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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第九話 ~神様は止まった世界で剣を握る~

 火の粉が、目の前に浮いていた。

 あと少しで頬に触れるはずだったものが、その僅かな距離を残したまま動かない。

 結人は顔を背けようとした。

 動かなかった。

 首も、肩も、地面についた膝も。

 アイリスの手を握った指に、力を込め直すことさえできなかった。

「……ご主人様」

 声が聞こえた。

 すぐ横からだった。

「聞こえてる」

 結人は答えた。

 口が動いた感覚はない。

 それなのに、言おうとした言葉だけが、確かに声になっていた。

「身体が……」

「俺も、動かない」

 焦げた土の匂いがした。

 脇腹の痛みも消えていない。

 けれど、火はそれ以上近づかず、倒れたアカツキの肩から落ちかけていた氷の欠片も、空中へ留まっていた。

 開いた懐中時計から、光が伸びた。

 文字盤の上にいた小さな姿が、青白い光へほどけていく。

 結人の指のすぐ先を通り、地面へ降りた光が、人の形を取った。

 白い衣の裾が土へ触れる。

 淡い青の長い髪が、その背を流れた。

 いつもは掌に収まっていた姿が、今は結人の前に立っていた。

 少女だった。

 見上げるような大人でも、知らない神の姿でもない。

 見慣れた顔が、手を伸ばせば届く場所にあった。

 ただ、その手を伸ばせなかった。

 少女が一歩、足を運ぶ。

 裾が揺れた。

 何も動かない景色の中で、それだけが動いていた。

「……ねえさま?」

 斜面の上から、声がした。

 先ほどまでの冷たさはなかった。

 細く、途切れそうな声だった。

 フィリアの足が止まった。

 長い髪が肩から滑り、その動きもゆっくり収まる。

 彼女はすぐには振り向かなかった。

 結人の前へ膝をつき、繋がれたままの手を見た。

「皆、聞こえるか」

 今度の声は、目の前から聞こえた。

 頭の中へ届く、いつもの声ではなかった。

 白い衣を着た少女が、そこにいて話していた。

「……聞こえる」

 結人が答える。

「聞こえます」

「リンも、聞こえるの」

 アカツキからも、低い声が返った。

「意識はある」

「うむ」

 フィリアが頷いた。

「身体の時を止めておる。火も、崩れた氷も、今はこれ以上進まぬ。声だけは、この場で届くようにしてある」

 結人は、目の前の火の粉を見た。

 止めている。

 言葉の意味は分かった。

 それでも、理解が追いついた気はしなかった。

「みんなは」

「生きておる」

 返事はすぐだった。

「傷は残っておる。じゃが、今はこれ以上、傷つけさせぬ」

 フィリアの手が、結人の袖へ触れた。

 焼けた布の縁を見て、その下へ視線を落とす。

 触れたところが治ることはなかった。

 脇腹の痛みも、腕のひりつきも、そのままだった。

 ただ、狼に噛まれた痛みが消えていた。

 歯が食い込んでいると思っていた場所には、何も残っていない。

 口の中に広がっていた血の味も、いつの間にかなくなっていた。

「幻は……」

「今は、おぬしらへ触れさせておらぬ」

 フィリアが答えた。

 景色には、神社が一つだけあった。

 石段の下に見えていた同じ屋根も、洞穴から聞こえていた川の音もない。

 結人たちは、社へ続く斜面の途中に倒れていた。

 少しずつ下りてはいた。

 けれど、逃げ切れるほどには進めていなかった。

 フィリアはアイリスの腕を見た。

 布で覆われた火傷と、その腕で支えられているリンの身体を。

 それから、倒れた白銀の狼へ目を向けた。

「アカツキ」

「……何だ」

「もう、立とうとせずともよい」

 短い沈黙があった。

「こやつらを、頼む」

「うむ」

 フィリアは頷いた。

 結人の前に立つ少女の声は、静かだった。

 静かすぎるように、結人には聞こえた。

「本当に……ねえさまなのかや」

 斜面の上から、もう一度声がした。

 フィリアが立ち上がった。

 今度は、振り向いた。

 九本の尾を広げた白い狐が、そこにいた。

 紅い瞳も、開きかけた口も、火を放ったときの姿のまま動かない。

 それでも、声だけは聞こえていた。

「……白音」

 フィリアが名を呼んだ。

 狐の声が途切れた。

 結人は、その名を初めて聞いた。

 白音。

 昔話の中で、神様をねえさまと呼んだ白い狐。

 フィリアは、知っていると言っていた。

 けれど、知っているという短い言葉の中に、どれほどのものがあったのかまでは知らなかった。

「わらわじゃ」

 フィリアが言った。

「見間違いではない」

「……おったのか」

 白音の声が、僅かに震えた。

「本当に、おったのか」

 それは問いというより、同じ言葉を口にして確かめているようだった。

 フィリアは黙って立っていた。

 白音の前へ近づこうとも、背を向けようともしなかった。

「どこに、行っておった」

 白音が聞いた。

 返事はなかった。

「童は……」

 その先の言葉が続かない。

 風も、葉も、火も動かなかった。

 何も音を立てない世界で、白音の声だけが次の言葉を探していた。

「どうして、あの時……童の前から姿を消したのかや」

 フィリアの指が、袖の端を掴んだ。

 結人には、それが見えた。

 ほんの僅かな動きだった。

 けれど、この場で動ける者はフィリアだけだったから、見落とせなかった。

 白音は待っていた。

 結人も、声を挟まなかった。

 その問いは、自分へ向けられたものではない。

 自分の知らない時間を、二人は持っている。

 フィリアが口を開いた。

「……すまぬ」

 白音は答えなかった。

 謝罪を聞いて、何を言えばいいのか分からなくなったような間があった。

「謝ってほしいのではない」

 やがて、声がした。

「童は、聞いておるのじゃ」

「……うむ」

「ならば」

 フィリアは何も続けなかった。

 言えないのか。

 言わないのか。

 結人には分からなかった。

 ただ、袖を掴んだ指は、まだ離れていなかった。

 白音が、別の問いを口にした。

「ねえさまは……いつから、ここに」

「こやつらと、共に来た」

 フィリアが答えた。

 今度は、言葉を濁さなかった。

「共に?」

「わらわの旅の連れじゃ」

 白音の声が止まった。

 動かない紅い瞳の先に、結人たちがいる。

 さっきまで追い払い、火を向けていた者たちが。

「また、旅をしておるのかや」

「うむ」

「この者たちと」

「そうじゃ」

 結人はフィリアの背中を見ていた。

 彼女は、結人たちと白音の間に立っていた。

 いま言った言葉を、隠すつもりはないようだった。

「童は、知らなんだ」

 白音が言った。

「ねえさまがおるなどと、少しも……」

「姿を見せなんだのは、わらわじゃ」

 フィリアが答えた。

「ここへ来てからも、わらわは出てこなんだ」

 白音の前で、ようやく袖を掴んだ手がほどけた。

「そこは、おぬしが知るはずもない」

 結人は、その言葉を聞いた。

 フィリアは白音を知っていた。

 白音は、フィリアがここにいることを知らなかった。

 この山で起きたことは、二人の再会を待って始まったものではない。

 誰かが住処へ入り、眠りを破った。

 怒った住人が、人を追った。

 そこへ自分たちが来た。

 その途中に、フィリアだけが知っていたことがあった。

「童は、静かに眠っておっただけじゃ」

 白音の声に、硬さが戻った。

「誰かを呼びつけたわけでもない。あの者らの街へ火を放ったわけでもない」

「聞こえておった」

 フィリアが言った。

「おぬしの寝所へ、人が踏み込んだことは」

「ならば、なぜ」

「こやつらは、帰ろうとしておった」

 白音の言葉が止まった。

 フィリアは声を荒らげなかった。

 その分、一言ずつがはっきり聞こえた。

「来た道を戻ろうとしておった。話が通らぬと知って、争わずに下りようとしておったではないか」

「立ち去れば、また別の者が来る」

 白音が答えた。

「先の者どももそうじゃった。追うても、追うても、人は来る。今度は何を連れて来るかも分からぬ」

 結人は、胸の奥が重くなるのを感じた。

 白音にとっては、誰が来ても続きだったのだ。

 最初に洞穴へ入った者も、小屋にいた者も、そこへ助けに来た自分たちも。

 違う顔が、同じ山へ入ってくる。

 けれど、あの小屋で怪我をしていた人たちは、洞穴の奥へ入ってなどいなかった。

 自分たちだって、帰ると伝えた。

 全てを一つにされては、どうすればよかったのか分からない。

「二度と、入り込まれとうなかった」

 白音が言った。

 フィリアは少しの間、黙っていた。

「こやつらは、死ぬところであった」

 白音から、返事はなかった。

 結人の視界の端には、まだ火があった。

 止まった炎の先端が、こちらへ伸びている。

 これが動けば、何が起きるのか。

 それは考えなくても分かった。

「フィリア」

 結人は声を出した。

「これ、ずっと止めておけるのか」

 フィリアが肩越しに結人を見た。

「いや」

 短い答えだった。

「いつまでもではない」

 結人は目の前の火の粉を見た。

 助かった。

 そう思ったのは間違いではなかった。

 けれど、ここで全てが終わったわけでもなかった。

「時を動かせば、火も動く」

 フィリアが言った。

「今のおぬしらは、もう一度これを受けられぬ」

「……うん」

 結人は答えた。

 それは、否定できなかった。

 リンは立てない。

 アカツキも起き上がれない。

 アイリスは、傷ついた腕で二人を支えている。

 自分も、その手を借りなければ身体を起こせなかった。

 フィリアは、もう一度白音へ向き直った。

「これ以上は、傷つけさせぬ」

 袖の下から、両手が出た。

 青白い光が伸びる。

 結人はその形を知っていた。

 長さの違う、二本の細い刃。

 時計の針を、そのまま剣にしたような光。

 クロノワールドだった。

 結人は何もしていなかった。

 時計に触れた指も、動かせないままだった。

 それでも、二本の刃はフィリアの手にあった。

 いつも結人へ力を貸してくれていた神様が、今は自分の手で握っていた。

 白音の声が、ひどく小さくなった。

「……何を、するつもりじゃ」

 フィリアは答えなかった。

 斜面へ足を掛ける。

 浮いた氷の欠片を避け、動かない火の脇を通った。

 白い衣の裾が、焦げた草を撫でる。

 誰も、その後を追えなかった。

「ねえさま」

 白音が呼んだ。

 フィリアは止まらなかった。

 九本の尾を広げた狐の前へ、白い衣の少女が歩いていく。

 大きさだけなら、まるで釣り合っていなかった。

 けれど、白音は動けなかった。

 尾の一本も、爪の先も。

 近づく刃から顔を背けることさえできず、フィリアを見ていた。

「それを、童へ向けるのかや」

 フィリアの足が止まった。

 二本の刃のうち、長い方が上がる。

 青白い光が、白音の胸の前へ伸びた。

 白い毛並みには、まだ触れていない。

 ただ、向けられていた。

 結人の腹の奥が冷たくなった。

 あの剣が、自分たちを助けてくれることは知っている。

 何度も、その力を借りた。

 今も、燃える袖から火を離してくれた。

 だからこそ、分かった。

 フィリアは、ただ威嚇するために構えているのではなかった。

「童を、斬るのかや」

 白音が聞いた。

 返事はなかった。

 フィリアの視線は白音へ向けられていた。

 けれど、結人には、その目が白い身体の輪郭だけを追っているようには見えなかった。

 どこへ刃を通すかを、探している。

 どこまで残し、何を離すかを。

 自分が剣を握るときにも、そうするから分かった。

 ただ、その先が分からなかった。

 白音の身体か。

 この場を覆っている術か。

 それとも、自分にはまだ見えていない何かなのか。

 フィリアが、短い方の刃を僅かに引いた。

 構えを整える。

 その動きは、結人が振るうときよりずっと静かで、無駄がなかった。

 白音が声を出した。

「童は、まだ何も聞けておらぬ」

 フィリアの指が、刃の柄を握り直した。

「やっと……声が届いたのに」

 その言葉を聞いて、結人はフィリアの横顔を見た。

 笑ってはいなかった。

 怒ってもいなかった。

 何かを言い返そうとしている顔でもなかった。

 唇を結び、ただ刃を振るうための姿勢へ、自分を置こうとしていた。

 その顔が、結人には怖かった。

 白音へ向けられた剣だけが、怖いのではなかった。

 フィリアが何かを置いていこうとしている。

 自分たちを助けるために。

 置いていったものを、あとから拾い直せるのかも確かめずに。

 そんな気がした。

「フィリア」

 結人は呼んだ。

 神様の手は止まらなかった。

 長い刃が、少し持ち上がる。

 結人は身体を起こそうとした。

 腕を伸ばそうとした。

 駆け寄って、その手を掴みたかった。

 何も動かなかった。

 アイリスと繋いだ指も、時計に触れた手も、地面に押しつけられた膝も。

 この身体は、フィリアが止めている。

 自分を生かすために。

「待って」

 結人は声を出した。

「まだ、振らないでくれ」

 刃が止まった。

 下りたわけではなかった。

 フィリアの手の中で、白音へ向けられたままだった。

「……結人」

 フィリアがこちらを見た。

「おぬしらは、わらわが守る」

「分かってる」

 結人は答えた。

「助けてくれた。今も、守ってくれてる」

 それを否定する言葉は、口にしたくなかった。

 目の前の火が止まっている。

 仲間は、まだ生きている。

 フィリアが出てきてくれたからだ。

「だから、話を聞いてほしい」

 フィリアは黙っていた。

 結人は、動かない身体のまま続けた。

「俺、今はそっちまで行けない。手も出せない」

 剣を握る小さな手へ、声を向ける。

「声しか届かないんだ。少しでいいから、聞いてくれ」

 白音も、アイリスも、リンも、アカツキも、何も言わなかった。

 青白い刃だけが、白い狐の前にあった。

「その剣を振るうかどうかは、俺の話を聞いてから決めてほしい」

 フィリアの指は、まだ柄を離していなかった。

 けれど、刃は動かなかった。


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