第八話 ~森の声はもう味方をしてくれない~
「分かった。今は動かなくていい」
結人は、リンの肩へ手を置いた。
紅い耳が僅かに動く。リンはもう一度だけ鼻を鳴らし、それから頷いた。
分からないと、言ってくれた。
それなら、分からないまま足を出さずに済む。
結人はアイリスと繋いだ手を確かめた。指が触れている。握り返す力もある。
けれど、石に触れたはずの指先には、まだ水の冷たさが残っていた。
「声がしても、それだけで動かないで。なるべく、身体を離さないようにしよう」
「はい」
「うん」
すぐ横から返事があった。
その直後、石段の下からも声がした。
「結人、こっちなの」
リンの声だった。
肩に置いた手の下で、リンの身体が強張る。
「……言ってないの」
「分かってる」
結人は答えた。
返事はできたが、背中には冷たい汗が流れていた。
知っている声まで使われる。
振り向いた先で、黒い狼が石段を駆け上がってきた。爪が石を掻く音がする。濡れた獣の匂いが鼻へ入り、開いた口の奥まで見えた。
結人は反射的にリンの肩を引いた。
狼の歯が、伸ばした腕へ食い込んだ。
「っ……!」
痛みが走った。
肘から指先まで、熱いものが突き抜ける。腕を引き抜こうとして、結人は足を滑らせかけた。
アイリスが繋いだ手を引く。
「ご主人様!」
『噛まれてはおらぬ! 足を止めよ!』
フィリアの声が重なった。
狼は結人の腕を通り抜け、背後へ消えた。
袖に穴はなかった。
血も出ていない。
それなのに、腕にはまだ歯が刺さっていた。そうとしか思えない痛みが、脈に合わせて強くなる。
結人は息を詰め、指を曲げた。
動く。
ゆっくり開き、もう一度曲げる。
「……噛まれてない」
自分へ言い聞かせた。
痛みは消えなかった。
口の中にまで血の味が広がっている。唇を舐めても、どこを切ったのか分からなかった。
幻だと知っている。
そのことと、身体が痛みに反応することは、別だった。
背後で氷が割れた。
アカツキが新たな冷気を吐く。砕けた壁の隙間を白い氷が埋め、その向こうで青白い火が膨らんだ。
「乗れ」
アカツキが言った。
「三人ともだ。ここに留まっていては持たぬ」
「道は?」
「見えているとは言えん。だが、お前たちをばらばらにはさせずに済む」
白銀の身体が低くなる。
リンが先に背へ手を掛けた。右脚を庇いながら身体を引き上げ、首に近い位置へ跨がる。
結人はアイリスの腰を支えた。
「先に乗って」
「ご主人様は」
「すぐ後ろ」
アイリスが乗ったのを確かめてから、結人も背へ上がる。
普段なら、大きな背だと笑えたかもしれない。
今は毛を掴む指に力を込めるだけで精一杯だった。
「急には走らん。低く伏せていろ」
アカツキが立ち上がった。
結人はアイリスの身体へ腕を回す。前ではリンが身を低くし、両手で白銀の毛を握っていた。
アカツキの息が白く広がった。
冷たい霧の中に、もう一頭の白い狼が現れる。
さらに一頭。
どちらの背にも、結人たちと同じ人影が乗っていた。
「目を引く。その間に下りるぞ」
左右へ、二頭の狼が走り出した。
本物の背が、その間をゆっくり進む。
爪が石を捉える感触が、身体の下から伝わってきた。
一歩ずつなら進める。
結人がそう思った瞬間、左右へ走った影の間を、青白い火が抜けてきた。
真っ直ぐ、こちらへ。
アカツキが首を振った。
冷気が火を受け止め、熱い霧になって弾ける。
頬が焼けるように熱かった。
二頭の影は、その先でも走り続けていた。
火は一度も、そちらを追わなかった。
「……通らぬか」
アカツキが低く言った。
背中が、また動き始める。
踏み出した前脚が何かにぶつかり、大きな身体が揺れた。
目の前には何もなかった。
少なくとも、結人にはそう見えた。
アカツキは脚を引き、半歩横へずれた。白い毛が擦れる音と、細い枝の折れる音がする。
何もない場所に、何かがある。
見えている木の間を通ればいいわけではなかった。
結人はアイリスを片腕で支えながら、懐中時計を取り出した。
親指で蓋を開く。
文字盤に青白い光が灯り、フィリアの小さな姿が浮かんだ。
その顔を見て、結人は言いかけた言葉を飲み込んだ。
フィリアは、結人を見ていなかった。
背後の霧の向こうを、じっと見つめていた。
『……アカツキ。左へ寄れ。右は岩じゃ』
「承知した」
アカツキが身体を傾ける。
見えていた岩の方へ進むと、白銀の脚は何にもぶつからず、その中を通った。
結人は時計を握り直した。
まだ、進める。
少なくとも、全てを失ったわけではない。
『その先は低くなっておる。急ぐでないぞ』
アカツキが前脚を下ろした。
少し遅れて後脚が続く。結人の身体にも、確かに斜面を下りた重みが掛かった。
黒い狼が左右を走る。
牙がすぐ横まで迫るたびに、結人の身体は勝手に強張った。
リンも顔を伏せ、毛を握りしめていた。
怖がっているのは、自分だけではなかった。
それでも、誰も手を離さなかった。
やがて、木々の向こうに水が見えた。
日を返して光る川面。岸辺に寄った流木。
聞き慣れた水音が近くなる。
「川……」
アイリスの声に、結人も顔を上げかけた。
だが、すぐに首を振った。
「まだ近すぎる」
小屋にも戻っていない。
坂を少し下りただけで、あの川へ着くはずがなかった。
アカツキも足を止めていた。
目の前では、水が流れている。
その岸へ下りるように見える場所へ、アカツキが前脚をそっと伸ばした。
爪先が、地面を捉えなかった。
さらに下へ伸ばしても、何にも触れない。
アカツキは脚を戻した。
結人の喉が鳴った。
あのまま走っていたら。
考える前に、後ろでまた火が弾けた。
「右へ回る」
アカツキが言う。
その進路へ、火が落ちた。
目の前の草が燃え上がる。炎の輪郭が揺れ、熱が顔を押した。
アカツキは後脚を踏ん張り、身体を横へ向けた。
背の上でアイリスが滑る。
結人は腕へ力を込めた。
「掴まって!」
火が地面を打った。
土と小石が跳ね上がり、結人はアイリスを抱くように身を伏せた。
腕が熱くなった。
さっきの牙とは違う。
そう思っても、違うと確かめる方法がすぐには浮かばなかった。
焦げた布の匂いがする。
アイリスが短く息を吸い、結人の腕の中で身体を縮めた。
結人の袖に、青白い火が残っていた。
「降りろ。背に乗ったままでは、火を避けきれぬ」
アカツキが身体を低くした。
『右側じゃ。そこなら足がつく』
フィリアの声に従い、結人は背から滑り降りた。
足元に硬い地面があった。
アイリスを受け止め、続いて下りたリンへ場所を空ける。
アカツキが三人と火の間へ身体を入れた。
結人は燃える袖を地面へ押しつけようとした。
火は潰れなかった。
布へ食いついたまま、肘の方へ伸びてくる。
結人の手に、青白い刃が生まれた。
長さの違う、二本の時計の針。
短い方を持つ手で、燃える布の端を追う。
火を腕ごと斬るのではない。
燃えついているものを、そこから離す。
刃を通すと、袖にまとわりついていた火が落ちた。
足元の枯れ葉が燃え始める。
結人はすぐに足を引いた。
袖は焦げたままだった。
その下の皮膚も赤く、火が離れても痛みは残っている。
「アイリス、腕」
結人が言うと、アイリスは自分の左腕を見た。
袖の裂けたところに、赤くなった皮膚が覗いていた。
アイリスはそれを隠さなかった。
「熱いです。でも、動かせます」
「布、出すから」
結人は刃を消し、袋から清潔な布を引き出した。
手が少し震えていた。
アイリスが右手で布を受け取る。結人は端を押さえ、焼けたところを擦らないよう、緩く覆うのを手伝った。
その間も、アカツキの前では火が弾け続けていた。
氷の壁を立てる。
割られる。
残った氷へ冷気を重ね、次の火を受ける。
同じことを繰り返すたびに、白銀の毛へ水滴が増えていった。
結人は顔を上げた。
火と布なら、離せた。
けれど、この目や耳に入り込んでいるものは、どこへ刃を入れれば離れるのか。
目の前の狼を斬れば済むのか。
社を斬ればいいのか。
どちらも、見えているものにすぎなかった。
幻を見ている自分に、斬るべき場所まで幻で見せられていたら。
結人は歯を食いしばった。
剣を出せることと、何を斬ればいいか分かることは、同じではなかった。
「結人、こっちなの」
左から声がした。
結人は動かなかった。
すぐ右にいるリンも、その声の方へ顔を向ける。
木々の間に、もう一人のリンが立っていた。
紅い耳と尾。
同じ服。同じ顔。
足を庇う立ち方まで、よく似ていた。
「……リン、そっちにはいないの」
隣のリンが呟いた。
偽物が手を伸ばす。
その奥で、火が揺れた。
「左へ寄るな!」
アカツキの声が飛ぶ。
結人はアイリスの手を取り、リンと一緒に岩へ寄った。
さっきまでいた場所を、火が走り抜けた。
偽物のリンも、その中へ溶けるように消える。
結人は岩へ背をつけた。
ここには、本当に硬いものがある。
そう思いたくなるたびに、指へ水がまとわりついた感触を思い出した。
アカツキが振り向いた。
左肩の毛が、一部黒く縮れていた。
「私が火を押さえる。その間に、少しでも下へ行け」
「お前も来いよ」
「そのつもりだ」
短い返事だった。
アカツキが身を沈める。
白い息が、今までより長く流れた。
足元の草へ霜が降りる。水を含んだ土が白く凍り、岩の表面を細い氷が這っていった。
迫る火の列へ、冷気が広がる。
先頭の火が消えた。
続く火も、白い霧に呑まれた。
その向こうに、暗い土の道が見えた。
「行け!」
アカツキの声で、結人は岩から離れた。
アイリスの手を引く。
リンが隣へ並ぶ。
三歩、進めた。
次の一歩を出そうとしたとき、アカツキが吠えた。
「伏せろ!」
結人は肩越しに振り向いた。
消えたはずの火が、霧の低いところを走ってきていた。
アイリスが足を止める。
その足元へ、青白い光が伸びた。
リンが動いた。
地面を蹴った音がした。
紅い髪が視界を横切り、アイリスの身体が結人のすぐ横へ引き寄せられる。
二人がいた場所を、火が抜けた。
加速だった。
速く動いたと分かったときには、リンはもう止まっていた。
止まった右脚が、身体を支えきれずに折れた。
「リン!」
結人は倒れかけた肩を掴んだ。
リンが歯を食いしばる。
息を吸おうとして、喉から細い声が漏れた。
アイリスが膝をつき、その腕を支える。
「リンさん」
「……大丈夫じゃ、ないの」
リンは小さく首を振った。
額に汗が浮かんでいた。
「今は、立てないの」
「分かった」
結人はすぐに答えた。
立てるか試せとは言わなかった。
リンの腕を自分の肩へ回し、痛む脚に体重が掛からないよう身体を寄せる。
アイリスも反対側から支えようとした。
「その腕は使わないで」
「右は使えます」
アイリスは答え、右手でリンの身体を支えた。
結人は頷いた。
今ある手で、持つしかなかった。
アカツキが後ろへ下がってくる。
冷気を吐く息が、さっきより短い。
その向こうで、白い霧が割れた。
斜面の上に、何かが立っていた。
白い毛並みだった。
一瞬、アカツキの偽物がまた現れたのかと思った。
けれど、顔が違った。
細い鼻先。長く伸びた耳。
こちらを見下ろす、紅い瞳。
その背後で、尾が広がった。
一本ではなかった。
重なり合っていた白がほどけ、左右へゆっくり開いていく。
「……九本」
リンの声がした。
結人も、数えていた。
数え終わってから、広場で見た古い板を思い出した。
山と月。
その下で尾を広げていた、白い狐。
結人の息が止まった。
昔話の狐は、絵の中にいた。
目の前の狐は、呼吸に合わせて胸の毛を動かし、結人たちへ紅い目を向けていた。
アカツキと向かい合っても、その姿は小さく見えなかった。
九つの尾の間に、青白い火が浮かぶ。
狐は笑っていなかった。
「童に、関わるな」
さっきと同じ声がした。
結人は懐中時計へ目を落としかけた。
その前に、アカツキが三人を隠すように立った。
「下がれ」
誰へ向けた言葉なのか、結人には分からなかった。
アカツキが前脚を踏みしめる。
凍った土が鳴った。
地面から連なる氷が、迫る火へ向かって伸びる。白い冷気が斜面を駆け上がり、狐の足元まで覆おうとした。
九本の尾が揺れた。
散っていた火が、一つに寄った。
小さくなったように見えた。
次の瞬間、火が開いた。
氷の先端が消える。
砕けたのか、溶けたのか、それさえ分からなかった。
白い霧が一度膨らみ、その全てを押し退けるように、青白い炎が広がった。
アカツキが吠えた。
結人たちの前に、分厚い氷が立ち上がる。
火がぶつかった。
音より先に、足元が揺れた。
結人はリンを抱え込むように屈んだ。
何かが肩を打ち、続いて脇腹へ強い衝撃が来た。
息が全部、押し出された。
地面へ膝をつく。
ついたはずの膝から力が抜け、身体が横へ倒れた。
視界の中で、アカツキの前脚が崩れた。
大きな身体が傾く。
それでも、アカツキは最後に身を捻った。倒れる肩を三人から遠ざけ、白銀の背を火の方へ向けたまま地面へ伏せた。
「アカツキ!」
リンの声が聞こえた。
返事はなかった。
ただ、大きな胸が動いていた。
口から白い息が漏れる。
まだ冷気を吐こうとしているのだと分かって、結人は地面へ手をついた。
起きなければ。
ここで倒れている場合ではない。
腕へ力を込めた瞬間、脇腹に痛みが突き刺さった。
息を吸えなかった。
「ご主人様、手を」
アイリスが右手を伸ばしていた。
すぐ隣にはリンがいる。
二人とも、まだここにいる。
結人はその手を取ろうとした。
指先が触れる。
握った。
引かれて、少しだけ身体が起きた。
それだけで、目の奥が白くなった。
「……リンを」
声が途切れた。
アイリスは首を振らなかった。
結人の手も離さなかった。
もう片方の腕では、倒れたリンの身体を支えていた。
どちらかを離さなければ、自分も立てない姿勢だった。
結人は歯を食いしばった。
逃げる道が分からない。
足も足りない。
それでも、誰かを残していい理由にはならなかった。
アカツキが頭を上げようとした。
前脚が地面を掻く。
身体は持ち上がらなかった。
砕けた氷の向こうに、火が見えた。
さっきの一撃が、まだ終わっていなかった。
氷に遮られていた炎が、その縁を越えてこちらへ流れてくる。
結人はアイリスの手を引いた。
せめて、自分の後ろへ。
引いたつもりだった。
身体が動かなかった。
開いたままの懐中時計が、胸元で地面に触れていた。
結人は、空いた手をそこへ伸ばした。
青い硝子へ指が触れる。
何を斬ればいい。
火か。
幻か。
分からないままでも、何かしなければ。
『……結人』
声がした。
すぐ近くからだった。
別の方角で同じ声が響くことも、途中で違う声へ変わることもなかった。
フィリアが、結人を見ていた。
小さな手が、文字盤の縁に掛かっていた。
『すまぬ』
結人は何か言おうとした。
謝るより先に、教えてほしかった。
まだ何かできるなら。
この手で、届くものがあるなら。
けれど、フィリアはもう結人から目を逸らさなかった。
『わらわが、出る』
青い硝子に光が満ちた。
迫る火が、視界を覆おうとしていた。
その先端から散った火の粉が、一つ、結人の目の前まで落ちてくる。
触れる、と思った。
火の粉は、落ちてこなかった。
燃えた葉も、砕けた氷も、吹き上がった土も。
全てが、空中で止まっていた。




