第七話 ~古びた神社は侵入者を歓迎しない~
川の水は、今日も橋の下を流れていた。
岸に積まれた丸太も、荷車を寄せた跡も、一昨日とほとんど変わっていない。ただ、あの日は怪我人を待って広げられていた敷物が、今日は畳まれたまま荷台に置かれていた。
「戻る時間は、忘れないでね」
マレナが言った。
「何も分からなくても構わない。時間になったら引き返して」
「分かってる」
結人は頷き、肩の紐を掛け直した。
川から先へ進むのは、結人たちだけだ。マレナたちはここに残り、戻ってきた者を受け入れる。
「小屋までは一度通った道だけど、その先も同じとは限らないから」
「うん。まず、神社の周りから見てくる」
「中へ入ることを目的にしないで。奥へ行けなくても、入口で分かることはある」
「無理そうなら帰ってくるよ」
結人が答える横で、リンは森から吹いてくる風に鼻先を向けていた。
マレナが、その脚へ目を落とす。
「脚の具合は?」
「歩けるの。走るのは、まだやめとくの」
「それなら、歩いて帰ってきて」
「うん」
リンは素直に頷いた。
足元では、子犬ほどのアカツキが橋の向こうを見ている。白銀の耳だけが、ときどき別の方向を向いた。
「じゃあ、行ってくる」
結人が橋へ足を掛けると、背後から声がした。
「帰ってきたら、こちらにも話を聞かせて」
振り向けば、マレナは地図を畳んでいた。
「この先の道を知っているつもりだったの、私たちも同じだから」
結人はもう一度頷いた。
橋板を踏む音が、三人分続く。その間を軽い足音が歩いていった。
◇
川辺の人影が木々に隠れてから、アカツキが足を止めた。
「……もうよいな」
久しぶりに聞いた低い声に、結人も立ち止まる。
白銀の身体が膨らんだ。
細かった脚が太くなり、下草に埋もれていた背が持ち上がる。枝へ頭をぶつけないよう首を下げると、アカツキは一度、ゆっくりと息を吐いた。
「やはり、この方が歩きやすい」
「その歩幅で行かれたら、俺たちが困るけど」
「合わせている」
「助かる」
結人が笑うと、リンが大きな前脚の横へ並んだ。
「今日は、ずっとそれでいいの?」
「人目がなければな」
「じゃあ、木に引っかからないようにするの」
「そちらこそ、私の下へ入り込むな」
「入らないの」
言いながら、リンは半歩だけ横へ離れた。
道には一昨日の足跡が残っていた。
人が行き交った場所の土は踏み固められ、細い枝が何本も折れている。二股に分かれた木の近くには、担架を支え直したときについた深い靴跡もあった。
けれど、今日は黒い狼が見えなかった。
木々の間にも、道の先にも、牙を剥く影はない。
「いないな」
「今は、見えないの」
リンが言い直した。
結人は頷き、道の両側へ目を配る。
いなくなったと決めるには、まだ早かった。
曲がり角では、道を空けるために動かした丸太が、そのまま根に引っかかっていた。上に残した丸太を押さえる縄にも、緩んだ様子はない。
リンが結び目を確かめている間に、結人は通れる幅を見た。
担架が二つ、ここを抜けた。
今なら一人で歩くだけの隙間が、あのときはひどく狭く思えた。
「大丈夫なの」
「じゃあ、縄はこのままで」
「うん。帰りも通るの」
誰も、結び目を解こうとはしなかった。
小屋へ着くと、入口の戸は閉じていた。
焼けた木の匂いが、まだ僅かに残っている。戸口の脇には焦げた布が落ち、踏まれて薄くなった灰が土へ混じっていた。
アイリスが足を止める。
「今日は、誰も待っていないんですね」
「うん。全員、街なの」
リンが答えた。
アイリスは閉じた戸を見てから、小さく頷いた。
結人も、その戸へ呼びかける必要がないことを確かめるように眺めた。
ここから先が、まだ歩いていない道だった。
小屋の横を抜けた踏み跡は、山の斜面へ細く延びている。荷を運ぶために枝を払った道と違い、こちらには低い枝が残り、落ち葉も厚かった。
「ここから上りなの。今のうちに飲んどくの」
リンに言われ、結人は水袋を出した。
口をつけている間に、アイリスが地図を開く。小屋から神社まで引かれた線を指で辿り、それから実際の斜面を見上げた。
「近そうに見えますけど……」
「紙だと坂がないからな」
「そうですね」
結人が水袋をしまうと、アイリスも地図を畳んだ。
アカツキは道の先で待っていた。大きな身体を少し横へ寄せ、三人が並べる場所を空けている。
「先へ行くぞ。離れるな」
その声に、さっきまでの軽さはなかった。
◇
最初に見つけた石は、半分ほど土へ埋まっていた。
その少し上に、もう一つ。落ち葉の隙間から覗く縁を辿ると、斜面に沿って同じ幅の石が続いていた。
「階段か」
結人が足元を見る。
木の根に押されて傾いた段もあれば、苔に覆われて境目の分からない段もある。脇の若木には新しい布が結ばれていた。調査の者が残した目印だろう。
リンが靴の先で落ち葉を少し払った。
「真ん中、へこんでるの」
露わになった石は、両端より中央が低くなっていた。
アイリスも屈んで見る。
「昔は、たくさんの人が通っていたのでしょうか」
「かもしれないな」
結人は上を見た。
枝と枝の向こうに、屋根の端があった。
段を上るにつれて、建物の形が少しずつ見えてくる。
低い石積みの上に、小さな社が建っていた。屋根には枯れ葉が溜まり、軒から垂れた古い綱は途中で切れている。柱の下の方には、雨が跳ねた黒ずみが染みついていた。
戸は閉ざされていた。
誰かが最近開けたようには見えない。
けれど、社の脇には新しい靴跡があった。古い落ち葉を踏み割った跡が建物の裏へ回り込み、岩肌に開いた暗い穴へ続いている。
「あれが、洞穴ですね」
アイリスが声を落とした。
入口の岩は白っぽく、内側だけが濡れたように暗かった。奥はここからでは見えない。
結人は石段を一つ上がりかけた。
「止まるの」
リンの声で、足を戻す。
社の前に、黒い狼が立っていた。
いつ出てきたのか分からなかった。
建物の陰から現れたのか、初めからそこにいたものが見えるようになったのか。結人が見ている間にも、その後ろへもう一頭が並んだ。
低い唸り声が、石段を下ってくる。
リンの耳が伏せられた。
「匂いは?」
結人が小さく尋ねる。
「狼のは、しないの。でも……」
「それだけじゃ、決められないな」
リンが頷いた。
アカツキが三人の前へ出る。
黒い狼たちは牙を剥いたまま、その場を動かなかった。
結人は剣に触れず、両手を身体の横へ下ろした。
「誰か、いますか」
社の奥へ声を掛ける。
返事はなかった。
狼の唸り声だけが続く。
「山のことで、話を聞きに来た。聞こえてるなら、返事をしてほしい」
今度は少し声を張った。
洞穴の入口を見つめる。
何も動かない。火も、人影も見えなかった。
隣で、アイリスが鞄の紐を握り直した。
結人は待った。
急かさずに、もう少し。
けれど、その間にも黒い狼は増えていた。
社の裏に一頭。石積みの上に一頭。木々の間にも、こちらを向いた目がある。
『……結人』
懐中時計から声がした。
『今日は、ここまでにしておけ』
結人は胸元へ目を落とした。
フィリアの声は低かった。
冗談を言っているときの調子も、何かを面白がっているときの響きもない。
結人は一度頷いた。
「戻ろう。これ以上は入らない」
アイリスがすぐに頷く。リンも、下りる側の足場へ目を向けた。
結人が身体を横へ向けた、そのときだった。
「何度、追い払えばよいのかや」
澄んだ声がした。
大声ではなかった。
それなのに、狼たちの唸り声の奥から、言葉だけがはっきり届いた。
結人は足を止めた。
社にも、洞穴にも、人影はない。
「……石を調べに来た人たちを追い返したのは、あんたか」
「そうじゃ」
答えは短かった。
リンの尾が動きを止める。
「山を歩き、木に印をつけ、童の寝所へまで踏み込む。ここにあるものは、何もかも己らの物だとでも思うておるのか」
結人は洞穴を見た。
調査の者たちは、あの奥まで入った。
石を採るときに崩れないか、下が空洞になっていないか。それを確かめるために。
そのいちばん奥で、誰かが眠っていた。
「……ここに、住んでたんだな」
「眠っておった」
声が答えた。
「童は、ただ眠っておっただけじゃ」
結人はすぐには返せなかった。
苔の生えた階段。閉じた戸。人の通わなくなった神社。
古びていて、忘れられている。
だからといって、空っぽとは限らなかった。
「俺たちは、石を採りに来たんじゃない」
「では、何をしに来た」
「何が起きてるのか、確かめに来た。下の小屋にいた人たちは、俺たちが街へ連れて帰った」
「ようやく立ち去ったか」
「自分じゃ、帰れなかったんだ」
結人は社の前に並ぶ狼を見た。
「怪我をしてた。二人は歩けなくて、担架で運んだ」
少しの間、返事がなかった。
アイリスが結人の横から口を開いた。
「逃げようとは、していたんです」
声は小さかったが、途中で止まらなかった。
「でも、道を通れなくて。怪我をしてからは、小屋から出ることもできなくなっていました」
「童は、入って来いなどと頼んでおらぬ」
冷えた声だった。
アイリスの指が鞄の紐を握りしめる。
結人は一度、息を吐いた。
踏み込まれた側に事情があることと、あの人たちが怪我をしたことは、どちらも消えなかった。
「ここがあんたの住む場所だって、街で話してくる」
結人は言った。
「勝手に入っていい場所じゃなかったって。だから、今は俺たちも戻る」
「話して、次には何を寄越す」
「誰かを寄越すために帰るんじゃない。近づくなって伝えるんだ」
「先の者どもも去った」
声が少し低くなる。
「だが、人はまた来た。今度は、その狼まで連れて」
アカツキの耳が僅かに動いた。
「私は、争うために来たのではない」
「それほどの力を連れて、話をするだけとな」
「仲間を守るためだ」
アカツキは答えた。
結人たちを背に置いたまま、一歩も前へ出なかった。
社の前で、黒い狼が口を開く。
喉の奥に、青白いものが見えた。
結人の肩が強張った。
一昨日、あの色の火が本物の木を焦がした。
「みんな、下がろう」
今度は、返事を待たなかった。
結人は石段を一段下りた。アイリスもそれに続く。リンは道の下を見ながら、二人の足元へ目を配っていた。
アカツキだけが、社の方を向いている。
「せめて、己の身で覚えて帰るがよい」
声がした。
「童の寝所は、おぬしらの採り場ではない」
青白い火が膨らんだ。
『結人、伏せよ!』
フィリアの声と同時に、アカツキが踏み込んだ。
白い息が流れる。
石段と社の間に氷の壁が立ち上がり、次の瞬間、炎がぶつかった。
耳を塞ぎたくなる音がした。
氷が白く曇り、熱い水と欠片が弾け飛ぶ。
結人は身を低くし、アイリスの肩を抱いて石段の脇へ寄せた。頬に飛沫が当たる。冷たいものと熱いものが混じっていて、思わず顔を背けた。
欠けた氷が、すぐ横の石を打った。
「帰ろうとしてるんだぞ……!」
声が出た。
答えはなかった。
氷の向こうで、また火が揺れた。
「言葉を返すな。下りろ」
アカツキが低く言った。
怒っている相手へ、もう一度説明すれば届く。
そう思って立ち止まれる状況ではなかった。
結人はアイリスの肩から手を離し、代わりにその手を取った。
「歩ける?」
「はい」
「リン、道を」
「こっちなの」
リンは走らなかった。
先に一段下り、足を置ける場所を示す。その後を結人とアイリスが続いた。
背後で氷の砕ける音がする。
アカツキが後退しながら、新たな火を遮っていた。大きな身体が石段の幅を塞ぐ。結人たちの側へ、炎を通さないための位置だった。
結人は足元を見た。
苔を避ける。斜めになった石へは、体重をゆっくり移す。
急いでいても、ここで転べば後ろまで止まる。
リンが教えてくれる場所へ、順に足を置いた。
一段。
もう一段。
下から、風が吹いた。
湿った土と、水の匂いがした。
同時に、近くで川が鳴った。
結人は顔を上げた。
「……え?」
リンが止まっていた。
その前に、古びた社があった。
枯れ葉の溜まった屋根。途中で切れた綱。雨で黒ずんだ柱。
さっき、背を向けたはずの建物だった。
結人は振り返る。
アカツキの向こうにも、同じ社が見えた。
「止まって」
自分の声が、ひどく近く聞こえた。
アイリスが手を握り返してくる。
結人は足を動かさなかった。
下りていた。
それは間違いないはずだった。靴底に石段の縁を感じながら、一段ずつ下りた。
なのに、どちらへ顔を向けても同じ屋根がある。
「リン」
「待って」
リンは顔を上げ、鼻を動かした。
右を向き、左を向く。伏せていた耳が、音を拾おうと何度も向きを変えた。
社の脇の洞穴から、川の流れる音がしていた。
足元には、まだ石がある。
結人はそれを確かめようと屈み、段の縁へ手を伸ばした。
硬い石に触れたはずの指へ、冷たい水の感触がまとわりついた。
慌てて手を引く。
濡れていない。
けれど、指先からは水が滴る感触だけが消えなかった。
『皆から離れるでない』
フィリアの声がした。
結人はアイリスの手を握り直した。
リンが、石段の下を指す。
次に、その指が洞穴の方へ動いた。
「……こっちにも、あるの」
「何が?」
「リンたちが、歩いてきた匂い」
誰も、あの洞穴には入っていない。
結人はアカツキを見た。
白銀の狼も鼻先を動かしていた。青白い瞳が細くなる。
「私の匂いまである」
低い声だった。
リンの鼻にも、アカツキの鼻にも、同じものが届いていた。
川の音は、まだしている。
木々の間から吹く風も、洞穴から流れてくる風も、同じように頬を冷やした。
リンが指を下ろした。
「結人」
紅い尾が、脚のそばへ寄った。
「来た道が、分からないの」




