第十二話 ~旅人たちは白い狐の居場所を守る~
軒の影が、毛布の端まで伸びていた。
結人は背を預けたまま、石段の方を見ていた。
痛みは、じっとしていれば少し遠くなる。けれど、座る位置を変えたり、深く息を吸ったりすると、すぐに戻ってきた。
隣ではリンが脚を伸ばしている。
アカツキはその横で目を閉じていた。耳がときどき動くので、眠ってはいないのだろう。
アイリスが使い終えた布をまとめていると、リンの耳が立った。
「……来たの」
結人も顔を上げた。
木々の下から、人の声が聞こえる。
枝を避ける音と、何かを持ち直す掛け声が続いた。
結人は膝の上の懐中時計を見た。
文字盤の縁に座っていたフィリアが、小さく頷く。
蓋を閉じ、胸元へ戻した。
石段の下に、白い髪が見えた。
白音だった。
その後ろから、マレナが上ってくる。担架を持った組合員が三人と、薬箱を提げた女性も続いていた。
マレナは、最後の数段を上がる前に足を止めた。
「ここまで、入っていいんですね」
白音が振り返る。
「手当てをするためなら」
「分かりました」
マレナは頷き、後ろの者たちへも伝えた。
「神社の前まで。奥へは行かないで」
槍を持った男が、穂先を低くする。
別の男も、腰の剣には手を掛けなかった。
白音はそれを見てから、石段の脇へ寄った。
「……連れてきたぞ」
結人へ声を掛ける。
「ありがとう。助かった」
結人が答えると、白音は胸元へ一度だけ目を向けた。
『戻ったか』
フィリアの声がした。
白音は何も答えなかった。
ただ、結人の胸元を見ていた目を、ゆっくり上げた。
薬箱を持った女性が、三人の前へ膝をついた。
「息が苦しいのは、誰?」
「俺です。動くと、脇腹が」
「分かった。喋るのは少しずつでいい」
女性は結人の顔を見てから、リンとアイリスへ目を移した。
「脚を傷めたのが、こっちの子ね。腕も見せてもらうよ」
アイリスが頷き、覆っていた布へ右手を添える。
女性はその手をそっと止めた。
「こちらでやるから、そのままで」
「はい」
返事をしたアイリスの肩から、少し力が抜けた。
結人はそれを見て、ようやく自分も人に任せられる気がした。
女性が薬箱を置こうとして、白音へ顔を向ける。
「この端、借りてもいいかい。道具を広げたいんだけど」
白音は、示された場所を見た。
社の戸口から少し離れた、平らな石の上だった。
「……そこなら構わぬ」
「ありがとう」
薬箱が置かれた。
蓋が開く。
白音はしばらくその様子を見ていたが、何も言わなかった。
マレナが結人の近くへ屈む。
「手紙は受け取った。来る途中で、火も魔物も見なかったわ」
「うん。止めてくれた」
結人は白音を見た。
「白音が、ここに住んでる。俺たちが話した相手だ」
マレナの視線が、白い髪の少女へ移った。
「あなたが」
白音は頷かなかった。
否定もしなかった。
「この山の幻も、火も、あんたの術だったんですね」
「そうじゃ」
短い答えだった。
担架を広げていた男の手が止まった。
白音も、その手を見た。
男は腰の剣へ触れかけ、途中で止めた。
「小屋の連中を、追い回してたのも……」
「今は、攻撃をやめると約束してくれてる」
結人は言った。
男の方へも、白音の方へも聞こえるように。
「火と幻は、全部止めてもらった。俺たちも、これ以上は攻めない。ここで手当てをして帰るって話をした」
男は結人の巻かれた腕を見た。
リンの脚へ目を移し、それからマレナを見た。
マレナは白音へ尋ねた。
「今は、争うつもりはないんですね」
「おぬしらが奥へ踏み込まぬなら」
「分かりました。ここから先には入りません」
マレナが答えた。
「今日は手当てと搬送のために来ています」
男はしばらく白音を見ていた。
やがて視線を外し、畳まれていた担架を開いた。
白音の指が、袖の端から離れた。
けれど、二人の間の空気まで緩んだわけではなかった。
結人はそれを見ていた。
手紙に書いた一行だけで、何もかも安心できるわけではない。
それでも、剣は抜かれなかった。
槍も、こちらへ向けられなかった。
今は、それでよかった。
「ただ、何があったかは、詳しく聞かせてもらう必要がある」
マレナが結人へ言った。
「小屋で怪我をした人たちにも、今回のことを説明しないといけないから」
「うん。怪我のことも話す」
結人は答えた。
「幻だったから平気だった、って話にはしない」
白音が口を開きかけた。
その目が、アイリスの腕へ向く。
薬を替えられたアイリスが、短く息を詰めていた。
白音は、開きかけた口を閉じた。
治療をしていた女性が、結人へ顔を向ける。
「あなたも、こっちを向いて」
「あ、はい」
「話は聞けるでしょうけど、身体まで起こさなくていいから」
結人は、無意識に前へ出していた肩を戻した。
マレナも少し脇へ寄る。
女性は結人が痛むと言った場所を確かめ、呼吸の様子を見た。
「強く打ってるね。ここから歩かせるのはやめておこう」
「歩けなくは……」
言いかけて、結人は止めた。
ここまでの数歩を、二人に支えてもらったことを思い出した。
「……分かりました」
「その返事なら助かる」
女性は必要な手当てを続けた。
リンの脚にも触れ、痛む場所を一つずつ尋ねる。
「前から傷めていたの?」
「うん。少しよくなってたの」
「そこで、また無理が掛かったんだね」
リンが頷いた。
女性はそれ以上責めるようなことは言わず、支えの位置を直した。
「今は立たないで。町へ戻って、落ち着いたところでもう一度見よう」
「分かったの」
リンの隣で、アカツキが目を開けた。
声は出さなかった。
女性が焦げた白銀の毛へ気づき、少し顔を近づける。
「この子も怪我してるのかい」
「一緒に連れて帰りたいです」
結人が答えた。
「もちろん。傷に触れないよう、包んで運ぼう」
リンの手が、アカツキの背へ添えられた。
白銀の耳が動いた。
それだけだった。
治療のための道具が並び、組合員たちが担架へ布を掛けていく。
人が増えた神社の前を、白音は端から見ていた。
荷物を置く音がするたびに、そちらへ目が向いた。
誰かが戸の近くを通れば、その足元を見る。
結人は、その視線を追った。
誰も奥へ入ろうとはしていなかった。
けれど、白音が何を気にしているのかは分かった。
「マレナさん」
結人が呼ぶと、マレナがこちらを向いた。
「この先のことを決めるために、今日また奥を調べる、っていうのはやめてほしい」
「ええ」
マレナはすぐに答えた。
「手紙にあった約束は守る。ただ、今後誰かが同じことをしないために、どこを避けるべきかは聞いておきたい」
そう言って、白音を見る。
「ここから指してもらうだけでも、構いませんか」
白音はマレナを見返した。
「何を知りたい」
「入ってほしくない場所です。今ある地図には、この神社さえ載っていなかったので」
「載っておらねば、入ってよいと思うたのかや」
マレナの手が止まった。
地図を広げかけたまま、白音を見る。
「最初に、あの洞穴へ入ったとき」
マレナが言った。
「私も一緒でした」
白音の目が細くなった。
「……おぬしもか」
「はい」
マレナは答えた。
「中に祠があるのは見ました。それでも、調査を続けた。誰かが眠っている場所だとは、考えていませんでした」
白音は何も言わなかった。
「皿を欠けさせたことも、見ていました」
マレナの声は、少し低くなった。
「勝手に入ったことは、謝ります」
白音は目を逸らした。
神社の裏へ続く道を見る。
その奥に、自分の寝所がある。
「童は、誰も呼んでおらぬ」
「はい」
マレナが答えた。
「今は、それを知っています」
白音は、すぐに何かを許すとは言わなかった。
マレナも、その言葉を求めなかった。
広げた地図を、二人の間の石へ置く。
「次にどうするかを、ここで全部決めることはできません。街の仕事に関わる人たちとも、話す必要があります」
白音の眉が動いた。
「ですが、知らなかったまま進めることは、もうやめます」
マレナは地図へ目を落とした。
「ここに住んでいる方がいる。その方が、立ち入りを拒んでいる。その事実を持ち帰ります」
白音は地図を見た。
川と、小屋と、これから延ばす予定だった道。
描かれた線を追い、社のある場所へ指を置いた。
「社と、その裏の洞穴じゃ」
白音が言った。
「上も、掘るな。童の寝所の上を、石の採り場にされてはたまらぬ」
マレナが頷く。
「洞穴がどこまで続いているか、私たちには分かりません」
「だから、また入りたいと?」
「今は入りません。分からない分、近くで仕事を始めないようにします」
白音の指が、地図の上で止まった。
マレナは続けた。
「別の場所を使えるかも含めて、持ち帰って考えます。次に話が必要になったら、先にここで声を掛ける。それでいいですか」
白音は、しばらく答えなかった。
結人は口を挟まなかった。
自分が代わりに許していい場所ではなかった。
「……社の前までなら」
やがて、白音が言った。
「勝手に奥へ入るな」
「分かりました」
マレナは地図へ書き込んだ。
神社の位置。
その裏の洞穴。
そして、脇に短い言葉が添えられた。
住人あり。
立ち入りには、承諾を得ること。
結人は、その文字を見た。
さっきまで、線と地形しかなかった場所だった。
そこに、誰かが暮らしていると書かれた。
まだ、道の行き先が変わったわけではない。
石をどこから運ぶかも、決まっていない。
それでも、次にこの地図を見る人は、ここを空白のままには見ないはずだった。
白音も、その文字を見ていた。
「山の仕事は、話がまとまるまで止めたままにします」
マレナが言った。
「ただ、起きたことはそのまま報告します。怪我をした人がいることも」
白音の指が、地図から離れた。
視線が結人たちへ向く。
「……分かっておる」
その返事は小さかった。
マレナは地図を畳んだ。
それ以上、神社の奥へ目を向けなかった。
「準備、できたよ」
治療をしていた女性が声を掛けた。
担架が二つ並んでいる。
一つが結人の横へ運ばれ、もう一つがリンのそばへ置かれた。
結人はそれを見て、ようやく自分が乗るのだと実感した。
一昨日は、持つ側だった。
どこに手を掛けるか、どの高さなら運びやすいか、そんなことばかり考えていた。
今日は、布の上へ身体を移すところから手を借りなければならない。
「動かすぞ。痛かったら言ってくれ」
組合員の男が言った。
「分かった」
結人は答えた。
身体を支えられ、少しずつ向きを変える。
脇腹に痛みが走った。
「待って」
皆の手が止まった。
息を整えてから、もう一度頼む。
誰も、急げとは言わなかった。
担架へ横になると、見えるものが変わった。
人の顔が上にあり、社の屋根が視界の端へ入る。
空は、思っていたより明るかった。
隣でも、リンが担架へ移されていた。
アイリスは治療を受けた腕を庇いながら、二人の間へ立つ。
「歩けそうかい」
女性に聞かれ、アイリスが頷く。
「はい」
「重い荷物はこちらで持つよ。途中で辛くなったら言って」
「分かりました」
アカツキを包んだ布も、傷へ負担が掛からないよう整え直された。
リンがそれを目で追う。
「アカツキも、見えるところがいいの」
「近くで運ぶよ」
男が答えると、リンはようやく担架へ頭を預けた。
白音は、皆が出発の支度をする間、社の端に立っていた。
帰るために来た人たちが、本当に帰ろうとしている。
その様子を、一つずつ確かめているようだった。
「白音」
結人が呼んだ。
白音がこちらを見る。
「助けを呼んでくれて、ありがとう」
白音は答えなかった。
礼を受け取っていいのか迷っているように、担架の縁へ目を落とした。
「町で診てもらってから、組合で話す」
結人は続けた。
「それで、どうなったかを持って戻ってくる。話がまとまらなくても、一度知らせに来る」
白音が顔を上げた。
「……また、来るのかや」
「前まで来て、声を掛けてもいいか」
白音は結人を見ていた。
すぐには答えなかった。
結人も、待った。
運ぶために集まった組合員たちが、担架の持ち手を確かめている。その短い間だけ、二人の声が少し遠くなった。
『わらわも、戻ってくる』
胸元から声がした。
白音の目が、懐中時計のある場所へ向いた。
今は、蓋が閉じている。
神様の姿は見えない。
けれど、声は届いていた。
白音の指が、袖の端を掴んだ。
「……神社の前までじゃぞ」
結人へ向けて、そう答えた。
「うん。奥へは入らない」
白音は少しだけ顔を伏せた。
それから、小さな声で言った。
「待っておる」
結人は頷いた。
その言葉が誰に向けられたものか、尋ねなかった。
担架の持ち手へ、四つの手が掛かる。
「上げるぞ」
声がした。
結人の身体が、ゆっくり地面から離れた。
布が背を支え、荷重が移る。
揺れに身構えかけて、結人は力を抜いた。
今は、持ってくれている人たちに任せるしかなかった。
「最初の段、下りる」
「分かった」
短い声に、結人は答えた。
リンの担架も、その後に続く。
アイリスが傍らを歩き、薬箱が閉じられ、広げられていた布や道具が持ち上げられた。
社の前には、使い終えたものを何一つ残さなかった。
誰も、戸を開けなかった。
誰も、裏の洞穴へ踏み込まなかった。
結人は、担架の上から振り返った。
白音が、閉じた戸の前に立っていた。
人の姿のまま、石段を下りていく一行を見ている。
剣を向けられた怖さも、眠りを破られた怒りも、きっとまだ残っている。
それを今日のうちに全部なくすようには、誰も頼めなかった。
白音が一度だけ頷いた。
結人も、小さく頷き返した。
やがて木々が間に入り、白い髪が見えなくなった。
胸元の時計は、揺れるたびに服の上から触れた。
次にここへ来るときも、それを持ってくる。
結人は痛む脇腹を庇いながら、そのことをもう一度、胸の中で確かめた。




