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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第十話 ~結人の声は神様の剣を止める~

「……聞いておる」

 フィリアが答えた。

 青白い刃は、白音へ向けられたままだった。

 結人は、その手を見た。

 待ってくれている。

 けれど、ただ待ってほしいと言い続けても、この火は消えない。

 アイリスと繋いだ手にも、地面についた膝にも、力を入れられなかった。起き上がれない自分の代わりに、フィリアが前へ出てくれている。

 そのことを忘れたまま、剣だけを下ろしてほしいとは言えなかった。

「まず、俺たちをここから生かして帰してほしい」

「そのために、こうしておる」

「うん」

 結人は答えた。

「そのために、剣を振らずに済む方法があるなら、そっちを考えてほしい」

 フィリアの目が、結人へ向けられた。

「まだ、あやつを信じると言うのか」

「今すぐ全部は、無理だよ」

 結人は白音を見た。

 九本の尾を持つ、大きな白い狐。

 昔話で見たときには、会ってみたいと思えたかもしれない。

 今は、怖かった。

 立てるようになったとしても、すぐ隣まで歩いていける気はしなかった。

「まだ怖い。もう一回あんなことになったら、たぶん無理だ」

「分かっておるなら」

「だから、確かめたい」

 結人は言った。

「言葉だけで大丈夫だって決めるんじゃなくて、まだ守ってもらってる間に」

 フィリアは黙っていた。

 結人は白音へ声を向けた。

「白音。俺の話、聞いてくれるか」

 返事が来るまで、少し間があった。

「……何じゃ」

「火を、止めてほしい」

 白音はすぐには答えなかった。

 目の前にある剣を見ているのか、結人を見ているのか。動かない瞳からは分からなかった。

「俺たちは、もう奥へ行かない。戦いに戻るつもりもない。今は怪我の手当てをして、帰れるようになりたい」

「童に、ここを明け渡せと言うのではないのかや」

「言わない」

 結人は答えた。

「ここがあんたの寝る場所だって、やっと分かったんだ。そこから出ていけなんて、頼んでない」

「ならば、人を来させるな」

「俺だけじゃ、そこまでは約束できない」

 フィリアの指が、僅かに動いた。

 結人は続けた。

「でも、山の仕事はもう止まってる。組合も、見えた魔物の数だけで討伐しようとはしてない。何が起きてるかを調べる依頼に変わった」

 白音は何も言わなかった。

「俺たちは、そのために来た。ここに誰かが住んでいて、勝手に入られて怒ってるって分かれば、街へ持って帰れる話が変わる」

「人は、石や木を欲しがっておるのであろう」

「欲しいと思う」

 結人は、槌の音が続いていた街を思い出した。

 新しい店も、作りかけの家もあった。

 続きを待っている人たちがいる。

 それを、なかったことにはできなかった。

「だから、どこで採るか、どこへ道を通すかを考えないといけない。その前に、ここを勝手に調べていい場所だと思ってる人に、違うって伝えたい」

「伝えたところで、また来ればどうする」

「そうならないように話す。組合が何て答えたかも、ちゃんとあんたに返す」

 結人は言葉を切った。

 自分にできない約束を、足すわけにはいかなかった。

「俺が今、約束できるのはそこまでだ」

 白音の声が低くなった。

「それで、童に火を収めよと」

「うん」

 結人は答えた。

「今ここにいる俺たちを、これ以上焼かなくても、街へ話は持って帰れる」

 白音は黙った。

 結人の視界には、まだ火の先端があった。

 話している間にも、それが近づくことはない。

 止めてくれている神様がいるから、言葉を探せる。

 その時間を、無駄にはしたくなかった。

「……童は」

 白音が口を開いた。

「二度と踏み込もうと思わぬよう、覚えさせたかっただけじゃ」

「うん」

「殺すために、山へ呼び込んだのではない」

「でも、死ぬところだった」

 結人は言った。

 白音を責め立てるためではなかった。

 そこを曖昧にしてしまったら、止めてほしい理由まで失くしてしまう。

「だから、もうやめてほしい」

 しばらく、声がなかった。

 その静けさの中へ、リンの声が入った。

「もう、火を飛ばさないの?」

 白音は答えなかった。

 リンは言葉を足した。

「今、リンは逃げられないの」

 結人の肩へ預けられた腕も、地面へ伸びた脚も、動かなかった。

「アカツキも、立てないの。だから、もう飛ばさないでほしいの」

 白音から、細い声が返った。

「……飛ばさぬ」

 フィリアの刃は、まだ下りなかった。

 結人は、その言葉を聞いてから尋ねた。

「幻も、やめてくれるか。帰る道を探せるように」

「収める」

 短い答えだった。

「おぬしらが奥へ踏み込まぬのなら、これ以上は追わぬ」

「分かった」

 結人は答えた。

 アカツキの声がした。

「そなたが術を収めるなら、私もこれ以上は攻めぬ」

 白音が黙って聞いている。

「こやつらを連れ出せれば、それでよい」

 結人はフィリアへ声を戻した。

「俺たちを守ったまま、白音に火を止めてもらうことは、できる?」

 フィリアはすぐには答えなかった。

 白音の前に立ったまま、止まった火へ目を向ける。

 それから、倒れたアカツキと、結人たちを順に見た。

「……できる」

 返事があった。

「白音と、その術の時だけを動かす。おぬしらの周囲は、止めたままにできる」

「じゃあ、まずそれを頼みたい」

「結人」

 フィリアが言った。

「わらわは、いつでもこの姿で出てこられるわけではない」

「うん」

「今の火を収めても、次に向けられたとき、また同じように守れるとは限らぬ」

 結人は白音を見た。

 その大きさを、力を、見誤ったつもりはなかった。

 今ここで火が消えたとしても、危険が全てなくなるわけではない。

 それでも、ここで斬る以外の道が、ようやく一つできた。

「次のことも、考えたい」

 結人は言った。

「怪我を治して、街で話して、それから。今日分かったことを持ったまま、みんなで考えたい」

 アイリスの声がした。

「……わたくしも、そうしたいです」

 結人は繋いだ手を見た。

「まだ痛いですし、怖いです。でも、今はリンさんの脚と、ご主人様の傷を見たいです」

 アイリスは少しだけ言葉を止めた。

「これ以上、怪我をする人が増えなければ……」

 その先を、無理に続けなかった。

 フィリアはアイリスを見ていた。

 傷ついた腕で、リンを支えている少女を。

 結人は、もう一度口を開いた。

「白音。今すぐ歩いて下りるのは、無理だと思う」

「……見れば分かる」

「帰れるようになるまで、外で手当てをさせてほしい。洞穴には入らない」

 白音は少し黙ってから答えた。

「社の前なら、休むがよい」

 声には、まだ硬さがあった。

「奥へは入るな」

「入らない」

 結人は約束した。

「勝手に物を動かしたりもしない。必要なことがあったら、先に聞く」

 それ以上、白音に何かを差し出すようには頼まなかった。

 仲間になってほしいわけではない。

 今すぐ自分たちを信じてほしいわけでもなかった。

 火を止める。

 これ以上、互いへ手を出さない。

 怪我の手当てをする。

 まず、そこまでなら進めるはずだった。

 フィリアの刃先が、僅かに下がった。

 けれど、まだ白音からは離れなかった。

「わらわが迷うた」

 小さな声だった。

「出てくるのを躊躇うた。その間に、おぬしらはこの有様じゃ」

 結人は何も挟まなかった。

 フィリアの声が続く。

「また迷えば、次は間に合わぬかもしれぬ」

 剣を握る手に、力が戻った。

 結人は、その手を見た。

 白音へ向けられているのに、それだけを見ているとは思えなかった。

 フィリアが、自分へ何かを言い聞かせているようだった。

「俺にも、考えさせてほしい」

 結人は言った。

 フィリアがこちらを見た。

「今みたいに、声しか出せないかもしれないけど。何かできるなら、一緒に考えたい」

「おぬしは、守られておればよい」

「それは、ちょっと無理だよ」

 結人は答えた。

 強い声ではなかった。

 それでも、そこは譲りたくなかった。

「守ってもらってるからって、何も言わずに見てるのは嫌だ」

 フィリアは黙っていた。

「その剣で、何を斬ろうとしてるのか、俺には分からない」

 結人は続けた。

「二人の昔のことも、知らない。だから、仲直りしろとか、何があったか話せとか、そういうことは言えない」

 白音からも、声はなかった。

「でも、今その剣を振ったら、あんたがどうなるのかも分からない。それを、助かったからいいやって見てるのは、嫌なんだ」

「わらわのことはよい」

「俺は、よくない」

 言葉は、すぐに出た。

 結人はフィリアを見ていた。

 その小さな身体が前に立ってくれるたびに、自分たちは助けられてきた。

 いつも何かを知っていて、口が悪くて、こちらが少し調子に乗るとすぐに文句を言う。

 そんな神様が、一度だけ、分からないと答えた夜があった。

 会いたいのか。

 会いたくないのか。

 自分でも、よう分からぬ。

 あのとき、結人はそれ以上聞かなかった。

「フィリア」

「……何じゃ」

「あの夜、分からないって言ってただろ」

 フィリアの目が、僅かに揺れた。

 結人は、その答えの中身を白音へ説明しなかった。

 今、フィリアに届けばよかった。

「答えは、出た?」

 返事はなかった。

 神様は白音を見た。

 動けないまま、自分の前にいる白い狐を。

 結人の知らない時間を持つ相手を。

 長い沈黙のあとで、フィリアが言った。

「……分からぬ」

 声は、あの夜より小さかった。

「まだ、分からぬのじゃ」

「うん」

 結人は答えた。

「だったら、今はそのままでいてほしい」

 フィリアは何も言わなかった。

「先に、火を止めよう。怪我の手当てをしよう。それからなら、今と違うことも考えられると思う」

 結人は、止まった火へ目を向けた。

 自分たちを殺しかけたもの。

 今は、その火を止めると白音が言っている。

 フィリアには、皆を守りながらそれを確かめる力がある。

 何も知らないまま、ただ信じようとしているのではなかった。

「俺たちを助けてほしい」

 結人は言った。

「白音も斬らずに済むなら、俺はそっちがいい」

 フィリアの指が、柄の上で動いた。

「……おぬしは」

 その先の言葉は、続かなかった。

 少女が一度、目を閉じる。

 結人は待った。

 急かす言葉を足さなかった。

 何を斬ろうとしていたのかも、もう聞かなかった。

 フィリアが目を開けた。

 長い刃が下がった。

 白音の胸から、青白い光が離れる。

 短い方の刃も、身体の横へ下ろされた。

「……分かった」

 フィリアが言った。

「その道を、選ぼう」

 二本の刃が、光へほどけた。

 何かを振り払うような動きはなかった。

 神様は自分の手を開き、そこにあった剣を消した。

 白音の前に、刃はなくなった。

 それでも、誰もすぐには話さなかった。

 フィリアが白音へ向き直る。

「おぬしと、おぬしの術だけを動かす」

 白音は黙って聞いていた。

「こやつらの周りの時は、まだ止めたままじゃ。火と幻を収めよ」

「……分かった」

 フィリアが手を上げた。

 白音の耳が動いた。

 次に、胸の毛が呼吸に合わせて膨らむ。

 九本の尾が僅かに揺れ、大きな身体へ重さが戻った。

 白音は、最初に前脚を引いた。

 ほんの半歩だった。

 剣のなくなった場所から、それでも距離を取るような動きだった。

 フィリアは近づかなかった。

「……収めるぞ」

 今度の声は、狐の口から聞こえた。

 九本の尾が、ゆっくり閉じていく。

 止まっていた青白い炎の中で、光が動いた。

 結人は思わず身を固くしようとした。

 身体は動かない。

 フィリアの言葉どおり、火はこちらへ進んではこなかった。

 炎の輪郭が、内側からほどけていった。

 細い光になり、さらに小さく散って、消える。

 結人の頬へ触れるはずだった火の粉も、色を失った。

 その向こうにあった焦げた草が見えた。

 焼けたものは、焼けたままだった。

 砕けた石も、黒く縮れた毛も、元には戻らない。

 それでも、これ以上こちらへ迫る火はなくなった。

「幻も、解いた」

 白音が言った。

 フィリアは辺りを見回した。

 少しの間、何も言わずに確かめる。

 やがて、その手を下ろした。

「……うむ」

 結人は、やっと次のことを考えられた。

 火が止まった。

 本当に、止まった。

 白音は、口にしたことをした。

 フィリアが結人たちの方へ戻ってきた。

 途中で、空中に浮いていた氷の欠片へ手を添える。

 人のいない場所へ退け、三人のすぐ上に残っていた欠片も取り除いた。

 足元で燻っていた草には、割れた氷を重ねた。

 それから、結人の横へ膝をついた。

「時を動かすぞ」

 声が近かった。

「立とうとするでない。傷は、そのままじゃ」

「分かった」

 結人は答えた。

 フィリアの手が肩と背へ添えられる。

 次の瞬間、息が戻った。

 喉が鳴り、結人は咳き込んだ。

 脇腹へ痛みが突き刺さる。

「っ……」

「ゆっくりじゃ」

 小さな手が、倒れかけた身体を支えた。

 アイリスの指が、結人の手を握り直す。

 その顔が痛みに歪むのを見て、結人はようやく自分の指を緩めた。

「ごめん、強く……」

「大丈夫です」

 アイリスは答えたが、その声も少し震えていた。

 隣でリンが息を漏らす。

 右脚を動かしかけて、すぐに止めた。

「リンさん、そのままで」

 アイリスが身体を寄せる。

 アカツキの胸が大きく動いた。

 長い息を吐き、頭だけを僅かに持ち上げて、三人を見た。

 起き上がろうとはしなかった。

 風が戻ってきた。

 木の葉が擦れ、退けられた氷が地面へ落ちる。

 冷たい水が焦げた土へ染み込み、細い湯気が上がった。

 遠くで、鳥が一声鳴いた。

 結人はその音を聞いた。

 本物かどうかと疑うより先に、もう火が来ないことを確かめたかった。

 斜面の上では、白音がこちらを見ていた。

 炎は浮いていなかった。

 黒い狼も現れない。

 九本の尾を身体の後ろへ寄せ、ただ立っていた。

「……ありがとう」

 結人はフィリアへ言った。

 息を使って声を出すと、脇腹が痛んだ。

 フィリアは結人の顔を見た。

 何か言いかけて、それから言葉を変えた。

「今は、無理に話さずともよい」

 肩を支える手は、離れなかった。

 結人は頷いた。

 頷けることに、少し遅れて気づいた。

 アイリスが鞄へ手を伸ばそうとして、左腕を庇う。

 結人が代わりに取ろうとすると、フィリアが先にその鞄を引き寄せた。

「どれじゃ」

「布と、薬を……」

「ここかの」

「はい」

 短いやり取りが、止まっていた場所で始まった。

 誰かを運ぶ相談や、傷を確かめるための言葉が、ようやく口にできた。

 白音は、その様子を見ていた。

 やがて、低く声を掛けた。

「社の前は、ここより平らじゃ」

 フィリアが顔を上げた。

「そちらで、手当てをするがよい」

 白音は言った。

「……奥へは、入るな」

「分かっておる」

 フィリアが答えた。

 その声に、白音の耳が僅かに伏せられた。

 刃はもうなかった。

 それでも、神様が自分を見ると、白い狐はまた半歩だけ身を引いた。

 フィリアは手を伸ばさなかった。

 白音が引いた分の距離を、そのまま残した。


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