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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十一話 ~白い狐は下ろされた剣を忘れない~

 フィリアが持ってきた鞄から、アイリスは布と薬を取り出した。

 並べようとして、左腕を止める。

 結人が手を伸ばすより先に、フィリアがその端を押さえた。

「片手でよい。こちらは、わらわが持つ」

「ありがとうございます」

 アイリスは右手で布を広げた。

 けれど、すぐには誰の傷にも触れなかった。

 結人の脇腹と、リンの脚と、倒れたアカツキを順に見る。

「……川にいた、治療の方に見ていただいた方がいいと思います」

 アイリスが言った。

「わたくしでは、どこをどれくらい傷めたのかまでは分かりません」

「うん。俺も、その方がいいと思う」

 結人は答えた。

 少し長く話すだけで、脇腹へ痛みが響いた。

 それを隠そうと息を浅くすると、今度はうまく息を継げなくなる。

 アイリスの前で、大丈夫だと言い張れる状態ではなかった。

「まずは、平らなところへ移るかの」

 フィリアが言った。

 結人は社の前を見た。

 遠くはない。

 普段なら、何も考えずに歩ける距離だった。

 けれど、膝を引き寄せようとしただけで身体が強張った。

「……一人じゃ、無理そう」

「一人で行けとは言うておらぬ」

 フィリアは結人の背を支え直した。

 白音が、少し離れた場所からその様子を見ていた。

 大きな白い狐の姿のまま、足を動かさずにいる。

 やがて、低く声を掛けた。

「背なら、乗せられる」

 結人は顔を上げた。

 白音の紅い目が、リンへ向けられていた。

「そこの娘を、前まで運ぶくらいなら」

 リンの耳が動いた。

 白音を見る。

 その大きな口元を見てから、尾へ、脚へと視線を移した。

 結人はリンへ尋ねた。

「どうする?」

 リンはすぐには答えなかった。

 右脚を見下ろし、もう一度白音を見る。

「……急に走らないでほしいの」

「歩いて運ぶ」

「揺れるのも、少しにしてほしいの」

「気をつける」

 白音が答えた。

 リンは、小さく頷いた。

「リンなの」

「……何じゃ」

「名前。そこの娘じゃなくて、リンなの」

 白音は少し黙った。

「……リンか」

 その名を確かめるように口にしてから、大きな身体を地面へ伏せた。

 リンが乗りやすいよう、さらに肩を低くする。

「アカツキは」

 結人が振り返ると、白銀の狼は顔を上げていた。

「少し、待て」

 目を閉じ、息を整える。

 やがて、白銀の身体がゆっくり小さくなった。

 大きな前脚も、背も、尾も、見慣れた子犬ほどの姿へ収まっていく。

 肩の焦げ跡は残っていた。

 小さくなっても、その脚へ体重を掛けようとはしなかった。

「これなら、運べるだろう」

「うん」

 結人が答えるより先に、リンが手を伸ばした。

「リンのところなの」

 フィリアが広げた布でアカツキを包み、傷めた肩を圧迫しないよう抱き上げる。

 白音の背へ移ったリンの、左側へそっと置いた。

「脚に響かぬか」

 アカツキが尋ねる。

「痛くない方なの」

「……そうか」

「動かなくていいの」

 リンは、白銀の身体へ添えた手を動かさなかった。

 白音が立ち上がる。

 いつもの歩幅ではなかった。

 一歩ずつ地面を確かめ、背をできるだけ揺らさないよう、ゆっくり身体を進めていく。

 リンは白い毛を掴んでいた。

 力を抜ききれない指を、白音が振りほどくことはなかった。

 結人も、フィリアとアイリスに支えられて立った。

 立てた、と思った次の瞬間に痛みが来た。

「っ……待って」

 二人が止まる。

 結人は目を閉じ、息を吐いた。

「……ごめん。もう少し」

「急がぬ」

 フィリアが答えた。

 その言葉どおり、誰も先へ引っ張らなかった。


 ◇


 社の前へ着く頃には、結人の額に汗が浮いていた。

 広げた毛布へリンを下ろし、アカツキをその横へ寝かせる。

 結人も背中を支えてもらいながら、軒下へ座った。

 数歩先に、閉じた戸がある。

 誰も、それを開けようとはしなかった。

 白音はリンたちを下ろすと、一度社から離れた。

 白い毛並みが揺れ、その輪郭が変わっていく。

 大きな身体が小さくなり、地面についていた前脚が、人の手になった。

 結人は目を瞬いた。

 そこにいたのは、白い髪と紅い目をした少女だった。

 頭には狐の耳があり、背後には九本の尾が残っている。

 大きな狐だったときより、表情がよく見えた。

 よく見えるようになっても、近づきやすくなったわけではなかった。

 白音自身も、こちらへ寄ろうとはしなかった。

「水なら、左手の岩陰から汲める」

 白音が言った。

 アイリスが水袋を見た。

 持ってきた水はある。

 けれど、三人の傷を確かめ、布を濡らしているうちに、使う量が増えていた。

「汲んできていただけますか」

 アイリスが尋ねた。

「……うむ」

 白音は差し出された水袋を受け取った。

 フィリアがそちらへ目を向ける。

 その動きに、白音の手が止まった。

 水袋の口金が、小さく鳴る。

 フィリアは立ち上がらなかった。

「頼む」

 それだけ言った。

 白音は返事の代わりに頷き、社の脇へ歩いていった。

 結人は、その背を見送った。

 人の姿になっても、九本の尾は身体の近くへ寄せられていた。

 大きく広げていたときとは、違う形だった。

 アイリスが結人の袖へ触れる。

「ここ、少し動かします」

「うん」

 焼けた布の縁を避け、傷の周りを確かめていく。

 結人が息を詰めると、すぐに手を止めた。

「痛かったですか」

「今のは、脇腹」

「……こちらですか」

「うん。そこは、あんまり動かさない方がよさそう」

 アイリスは頷いた。

 無理に傷の深さを調べようとはしなかった。

 できるところから、布を替える。

 リンの脚にも、以前使っていたものと同じように支えを添えた。ただ、前と同じ怪我だとは決めなかった。

「川の方に見ていただくまでは、立たないでください」

「分かってるの」

 リンは答えた。

 その横で、アカツキが目を閉じている。

 眠っているのかと思うと、リンが布を直すたびに耳が動いた。

 白音が戻ってきた。

 水袋を両手で持ち、三人の前へ置く。

 近くまで来てから、リンの脚を見た。

 次に、アイリスの腕と、結人の焦げた袖を。

 白音の指が、水袋の端を握ったまま止まった。

 誰も火を向けてはいない。

 それでも、リンは自分の脚を動かせず、アイリスは片腕を庇い、結人は座り直すだけで息を詰めていた。

「……すまぬ」

 小さな声だった。

 結人は白音を見た。

 平気だとは言えなかった。

 まだ痛かったし、怖さも残っていた。

「うん」

 それだけ答えた。

 白音の手元に、乾いた布がある。

「その布、こっちに置いてもらえる?」

 白音は布へ目を落とした。

「……これか」

「うん。助かる」

 差し出そうとして、白音は一度手を止めた。

 結人も、受け取るために無理に身体を寄せなかった。

 二人の間へ布が置かれる。

 それを、アイリスが右手で取った。

「ありがとうございます」

 白音は答えなかった。

 けれど、立ち去ることもしなかった。

 フィリアが、濡れた布を取るために手を伸ばした。

 白音の肩が跳ねた。

 少女自身が驚いたように、その手を身体へ引き寄せる。

 フィリアも手を止めた。

 少しの間、二人とも動かなかった。

「……そこへ置いてくれればよい」

 フィリアが言った。

 白音は布を置いた。

 フィリアが受け取ったのは、その手が離れてからだった。

 結人は何も言わなかった。

 剣は消えた。

 それだけで、剣を向けられる前へ戻れたわけではなかった。

 しばらく、布の擦れる音と、水を注ぐ音だけが続いた。

 やがて、フィリアが自分の手を見た。

 袖の縁に、淡い光が滲んでいた。

「……そろそろ戻らねばならぬ」

 白音が顔を上げた。

「戻る?」

「この姿を、長くは保てぬ」

「どこへ」

 返事を待つ声が、少し速かった。

 フィリアは結人の手元を見た。

「時計へじゃ」

 開いた懐中時計が、結人の膝に置かれていた。

 青い硝子は、いつものように静かだった。

 白音がそれを見る。

 それから、もう一度フィリアを見た。

「姿が……なくなるのかや」

「この身体は、なくなる」

 フィリアは答えた。

「じゃが、今のわらわは、この時計におる」

 白音の尾が動いた。

 その先に、小さな青白い火が灯った。

 白音自身が気づくまで、僅かな間があった。

 紅い目が尾へ向く。

 火はすぐに消えた。

 結人の指が、反射的に時計を握っていた。

 白音は、その指を見た。

「……出すつもりでは」

「こちらへ向けてはおらぬ」

 フィリアが静かに言った。

 白音は唇を結んだ。

 結人は、時計を握った手から少しずつ力を抜いた。

「俺たちには、中からの声が聞こえる」

 結人は言った。

「見えなくなって、何も分からなくなるわけじゃない」

 白音がこちらを見る。

「声が?」

「うん。この時計を通して、話せるようにしてもらってる」

 結人はフィリアを見た。

 フィリアは白音へ向き直った。

「おぬしが望むなら、声を繋ぐことはできる」

 白音はすぐには答えなかった。

 時計と、フィリアの手とを交互に見る。

「繋げば……どうなる」

「時計の中のわらわが見える。声を交わすこともできる」

「それだけかや」

「それだけじゃ。おぬしを従わせるものではない」

 白音は黙っていた。

 フィリアは、手を差し出さなかった。

 結人も時計を押しつけなかった。

「嫌なら、繋がなくても大丈夫だよ」

 結人は言った。

「火を止める約束とは、別の話だから」

 白音の目が、結人へ向いた。

「手当ても、山の話も、それで変わらない」

 結人は時計を膝の上へ置いたまま、手を少し引いた。

 青い硝子に、白音の顔が小さく映っていた。

 白音は長い間、それを見ていた。

 やがて、細い声で言った。

「……声は、聞いていたい」

 フィリアは頷いた。

「繋いでよいか」

 白音が顔を上げた。

 フィリアを見た。

 見たまま、言葉を選んでいた。

「……繋いでくれ」

「うむ。青い硝子へ触れよ」

 白音が手を伸ばした。

 結人は時計を動かさなかった。

 白音の指先が、硝子の少し手前で止まる。

 フィリアも待っていた。

 急かす者はいなかった。

 やがて、白い指が青へ触れた。

 淡い光が、硝子の内側で一度揺れた。

 それだけだった。

 印が浮かぶことも、何かが身体へ巻きつくこともなかった。

 白音は指を引き、自分の手を見た。

「……済んだのかや」

「済んだ」

 フィリアが答えた。

「今から戻るぞ」

 白音の肩が、僅かに強張った。

 それでも、止める言葉は出さなかった。

 白い衣の裾から、光がほどけた。

 長い髪が青白く揺れ、少女の姿が薄くなる。

 結人の背を支えていた手の感触が消えた。

 代わりに、開いた文字盤の上へ、小さな影が降りた。

『白音』

 声がした。

 白音が時計を見た。

 目を見開いたまま、しばらく動かなかった。

『聞こえるかの』

「……聞こえる」

 白音が答えた。

 フィリアは文字盤の縁へ腰を下ろしていた。

 いつもより肩の力が抜けている。小さく息を吐いてから、白音を見上げた。

『今は、ここにおる』

 白音は手を伸ばしかけた。

 けれど、時計へは触れなかった。

 伸ばしかけた手を膝の上へ戻し、少し離れた場所から、小さな神様を見ていた。

 結人は時計の向きを僅かに変えた。

 自分からも、白音からも見える向きへ。

 それ以上、近づけようとはしなかった。

 アイリスが使い終えた布をまとめる。

「ここでできるのは、これくらいだと思います」

 声には、疲れが混じっていた。

 結人は頷いた。

「川へ、連絡をつけないとな」

 マレナたちが待っている。

 戻る時間を決めて、こちらから出てきたのだ。

 黙ったまま帰らなければ、向こうはまた誰かを探しに来ることになる。

「手紙を書ける?」

「はい。右手は大丈夫です」

 アイリスが紙を出した。

 結人は、書いてもらう内容を考えた。

 神社の前にいること。

 山の主と話ができ、火も幻も止まったこと。

 怪我人が出て、自分たちだけでは戻れないこと。

 治療をする人と、担架が必要なこと。

 けれど、紙を書いても運ぶ者がいなかった。

 結人が口を止めると、白音が言った。

「童が届けよう」

 アイリスの筆が止まった。

 結人は白音を見た。

「頼んでいいのか」

「歩ける者が行けばよい」

 白音は答えた。

 それから、時計へ目を向ける。

 フィリアは何も命じなかった。

 文字盤の上から、白音を見ていた。

「川で待ってるのは、組合の人たちなんだ」

 結人が言った。

「手紙を届けたら、ここまで案内も頼みたい」

 白音の眉が僅かに動いた。

「また、人を入れるのかや」

「治療をしてくれる人と、運ぶのを手伝う人だよ。俺たちが帰るために、来てほしい」

 結人は、閉じた社の戸を見た。

「奥へは入らないように、手紙にも書く」

 白音も戸を見た。

 その向こうへ続く場所を、思い浮かべているようだった。

「……社の前までじゃぞ」

「うん」

 結人は答えた。

 アイリスが、その言葉を紙へ加えた。

 白音の姿が、もう一度変わった。

 狐の耳と九本の尾が消え、白い髪の少女だけが残る。

 自分の背後を確かめてから、白音は言った。

「この姿で行く」

「分かった」

 結人は頷き、書きかけの紙へ目を戻した。

「あ、それも書いてほしい」

 アイリスが筆を止める。

「この手紙を持っていく人が、道を案内してくれるって」

「はい」

「それから、その人に武器を向けないでください、って」

 白音が結人を見た。

 結人はアイリスが書き終えるのを待った。

「これを先に見せて、話してもらえる?」

 紙を白音へ差し出す。

 白音はまだ受け取らなかった。

「……童に、刃を向けぬようにと?」

「俺たちが頼んで行ってもらうんだから」

 結人は答えた。

「助けを呼びに行って、向こうと戦いになるのは困る。ちゃんと、話を聞いてもらいたい」

 白音は紙へ目を落とした。

 自分に武器を向けないでほしいと書かれた、その行を見た。

「もし話が通じなかったら、無理はしないで戻ってきて。別の方法を考える」

「……分かった」

 今度は、紙を受け取った。

 折り畳む指は、ゆっくりだった。

 結人はもう一つだけ頼んだ。

「時計と、フィリアのことは、街の人には内緒にしてほしい」

 白音が時計を見る。

『今は、そうしておきたいのじゃ』

 フィリアが言った。

 白音は少し黙ってから頷いた。

「承知した」

 紙を胸元へしまい、立ち上がる。

 尾のない姿になっても、フィリアとの間に取った距離は変わらなかった。

 歩き出す前に、白音が時計を見た。

「……ねえさまは」

『ここで、こやつらを見ておる』

 フィリアが答えた。

『待っておるぞ』

 白音は何かを言いかけた。

 けれど、別の言葉を選んだ。

「行ってくる」

『うむ』

 返事を確かめてから、白音は石段を下りていった。


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