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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第八話 ~森の声はもう味方をしてくれない~

「分かった。今は動かなくていい」

 結人は、リンの肩へ手を置いた。

 紅い耳が僅かに動く。リンはもう一度だけ鼻を鳴らし、それから頷いた。

 分からないと、言ってくれた。

 それなら、分からないまま足を出さずに済む。

 結人はアイリスと繋いだ手を確かめた。指が触れている。握り返す力もある。

 けれど、石に触れたはずの指先には、まだ水の冷たさが残っていた。

「声がしても、それだけで動かないで。なるべく、身体を離さないようにしよう」

「はい」

「うん」

 すぐ横から返事があった。

 その直後、石段の下からも声がした。

「結人、こっちなの」

 リンの声だった。

 肩に置いた手の下で、リンの身体が強張る。

「……言ってないの」

「分かってる」

 結人は答えた。

 返事はできたが、背中には冷たい汗が流れていた。

 知っている声まで使われる。

 振り向いた先で、黒い狼が石段を駆け上がってきた。爪が石を掻く音がする。濡れた獣の匂いが鼻へ入り、開いた口の奥まで見えた。

 結人は反射的にリンの肩を引いた。

 狼の歯が、伸ばした腕へ食い込んだ。

「っ……!」

 痛みが走った。

 肘から指先まで、熱いものが突き抜ける。腕を引き抜こうとして、結人は足を滑らせかけた。

 アイリスが繋いだ手を引く。

「ご主人様!」

『噛まれてはおらぬ! 足を止めよ!』

 フィリアの声が重なった。

 狼は結人の腕を通り抜け、背後へ消えた。

 袖に穴はなかった。

 血も出ていない。

 それなのに、腕にはまだ歯が刺さっていた。そうとしか思えない痛みが、脈に合わせて強くなる。

 結人は息を詰め、指を曲げた。

 動く。

 ゆっくり開き、もう一度曲げる。

「……噛まれてない」

 自分へ言い聞かせた。

 痛みは消えなかった。

 口の中にまで血の味が広がっている。唇を舐めても、どこを切ったのか分からなかった。

 幻だと知っている。

 そのことと、身体が痛みに反応することは、別だった。

 背後で氷が割れた。

 アカツキが新たな冷気を吐く。砕けた壁の隙間を白い氷が埋め、その向こうで青白い火が膨らんだ。

「乗れ」

 アカツキが言った。

「三人ともだ。ここに留まっていては持たぬ」

「道は?」

「見えているとは言えん。だが、お前たちをばらばらにはさせずに済む」

 白銀の身体が低くなる。

 リンが先に背へ手を掛けた。右脚を庇いながら身体を引き上げ、首に近い位置へ跨がる。

 結人はアイリスの腰を支えた。

「先に乗って」

「ご主人様は」

「すぐ後ろ」

 アイリスが乗ったのを確かめてから、結人も背へ上がる。

 普段なら、大きな背だと笑えたかもしれない。

 今は毛を掴む指に力を込めるだけで精一杯だった。

「急には走らん。低く伏せていろ」

 アカツキが立ち上がった。

 結人はアイリスの身体へ腕を回す。前ではリンが身を低くし、両手で白銀の毛を握っていた。

 アカツキの息が白く広がった。

 冷たい霧の中に、もう一頭の白い狼が現れる。

 さらに一頭。

 どちらの背にも、結人たちと同じ人影が乗っていた。

「目を引く。その間に下りるぞ」

 左右へ、二頭の狼が走り出した。

 本物の背が、その間をゆっくり進む。

 爪が石を捉える感触が、身体の下から伝わってきた。

 一歩ずつなら進める。

 結人がそう思った瞬間、左右へ走った影の間を、青白い火が抜けてきた。

 真っ直ぐ、こちらへ。

 アカツキが首を振った。

 冷気が火を受け止め、熱い霧になって弾ける。

 頬が焼けるように熱かった。

 二頭の影は、その先でも走り続けていた。

 火は一度も、そちらを追わなかった。

「……通らぬか」

 アカツキが低く言った。

 背中が、また動き始める。

 踏み出した前脚が何かにぶつかり、大きな身体が揺れた。

 目の前には何もなかった。

 少なくとも、結人にはそう見えた。

 アカツキは脚を引き、半歩横へずれた。白い毛が擦れる音と、細い枝の折れる音がする。

 何もない場所に、何かがある。

 見えている木の間を通ればいいわけではなかった。

 結人はアイリスを片腕で支えながら、懐中時計を取り出した。

 親指で蓋を開く。

 文字盤に青白い光が灯り、フィリアの小さな姿が浮かんだ。

 その顔を見て、結人は言いかけた言葉を飲み込んだ。

 フィリアは、結人を見ていなかった。

 背後の霧の向こうを、じっと見つめていた。

『……アカツキ。左へ寄れ。右は岩じゃ』

「承知した」

 アカツキが身体を傾ける。

 見えていた岩の方へ進むと、白銀の脚は何にもぶつからず、その中を通った。

 結人は時計を握り直した。

 まだ、進める。

 少なくとも、全てを失ったわけではない。

『その先は低くなっておる。急ぐでないぞ』

 アカツキが前脚を下ろした。

 少し遅れて後脚が続く。結人の身体にも、確かに斜面を下りた重みが掛かった。

 黒い狼が左右を走る。

 牙がすぐ横まで迫るたびに、結人の身体は勝手に強張った。

 リンも顔を伏せ、毛を握りしめていた。

 怖がっているのは、自分だけではなかった。

 それでも、誰も手を離さなかった。

 やがて、木々の向こうに水が見えた。

 日を返して光る川面。岸辺に寄った流木。

 聞き慣れた水音が近くなる。

「川……」

 アイリスの声に、結人も顔を上げかけた。

 だが、すぐに首を振った。

「まだ近すぎる」

 小屋にも戻っていない。

 坂を少し下りただけで、あの川へ着くはずがなかった。

 アカツキも足を止めていた。

 目の前では、水が流れている。

 その岸へ下りるように見える場所へ、アカツキが前脚をそっと伸ばした。

 爪先が、地面を捉えなかった。

 さらに下へ伸ばしても、何にも触れない。

 アカツキは脚を戻した。

 結人の喉が鳴った。

 あのまま走っていたら。

 考える前に、後ろでまた火が弾けた。

「右へ回る」

 アカツキが言う。

 その進路へ、火が落ちた。

 目の前の草が燃え上がる。炎の輪郭が揺れ、熱が顔を押した。

 アカツキは後脚を踏ん張り、身体を横へ向けた。

 背の上でアイリスが滑る。

 結人は腕へ力を込めた。

「掴まって!」

 火が地面を打った。

 土と小石が跳ね上がり、結人はアイリスを抱くように身を伏せた。

 腕が熱くなった。

 さっきの牙とは違う。

 そう思っても、違うと確かめる方法がすぐには浮かばなかった。

 焦げた布の匂いがする。

 アイリスが短く息を吸い、結人の腕の中で身体を縮めた。

 結人の袖に、青白い火が残っていた。

「降りろ。背に乗ったままでは、火を避けきれぬ」

 アカツキが身体を低くした。

『右側じゃ。そこなら足がつく』

 フィリアの声に従い、結人は背から滑り降りた。

 足元に硬い地面があった。

 アイリスを受け止め、続いて下りたリンへ場所を空ける。

 アカツキが三人と火の間へ身体を入れた。

 結人は燃える袖を地面へ押しつけようとした。

 火は潰れなかった。

 布へ食いついたまま、肘の方へ伸びてくる。

 結人の手に、青白い刃が生まれた。

 長さの違う、二本の時計の針。

 短い方を持つ手で、燃える布の端を追う。

 火を腕ごと斬るのではない。

 燃えついているものを、そこから離す。

 刃を通すと、袖にまとわりついていた火が落ちた。

 足元の枯れ葉が燃え始める。

 結人はすぐに足を引いた。

 袖は焦げたままだった。

 その下の皮膚も赤く、火が離れても痛みは残っている。

「アイリス、腕」

 結人が言うと、アイリスは自分の左腕を見た。

 袖の裂けたところに、赤くなった皮膚が覗いていた。

 アイリスはそれを隠さなかった。

「熱いです。でも、動かせます」

「布、出すから」

 結人は刃を消し、袋から清潔な布を引き出した。

 手が少し震えていた。

 アイリスが右手で布を受け取る。結人は端を押さえ、焼けたところを擦らないよう、緩く覆うのを手伝った。

 その間も、アカツキの前では火が弾け続けていた。

 氷の壁を立てる。

 割られる。

 残った氷へ冷気を重ね、次の火を受ける。

 同じことを繰り返すたびに、白銀の毛へ水滴が増えていった。

 結人は顔を上げた。

 火と布なら、離せた。

 けれど、この目や耳に入り込んでいるものは、どこへ刃を入れれば離れるのか。

 目の前の狼を斬れば済むのか。

 社を斬ればいいのか。

 どちらも、見えているものにすぎなかった。

 幻を見ている自分に、斬るべき場所まで幻で見せられていたら。

 結人は歯を食いしばった。

 剣を出せることと、何を斬ればいいか分かることは、同じではなかった。

「結人、こっちなの」

 左から声がした。

 結人は動かなかった。

 すぐ右にいるリンも、その声の方へ顔を向ける。

 木々の間に、もう一人のリンが立っていた。

 紅い耳と尾。

 同じ服。同じ顔。

 足を庇う立ち方まで、よく似ていた。

「……リン、そっちにはいないの」

 隣のリンが呟いた。

 偽物が手を伸ばす。

 その奥で、火が揺れた。

「左へ寄るな!」

 アカツキの声が飛ぶ。

 結人はアイリスの手を取り、リンと一緒に岩へ寄った。

 さっきまでいた場所を、火が走り抜けた。

 偽物のリンも、その中へ溶けるように消える。

 結人は岩へ背をつけた。

 ここには、本当に硬いものがある。

 そう思いたくなるたびに、指へ水がまとわりついた感触を思い出した。

 アカツキが振り向いた。

 左肩の毛が、一部黒く縮れていた。

「私が火を押さえる。その間に、少しでも下へ行け」

「お前も来いよ」

「そのつもりだ」

 短い返事だった。

 アカツキが身を沈める。

 白い息が、今までより長く流れた。

 足元の草へ霜が降りる。水を含んだ土が白く凍り、岩の表面を細い氷が這っていった。

 迫る火の列へ、冷気が広がる。

 先頭の火が消えた。

 続く火も、白い霧に呑まれた。

 その向こうに、暗い土の道が見えた。

「行け!」

 アカツキの声で、結人は岩から離れた。

 アイリスの手を引く。

 リンが隣へ並ぶ。

 三歩、進めた。

 次の一歩を出そうとしたとき、アカツキが吠えた。

「伏せろ!」

 結人は肩越しに振り向いた。

 消えたはずの火が、霧の低いところを走ってきていた。

 アイリスが足を止める。

 その足元へ、青白い光が伸びた。

 リンが動いた。

 地面を蹴った音がした。

 紅い髪が視界を横切り、アイリスの身体が結人のすぐ横へ引き寄せられる。

 二人がいた場所を、火が抜けた。

 加速だった。

 速く動いたと分かったときには、リンはもう止まっていた。

 止まった右脚が、身体を支えきれずに折れた。

「リン!」

 結人は倒れかけた肩を掴んだ。

 リンが歯を食いしばる。

 息を吸おうとして、喉から細い声が漏れた。

 アイリスが膝をつき、その腕を支える。

「リンさん」

「……大丈夫じゃ、ないの」

 リンは小さく首を振った。

 額に汗が浮かんでいた。

「今は、立てないの」

「分かった」

 結人はすぐに答えた。

 立てるか試せとは言わなかった。

 リンの腕を自分の肩へ回し、痛む脚に体重が掛からないよう身体を寄せる。

 アイリスも反対側から支えようとした。

「その腕は使わないで」

「右は使えます」

 アイリスは答え、右手でリンの身体を支えた。

 結人は頷いた。

 今ある手で、持つしかなかった。

 アカツキが後ろへ下がってくる。

 冷気を吐く息が、さっきより短い。

 その向こうで、白い霧が割れた。

 斜面の上に、何かが立っていた。

 白い毛並みだった。

 一瞬、アカツキの偽物がまた現れたのかと思った。

 けれど、顔が違った。

 細い鼻先。長く伸びた耳。

 こちらを見下ろす、紅い瞳。

 その背後で、尾が広がった。

 一本ではなかった。

 重なり合っていた白がほどけ、左右へゆっくり開いていく。

「……九本」

 リンの声がした。

 結人も、数えていた。

 数え終わってから、広場で見た古い板を思い出した。

 山と月。

 その下で尾を広げていた、白い狐。

 結人の息が止まった。

 昔話の狐は、絵の中にいた。

 目の前の狐は、呼吸に合わせて胸の毛を動かし、結人たちへ紅い目を向けていた。

 アカツキと向かい合っても、その姿は小さく見えなかった。

 九つの尾の間に、青白い火が浮かぶ。

 狐は笑っていなかった。

「童に、関わるな」

 さっきと同じ声がした。

 結人は懐中時計へ目を落としかけた。

 その前に、アカツキが三人を隠すように立った。

「下がれ」

 誰へ向けた言葉なのか、結人には分からなかった。

 アカツキが前脚を踏みしめる。

 凍った土が鳴った。

 地面から連なる氷が、迫る火へ向かって伸びる。白い冷気が斜面を駆け上がり、狐の足元まで覆おうとした。

 九本の尾が揺れた。

 散っていた火が、一つに寄った。

 小さくなったように見えた。

 次の瞬間、火が開いた。

 氷の先端が消える。

 砕けたのか、溶けたのか、それさえ分からなかった。

 白い霧が一度膨らみ、その全てを押し退けるように、青白い炎が広がった。

 アカツキが吠えた。

 結人たちの前に、分厚い氷が立ち上がる。

 火がぶつかった。

 音より先に、足元が揺れた。

 結人はリンを抱え込むように屈んだ。

 何かが肩を打ち、続いて脇腹へ強い衝撃が来た。

 息が全部、押し出された。

 地面へ膝をつく。

 ついたはずの膝から力が抜け、身体が横へ倒れた。

 視界の中で、アカツキの前脚が崩れた。

 大きな身体が傾く。

 それでも、アカツキは最後に身を捻った。倒れる肩を三人から遠ざけ、白銀の背を火の方へ向けたまま地面へ伏せた。

「アカツキ!」

 リンの声が聞こえた。

 返事はなかった。

 ただ、大きな胸が動いていた。

 口から白い息が漏れる。

 まだ冷気を吐こうとしているのだと分かって、結人は地面へ手をついた。

 起きなければ。

 ここで倒れている場合ではない。

 腕へ力を込めた瞬間、脇腹に痛みが突き刺さった。

 息を吸えなかった。

「ご主人様、手を」

 アイリスが右手を伸ばしていた。

 すぐ隣にはリンがいる。

 二人とも、まだここにいる。

 結人はその手を取ろうとした。

 指先が触れる。

 握った。

 引かれて、少しだけ身体が起きた。

 それだけで、目の奥が白くなった。

「……リンを」

 声が途切れた。

 アイリスは首を振らなかった。

 結人の手も離さなかった。

 もう片方の腕では、倒れたリンの身体を支えていた。

 どちらかを離さなければ、自分も立てない姿勢だった。

 結人は歯を食いしばった。

 逃げる道が分からない。

 足も足りない。

 それでも、誰かを残していい理由にはならなかった。

 アカツキが頭を上げようとした。

 前脚が地面を掻く。

 身体は持ち上がらなかった。

 砕けた氷の向こうに、火が見えた。

 さっきの一撃が、まだ終わっていなかった。

 氷に遮られていた炎が、その縁を越えてこちらへ流れてくる。

 結人はアイリスの手を引いた。

 せめて、自分の後ろへ。

 引いたつもりだった。

 身体が動かなかった。

 開いたままの懐中時計が、胸元で地面に触れていた。

 結人は、空いた手をそこへ伸ばした。

 青い硝子へ指が触れる。

 何を斬ればいい。

 火か。

 幻か。

 分からないままでも、何かしなければ。

『……結人』

 声がした。

 すぐ近くからだった。

 別の方角で同じ声が響くことも、途中で違う声へ変わることもなかった。

 フィリアが、結人を見ていた。

 小さな手が、文字盤の縁に掛かっていた。

『すまぬ』

 結人は何か言おうとした。

 謝るより先に、教えてほしかった。

 まだ何かできるなら。

 この手で、届くものがあるなら。

 けれど、フィリアはもう結人から目を逸らさなかった。

『わらわが、出る』

 青い硝子に光が満ちた。

 迫る火が、視界を覆おうとしていた。

 その先端から散った火の粉が、一つ、結人の目の前まで落ちてくる。

 触れる、と思った。

 火の粉は、落ちてこなかった。

 燃えた葉も、砕けた氷も、吹き上がった土も。

 全てが、空中で止まっていた。


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