第九話 ~神様は止まった世界で剣を握る~
火の粉が、目の前に浮いていた。
あと少しで頬に触れるはずだったものが、その僅かな距離を残したまま動かない。
結人は顔を背けようとした。
動かなかった。
首も、肩も、地面についた膝も。
アイリスの手を握った指に、力を込め直すことさえできなかった。
「……ご主人様」
声が聞こえた。
すぐ横からだった。
「聞こえてる」
結人は答えた。
口が動いた感覚はない。
それなのに、言おうとした言葉だけが、確かに声になっていた。
「身体が……」
「俺も、動かない」
焦げた土の匂いがした。
脇腹の痛みも消えていない。
けれど、火はそれ以上近づかず、倒れたアカツキの肩から落ちかけていた氷の欠片も、空中へ留まっていた。
開いた懐中時計から、光が伸びた。
文字盤の上にいた小さな姿が、青白い光へほどけていく。
結人の指のすぐ先を通り、地面へ降りた光が、人の形を取った。
白い衣の裾が土へ触れる。
淡い青の長い髪が、その背を流れた。
いつもは掌に収まっていた姿が、今は結人の前に立っていた。
少女だった。
見上げるような大人でも、知らない神の姿でもない。
見慣れた顔が、手を伸ばせば届く場所にあった。
ただ、その手を伸ばせなかった。
少女が一歩、足を運ぶ。
裾が揺れた。
何も動かない景色の中で、それだけが動いていた。
「……ねえさま?」
斜面の上から、声がした。
先ほどまでの冷たさはなかった。
細く、途切れそうな声だった。
フィリアの足が止まった。
長い髪が肩から滑り、その動きもゆっくり収まる。
彼女はすぐには振り向かなかった。
結人の前へ膝をつき、繋がれたままの手を見た。
「皆、聞こえるか」
今度の声は、目の前から聞こえた。
頭の中へ届く、いつもの声ではなかった。
白い衣を着た少女が、そこにいて話していた。
「……聞こえる」
結人が答える。
「聞こえます」
「リンも、聞こえるの」
アカツキからも、低い声が返った。
「意識はある」
「うむ」
フィリアが頷いた。
「身体の時を止めておる。火も、崩れた氷も、今はこれ以上進まぬ。声だけは、この場で届くようにしてある」
結人は、目の前の火の粉を見た。
止めている。
言葉の意味は分かった。
それでも、理解が追いついた気はしなかった。
「みんなは」
「生きておる」
返事はすぐだった。
「傷は残っておる。じゃが、今はこれ以上、傷つけさせぬ」
フィリアの手が、結人の袖へ触れた。
焼けた布の縁を見て、その下へ視線を落とす。
触れたところが治ることはなかった。
脇腹の痛みも、腕のひりつきも、そのままだった。
ただ、狼に噛まれた痛みが消えていた。
歯が食い込んでいると思っていた場所には、何も残っていない。
口の中に広がっていた血の味も、いつの間にかなくなっていた。
「幻は……」
「今は、おぬしらへ触れさせておらぬ」
フィリアが答えた。
景色には、神社が一つだけあった。
石段の下に見えていた同じ屋根も、洞穴から聞こえていた川の音もない。
結人たちは、社へ続く斜面の途中に倒れていた。
少しずつ下りてはいた。
けれど、逃げ切れるほどには進めていなかった。
フィリアはアイリスの腕を見た。
布で覆われた火傷と、その腕で支えられているリンの身体を。
それから、倒れた白銀の狼へ目を向けた。
「アカツキ」
「……何だ」
「もう、立とうとせずともよい」
短い沈黙があった。
「こやつらを、頼む」
「うむ」
フィリアは頷いた。
結人の前に立つ少女の声は、静かだった。
静かすぎるように、結人には聞こえた。
「本当に……ねえさまなのかや」
斜面の上から、もう一度声がした。
フィリアが立ち上がった。
今度は、振り向いた。
九本の尾を広げた白い狐が、そこにいた。
紅い瞳も、開きかけた口も、火を放ったときの姿のまま動かない。
それでも、声だけは聞こえていた。
「……白音」
フィリアが名を呼んだ。
狐の声が途切れた。
結人は、その名を初めて聞いた。
白音。
昔話の中で、神様をねえさまと呼んだ白い狐。
フィリアは、知っていると言っていた。
けれど、知っているという短い言葉の中に、どれほどのものがあったのかまでは知らなかった。
「わらわじゃ」
フィリアが言った。
「見間違いではない」
「……おったのか」
白音の声が、僅かに震えた。
「本当に、おったのか」
それは問いというより、同じ言葉を口にして確かめているようだった。
フィリアは黙って立っていた。
白音の前へ近づこうとも、背を向けようともしなかった。
「どこに、行っておった」
白音が聞いた。
返事はなかった。
「童は……」
その先の言葉が続かない。
風も、葉も、火も動かなかった。
何も音を立てない世界で、白音の声だけが次の言葉を探していた。
「どうして、あの時……童の前から姿を消したのかや」
フィリアの指が、袖の端を掴んだ。
結人には、それが見えた。
ほんの僅かな動きだった。
けれど、この場で動ける者はフィリアだけだったから、見落とせなかった。
白音は待っていた。
結人も、声を挟まなかった。
その問いは、自分へ向けられたものではない。
自分の知らない時間を、二人は持っている。
フィリアが口を開いた。
「……すまぬ」
白音は答えなかった。
謝罪を聞いて、何を言えばいいのか分からなくなったような間があった。
「謝ってほしいのではない」
やがて、声がした。
「童は、聞いておるのじゃ」
「……うむ」
「ならば」
フィリアは何も続けなかった。
言えないのか。
言わないのか。
結人には分からなかった。
ただ、袖を掴んだ指は、まだ離れていなかった。
白音が、別の問いを口にした。
「ねえさまは……いつから、ここに」
「こやつらと、共に来た」
フィリアが答えた。
今度は、言葉を濁さなかった。
「共に?」
「わらわの旅の連れじゃ」
白音の声が止まった。
動かない紅い瞳の先に、結人たちがいる。
さっきまで追い払い、火を向けていた者たちが。
「また、旅をしておるのかや」
「うむ」
「この者たちと」
「そうじゃ」
結人はフィリアの背中を見ていた。
彼女は、結人たちと白音の間に立っていた。
いま言った言葉を、隠すつもりはないようだった。
「童は、知らなんだ」
白音が言った。
「ねえさまがおるなどと、少しも……」
「姿を見せなんだのは、わらわじゃ」
フィリアが答えた。
「ここへ来てからも、わらわは出てこなんだ」
白音の前で、ようやく袖を掴んだ手がほどけた。
「そこは、おぬしが知るはずもない」
結人は、その言葉を聞いた。
フィリアは白音を知っていた。
白音は、フィリアがここにいることを知らなかった。
この山で起きたことは、二人の再会を待って始まったものではない。
誰かが住処へ入り、眠りを破った。
怒った住人が、人を追った。
そこへ自分たちが来た。
その途中に、フィリアだけが知っていたことがあった。
「童は、静かに眠っておっただけじゃ」
白音の声に、硬さが戻った。
「誰かを呼びつけたわけでもない。あの者らの街へ火を放ったわけでもない」
「聞こえておった」
フィリアが言った。
「おぬしの寝所へ、人が踏み込んだことは」
「ならば、なぜ」
「こやつらは、帰ろうとしておった」
白音の言葉が止まった。
フィリアは声を荒らげなかった。
その分、一言ずつがはっきり聞こえた。
「来た道を戻ろうとしておった。話が通らぬと知って、争わずに下りようとしておったではないか」
「立ち去れば、また別の者が来る」
白音が答えた。
「先の者どももそうじゃった。追うても、追うても、人は来る。今度は何を連れて来るかも分からぬ」
結人は、胸の奥が重くなるのを感じた。
白音にとっては、誰が来ても続きだったのだ。
最初に洞穴へ入った者も、小屋にいた者も、そこへ助けに来た自分たちも。
違う顔が、同じ山へ入ってくる。
けれど、あの小屋で怪我をしていた人たちは、洞穴の奥へ入ってなどいなかった。
自分たちだって、帰ると伝えた。
全てを一つにされては、どうすればよかったのか分からない。
「二度と、入り込まれとうなかった」
白音が言った。
フィリアは少しの間、黙っていた。
「こやつらは、死ぬところであった」
白音から、返事はなかった。
結人の視界の端には、まだ火があった。
止まった炎の先端が、こちらへ伸びている。
これが動けば、何が起きるのか。
それは考えなくても分かった。
「フィリア」
結人は声を出した。
「これ、ずっと止めておけるのか」
フィリアが肩越しに結人を見た。
「いや」
短い答えだった。
「いつまでもではない」
結人は目の前の火の粉を見た。
助かった。
そう思ったのは間違いではなかった。
けれど、ここで全てが終わったわけでもなかった。
「時を動かせば、火も動く」
フィリアが言った。
「今のおぬしらは、もう一度これを受けられぬ」
「……うん」
結人は答えた。
それは、否定できなかった。
リンは立てない。
アカツキも起き上がれない。
アイリスは、傷ついた腕で二人を支えている。
自分も、その手を借りなければ身体を起こせなかった。
フィリアは、もう一度白音へ向き直った。
「これ以上は、傷つけさせぬ」
袖の下から、両手が出た。
青白い光が伸びる。
結人はその形を知っていた。
長さの違う、二本の細い刃。
時計の針を、そのまま剣にしたような光。
クロノワールドだった。
結人は何もしていなかった。
時計に触れた指も、動かせないままだった。
それでも、二本の刃はフィリアの手にあった。
いつも結人へ力を貸してくれていた神様が、今は自分の手で握っていた。
白音の声が、ひどく小さくなった。
「……何を、するつもりじゃ」
フィリアは答えなかった。
斜面へ足を掛ける。
浮いた氷の欠片を避け、動かない火の脇を通った。
白い衣の裾が、焦げた草を撫でる。
誰も、その後を追えなかった。
「ねえさま」
白音が呼んだ。
フィリアは止まらなかった。
九本の尾を広げた狐の前へ、白い衣の少女が歩いていく。
大きさだけなら、まるで釣り合っていなかった。
けれど、白音は動けなかった。
尾の一本も、爪の先も。
近づく刃から顔を背けることさえできず、フィリアを見ていた。
「それを、童へ向けるのかや」
フィリアの足が止まった。
二本の刃のうち、長い方が上がる。
青白い光が、白音の胸の前へ伸びた。
白い毛並みには、まだ触れていない。
ただ、向けられていた。
結人の腹の奥が冷たくなった。
あの剣が、自分たちを助けてくれることは知っている。
何度も、その力を借りた。
今も、燃える袖から火を離してくれた。
だからこそ、分かった。
フィリアは、ただ威嚇するために構えているのではなかった。
「童を、斬るのかや」
白音が聞いた。
返事はなかった。
フィリアの視線は白音へ向けられていた。
けれど、結人には、その目が白い身体の輪郭だけを追っているようには見えなかった。
どこへ刃を通すかを、探している。
どこまで残し、何を離すかを。
自分が剣を握るときにも、そうするから分かった。
ただ、その先が分からなかった。
白音の身体か。
この場を覆っている術か。
それとも、自分にはまだ見えていない何かなのか。
フィリアが、短い方の刃を僅かに引いた。
構えを整える。
その動きは、結人が振るうときよりずっと静かで、無駄がなかった。
白音が声を出した。
「童は、まだ何も聞けておらぬ」
フィリアの指が、刃の柄を握り直した。
「やっと……声が届いたのに」
その言葉を聞いて、結人はフィリアの横顔を見た。
笑ってはいなかった。
怒ってもいなかった。
何かを言い返そうとしている顔でもなかった。
唇を結び、ただ刃を振るうための姿勢へ、自分を置こうとしていた。
その顔が、結人には怖かった。
白音へ向けられた剣だけが、怖いのではなかった。
フィリアが何かを置いていこうとしている。
自分たちを助けるために。
置いていったものを、あとから拾い直せるのかも確かめずに。
そんな気がした。
「フィリア」
結人は呼んだ。
神様の手は止まらなかった。
長い刃が、少し持ち上がる。
結人は身体を起こそうとした。
腕を伸ばそうとした。
駆け寄って、その手を掴みたかった。
何も動かなかった。
アイリスと繋いだ指も、時計に触れた手も、地面に押しつけられた膝も。
この身体は、フィリアが止めている。
自分を生かすために。
「待って」
結人は声を出した。
「まだ、振らないでくれ」
刃が止まった。
下りたわけではなかった。
フィリアの手の中で、白音へ向けられたままだった。
「……結人」
フィリアがこちらを見た。
「おぬしらは、わらわが守る」
「分かってる」
結人は答えた。
「助けてくれた。今も、守ってくれてる」
それを否定する言葉は、口にしたくなかった。
目の前の火が止まっている。
仲間は、まだ生きている。
フィリアが出てきてくれたからだ。
「だから、話を聞いてほしい」
フィリアは黙っていた。
結人は、動かない身体のまま続けた。
「俺、今はそっちまで行けない。手も出せない」
剣を握る小さな手へ、声を向ける。
「声しか届かないんだ。少しでいいから、聞いてくれ」
白音も、アイリスも、リンも、アカツキも、何も言わなかった。
青白い刃だけが、白い狐の前にあった。
「その剣を振るうかどうかは、俺の話を聞いてから決めてほしい」
フィリアの指は、まだ柄を離していなかった。
けれど、刃は動かなかった。




