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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第七話 ~古びた神社は侵入者を歓迎しない~

 川の水は、今日も橋の下を流れていた。

 岸に積まれた丸太も、荷車を寄せた跡も、一昨日とほとんど変わっていない。ただ、あの日は怪我人を待って広げられていた敷物が、今日は畳まれたまま荷台に置かれていた。

「戻る時間は、忘れないでね」

 マレナが言った。

「何も分からなくても構わない。時間になったら引き返して」

「分かってる」

 結人は頷き、肩の紐を掛け直した。

 川から先へ進むのは、結人たちだけだ。マレナたちはここに残り、戻ってきた者を受け入れる。

「小屋までは一度通った道だけど、その先も同じとは限らないから」

「うん。まず、神社の周りから見てくる」

「中へ入ることを目的にしないで。奥へ行けなくても、入口で分かることはある」

「無理そうなら帰ってくるよ」

 結人が答える横で、リンは森から吹いてくる風に鼻先を向けていた。

 マレナが、その脚へ目を落とす。

「脚の具合は?」

「歩けるの。走るのは、まだやめとくの」

「それなら、歩いて帰ってきて」

「うん」

 リンは素直に頷いた。

 足元では、子犬ほどのアカツキが橋の向こうを見ている。白銀の耳だけが、ときどき別の方向を向いた。

「じゃあ、行ってくる」

 結人が橋へ足を掛けると、背後から声がした。

「帰ってきたら、こちらにも話を聞かせて」

 振り向けば、マレナは地図を畳んでいた。

「この先の道を知っているつもりだったの、私たちも同じだから」

 結人はもう一度頷いた。

 橋板を踏む音が、三人分続く。その間を軽い足音が歩いていった。


 ◇


 川辺の人影が木々に隠れてから、アカツキが足を止めた。

「……もうよいな」

 久しぶりに聞いた低い声に、結人も立ち止まる。

 白銀の身体が膨らんだ。

 細かった脚が太くなり、下草に埋もれていた背が持ち上がる。枝へ頭をぶつけないよう首を下げると、アカツキは一度、ゆっくりと息を吐いた。

「やはり、この方が歩きやすい」

「その歩幅で行かれたら、俺たちが困るけど」

「合わせている」

「助かる」

 結人が笑うと、リンが大きな前脚の横へ並んだ。

「今日は、ずっとそれでいいの?」

「人目がなければな」

「じゃあ、木に引っかからないようにするの」

「そちらこそ、私の下へ入り込むな」

「入らないの」

 言いながら、リンは半歩だけ横へ離れた。

 道には一昨日の足跡が残っていた。

 人が行き交った場所の土は踏み固められ、細い枝が何本も折れている。二股に分かれた木の近くには、担架を支え直したときについた深い靴跡もあった。

 けれど、今日は黒い狼が見えなかった。

 木々の間にも、道の先にも、牙を剥く影はない。

「いないな」

「今は、見えないの」

 リンが言い直した。

 結人は頷き、道の両側へ目を配る。

 いなくなったと決めるには、まだ早かった。

 曲がり角では、道を空けるために動かした丸太が、そのまま根に引っかかっていた。上に残した丸太を押さえる縄にも、緩んだ様子はない。

 リンが結び目を確かめている間に、結人は通れる幅を見た。

 担架が二つ、ここを抜けた。

 今なら一人で歩くだけの隙間が、あのときはひどく狭く思えた。

「大丈夫なの」

「じゃあ、縄はこのままで」

「うん。帰りも通るの」

 誰も、結び目を解こうとはしなかった。

 小屋へ着くと、入口の戸は閉じていた。

 焼けた木の匂いが、まだ僅かに残っている。戸口の脇には焦げた布が落ち、踏まれて薄くなった灰が土へ混じっていた。

 アイリスが足を止める。

「今日は、誰も待っていないんですね」

「うん。全員、街なの」

 リンが答えた。

 アイリスは閉じた戸を見てから、小さく頷いた。

 結人も、その戸へ呼びかける必要がないことを確かめるように眺めた。

 ここから先が、まだ歩いていない道だった。

 小屋の横を抜けた踏み跡は、山の斜面へ細く延びている。荷を運ぶために枝を払った道と違い、こちらには低い枝が残り、落ち葉も厚かった。

「ここから上りなの。今のうちに飲んどくの」

 リンに言われ、結人は水袋を出した。

 口をつけている間に、アイリスが地図を開く。小屋から神社まで引かれた線を指で辿り、それから実際の斜面を見上げた。

「近そうに見えますけど……」

「紙だと坂がないからな」

「そうですね」

 結人が水袋をしまうと、アイリスも地図を畳んだ。

 アカツキは道の先で待っていた。大きな身体を少し横へ寄せ、三人が並べる場所を空けている。

「先へ行くぞ。離れるな」

 その声に、さっきまでの軽さはなかった。


 ◇


 最初に見つけた石は、半分ほど土へ埋まっていた。

 その少し上に、もう一つ。落ち葉の隙間から覗く縁を辿ると、斜面に沿って同じ幅の石が続いていた。

「階段か」

 結人が足元を見る。

 木の根に押されて傾いた段もあれば、苔に覆われて境目の分からない段もある。脇の若木には新しい布が結ばれていた。調査の者が残した目印だろう。

 リンが靴の先で落ち葉を少し払った。

「真ん中、へこんでるの」

 露わになった石は、両端より中央が低くなっていた。

 アイリスも屈んで見る。

「昔は、たくさんの人が通っていたのでしょうか」

「かもしれないな」

 結人は上を見た。

 枝と枝の向こうに、屋根の端があった。

 段を上るにつれて、建物の形が少しずつ見えてくる。

 低い石積みの上に、小さな社が建っていた。屋根には枯れ葉が溜まり、軒から垂れた古い綱は途中で切れている。柱の下の方には、雨が跳ねた黒ずみが染みついていた。

 戸は閉ざされていた。

 誰かが最近開けたようには見えない。

 けれど、社の脇には新しい靴跡があった。古い落ち葉を踏み割った跡が建物の裏へ回り込み、岩肌に開いた暗い穴へ続いている。

「あれが、洞穴ですね」

 アイリスが声を落とした。

 入口の岩は白っぽく、内側だけが濡れたように暗かった。奥はここからでは見えない。

 結人は石段を一つ上がりかけた。

「止まるの」

 リンの声で、足を戻す。

 社の前に、黒い狼が立っていた。

 いつ出てきたのか分からなかった。

 建物の陰から現れたのか、初めからそこにいたものが見えるようになったのか。結人が見ている間にも、その後ろへもう一頭が並んだ。

 低い唸り声が、石段を下ってくる。

 リンの耳が伏せられた。

「匂いは?」

 結人が小さく尋ねる。

「狼のは、しないの。でも……」

「それだけじゃ、決められないな」

 リンが頷いた。

 アカツキが三人の前へ出る。

 黒い狼たちは牙を剥いたまま、その場を動かなかった。

 結人は剣に触れず、両手を身体の横へ下ろした。

「誰か、いますか」

 社の奥へ声を掛ける。

 返事はなかった。

 狼の唸り声だけが続く。

「山のことで、話を聞きに来た。聞こえてるなら、返事をしてほしい」

 今度は少し声を張った。

 洞穴の入口を見つめる。

 何も動かない。火も、人影も見えなかった。

 隣で、アイリスが鞄の紐を握り直した。

 結人は待った。

 急かさずに、もう少し。

 けれど、その間にも黒い狼は増えていた。

 社の裏に一頭。石積みの上に一頭。木々の間にも、こちらを向いた目がある。

『……結人』

 懐中時計から声がした。

『今日は、ここまでにしておけ』

 結人は胸元へ目を落とした。

 フィリアの声は低かった。

 冗談を言っているときの調子も、何かを面白がっているときの響きもない。

 結人は一度頷いた。

「戻ろう。これ以上は入らない」

 アイリスがすぐに頷く。リンも、下りる側の足場へ目を向けた。

 結人が身体を横へ向けた、そのときだった。

「何度、追い払えばよいのかや」

 澄んだ声がした。

 大声ではなかった。

 それなのに、狼たちの唸り声の奥から、言葉だけがはっきり届いた。

 結人は足を止めた。

 社にも、洞穴にも、人影はない。

「……石を調べに来た人たちを追い返したのは、あんたか」

「そうじゃ」

 答えは短かった。

 リンの尾が動きを止める。

「山を歩き、木に印をつけ、童の寝所へまで踏み込む。ここにあるものは、何もかも己らの物だとでも思うておるのか」

 結人は洞穴を見た。

 調査の者たちは、あの奥まで入った。

 石を採るときに崩れないか、下が空洞になっていないか。それを確かめるために。

 そのいちばん奥で、誰かが眠っていた。

「……ここに、住んでたんだな」

「眠っておった」

 声が答えた。

「童は、ただ眠っておっただけじゃ」

 結人はすぐには返せなかった。

 苔の生えた階段。閉じた戸。人の通わなくなった神社。

 古びていて、忘れられている。

 だからといって、空っぽとは限らなかった。

「俺たちは、石を採りに来たんじゃない」

「では、何をしに来た」

「何が起きてるのか、確かめに来た。下の小屋にいた人たちは、俺たちが街へ連れて帰った」

「ようやく立ち去ったか」

「自分じゃ、帰れなかったんだ」

 結人は社の前に並ぶ狼を見た。

「怪我をしてた。二人は歩けなくて、担架で運んだ」

 少しの間、返事がなかった。

 アイリスが結人の横から口を開いた。

「逃げようとは、していたんです」

 声は小さかったが、途中で止まらなかった。

「でも、道を通れなくて。怪我をしてからは、小屋から出ることもできなくなっていました」

「童は、入って来いなどと頼んでおらぬ」

 冷えた声だった。

 アイリスの指が鞄の紐を握りしめる。

 結人は一度、息を吐いた。

 踏み込まれた側に事情があることと、あの人たちが怪我をしたことは、どちらも消えなかった。

「ここがあんたの住む場所だって、街で話してくる」

 結人は言った。

「勝手に入っていい場所じゃなかったって。だから、今は俺たちも戻る」

「話して、次には何を寄越す」

「誰かを寄越すために帰るんじゃない。近づくなって伝えるんだ」

「先の者どもも去った」

 声が少し低くなる。

「だが、人はまた来た。今度は、その狼まで連れて」

 アカツキの耳が僅かに動いた。

「私は、争うために来たのではない」

「それほどの力を連れて、話をするだけとな」

「仲間を守るためだ」

 アカツキは答えた。

 結人たちを背に置いたまま、一歩も前へ出なかった。

 社の前で、黒い狼が口を開く。

 喉の奥に、青白いものが見えた。

 結人の肩が強張った。

 一昨日、あの色の火が本物の木を焦がした。

「みんな、下がろう」

 今度は、返事を待たなかった。

 結人は石段を一段下りた。アイリスもそれに続く。リンは道の下を見ながら、二人の足元へ目を配っていた。

 アカツキだけが、社の方を向いている。

「せめて、己の身で覚えて帰るがよい」

 声がした。

「童の寝所は、おぬしらの採り場ではない」

 青白い火が膨らんだ。

『結人、伏せよ!』

 フィリアの声と同時に、アカツキが踏み込んだ。

 白い息が流れる。

 石段と社の間に氷の壁が立ち上がり、次の瞬間、炎がぶつかった。

 耳を塞ぎたくなる音がした。

 氷が白く曇り、熱い水と欠片が弾け飛ぶ。

 結人は身を低くし、アイリスの肩を抱いて石段の脇へ寄せた。頬に飛沫が当たる。冷たいものと熱いものが混じっていて、思わず顔を背けた。

 欠けた氷が、すぐ横の石を打った。

「帰ろうとしてるんだぞ……!」

 声が出た。

 答えはなかった。

 氷の向こうで、また火が揺れた。

「言葉を返すな。下りろ」

 アカツキが低く言った。

 怒っている相手へ、もう一度説明すれば届く。

 そう思って立ち止まれる状況ではなかった。

 結人はアイリスの肩から手を離し、代わりにその手を取った。

「歩ける?」

「はい」

「リン、道を」

「こっちなの」

 リンは走らなかった。

 先に一段下り、足を置ける場所を示す。その後を結人とアイリスが続いた。

 背後で氷の砕ける音がする。

 アカツキが後退しながら、新たな火を遮っていた。大きな身体が石段の幅を塞ぐ。結人たちの側へ、炎を通さないための位置だった。

 結人は足元を見た。

 苔を避ける。斜めになった石へは、体重をゆっくり移す。

 急いでいても、ここで転べば後ろまで止まる。

 リンが教えてくれる場所へ、順に足を置いた。

 一段。

 もう一段。

 下から、風が吹いた。

 湿った土と、水の匂いがした。

 同時に、近くで川が鳴った。

 結人は顔を上げた。

「……え?」

 リンが止まっていた。

 その前に、古びた社があった。

 枯れ葉の溜まった屋根。途中で切れた綱。雨で黒ずんだ柱。

 さっき、背を向けたはずの建物だった。

 結人は振り返る。

 アカツキの向こうにも、同じ社が見えた。

「止まって」

 自分の声が、ひどく近く聞こえた。

 アイリスが手を握り返してくる。

 結人は足を動かさなかった。

 下りていた。

 それは間違いないはずだった。靴底に石段の縁を感じながら、一段ずつ下りた。

 なのに、どちらへ顔を向けても同じ屋根がある。

「リン」

「待って」

 リンは顔を上げ、鼻を動かした。

 右を向き、左を向く。伏せていた耳が、音を拾おうと何度も向きを変えた。

 社の脇の洞穴から、川の流れる音がしていた。

 足元には、まだ石がある。

 結人はそれを確かめようと屈み、段の縁へ手を伸ばした。

 硬い石に触れたはずの指へ、冷たい水の感触がまとわりついた。

 慌てて手を引く。

 濡れていない。

 けれど、指先からは水が滴る感触だけが消えなかった。

『皆から離れるでない』

 フィリアの声がした。

 結人はアイリスの手を握り直した。

 リンが、石段の下を指す。

 次に、その指が洞穴の方へ動いた。

「……こっちにも、あるの」

「何が?」

「リンたちが、歩いてきた匂い」

 誰も、あの洞穴には入っていない。

 結人はアカツキを見た。

 白銀の狼も鼻先を動かしていた。青白い瞳が細くなる。

「私の匂いまである」

 低い声だった。

 リンの鼻にも、アカツキの鼻にも、同じものが届いていた。

 川の音は、まだしている。

 木々の間から吹く風も、洞穴から流れてくる風も、同じように頬を冷やした。

 リンが指を下ろした。

「結人」

 紅い尾が、脚のそばへ寄った。

「来た道が、分からないの」


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