきれないかもしれない」

「……来た者を、すべて通せと言うのかや」

「まず声をかけて、引き返させてほしいんだ」

 結人は、神社へ続く石段を見た。

「帰ろうとしてる相手の道は、残しておいてほしい」

 リンが、膝に置いていた手を開いた。

「道が分からなくなるの、怖いの」

 白音がそちらを見る。

「音も匂いも、どっちへ行けばいいのか教えてくれなかったの」

 リンは白音を見ていた。

 責めるために声を張ることも、笑って済ませることもしなかった。

 白音は、少しずつ視線を下げた。

「……次は、先に声をかけよう」

 九本の尾のうち、一つが地面を撫でた。

「退く者は追わぬ。道も塞がぬ」

「うん」

 リンが頷く。

 結人も、息を吐いてから頷いた。

「ありがとう。それを伝える」

 紙の端を押さえていた白音の手は、まだ動かなかった。

「……あの小屋におった者たちは」

「みんな町に戻ってる。手当ても受けてるよ」

「傷は」

「まだ治ってない人もいる。すぐ仕事に戻れるわけじゃないって」

 白音は目を伏せた。

 社の前を風が抜け、紙の角が持ち上がる。

 彼女はそれを押さえ直した。

「火を向けた者たちにも……すまなんだと、伝えてくれ」

「分かった」

 結人は答えた。

「そのまま、伝える」

 白音は小さく頷いた。

 それから結人は、欠けた皿を直す手配ならできるという、親方からの申し出も伝えた。

 白音は社の脇へ目を向けた。

 裏手へ回る細い道は、静かだった。

「皿は、そのままでよい」

「いいの?」

「そこまで人を通す気には、まだなれぬ」

「……そっか」

 結人は、それ以上勧めなかった。

「じゃあ、そう返事をしておく」

 白音が頷くのを待って、紙を重ねた。

 地図を畳みかけた時、白音の指が、もう一度その端へ触れた。

「何?」

「そこに」

 神社の脇に書かれた字を指す。

「童の名がある」

「ここに住んでるのが誰か、分かるようにね」

「……そうか」

 白音は、その字をしばらく見ていた。

 今度は指を離すまで、結人も地図を畳まなかった。


 話が一段落すると、白音が竹の器へ茶を注いだ。

 少し青い、草の匂いがする。

 結人とアイリスとリン。それから、白音自身の分。

 最後の一つを持ち上げたところで、白音の手が止まった。

 器の向こうにいるのは、文字盤の上の小さなフィリアだった。

「……これは」

『わらわの分も、用意してくれたのか』

「前は、出さねば文句を言うたであろう」

『そうじゃったかの』

「そうじゃ」

 白音は器を下ろしかけた。

 結人が口を開く。

「味と香りなら、渡せるよ」

 赤い瞳がこちらを向いた。

「供えるような感じで。飲み物そのものは残るけど、フィリアも味は分かるんだ」

「……ねえさま」

『うむ。おぬしがよいなら、貰おうかの』

 白音は器を持ち直した。

 時計のすぐ前まで運びかけ、少し手前へ置く。

「冷めてしまうぞ」

『では、いただこう』

 フィリアが目を閉じた。

 竹の器から上がる湯気が、ゆっくりとほどけていく。

 白音は何も言わず、その顔を見ていた。

『……ちと、濃いの』

「ねえさまが、薄い茶は湯と変わらぬと言うたからじゃ」

『そこまで濃くせよとは言うておらぬ』

「文句の多い神様じゃのう」

 言ってから、白音は口を閉じた。

 フィリアが顔を上げる。

 その拍子に袖が動くと、白音の指が器の縁で止まった。

 一瞬だけだった。

 けれど、フィリアは動かしかけた手を、そのまま膝へ戻した。

『……湯を、少し足してくれぬか』

 白音は俯き、土瓶のそばにあった別の器へ手を伸ばした。

「それくらいなら、最初から言えばよい」

『今、言うたであろう』

 足された湯が、茶の表面を揺らした。

 結人はその揺れが収まってから、布包みを膝へ載せた。

「こっちも、開けていい?」

「何じゃ、それは」

「町で買ってきた」

 紐を引くと、結び目がほどけた。

 布の中から焼き菓子を取り出す。

 リンの耳が立った。

「ようやく食べるの」

「宿でも別の分、食べてたでしょ」

「これは食べてないの」

「同じ店のやつだよ」

「これは山で食べるの」

「それは違うのか」

「違うの」

 結人は笑い、菓子を一つずつ渡した。

 白音は差し出されたものを見てから、結人を見た。

「童にもか」

「持ってきた相手に渡さなかったら、何しに持ってきたのか分かんないよ」

「……それは、そうじゃな」

 白音は菓子を受け取った。

 すぐには口へ運ばず、焼き色のついた表面を眺めている。

「フィリアも、甘いものは好きだろうって言ってた」

 白音の視線が、時計へ移った。

「覚えておったのかや」

『それくらいは、覚えておる』

 白音はもう一度、手の中を見た。

 小さくかじる。

 少し間を置いて、もう一口食べた。

「……甘いのう」

「苦手だった?」

「いや」

 返事は早かった。

 リンが、自分の荷物を探る。

「肉もあるの」

「そっちも出すんだ」

「白音、肉は食べるの?」

「食うが」

「なら、これもなの」

 干し肉を差し出され、白音は菓子を持った手と、空いている方の手を見比べた。

「そなた、どれほど食わせるつもりじゃ」

「食べられる分なの」

「童の食べられる量を、知っておるのかや」

「知らないの」

「ならば、一度に渡すでない」

 リンは一瞬考え、干し肉を包みの上へ置いた。

「ここに置いておくの」

「……うむ」

 その横から、アカツキが鼻を寄せる。

「そっちは白音のなの」

「匂いを見ただけだ」

「アカツキのは、こっちなの」

「分かっておる」

 白音は二人を見ていた。

 それから、自分のそばの干し肉へ目を戻し、小さく息を漏らした。

 笑ったのだと、今度は分かった。


 茶を飲みながら、リンは白い尾を見ていた。

 白音が少し姿勢を変えると、地面に広がっていた尾が、それぞれ違う方へ動く。

「……やっぱり、九本あるの」

「数は減らぬぞ」

「寝る時、どうするの?」

「どう、とは」

「顔にかかったり、絡まったりしないの?」

 白音は自分の尾を振り返った。

 一本を身体の脇へ寄せ、別の一本をその上へ重ねる。

「こうして置けばよかろう。寒ければ、かぶる」

 リンの耳が、ぴんと立った。

「あったかそうなの」

「冬には便利じゃな」

 リンは自分の紅い尾を見た。

 それから、白音の尾へもう一度目を向ける。

「……九本、便利なの」

「手入れも九本分じゃぞ」

「それは大変なの」

 今度の返事は、ひどく真剣だった。

 アイリスが口元を押さえる。

「リンさんは、一本でも乾かすのに困っていましたものね」

「あれは、街のお湯がいっぱいあったからなの」

「尻尾が濡れたのは、お湯の量のせいではないと思いますけど」

「全部洗うって言ったのは、アイリスなの」

「洗わなくてよいところはありませんでしたから」

 結人は茶を飲みながら、二人のやり取りを聞いた。

 白音も聞いていた。

 時々、菓子をかじる。

 そのたびに、時計の方へ視線が戻っていた。

 フィリアもそこにいた。

 話に口を挟み、リンに言い返され、いつものように鼻を鳴らす。

 白音は、その声がするたびに耳を向けた。

 自分の茶が冷めていることには、まだ気づいていないようだった。


 軒の影が、少しずつ長くなっていた。

 アイリスが空になった包みを畳み始めると、白音が顔を上げた。

「……もう、戻るのかや」

「そろそろ支度はしておこうかと思って」

 結人は石段の向こうを見る。

「帰りも休みながらになるし、川辺で馬車を待たせてるから」

「そうか」

 白音は器を置いた。

 置いたあとで、まだ茶が残っているのを見て、もう一度手に取った。

「町では、まだ休むのか」

「うん。組合に返事も届けるし、怪我も、もう少し治したい」

「そのあとは」

 結人が白音を見る。

 赤い瞳は、地図をしまった袋へ向いていた。

「……また、旅に出るのかや」

「そのつもりだよ」

 結人は答えた。

「リンの家族も、捜さないといけないから」

 リンが頷いた。

「お父さんと、お母さんなの」

 白音はリンを見た。

 膝に載せた手と、その下の脚を見てから、ゆっくり頷く。

「……そうか。それは、捜さねばならぬな」

「うん」

 リンの返事を聞き終えてから、白音は時計へ目を向けた。

「ねえさまも」

 フィリアは、すぐには答えなかった。

 白音の手が、器を包み直す。

『……わらわも、こやつらと行く』

「そう、じゃな」

 白音は頷いた。

 分かっていた、というように。

 それでも、器を持った手は動かなかった。

 結人は畳みかけていた布を膝へ戻した。

「白音」

「何じゃ」

「まだ、少しならいられるよ」

 白音が顔を上げた。

 結人はリンを見る。

「川まで、暗くなる前に戻れる?」

 リンは空を見て、木々の影へ目を落とした。

「もう少しなら、大丈夫なの」

「そっか」

 結人は、布を横へ置いた。

 白音は何かを言いかけた。

 けれど、声にならないまま、唇を閉じる。

 その視線が時計へ戻った時、フィリアが口を開いた。

『白音』

「……うむ」

『もう少し、ここにおる』

 九本の尾が、かすかに動いた。

 白音は目を伏せる。

「冷めた茶しか、残っておらぬぞ」

「俺は、それで平気」

「わたくしも」

 アイリスが答えると、リンも頷いた。

 白音は土瓶を持ち上げ、残っていた茶を器へ分けた。

 今度は、フィリアの分をどこへ置くか迷わなかった。

 時計の少し手前。

 先ほどと同じ場所へ、静かに置く。

 そこから手を離すまでに、少し時間がかかった。

「……戻ってきたら」

 白音が言った。

 誰も、先を促さなかった。

「言おうと思うておったことが、あるのじゃ」

『うむ』

「あるはずなのにのう」

 白音は器へ目を落とした。

 水面に映った白い髪が、細かく揺れていた。

 フィリアは膝の上に両手を置いたまま、待っていた。

 白音が、次の言葉を見つけるまで。


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