第十話 ~結人の声は神様の剣を止める~
「……聞いておる」
フィリアが答えた。
青白い刃は、白音へ向けられたままだった。
結人は、その手を見た。
待ってくれている。
けれど、ただ待ってほしいと言い続けても、この火は消えない。
アイリスと繋いだ手にも、地面についた膝にも、力を入れられなかった。起き上がれない自分の代わりに、フィリアが前へ出てくれている。
そのことを忘れたまま、剣だけを下ろしてほしいとは言えなかった。
「まず、俺たちをここから生かして帰してほしい」
「そのために、こうしておる」
「うん」
結人は答えた。
「そのために、剣を振らずに済む方法があるなら、そっちを考えてほしい」
フィリアの目が、結人へ向けられた。
「まだ、あやつを信じると言うのか」
「今すぐ全部は、無理だよ」
結人は白音を見た。
九本の尾を持つ、大きな白い狐。
昔話で見たときには、会ってみたいと思えたかもしれない。
今は、怖かった。
立てるようになったとしても、すぐ隣まで歩いていける気はしなかった。
「まだ怖い。もう一回あんなことになったら、たぶん無理だ」
「分かっておるなら」
「だから、確かめたい」
結人は言った。
「言葉だけで大丈夫だって決めるんじゃなくて、まだ守ってもらってる間に」
フィリアは黙っていた。
結人は白音へ声を向けた。
「白音。俺の話、聞いてくれるか」
返事が来るまで、少し間があった。
「……何じゃ」
「火を、止めてほしい」
白音はすぐには答えなかった。
目の前にある剣を見ているのか、結人を見ているのか。動かない瞳からは分からなかった。
「俺たちは、もう奥へ行かない。戦いに戻るつもりもない。今は怪我の手当てをして、帰れるようになりたい」
「童に、ここを明け渡せと言うのではないのかや」
「言わない」
結人は答えた。
「ここがあんたの寝る場所だって、やっと分かったんだ。そこから出ていけなんて、頼んでない」
「ならば、人を来させるな」
「俺だけじゃ、そこまでは約束できない」
フィリアの指が、僅かに動いた。
結人は続けた。
「でも、山の仕事はもう止まってる。組合も、見えた魔物の数だけで討伐しようとはしてない。何が起きてるかを調べる依頼に変わった」
白音は何も言わなかった。
「俺たちは、そのために来た。ここに誰かが住んでいて、勝手に入られて怒ってるって分かれば、街へ持って帰れる話が変わる」
「人は、石や木を欲しがっておるのであろう」
「欲しいと思う」
結人は、槌の音が続いていた街を思い出した。
新しい店も、作りかけの家もあった。
続きを待っている人たちがいる。
それを、なかったことにはできなかった。
「だから、どこで採るか、どこへ道を通すかを考えないといけない。その前に、ここを勝手に調べていい場所だと思ってる人に、違うって伝えたい」
「伝えたところで、また来ればどうする」
「そうならないように話す。組合が何て答えたかも、ちゃんとあんたに返す」
結人は言葉を切った。
自分にできない約束を、足すわけにはいかなかった。
「俺が今、約束できるのはそこまでだ」
白音の声が低くなった。
「それで、童に火を収めよと」
「うん」
結人は答えた。
「今ここにいる俺たちを、これ以上焼かなくても、街へ話は持って帰れる」
白音は黙った。
結人の視界には、まだ火の先端があった。
話している間にも、それが近づくことはない。
止めてくれている神様がいるから、言葉を探せる。
その時間を、無駄にはしたくなかった。
「……童は」
白音が口を開いた。
「二度と踏み込もうと思わぬよう、覚えさせたかっただけじゃ」
「うん」
「殺すために、山へ呼び込んだのではない」
「でも、死ぬところだった」
結人は言った。
白音を責め立てるためではなかった。
そこを曖昧にしてしまったら、止めてほしい理由まで失くしてしまう。
「だから、もうやめてほしい」
しばらく、声がなかった。
その静けさの中へ、リンの声が入った。
「もう、火を飛ばさないの?」
白音は答えなかった。
リンは言葉を足した。
「今、リンは逃げられないの」
結人の肩へ預けられた腕も、地面へ伸びた脚も、動かなかった。
「アカツキも、立てないの。だから、もう飛ばさないでほしいの」
白音から、細い声が返った。
「……飛ばさぬ」
フィリアの刃は、まだ下りなかった。
結人は、その言葉を聞いてから尋ねた。
「幻も、やめてくれるか。帰る道を探せるように」
「収める」
短い答えだった。
「おぬしらが奥へ踏み込まぬのなら、これ以上は追わぬ」
「分かった」
結人は答えた。
アカツキの声がした。
「そなたが術を収めるなら、私もこれ以上は攻めぬ」
白音が黙って聞いている。
「こやつらを連れ出せれば、それでよい」
結人はフィリアへ声を戻した。
「俺たちを守ったまま、白音に火を止めてもらうことは、できる?」
フィリアはすぐには答えなかった。
白音の前に立ったまま、止まった火へ目を向ける。
それから、倒れたアカツキと、結人たちを順に見た。
「……できる」
返事があった。
「白音と、その術の時だけを動かす。おぬしらの周囲は、止めたままにできる」
「じゃあ、まずそれを頼みたい」
「結人」
フィリアが言った。
「わらわは、いつでもこの姿で出てこられるわけではない」
「うん」
「今の火を収めても、次に向けられたとき、また同じように守れるとは限らぬ」
結人は白音を見た。
その大きさを、力を、見誤ったつもりはなかった。
今ここで火が消えたとしても、危険が全てなくなるわけではない。
それでも、ここで斬る以外の道が、ようやく一つできた。
「次のことも、考えたい」
結人は言った。
「怪我を治して、街で話して、それから。今日分かったことを持ったまま、みんなで考えたい」
アイリスの声がした。
「……わたくしも、そうしたいです」
結人は繋いだ手を見た。
「まだ痛いですし、怖いです。でも、今はリンさんの脚と、ご主人様の傷を見たいです」
アイリスは少しだけ言葉を止めた。
「これ以上、怪我をする人が増えなければ……」
その先を、無理に続けなかった。
フィリアはアイリスを見ていた。
傷ついた腕で、リンを支えている少女を。
結人は、もう一度口を開いた。
「白音。今すぐ歩いて下りるのは、無理だと思う」
「……見れば分かる」
「帰れるようになるまで、外で手当てをさせてほしい。洞穴には入らない」
白音は少し黙ってから答えた。
「社の前なら、休むがよい」
声には、まだ硬さがあった。
「奥へは入るな」
「入らない」
結人は約束した。
「勝手に物を動かしたりもしない。必要なことがあったら、先に聞く」
それ以上、白音に何かを差し出すようには頼まなかった。
仲間になってほしいわけではない。
今すぐ自分たちを信じてほしいわけでもなかった。
火を止める。
これ以上、互いへ手を出さない。
怪我の手当てをする。
まず、そこまでなら進めるはずだった。
フィリアの刃先が、僅かに下がった。
けれど、まだ白音からは離れなかった。
「わらわが迷うた」
小さな声だった。
「出てくるのを躊躇うた。その間に、おぬしらはこの有様じゃ」
結人は何も挟まなかった。
フィリアの声が続く。
「また迷えば、次は間に合わぬかもしれぬ」
剣を握る手に、力が戻った。
結人は、その手を見た。
白音へ向けられているのに、それだけを見ているとは思えなかった。
フィリアが、自分へ何かを言い聞かせているようだった。
「俺にも、考えさせてほしい」
結人は言った。
フィリアがこちらを見た。
「今みたいに、声しか出せないかもしれないけど。何かできるなら、一緒に考えたい」
「おぬしは、守られておればよい」
「それは、ちょっと無理だよ」
結人は答えた。
強い声ではなかった。
それでも、そこは譲りたくなかった。
「守ってもらってるからって、何も言わずに見てるのは嫌だ」
フィリアは黙っていた。
「その剣で、何を斬ろうとしてるのか、俺には分からない」
結人は続けた。
「二人の昔のことも、知らない。だから、仲直りしろとか、何があったか話せとか、そういうことは言えない」
白音からも、声はなかった。
「でも、今その剣を振ったら、あんたがどうなるのかも分からない。それを、助かったからいいやって見てるのは、嫌なんだ」
「わらわのことはよい」
「俺は、よくない」
言葉は、すぐに出た。
結人はフィリアを見ていた。
その小さな身体が前に立ってくれるたびに、自分たちは助けられてきた。
いつも何かを知っていて、口が悪くて、こちらが少し調子に乗るとすぐに文句を言う。
そんな神様が、一度だけ、分からないと答えた夜があった。
会いたいのか。
会いたくないのか。
自分でも、よう分からぬ。
あのとき、結人はそれ以上聞かなかった。
「フィリア」
「……何じゃ」
「あの夜、分からないって言ってただろ」
フィリアの目が、僅かに揺れた。
結人は、その答えの中身を白音へ説明しなかった。
今、フィリアに届けばよかった。
「答えは、出た?」
返事はなかった。
神様は白音を見た。
動けないまま、自分の前にいる白い狐を。
結人の知らない時間を持つ相手を。
長い沈黙のあとで、フィリアが言った。
「……分からぬ」
声は、あの夜より小さかった。
「まだ、分からぬのじゃ」
「うん」
結人は答えた。
「だったら、今はそのままでいてほしい」
フィリアは何も言わなかった。
「先に、火を止めよう。怪我の手当てをしよう。それからなら、今と違うことも考えられると思う」
結人は、止まった火へ目を向けた。
自分たちを殺しかけたもの。
今は、その火を止めると白音が言っている。
フィリアには、皆を守りながらそれを確かめる力がある。
何も知らないまま、ただ信じようとしているのではなかった。
「俺たちを助けてほしい」
結人は言った。
「白音も斬らずに済むなら、俺はそっちがいい」
フィリアの指が、柄の上で動いた。
「……おぬしは」
その先の言葉は、続かなかった。
少女が一度、目を閉じる。
結人は待った。
急かす言葉を足さなかった。
何を斬ろうとしていたのかも、もう聞かなかった。
フィリアが目を開けた。
長い刃が下がった。
白音の胸から、青白い光が離れる。
短い方の刃も、身体の横へ下ろされた。
「……分かった」
フィリアが言った。
「その道を、選ぼう」
二本の刃が、光へほどけた。
何かを振り払うような動きはなかった。
神様は自分の手を開き、そこにあった剣を消した。
白音の前に、刃はなくなった。
それでも、誰もすぐには話さなかった。
フィリアが白音へ向き直る。
「おぬしと、おぬしの術だけを動かす」
白音は黙って聞いていた。
「こやつらの周りの時は、まだ止めたままじゃ。火と幻を収めよ」
「……分かった」
フィリアが手を上げた。
白音の耳が動いた。
次に、胸の毛が呼吸に合わせて膨らむ。
九本の尾が僅かに揺れ、大きな身体へ重さが戻った。
白音は、最初に前脚を引いた。
ほんの半歩だった。
剣のなくなった場所から、それでも距離を取るような動きだった。
フィリアは近づかなかった。
「……収めるぞ」
今度の声は、狐の口から聞こえた。
九本の尾が、ゆっくり閉じていく。
止まっていた青白い炎の中で、光が動いた。
結人は思わず身を固くしようとした。
身体は動かない。
フィリアの言葉どおり、火はこちらへ進んではこなかった。
炎の輪郭が、内側からほどけていった。
細い光になり、さらに小さく散って、消える。
結人の頬へ触れるはずだった火の粉も、色を失った。
その向こうにあった焦げた草が見えた。
焼けたものは、焼けたままだった。
砕けた石も、黒く縮れた毛も、元には戻らない。
それでも、これ以上こちらへ迫る火はなくなった。
「幻も、解いた」
白音が言った。
フィリアは辺りを見回した。
少しの間、何も言わずに確かめる。
やがて、その手を下ろした。
「……うむ」
結人は、やっと次のことを考えられた。
火が止まった。
本当に、止まった。
白音は、口にしたことをした。
フィリアが結人たちの方へ戻ってきた。
途中で、空中に浮いていた氷の欠片へ手を添える。
人のいない場所へ退け、三人のすぐ上に残っていた欠片も取り除いた。
足元で燻っていた草には、割れた氷を重ねた。
それから、結人の横へ膝をついた。
「時を動かすぞ」
声が近かった。
「立とうとするでない。傷は、そのままじゃ」
「分かった」
結人は答えた。
フィリアの手が肩と背へ添えられる。
次の瞬間、息が戻った。
喉が鳴り、結人は咳き込んだ。
脇腹へ痛みが突き刺さる。
「っ……」
「ゆっくりじゃ」
小さな手が、倒れかけた身体を支えた。
アイリスの指が、結人の手を握り直す。
その顔が痛みに歪むのを見て、結人はようやく自分の指を緩めた。
「ごめん、強く……」
「大丈夫です」
アイリスは答えたが、その声も少し震えていた。
隣でリンが息を漏らす。
右脚を動かしかけて、すぐに止めた。
「リンさん、そのままで」
アイリスが身体を寄せる。
アカツキの胸が大きく動いた。
長い息を吐き、頭だけを僅かに持ち上げて、三人を見た。
起き上がろうとはしなかった。
風が戻ってきた。
木の葉が擦れ、退けられた氷が地面へ落ちる。
冷たい水が焦げた土へ染み込み、細い湯気が上がった。
遠くで、鳥が一声鳴いた。
結人はその音を聞いた。
本物かどうかと疑うより先に、もう火が来ないことを確かめたかった。
斜面の上では、白音がこちらを見ていた。
炎は浮いていなかった。
黒い狼も現れない。
九本の尾を身体の後ろへ寄せ、ただ立っていた。
「……ありがとう」
結人はフィリアへ言った。
息を使って声を出すと、脇腹が痛んだ。
フィリアは結人の顔を見た。
何か言いかけて、それから言葉を変えた。
「今は、無理に話さずともよい」
肩を支える手は、離れなかった。
結人は頷いた。
頷けることに、少し遅れて気づいた。
アイリスが鞄へ手を伸ばそうとして、左腕を庇う。
結人が代わりに取ろうとすると、フィリアが先にその鞄を引き寄せた。
「どれじゃ」
「布と、薬を……」
「ここかの」
「はい」
短いやり取りが、止まっていた場所で始まった。
誰かを運ぶ相談や、傷を確かめるための言葉が、ようやく口にできた。
白音は、その様子を見ていた。
やがて、低く声を掛けた。
「社の前は、ここより平らじゃ」
フィリアが顔を上げた。
「そちらで、手当てをするがよい」
白音は言った。
「……奥へは、入るな」
「分かっておる」
フィリアが答えた。
その声に、白音の耳が僅かに伏せられた。
刃はもうなかった。
それでも、神様が自分を見ると、白い狐はまた半歩だけ身を引いた。
フィリアは手を伸ばさなかった。
白音が引いた分の距離を、そのまま残した。




