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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十二話 ~旅人たちは白い狐の居場所を守る~

 軒の影が、毛布の端まで伸びていた。

 結人は背を預けたまま、石段の方を見ていた。

 痛みは、じっとしていれば少し遠くなる。けれど、座る位置を変えたり、深く息を吸ったりすると、すぐに戻ってきた。

 隣ではリンが脚を伸ばしている。

 アカツキはその横で目を閉じていた。耳がときどき動くので、眠ってはいないのだろう。

 アイリスが使い終えた布をまとめていると、リンの耳が立った。

「……来たの」

 結人も顔を上げた。

 木々の下から、人の声が聞こえる。

 枝を避ける音と、何かを持ち直す掛け声が続いた。

 結人は膝の上の懐中時計を見た。

 文字盤の縁に座っていたフィリアが、小さく頷く。

 蓋を閉じ、胸元へ戻した。

 石段の下に、白い髪が見えた。

 白音だった。

 その後ろから、マレナが上ってくる。担架を持った組合員が三人と、薬箱を提げた女性も続いていた。

 マレナは、最後の数段を上がる前に足を止めた。

「ここまで、入っていいんですね」

 白音が振り返る。

「手当てをするためなら」

「分かりました」

 マレナは頷き、後ろの者たちへも伝えた。

「神社の前まで。奥へは行かないで」

 槍を持った男が、穂先を低くする。

 別の男も、腰の剣には手を掛けなかった。

 白音はそれを見てから、石段の脇へ寄った。

「……連れてきたぞ」

 結人へ声を掛ける。

「ありがとう。助かった」

 結人が答えると、白音は胸元へ一度だけ目を向けた。

『戻ったか』

 フィリアの声がした。

 白音は何も答えなかった。

 ただ、結人の胸元を見ていた目を、ゆっくり上げた。

 薬箱を持った女性が、三人の前へ膝をついた。

「息が苦しいのは、誰?」

「俺です。動くと、脇腹が」

「分かった。喋るのは少しずつでいい」

 女性は結人の顔を見てから、リンとアイリスへ目を移した。

「脚を傷めたのが、こっちの子ね。腕も見せてもらうよ」

 アイリスが頷き、覆っていた布へ右手を添える。

 女性はその手をそっと止めた。

「こちらでやるから、そのままで」

「はい」

 返事をしたアイリスの肩から、少し力が抜けた。

 結人はそれを見て、ようやく自分も人に任せられる気がした。

 女性が薬箱を置こうとして、白音へ顔を向ける。

「この端、借りてもいいかい。道具を広げたいんだけど」

 白音は、示された場所を見た。

 社の戸口から少し離れた、平らな石の上だった。

「……そこなら構わぬ」

「ありがとう」

 薬箱が置かれた。

 蓋が開く。

 白音はしばらくその様子を見ていたが、何も言わなかった。

 マレナが結人の近くへ屈む。

「手紙は受け取った。来る途中で、火も魔物も見なかったわ」

「うん。止めてくれた」

 結人は白音を見た。

「白音が、ここに住んでる。俺たちが話した相手だ」

 マレナの視線が、白い髪の少女へ移った。

「あなたが」

 白音は頷かなかった。

 否定もしなかった。

「この山の幻も、火も、あんたの術だったんですね」

「そうじゃ」

 短い答えだった。

 担架を広げていた男の手が止まった。

 白音も、その手を見た。

 男は腰の剣へ触れかけ、途中で止めた。

「小屋の連中を、追い回してたのも……」

「今は、攻撃をやめると約束してくれてる」

 結人は言った。

 男の方へも、白音の方へも聞こえるように。

「火と幻は、全部止めてもらった。俺たちも、これ以上は攻めない。ここで手当てをして帰るって話をした」

 男は結人の巻かれた腕を見た。

 リンの脚へ目を移し、それからマレナを見た。

 マレナは白音へ尋ねた。

「今は、争うつもりはないんですね」

「おぬしらが奥へ踏み込まぬなら」

「分かりました。ここから先には入りません」

 マレナが答えた。

「今日は手当てと搬送のために来ています」

 男はしばらく白音を見ていた。

 やがて視線を外し、畳まれていた担架を開いた。

 白音の指が、袖の端から離れた。

 けれど、二人の間の空気まで緩んだわけではなかった。

 結人はそれを見ていた。

 手紙に書いた一行だけで、何もかも安心できるわけではない。

 それでも、剣は抜かれなかった。

 槍も、こちらへ向けられなかった。

 今は、それでよかった。

「ただ、何があったかは、詳しく聞かせてもらう必要がある」

 マレナが結人へ言った。

「小屋で怪我をした人たちにも、今回のことを説明しないといけないから」

「うん。怪我のことも話す」

 結人は答えた。

「幻だったから平気だった、って話にはしない」

 白音が口を開きかけた。

 その目が、アイリスの腕へ向く。

 薬を替えられたアイリスが、短く息を詰めていた。

 白音は、開きかけた口を閉じた。

 治療をしていた女性が、結人へ顔を向ける。

「あなたも、こっちを向いて」

「あ、はい」

「話は聞けるでしょうけど、身体まで起こさなくていいから」

 結人は、無意識に前へ出していた肩を戻した。

 マレナも少し脇へ寄る。

 女性は結人が痛むと言った場所を確かめ、呼吸の様子を見た。

「強く打ってるね。ここから歩かせるのはやめておこう」

「歩けなくは……」

 言いかけて、結人は止めた。

 ここまでの数歩を、二人に支えてもらったことを思い出した。

「……分かりました」

「その返事なら助かる」

 女性は必要な手当てを続けた。

 リンの脚にも触れ、痛む場所を一つずつ尋ねる。

「前から傷めていたの?」

「うん。少しよくなってたの」

「そこで、また無理が掛かったんだね」

 リンが頷いた。

 女性はそれ以上責めるようなことは言わず、支えの位置を直した。

「今は立たないで。町へ戻って、落ち着いたところでもう一度見よう」

「分かったの」

 リンの隣で、アカツキが目を開けた。

 声は出さなかった。

 女性が焦げた白銀の毛へ気づき、少し顔を近づける。

「この子も怪我してるのかい」

「一緒に連れて帰りたいです」

 結人が答えた。

「もちろん。傷に触れないよう、包んで運ぼう」

 リンの手が、アカツキの背へ添えられた。

 白銀の耳が動いた。

 それだけだった。

 治療のための道具が並び、組合員たちが担架へ布を掛けていく。

 人が増えた神社の前を、白音は端から見ていた。

 荷物を置く音がするたびに、そちらへ目が向いた。

 誰かが戸の近くを通れば、その足元を見る。

 結人は、その視線を追った。

 誰も奥へ入ろうとはしていなかった。

 けれど、白音が何を気にしているのかは分かった。

「マレナさん」

 結人が呼ぶと、マレナがこちらを向いた。

「この先のことを決めるために、今日また奥を調べる、っていうのはやめてほしい」

「ええ」

 マレナはすぐに答えた。

「手紙にあった約束は守る。ただ、今後誰かが同じことをしないために、どこを避けるべきかは聞いておきたい」

 そう言って、白音を見る。

「ここから指してもらうだけでも、構いませんか」

 白音はマレナを見返した。

「何を知りたい」

「入ってほしくない場所です。今ある地図には、この神社さえ載っていなかったので」

「載っておらねば、入ってよいと思うたのかや」

 マレナの手が止まった。

 地図を広げかけたまま、白音を見る。

「最初に、あの洞穴へ入ったとき」

 マレナが言った。

「私も一緒でした」

 白音の目が細くなった。

「……おぬしもか」

「はい」

 マレナは答えた。

「中に祠があるのは見ました。それでも、調査を続けた。誰かが眠っている場所だとは、考えていませんでした」

 白音は何も言わなかった。

「皿を欠けさせたことも、見ていました」

 マレナの声は、少し低くなった。

「勝手に入ったことは、謝ります」

 白音は目を逸らした。

 神社の裏へ続く道を見る。

 その奥に、自分の寝所がある。

「童は、誰も呼んでおらぬ」

「はい」

 マレナが答えた。

「今は、それを知っています」

 白音は、すぐに何かを許すとは言わなかった。

 マレナも、その言葉を求めなかった。

 広げた地図を、二人の間の石へ置く。

「次にどうするかを、ここで全部決めることはできません。街の仕事に関わる人たちとも、話す必要があります」

 白音の眉が動いた。

「ですが、知らなかったまま進めることは、もうやめます」

 マレナは地図へ目を落とした。

「ここに住んでいる方がいる。その方が、立ち入りを拒んでいる。その事実を持ち帰ります」

 白音は地図を見た。

 川と、小屋と、これから延ばす予定だった道。

 描かれた線を追い、社のある場所へ指を置いた。

「社と、その裏の洞穴じゃ」

 白音が言った。

「上も、掘るな。童の寝所の上を、石の採り場にされてはたまらぬ」

 マレナが頷く。

「洞穴がどこまで続いているか、私たちには分かりません」

「だから、また入りたいと?」

「今は入りません。分からない分、近くで仕事を始めないようにします」

 白音の指が、地図の上で止まった。

 マレナは続けた。

「別の場所を使えるかも含めて、持ち帰って考えます。次に話が必要になったら、先にここで声を掛ける。それでいいですか」

 白音は、しばらく答えなかった。

 結人は口を挟まなかった。

 自分が代わりに許していい場所ではなかった。

「……社の前までなら」

 やがて、白音が言った。

「勝手に奥へ入るな」

「分かりました」

 マレナは地図へ書き込んだ。

 神社の位置。

 その裏の洞穴。

 そして、脇に短い言葉が添えられた。

 住人あり。

 立ち入りには、承諾を得ること。

 結人は、その文字を見た。

 さっきまで、線と地形しかなかった場所だった。

 そこに、誰かが暮らしていると書かれた。

 まだ、道の行き先が変わったわけではない。

 石をどこから運ぶかも、決まっていない。

 それでも、次にこの地図を見る人は、ここを空白のままには見ないはずだった。

 白音も、その文字を見ていた。

「山の仕事は、話がまとまるまで止めたままにします」

 マレナが言った。

「ただ、起きたことはそのまま報告します。怪我をした人がいることも」

 白音の指が、地図から離れた。

 視線が結人たちへ向く。

「……分かっておる」

 その返事は小さかった。

 マレナは地図を畳んだ。

 それ以上、神社の奥へ目を向けなかった。

「準備、できたよ」

 治療をしていた女性が声を掛けた。

 担架が二つ並んでいる。

 一つが結人の横へ運ばれ、もう一つがリンのそばへ置かれた。

 結人はそれを見て、ようやく自分が乗るのだと実感した。

 一昨日は、持つ側だった。

 どこに手を掛けるか、どの高さなら運びやすいか、そんなことばかり考えていた。

 今日は、布の上へ身体を移すところから手を借りなければならない。

「動かすぞ。痛かったら言ってくれ」

 組合員の男が言った。

「分かった」

 結人は答えた。

 身体を支えられ、少しずつ向きを変える。

 脇腹に痛みが走った。

「待って」

 皆の手が止まった。

 息を整えてから、もう一度頼む。

 誰も、急げとは言わなかった。

 担架へ横になると、見えるものが変わった。

 人の顔が上にあり、社の屋根が視界の端へ入る。

 空は、思っていたより明るかった。

 隣でも、リンが担架へ移されていた。

 アイリスは治療を受けた腕を庇いながら、二人の間へ立つ。

「歩けそうかい」

 女性に聞かれ、アイリスが頷く。

「はい」

「重い荷物はこちらで持つよ。途中で辛くなったら言って」

「分かりました」

 アカツキを包んだ布も、傷へ負担が掛からないよう整え直された。

 リンがそれを目で追う。

「アカツキも、見えるところがいいの」

「近くで運ぶよ」

 男が答えると、リンはようやく担架へ頭を預けた。

 白音は、皆が出発の支度をする間、社の端に立っていた。

 帰るために来た人たちが、本当に帰ろうとしている。

 その様子を、一つずつ確かめているようだった。

「白音」

 結人が呼んだ。

 白音がこちらを見る。

「助けを呼んでくれて、ありがとう」

 白音は答えなかった。

 礼を受け取っていいのか迷っているように、担架の縁へ目を落とした。

「町で診てもらってから、組合で話す」

 結人は続けた。

「それで、どうなったかを持って戻ってくる。話がまとまらなくても、一度知らせに来る」

 白音が顔を上げた。

「……また、来るのかや」

「前まで来て、声を掛けてもいいか」

 白音は結人を見ていた。

 すぐには答えなかった。

 結人も、待った。

 運ぶために集まった組合員たちが、担架の持ち手を確かめている。その短い間だけ、二人の声が少し遠くなった。

『わらわも、戻ってくる』

 胸元から声がした。

 白音の目が、懐中時計のある場所へ向いた。

 今は、蓋が閉じている。

 神様の姿は見えない。

 けれど、声は届いていた。

 白音の指が、袖の端を掴んだ。

「……神社の前までじゃぞ」

 結人へ向けて、そう答えた。

「うん。奥へは入らない」

 白音は少しだけ顔を伏せた。

 それから、小さな声で言った。

「待っておる」

 結人は頷いた。

 その言葉が誰に向けられたものか、尋ねなかった。

 担架の持ち手へ、四つの手が掛かる。

「上げるぞ」

 声がした。

 結人の身体が、ゆっくり地面から離れた。

 布が背を支え、荷重が移る。

 揺れに身構えかけて、結人は力を抜いた。

 今は、持ってくれている人たちに任せるしかなかった。

「最初の段、下りる」

「分かった」

 短い声に、結人は答えた。

 リンの担架も、その後に続く。

 アイリスが傍らを歩き、薬箱が閉じられ、広げられていた布や道具が持ち上げられた。

 社の前には、使い終えたものを何一つ残さなかった。

 誰も、戸を開けなかった。

 誰も、裏の洞穴へ踏み込まなかった。

 結人は、担架の上から振り返った。

 白音が、閉じた戸の前に立っていた。

 人の姿のまま、石段を下りていく一行を見ている。

 剣を向けられた怖さも、眠りを破られた怒りも、きっとまだ残っている。

 それを今日のうちに全部なくすようには、誰も頼めなかった。

 白音が一度だけ頷いた。

 結人も、小さく頷き返した。

 やがて木々が間に入り、白い髪が見えなくなった。

 胸元の時計は、揺れるたびに服の上から触れた。

 次にここへ来るときも、それを持ってくる。

 結人は痛む脇腹を庇いながら、そのことをもう一度、胸の中で確かめた。


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