第十三話 ~新しい道は誰かの寝床を避けて通る~
寝返りを打とうとして、結人は途中でやめた。
「……やめとこ」
『先ほども同じことを言うておったぞ』
「さっきより動けるかなって」
『そう何度も試すでない』
枕元に置いた懐中時計は、蓋を開けたままだった。文字盤の上では、フィリアが膝に頬杖をついている。
町へ戻れたのは、昨日の夕方だった。
川辺で荷車へ移され、揺れるたびに脇腹を押さえながら町へ入り、そのまま怪我を診てもらった。宿の寝台へ横になった頃には、夕食を食べるだけで精いっぱいだった。
一晩眠れば、もう少しましになると思っていた。
けれど、身体を起こすためにどこへ力を入れているのか、今朝は嫌というほど分かる。
「人間って、起きる時も脇腹使うんだな」
『今になって気づいたか』
「今まで気にしたことなかった」
床に敷いた毛布の上で、アカツキが片目を開けた。
「分かったなら、しばらく寝ておれ」
「アカツキは?」
「寝ている」
「そうでした」
白銀の身体には、まだ包帯が巻かれている。子犬ほどの姿で丸まっていても、左肩を下にすることはなかった。
結人は天井へ視線を戻した。
梁があり、屋根があり、その向こうに空がある。
目を閉じても、開けても、天井の位置は変わらない。それだけのことに、昨夜はずいぶん安心した。
「……今日、組合まで行けるかな」
『行かせると思うかの』
「だよね」
フィリアの返事は早かった。
その声に少しだけ笑い、結人はまた脇腹を押さえる。
『笑うでない』
「それはちょっと難しい」
扉が控えめに鳴った。
「入ってもよろしいですか?」
「うん」
アイリスが顔を出した。左腕の包帯は新しくなっていたが、袖を通すのはまだ難しいらしく、上着を肩から掛けている。
「マレナさんが来てくださいました。お話しできますか?」
「できる。起きるのは、もう少し待って」
「横になったままでよいそうです」
「助かる……」
アイリスが扉を押さえたまま、少し笑った。
結人は懐中時計を手元へ寄せる。
「フィリア」
『分かっておる。話し終えたら、おぬしも休むのじゃぞ』
小さな姿が消えたのを確かめてから、蓋を閉じた。
◇
組合への報告は、一度では終わらなかった。
マレナは話を急がせず、分からないところを確かめ、その日は書き留めた紙を持って帰った。翌日はアイリスとリンにも話を聞き、地図と照らし合わせながら、どこで何が起きたのかをまとめていった。
結人たちは、白音が火と幻を使ったことを隠さなかった。
こちらが引き返そうとしたことも、それでも逃げ切れなかったことも伝えた。
ただ、懐中時計とフィリアのことだけは話さなかった。
話し合えるところまで持ち込めた。その先で、互いに攻撃をやめると決めた。
マレナは最後に、その約束の内容を念入りに確認した。
結人は、アイリスに書いてもらった短い手紙も託した。
町へ戻って怪我を診てもらったこと。今は宿で休んでいること。すぐには山を歩けそうにないが、組合と話をしてから、また訪ねるつもりでいること。
手紙を運ぶ者にも、神社の前で呼びかけ、返事がなければ奥へ入らず戻ってほしいと頼んだ。
返事が届いたのは、それから二日後だった。
「神社の前で受け取ってくれました」
マレナはそう言ってから、少しだけ表情を和らげた。
「『歩けるようになってから来よ』とのことです」
結人は寝台の端に腰掛けたまま、息を吐いた。
「……そっか」
「何か、返事を?」
「今は、それで大丈夫です。届けてくれて、ありがとうございました」
その日から、起き上がるたびに山へ戻る算段をするのはやめた。
代わりに、食事をし、手当てを受け、少し動いては休んだ。
リンも同じだった。
ただし、こちらは三日目にして、部屋の窓から見える屋根の数を覚えていた。
「赤いのが七つなの」
「そんなに見える?」
「端っこの、煙突の向こうにもあるの」
「ほんとだ」
「その隣の屋根、昨日よりできてるの」
結人が窓辺へ寄ると、向かいの建物の上で、大工が板を受け取っていた。下では別の男が長い材木を担ぎ、通りを横切る。
石が届かなくても、できる仕事は進んでいるらしかった。
「……みんな忙しいな」
「リンも、そろそろ動けるの」
「それ、診てもらった時にも言ってたよね」
「言ったの」
「何て言われた?」
「まだなの」
リンは不満そうに、台へ載せた右脚を見た。
それでも、その日は床へ下ろそうとはしなかった。
◇
町へ戻って六日目の昼過ぎ、宿の食堂を少しだけ借りることになった。
昼の客が帰ったあとで、窓際の卓を二つ寄せる。
結人はゆっくり階段を下り、リンは宿の主人に運んでもらった。椅子へ座らせてもらう時には、自分から右脚に触れないよう頼んでいた。
その足元へ、アカツキの毛布も移される。
アイリスが最後の椅子に腰掛けると、マレナが地図を広げた。
一緒に来たのは、最初の調査で洞へ入ったという現場の親方と、町の工事を取りまとめている男だった。
親方は結人たちの包帯を順に見てから、帽子を膝へ置いた。
「……座らせてもらうぞ」
「どうぞ」
マレナが、地図の山側を指す。
川から作業小屋へ上がる道。その先にある神社。裏手の洞。
結人が知っている場所は、紙の上ではひと握りに収まっていた。
「山の作業は、引き続き止めています。神社と洞に住人がいることも、関係する者には伝えました」
工事を取りまとめる男が、腕を組んだ。
「聞きたいのは、その相手と本当に話ができるのか、ということです」
「話はできます」
結人は答えた。
「こっちの言ってることも、分かってました」
「そのうえで、そこまでやられた?」
返事をする前に、左隣でリンの椅子が小さく鳴った。
結人は頷いた。
「……はい」
男は、責めるような声ではなかった。ただ、結人の脇腹に巻かれた布を見ていた。
「もう危なくないと言われても、すぐ人を戻すわけにはいかない」
「俺も、それは言えないです」
結人は地図へ目を落とした。
「だから、まずは戻さないでほしい。あそこには、ちゃんと住んでる相手がいるんで」
「そこは分かりました。ただ、こちらにも困ることはあります」
男が指したのは、町の外れに並ぶ小さな四角だった。
「土台の途中で止まっている家があります。石が入るつもりで、先に木を組んだところもある。このまま放っておけば、使う前に傷む」
新しい町へ入った日に見た、途切れた石の列を思い出す。
隣では槌が鳴っていた。木を運ぶ人がいて、開くはずの戸口があって、その先だけがまだできていなかった。
結人は頷いた。
「……あの通り、見ました」
「なら、分かるでしょう。山へ入らなければ済む、だけでは終われないんです」
地図の上を見ても、代わりの石が湧いてくるわけではなかった。
結人が言葉を探していると、親方が口を開いた。
「石なら、川下から買う手はある」
工事の男がそちらを見る。
「運び賃が増える」
「増えるな。往復にも時間がかかる」
「今の予定では足りませんよ」
「だから、順番を変えるしかねえだろ」
親方の太い指が、町の四角を二つ叩いた。
「傷みそうなところを先に固める。増築は待ってもらう。全部いっぺんには進められねえが、全部止めるよりはいい」
男は口を結び、地図を見直した。
少しの間、椅子のきしむ音だけがした。
「……川下の石場には、話を?」
「入れた。すぐ欲しいだけ全部、とはいかねえそうだ」
「でしょうね」
「だが、出せる分はある」
マレナが別の紙を添えた。そこには石の量と、運ぶ日数らしい数字が書かれている。
二人はしばらく、その紙を挟んで話した。
どの現場へ先に回すか。荷車を何台使えるか。すでに切り出してある木を、どこへ置くか。
結人には分からないことも多かった。
けれど、地図の中で止まっていた町が、少しずつ動き方を変えていくのは分かった。
「新しい採石場を探すにしても、当面、この山は候補から外す」
やがて親方が言った。
工事の男は、長く息を吐いた。
「……その前提で、組み直しましょう」
そこで初めて、結人は肩の力を少し抜いた。
まだ、話は終わっていなかった。
マレナが山の地図を手前へ戻す。
「次は、近づかない範囲です」
神社の周囲には、すでに薄い線が引かれていた。裏手の洞を囲み、そのまま尾根へ上がっている。
「ここから外なら、大丈夫なんですか?」
結人が尋ねると、マレナは首を振った。
「まだ決められません。洞が地面の下をどこまで続いているのか、私たちは知らないので」
「白音も、洞の上は触らないでほしいって言ってました」
「はい。ですから、狭く囲って、そのすぐ隣で作業するようにはしません」
親方が、最初の線よりずっと外側へ指を置いた。
「地面の下が分からねえうちに、穴の脇で石を叩く気はねえよ」
マレナはその指の外へ、大きく線を引き直した。
神社だけを小さく囲っていた線が、森と尾根を含む広いものになる。
ただし、その横には確定した境界ではないと書き添えられた。
「白音さんには、この地図を見てもらえますか。守ってほしい場所が、これで収まっているかを確かめたいんです」
「見せてきます」
「分からなければ、分からないまま持ち帰ってください。確かめるために、勝手に洞へ入ることもしません」
結人は頷いた。
アイリスが地図の端を見て、小さく手を上げる。
「この道は、どうなりますか?」
計画されていた道が、いま引かれた線の中へ伸びていた。
「引き直します」
マレナは答え、その道へ短い線を重ねた。
「山の奥へ抜ける案はいったんやめます。新しく調べるなら、もっと下の、今ある道から離れすぎない場所で」
「では、神社の前を荷車が通ることも?」
「ありません」
アイリスは、ようやく納得したように頷いた。
リンが地図へ身を乗り出しかけ、右脚の置き場を確かめてから姿勢を戻す。
「でも、これを知らない人も来るの」
「そうですね」
「山の中で迷ったら、道じゃないところにも行くの」
マレナの手が止まった。
親方が腕を組む。
「仕事の連中には言い聞かせられる。だが、薪を拾いに入る奴まで、全員ここへ呼べるわけじゃねえ」
「麓の分かれ道には、知らせを出します。町でも伝えましょう」
マレナはそう書き留めたあと、結人を見た。
「それと、こちらからも頼みたいことがあります」
「何ですか?」
「もし、知らずに近づく者がいたら、まず声で止めてほしい。引き返す道は残してほしいんです」
結人は、自分たちの後ろへ現れた神社を思い出した。
戻っているはずなのに、戻れなかった。
目を閉じても、耳を頼っても、森は出口を教えてくれなかった。
「……それは、俺も頼みたいです」
足元で、アカツキが頭を上げる。
リンは黙ったまま、膝に載せた手を握っていた。
「ただ、俺が代わりに約束することはできないんで」
「はい。返事を聞いてきてもらえれば」
マレナは、山の地図とは別の紙へ、その頼みを書いた。
守ってほしい場所を尋ねること。
訪ねる時は、神社の前で呼びかけること。
迷い込んだ者には、退く機会を与えてほしいこと。
結人は一つずつ確かめた。
向こうへ渡すのは、決めたことを並べた命令ではない。白音の返事がなければ埋まらないところが、まだいくつもあった。
「怪我した連中のことも、忘れんでくれよ」
親方が言った。
帽子を握った手には、細かい傷がいくつもあった。
「住処へ入ったことは、こっちからも詫びる。だが、火傷した奴も、まだ歩けねえ奴もいる。話がついたから、何もなかったって顔はできねえ」
「しません」
結人は答えた。
すぐそばに、リンの脚がある。アイリスの腕がある。
自分も、少し姿勢を変えるだけで痛かった。
「白音にも伝えます。あそこで怪我した人たちが、今どうしてるか」
親方は結人をしばらく見て、それから頷いた。
「頼む」
帰り際、親方は帽子をかぶりかけて、もう一度手を止めた。
「……あとな」
「はい」
「奥にあった皿を欠いちまった。勝手に入り込んだうえに、あれだ」
マレナが静かに視線を下げた。
「直せるか、職人に聞くことくらいはできる。余計なことだと言われりゃ、手は出さねえが」
「それも、聞いてきます」
親方は今度こそ帽子をかぶった。
「悪いな。頼みごとばかりで」
「その場で返事をしなくていいなら」
結人がそう言うと、親方は初めて少し笑った。
「ああ。決めるのは、持ち主だ」
◇
部屋へ戻ってから、結人は借りてきた地図を机へ広げた。
その隣で懐中時計の蓋を開けると、フィリアが文字盤の上に姿を現す。
リンは寝台の端に座り、アイリスは椅子を寄せた。アカツキも毛布の上から地図を見上げている。
「……思ったより、いろいろ決めるんだな」
結人が言うと、アイリスも小さく息をついた。
「わたくし、道を変えるだけで済むのかと思っていました」
「俺も」
「石を運ぶところから変わってしまうんですね」
「うん」
線を一本引き直すだけで、荷車が遠くまで走ることになる。
待つ人が増え、仕事の順番が変わる。
それでも、引き直してもらえた。
結人は神社の印へ目を落とした。
その脇には、マレナの字で白音の名が書かれている。
「ここ、名前がついたの」
リンが言った。
「うん」
「前は、建物だけだったの」
古い地図では、神社も洞も、確かめる場所の一つだった。
いまは違う。
勝手に入る前に、聞かなければならない相手がいる。
フィリアはしばらくその字を見つめていた。
『……そうじゃな』
それ以上は何も言わなかった。
アカツキが毛布の上で身体の向きを変える。左肩をかばっていたので、リンが近くの布を少し寄せた。
「これで、もう山へは入ってこないの?」
「仕事の人たちはね。ただ、迷う人までは止めきれないと思う」
「白音に頼むの」
「うん。帰ろうとしたら、帰らせてほしいって」
リンは頷き、それから結人を見た。
「次は、帰りの馬車も頼んでおくの」
「そうしよう」
「歩けなくなってから考えるの、嫌なの」
「……うん」
結人は地図の川辺を指した。
「ここで待っててもらえるか、聞いておく」
リンはその指の先を確かめて、ようやく肩を下ろした。
白音にもう一度会いに行く。
それを決めたからといって、森で起きたことが消えるわけではなかった。
結人だって、今すぐ同じ道へ立てと言われたら、少し足がすくむと思う。
それでも、あの神社から自分たちを運び出したのは、白音が呼んできた人たちだった。
そこも、忘れたくなかった。
「フィリア」
『何じゃ』
「戻るまで、もう少しかかりそうだ」
『聞いておった』
「待っててくれるかな」
フィリアは結人を見た。
何か言いかけて、やめる。
そして、小さく頷いた。
『歩けるようになってから来よと、言うておったのであろう』
「……そっか」
『ならば、まずは治せ』
「はいはい」
『返事は一度でよい』
「はい」
リンが少し笑った。
その隣で、アイリスも口元を緩める。
結人は笑い返しかけ、今度は先に脇腹へ手を当てた。
◇
さらに二日が過ぎた。
結人は、階段を下りる途中で一度止まれば、食堂まで行けるようになった。
アイリスの腕も少しずつ動かせるようになり、リンは診てもらう時だけ、支えを借りて右脚を床へ下ろした。
アカツキは部屋の中を歩くようになったが、まだ誰かを乗せる話はしなかった。
山へ戻る日は、怪我を診てくれている女性と相談してから決めることになっている。
急ぐなと言われるたびに、リンは耳を伏せた。
けれど、誰も黙って出発の支度を進めようとはしなかった。
その日の午後、宿の人へ頼んでいた焼き菓子が届いた。
町へ着いた日に寄った、あのパン屋のものだった。
包みを開くと、甘い匂いにリンの鼻が動く。
「食べるの?」
「これは持っていく分」
「白音に?」
「うん」
結人は、机の上の懐中時計へ目を向けた。
開いた蓋の内側で、フィリアが包みを見ている。
「こういうのなら、食べるかな」
『……甘いものは、好んでおった』
「じゃあ、よかった」
『今も同じかは、分からぬぞ』
「それは聞いてみる」
フィリアは少し黙ってから、頷いた。
アイリスが、焼き菓子の端をそっと見た。
「道で割れないように、布で包んでおきましょうか」
「助かる」
「肉も持っていくの」
リンが言った。
結人はそちらを見る。
「それはリンの分?」
「白音の分もなの」
「リンの分はあるんだ」
「あるの」
迷いのない返事だった。
アカツキが、毛布の上から鼻先を上げる。
「食べ物の用意だけは早いな」
「アカツキの分もあるの」
「……そうか」
「今、ちょっと嬉しそうだった」
「気のせいだ」
結人が笑うと、リンも笑った。
窓の外では、今日も槌の音がしている。
向かいの建物には、昨日までなかった戸が取り付けられていた。通りを行く荷車の向こうで、作りかけの町が少しずつ形を変えていく。
結人は焼き菓子を布で包み、紐を回した。
結び目を見ていたリンが、指を出しかける。
けれど、結人が最後まで結び終えると、その手を引っ込めた。
「今度は合ってるの」
「覚えたからね」
引けば解ける。持ち上げても、勝手には緩まない。
結人は包みを地図の横へ置いた。
「次は、向こうで開けよう」
フィリアが、文字盤の上からそれを見ていた。
『……うむ』
小さな返事を聞いてから、結人は地図を畳んだ。




