第十一話 ~白い狐は下ろされた剣を忘れない~
フィリアが持ってきた鞄から、アイリスは布と薬を取り出した。
並べようとして、左腕を止める。
結人が手を伸ばすより先に、フィリアがその端を押さえた。
「片手でよい。こちらは、わらわが持つ」
「ありがとうございます」
アイリスは右手で布を広げた。
けれど、すぐには誰の傷にも触れなかった。
結人の脇腹と、リンの脚と、倒れたアカツキを順に見る。
「……川にいた、治療の方に見ていただいた方がいいと思います」
アイリスが言った。
「わたくしでは、どこをどれくらい傷めたのかまでは分かりません」
「うん。俺も、その方がいいと思う」
結人は答えた。
少し長く話すだけで、脇腹へ痛みが響いた。
それを隠そうと息を浅くすると、今度はうまく息を継げなくなる。
アイリスの前で、大丈夫だと言い張れる状態ではなかった。
「まずは、平らなところへ移るかの」
フィリアが言った。
結人は社の前を見た。
遠くはない。
普段なら、何も考えずに歩ける距離だった。
けれど、膝を引き寄せようとしただけで身体が強張った。
「……一人じゃ、無理そう」
「一人で行けとは言うておらぬ」
フィリアは結人の背を支え直した。
白音が、少し離れた場所からその様子を見ていた。
大きな白い狐の姿のまま、足を動かさずにいる。
やがて、低く声を掛けた。
「背なら、乗せられる」
結人は顔を上げた。
白音の紅い目が、リンへ向けられていた。
「そこの娘を、前まで運ぶくらいなら」
リンの耳が動いた。
白音を見る。
その大きな口元を見てから、尾へ、脚へと視線を移した。
結人はリンへ尋ねた。
「どうする?」
リンはすぐには答えなかった。
右脚を見下ろし、もう一度白音を見る。
「……急に走らないでほしいの」
「歩いて運ぶ」
「揺れるのも、少しにしてほしいの」
「気をつける」
白音が答えた。
リンは、小さく頷いた。
「リンなの」
「……何じゃ」
「名前。そこの娘じゃなくて、リンなの」
白音は少し黙った。
「……リンか」
その名を確かめるように口にしてから、大きな身体を地面へ伏せた。
リンが乗りやすいよう、さらに肩を低くする。
「アカツキは」
結人が振り返ると、白銀の狼は顔を上げていた。
「少し、待て」
目を閉じ、息を整える。
やがて、白銀の身体がゆっくり小さくなった。
大きな前脚も、背も、尾も、見慣れた子犬ほどの姿へ収まっていく。
肩の焦げ跡は残っていた。
小さくなっても、その脚へ体重を掛けようとはしなかった。
「これなら、運べるだろう」
「うん」
結人が答えるより先に、リンが手を伸ばした。
「リンのところなの」
フィリアが広げた布でアカツキを包み、傷めた肩を圧迫しないよう抱き上げる。
白音の背へ移ったリンの、左側へそっと置いた。
「脚に響かぬか」
アカツキが尋ねる。
「痛くない方なの」
「……そうか」
「動かなくていいの」
リンは、白銀の身体へ添えた手を動かさなかった。
白音が立ち上がる。
いつもの歩幅ではなかった。
一歩ずつ地面を確かめ、背をできるだけ揺らさないよう、ゆっくり身体を進めていく。
リンは白い毛を掴んでいた。
力を抜ききれない指を、白音が振りほどくことはなかった。
結人も、フィリアとアイリスに支えられて立った。
立てた、と思った次の瞬間に痛みが来た。
「っ……待って」
二人が止まる。
結人は目を閉じ、息を吐いた。
「……ごめん。もう少し」
「急がぬ」
フィリアが答えた。
その言葉どおり、誰も先へ引っ張らなかった。
◇
社の前へ着く頃には、結人の額に汗が浮いていた。
広げた毛布へリンを下ろし、アカツキをその横へ寝かせる。
結人も背中を支えてもらいながら、軒下へ座った。
数歩先に、閉じた戸がある。
誰も、それを開けようとはしなかった。
白音はリンたちを下ろすと、一度社から離れた。
白い毛並みが揺れ、その輪郭が変わっていく。
大きな身体が小さくなり、地面についていた前脚が、人の手になった。
結人は目を瞬いた。
そこにいたのは、白い髪と紅い目をした少女だった。
頭には狐の耳があり、背後には九本の尾が残っている。
大きな狐だったときより、表情がよく見えた。
よく見えるようになっても、近づきやすくなったわけではなかった。
白音自身も、こちらへ寄ろうとはしなかった。
「水なら、左手の岩陰から汲める」
白音が言った。
アイリスが水袋を見た。
持ってきた水はある。
けれど、三人の傷を確かめ、布を濡らしているうちに、使う量が増えていた。
「汲んできていただけますか」
アイリスが尋ねた。
「……うむ」
白音は差し出された水袋を受け取った。
フィリアがそちらへ目を向ける。
その動きに、白音の手が止まった。
水袋の口金が、小さく鳴る。
フィリアは立ち上がらなかった。
「頼む」
それだけ言った。
白音は返事の代わりに頷き、社の脇へ歩いていった。
結人は、その背を見送った。
人の姿になっても、九本の尾は身体の近くへ寄せられていた。
大きく広げていたときとは、違う形だった。
アイリスが結人の袖へ触れる。
「ここ、少し動かします」
「うん」
焼けた布の縁を避け、傷の周りを確かめていく。
結人が息を詰めると、すぐに手を止めた。
「痛かったですか」
「今のは、脇腹」
「……こちらですか」
「うん。そこは、あんまり動かさない方がよさそう」
アイリスは頷いた。
無理に傷の深さを調べようとはしなかった。
できるところから、布を替える。
リンの脚にも、以前使っていたものと同じように支えを添えた。ただ、前と同じ怪我だとは決めなかった。
「川の方に見ていただくまでは、立たないでください」
「分かってるの」
リンは答えた。
その横で、アカツキが目を閉じている。
眠っているのかと思うと、リンが布を直すたびに耳が動いた。
白音が戻ってきた。
水袋を両手で持ち、三人の前へ置く。
近くまで来てから、リンの脚を見た。
次に、アイリスの腕と、結人の焦げた袖を。
白音の指が、水袋の端を握ったまま止まった。
誰も火を向けてはいない。
それでも、リンは自分の脚を動かせず、アイリスは片腕を庇い、結人は座り直すだけで息を詰めていた。
「……すまぬ」
小さな声だった。
結人は白音を見た。
平気だとは言えなかった。
まだ痛かったし、怖さも残っていた。
「うん」
それだけ答えた。
白音の手元に、乾いた布がある。
「その布、こっちに置いてもらえる?」
白音は布へ目を落とした。
「……これか」
「うん。助かる」
差し出そうとして、白音は一度手を止めた。
結人も、受け取るために無理に身体を寄せなかった。
二人の間へ布が置かれる。
それを、アイリスが右手で取った。
「ありがとうございます」
白音は答えなかった。
けれど、立ち去ることもしなかった。
フィリアが、濡れた布を取るために手を伸ばした。
白音の肩が跳ねた。
少女自身が驚いたように、その手を身体へ引き寄せる。
フィリアも手を止めた。
少しの間、二人とも動かなかった。
「……そこへ置いてくれればよい」
フィリアが言った。
白音は布を置いた。
フィリアが受け取ったのは、その手が離れてからだった。
結人は何も言わなかった。
剣は消えた。
それだけで、剣を向けられる前へ戻れたわけではなかった。
しばらく、布の擦れる音と、水を注ぐ音だけが続いた。
やがて、フィリアが自分の手を見た。
袖の縁に、淡い光が滲んでいた。
「……そろそろ戻らねばならぬ」
白音が顔を上げた。
「戻る?」
「この姿を、長くは保てぬ」
「どこへ」
返事を待つ声が、少し速かった。
フィリアは結人の手元を見た。
「時計へじゃ」
開いた懐中時計が、結人の膝に置かれていた。
青い硝子は、いつものように静かだった。
白音がそれを見る。
それから、もう一度フィリアを見た。
「姿が……なくなるのかや」
「この身体は、なくなる」
フィリアは答えた。
「じゃが、今のわらわは、この時計におる」
白音の尾が動いた。
その先に、小さな青白い火が灯った。
白音自身が気づくまで、僅かな間があった。
紅い目が尾へ向く。
火はすぐに消えた。
結人の指が、反射的に時計を握っていた。
白音は、その指を見た。
「……出すつもりでは」
「こちらへ向けてはおらぬ」
フィリアが静かに言った。
白音は唇を結んだ。
結人は、時計を握った手から少しずつ力を抜いた。
「俺たちには、中からの声が聞こえる」
結人は言った。
「見えなくなって、何も分からなくなるわけじゃない」
白音がこちらを見る。
「声が?」
「うん。この時計を通して、話せるようにしてもらってる」
結人はフィリアを見た。
フィリアは白音へ向き直った。
「おぬしが望むなら、声を繋ぐことはできる」
白音はすぐには答えなかった。
時計と、フィリアの手とを交互に見る。
「繋げば……どうなる」
「時計の中のわらわが見える。声を交わすこともできる」
「それだけかや」
「それだけじゃ。おぬしを従わせるものではない」
白音は黙っていた。
フィリアは、手を差し出さなかった。
結人も時計を押しつけなかった。
「嫌なら、繋がなくても大丈夫だよ」
結人は言った。
「火を止める約束とは、別の話だから」
白音の目が、結人へ向いた。
「手当ても、山の話も、それで変わらない」
結人は時計を膝の上へ置いたまま、手を少し引いた。
青い硝子に、白音の顔が小さく映っていた。
白音は長い間、それを見ていた。
やがて、細い声で言った。
「……声は、聞いていたい」
フィリアは頷いた。
「繋いでよいか」
白音が顔を上げた。
フィリアを見た。
見たまま、言葉を選んでいた。
「……繋いでくれ」
「うむ。青い硝子へ触れよ」
白音が手を伸ばした。
結人は時計を動かさなかった。
白音の指先が、硝子の少し手前で止まる。
フィリアも待っていた。
急かす者はいなかった。
やがて、白い指が青へ触れた。
淡い光が、硝子の内側で一度揺れた。
それだけだった。
印が浮かぶことも、何かが身体へ巻きつくこともなかった。
白音は指を引き、自分の手を見た。
「……済んだのかや」
「済んだ」
フィリアが答えた。
「今から戻るぞ」
白音の肩が、僅かに強張った。
それでも、止める言葉は出さなかった。
白い衣の裾から、光がほどけた。
長い髪が青白く揺れ、少女の姿が薄くなる。
結人の背を支えていた手の感触が消えた。
代わりに、開いた文字盤の上へ、小さな影が降りた。
『白音』
声がした。
白音が時計を見た。
目を見開いたまま、しばらく動かなかった。
『聞こえるかの』
「……聞こえる」
白音が答えた。
フィリアは文字盤の縁へ腰を下ろしていた。
いつもより肩の力が抜けている。小さく息を吐いてから、白音を見上げた。
『今は、ここにおる』
白音は手を伸ばしかけた。
けれど、時計へは触れなかった。
伸ばしかけた手を膝の上へ戻し、少し離れた場所から、小さな神様を見ていた。
結人は時計の向きを僅かに変えた。
自分からも、白音からも見える向きへ。
それ以上、近づけようとはしなかった。
アイリスが使い終えた布をまとめる。
「ここでできるのは、これくらいだと思います」
声には、疲れが混じっていた。
結人は頷いた。
「川へ、連絡をつけないとな」
マレナたちが待っている。
戻る時間を決めて、こちらから出てきたのだ。
黙ったまま帰らなければ、向こうはまた誰かを探しに来ることになる。
「手紙を書ける?」
「はい。右手は大丈夫です」
アイリスが紙を出した。
結人は、書いてもらう内容を考えた。
神社の前にいること。
山の主と話ができ、火も幻も止まったこと。
怪我人が出て、自分たちだけでは戻れないこと。
治療をする人と、担架が必要なこと。
けれど、紙を書いても運ぶ者がいなかった。
結人が口を止めると、白音が言った。
「童が届けよう」
アイリスの筆が止まった。
結人は白音を見た。
「頼んでいいのか」
「歩ける者が行けばよい」
白音は答えた。
それから、時計へ目を向ける。
フィリアは何も命じなかった。
文字盤の上から、白音を見ていた。
「川で待ってるのは、組合の人たちなんだ」
結人が言った。
「手紙を届けたら、ここまで案内も頼みたい」
白音の眉が僅かに動いた。
「また、人を入れるのかや」
「治療をしてくれる人と、運ぶのを手伝う人だよ。俺たちが帰るために、来てほしい」
結人は、閉じた社の戸を見た。
「奥へは入らないように、手紙にも書く」
白音も戸を見た。
その向こうへ続く場所を、思い浮かべているようだった。
「……社の前までじゃぞ」
「うん」
結人は答えた。
アイリスが、その言葉を紙へ加えた。
白音の姿が、もう一度変わった。
狐の耳と九本の尾が消え、白い髪の少女だけが残る。
自分の背後を確かめてから、白音は言った。
「この姿で行く」
「分かった」
結人は頷き、書きかけの紙へ目を戻した。
「あ、それも書いてほしい」
アイリスが筆を止める。
「この手紙を持っていく人が、道を案内してくれるって」
「はい」
「それから、その人に武器を向けないでください、って」
白音が結人を見た。
結人はアイリスが書き終えるのを待った。
「これを先に見せて、話してもらえる?」
紙を白音へ差し出す。
白音はまだ受け取らなかった。
「……童に、刃を向けぬようにと?」
「俺たちが頼んで行ってもらうんだから」
結人は答えた。
「助けを呼びに行って、向こうと戦いになるのは困る。ちゃんと、話を聞いてもらいたい」
白音は紙へ目を落とした。
自分に武器を向けないでほしいと書かれた、その行を見た。
「もし話が通じなかったら、無理はしないで戻ってきて。別の方法を考える」
「……分かった」
今度は、紙を受け取った。
折り畳む指は、ゆっくりだった。
結人はもう一つだけ頼んだ。
「時計と、フィリアのことは、街の人には内緒にしてほしい」
白音が時計を見る。
『今は、そうしておきたいのじゃ』
フィリアが言った。
白音は少し黙ってから頷いた。
「承知した」
紙を胸元へしまい、立ち上がる。
尾のない姿になっても、フィリアとの間に取った距離は変わらなかった。
歩き出す前に、白音が時計を見た。
「……ねえさまは」
『ここで、こやつらを見ておる』
フィリアが答えた。
『待っておるぞ』
白音は何かを言いかけた。
けれど、別の言葉を選んだ。
「行ってくる」
『うむ』
返事を確かめてから、白音は石段を下りていった。




