第六話 ~魔物の群れは街を襲いに来ない~
街の灯りが見えた頃、荷馬車の上から寝息が聞こえていた。
怪我をした二人は、担架に乗せたまま運ばれている。荷台の空いている端にはリンとアイリスも座り、揺れるたびに身体を寄せ合っていた。
結人は馬車の横を歩いていた。
荷物を背負っていても、両手が空いているだけで歩きやすい。道の小さな段差を越えるときに、後ろの人を待つ必要もなかった。
それでも車輪が石に乗り上げると、つい荷台を見てしまう。
「平気だ」
担架の傍らにいたハンネスが、こちらへ頷いた。
「寝てる」
「そっか」
結人は前へ向き直った。
街へ入ると、昼間響いていた槌の音は止んでいた。
作業場の戸は閉まり、積まれた窓枠には布が掛けられている。途中まで石の並んだ敷地も、今は暗かった。
その先で、組合の窓だけが明るく灯っていた。
馬車が近づくと、入口にいた人たちが立ち上がった。
誰かが声を上げる。
名前を呼ぶ声が、続けて聞こえた。
ハンネスが荷台から下りると、小さな子供が駆け寄ってきた。
「お父さん」
男はその場に屈んだ。
子供の顔を見て、何かを言いかける。それから言葉をやめ、両腕を伸ばした。
結人は馬車の脇へ寄り、担架を下ろす場所を空けた。
組合の中から人が出てくる。川辺で手当てをしていた女性が様子を伝え、二組の担架は順に建物へ運び込まれた。
奥の部屋で、朝、話を聞いた男が身体を起こした。
仲間の顔を見つける。
開いた口から、しばらく声が出なかった。
「……来たぞ」
担架の上から、誰かが言った。
男は頷いた。
何度も、繰り返し。
結人は入口の外へ一歩下がった。
中にはもう、仲間を確かめる人たちの声があった。
「細かい話は明日にしましょう」
マレナが隣へ来た。
「今夜必要なことは、私から伝えておく。結人たちも休んで」
「マレナさんは?」
「報告を終えたら休むわ。今日は、私もよく眠れそう」
少し疲れた顔で笑った。
「明日の昼頃、もう一度話を聞かせてもらえる?」
「分かりました」
結人は頷き、二人を振り返った。
アイリスは荷物を受け取り、リンの隣に立っていた。
リンは、子供を抱いたハンネスを見ていた。
紅い尾は動いていない。
結人も、すぐには声をかけなかった。
やがてリンが自分で顔を上げる。
「帰れたの」
「うん」
「よかったの」
結人はもう一度頷いた。
それから、三人で宿へ向かった。
◇
部屋の扉が閉まると、結人は荷物を床へ置いた。
寝台へ腰を下ろし、しばらくそのまま動かなかった。
「ご主人様」
「ん?」
「靴だけは脱いでくださいね」
アイリスに言われ、結人は足元を見た。
「そうだった」
身を屈めると、背中まで重かった。
靴を脱いで並べ、机の上へ懐中時計を置く。蓋を開くと、文字盤の上にフィリアが姿を現した。
『ずいぶん草臥れた顔じゃの』
「今日は、言い返せない」
『言い返す元気があるなら、もう少し歩けそうじゃな』
「今のでなくなった」
フィリアが小さく笑った。
アカツキは扉へ耳を向け、廊下の足音が遠ざかるのを待ってから口を開いた。
「全員、街まで戻ったな」
「うん」
結人は寝台の縁に手を置いた。
「川まで運べたら終わりだと思ってたけど、街が見えてからの方が、ほっとした」
「帰る場所まで届いたからであろう」
「そうかも」
リンが床へ座りかけ、途中で寝台を見た。
結人が少し横へずれると、その隣へ腰を下ろす。
「今日は、宿がいいの」
「森と比べて?」
「比べなくても、今日はこっちなの」
「分かる」
リンは脚を伸ばし、つま先をゆっくり動かした。
アイリスも椅子へ座った。袋から記録の紙を取り出しかけ、そのまま手を止める。
「明日でいいんじゃない?」
結人が言うと、アイリスは少し考えてから紙を戻した。
「……そうですね。わたくしも、その方が助かります」
『今夜は休め。眠れるときに眠っておくものじゃ』
フィリアが言った。
「そうする」
結人が答えたところで、隣のリンが小さく欠伸をした。
「明日」
「うん?」
「お父さんたちのことも、聞くの」
「うん。一緒に聞こう」
リンは頷いた。
もう一度欠伸をして、今度は自分で立ち上がる。
「寝るの」
「おやすみ」
「おやすみなの」
アイリスも荷物を持って立ち上がった。
「では、わたくしたちも隣へ戻ります」
扉が閉まる。
結人は寝台へ横になった。
目を閉じると、一瞬だけ黒い牙が浮かんだ。
その後に、担架の持ち手と、握り返してきた硬い手を思い出した。
掌はまだ少し痛かった。
結人は指を開き、毛布の上へ置いた。
廊下の向こうで、隣の部屋の扉が閉まる音がした。
◇
翌日の昼、結人たちは組合を訪ねた。
受付では、リンの家族についても尋ねた。
土狼族を見かけた人がいないか、旅人や周囲の仕事場へ聞いているところだという。まだ、確かな知らせは届いていなかった。
「分かったの」
リンは答えた。
「また聞きに来るの」
「何か分かったら、宿にも伝えるよ」
受付の言葉に頷いてから、三人は奥の部屋へ向かった。
マレナは、地図を広げて待っていた。
机の反対側には、ハンネスも座っている。
昨日とは違う、洗った服を着ていた。けれど、椅子から立つときには少し肩を庇った。
「昨日は世話になった」
「こっちこそ。運ぶの、助かりました」
「運ばなきゃ、あいつが帰れなかったからな」
ハンネスはそう言って、もう一度腰を下ろした。
結人も席につく。
足元では、子犬ほどの姿のアカツキが静かに座った。
地図には、昨日よりも印が増えていた。
川沿いの待機場所。小屋。道の分かれ目。
そして、その奥にある神社と洞窟。
アイリスが自分の記録を取り出し、机の端へ置いた。
「二人は、まだ治療を受けているわ」
マレナが話し始めた。
「歩けるようになるまで、山の仕事は休んでもらう。山での作業自体も、今は止めたまま」
ハンネスが頷いた。
「まず、昨日見たものを整理したいの。身体のない魔物の姿があった。それから、本物の火があった」
「はい」
アイリスが紙を開く。
「足跡の残らない狼と、盾を焼いた火は、同じ場所に見えていました」
「ああ。爪は通り抜けたのに、火は避けなきゃいけなかった」
結人も答えた。
マレナは、その二つを別々に書き留めた。
ハンネスが机の上を見つめる。
「じゃあ、俺たちが見た群れも……」
「全部が同じだったかは、まだ分からないわ」
マレナが答えた。
「ただ、数をそのまま魔物の頭数として扱うことはできない」
結人は、依頼に書かれていた言葉を思い出した。
魔物、多数。
あの姿を見て逃げてきたら、そう書くしかなかったのだと思う。
自分たちも、泥の上を歩く足を見ていなければ、同じように考えたかもしれない。
「最初の調査のことを、もう少し聞いてもいいですか」
結人が尋ねた。
「昨日は、小屋へ行く道の話が先だったから」
「ええ」
マレナは地図を少し手前へ引いた。
「私たちが調べていたのは、石を採る場所と、運び出す道。街を広げる分の石が必要だったけれど、荷車の通れる道も増やさなければならなかった」
指先が、小屋より奥へ移る。
「この辺りまで入ったところで、古い石段を見つけたの。その上に、神社があった」
「神社は、地図になかったんですよね」
「なかったわ。何を祀った場所なのかも、分からなかった」
マレナは一度、指を止めた。
「そこは避けて作業することにした。けれど、裏手の岩壁に洞窟があったの」
「それで、入った?」
「ええ。石を切り出そうとしている場所の下が空洞なら、危ないでしょう。どこまで続いているのか、確かめておきたかった」
結人は地図を見た。
街の方には、道や建物が細かく描かれている。
山へ入るほど印が減り、神社と洞窟は後から書き足されていた。
紙の上では小さな印でも、現地へ行けば、暗い穴が奥へ続いている。
「洞窟のいちばん奥で、小さな祠を見つけた」
マレナが続けた。
「白い石の戸が閉まっていて、その手前に、古い皿が置かれていたわ」
「戸を開けたのですか?」
アイリスが尋ねる。
「いいえ。戸は閉まったままだった」
マレナは机の縁へ手を置いた。
「作業員が道具の袋を下ろしたときに、金槌が転がったの。それが皿に当たって、縁を欠いてしまった」
結人は顔を上げた。
「その後に、火が?」
「青白い火が見えた。続いて狼のようなものが出てきて、私たちは引き返した」
マレナの指が洞窟の印から離れた。
「外へ出ても、森に別の影がいた。角のあるものも、翼のあるものも見えたわ。数える余裕なんてなかった」
結人は、自分たちが道で見た光景を思い出した。
一つ見つけ、その横へ目を向けると、また別のものがいる。
逃げる場所を探すほど増えていく。
「その皿が、何か大事なものだったのかな」
「分からない」
マレナは首を振った。
「皿を壊したことが原因なのか、私たちが奥まで入ったこと自体が問題だったのか。今のところ、分かっているのは、その直後に異変が起きたことだけ」
「何か、いたの?」
リンが尋ねた。
マレナはリンを見た。
「狼たちとは別に、ということ?」
「うん。そこに住んでるものとか」
「見ていないわ。でも……何もいない場所だと決めて入ったのは、私たちの方だったのかもしれない」
ハンネスが息を吐いた。
「俺たちは、その祠には行ってない」
「ええ」
「小屋は、前から使ってたんだ。上の方で新しく道を通すから、俺たちは下の作業を進めていた。それまで、あんな群れが小屋の外へ来たことはなかった」
マレナが頷き、その話も書き留める。
ハンネスは、組んだ指を見下ろした。
「誰かが何かを怒らせたのかもしれねえ。それでも、小屋にいた連中まで巻き込まれた。あいつらの脚が、元に戻るわけじゃない」
「うん」
結人は答えた。
「怪我まで、なかったことにはならない」
掌に残った持ち手の跡を、机の下で軽く擦った。
身体のない狼だった。
それでも、人を運ぶ担架は重かった。
「負傷したことも、火の被害も、報告には残すわ」
マレナが言った。
「見えた姿を整理することと、被害を小さく扱うことは別だから」
ハンネスはしばらく黙っていた。
やがて、短く頷いた。
結人は地図の川へ目を移した。
「最初の調査から戻ったときも、この辺りで追ってこなくなったんですよね」
「ええ。川へ近づいた頃には、姿が見えなくなっていた。いつ消えたかまでは、確かめられなかったけれど」
アイリスが記録を指で辿る。
「先に小屋から下りてきた方も、川へ出てから見えなくなったと話していました」
「俺たちもそうだった」
結人は地図の上へ指を置いた。
帰ってきた道は、全員が同じではない。
夜中に沢を下った人もいる。
それでも、川の近くまで来ると、群れは見えなくなっていた。
「街の方で、あの群れを見た人は?」
「今のところ、報告はないわ」
マレナが答えた。
「川沿いの全てを確かめたわけではないけれど、街へ向かってきている様子はない」
「……山へ入る人を、追い返してる?」
結人が呟いた。
リンが地図を覗き込む。
「自分のところに、来てほしくないの?」
「その可能性はある」
マレナが言った。
「ただ、帰ろうとした人たちまで妨げられていた。こちらの事情を分かって、手加減してくれる相手だとは考えない方がいい」
結人は頷いた。
もし何かがそこにいるのなら、その都合は、まだ何も聞けていない。
けれど、こちらの都合も、向こうへ届いているとは思えなかった。
「だから、依頼の内容を変えるわ」
マレナは別の紙を手元へ引いた。
「見えた魔物の数を相手に討伐する、という形では進められない。まず、異変が始まった場所を調べたい」
指が、神社の印に戻る。
「何かが術を使っているのか、あの場所に仕掛けがあるのか。入った人へ何が起きるのかも、もう少し確かめる必要がある」
「神社まで、行くんですね」
「ええ。ただし、調査のために入る。何か見つけても、その場で倒そうとして追いかける依頼にはしない」
マレナが結人たちを見た。
「昨日の道を見た人には、力を貸してほしいと思ってる。でも、返事は休んでからでいい。昨日できたことが、もう一度できるとは限らないから」
結人は、自分の腕を軽く動かした。
まだ、少し張っている。
「仲間で話してから、返事してもいいですか」
「もちろん」
マレナは頷いた。
「行くなら、出る時間と戻る時間、途中で引き返す条件まで決めておきましょう」
ハンネスが椅子から立った。
少し迷ってから、結人へ顔を向ける。
「俺たちは、明日もあそこで働くつもりだったんだ」
「うん」
「何がどうなったのか、分かったら教えてくれ。知らねえまま、また誰かを運ぶのは嫌だからな」
結人は頷いた。
「分かった」
◇
宿へ戻る途中にも、木を打つ音が聞こえた。
窓枠を運ぶ人が道を横切り、結人たちは脇へ寄って待った。
昨日と同じように、木の仕事は進んでいた。
石を積む場所には、人がいなかった。
群れが街まで来なくても、街の暮らしは止められている。
結人は、布を掛けられた資材の横を通り過ぎた。
部屋へ戻って扉を閉めると、アカツキが口を開いた。
「相手は、まだ分からぬままだな」
「うん」
結人は机へ地図を広げた。
その横へ時計を置き、蓋を開く。
フィリアが文字盤の上へ腰を下ろした。
「俺たちは群れの中を通れた。でも、あれを止めたわけじゃないんだよな」
「そうだ」
アカツキが頷いた。
「術を見破ったところがあった。それと、術を解いたことは同じではない」
「また人が入ったら、同じことが起こるかもしれない」
「少なくとも、昨日は帰るまで消えなかった」
結人は地図の神社を見た。
小屋から、さらに奥。
自分たちが行ったことのない場所だった。
「相手がいるなら、何であんなことをしてるのか知りたい」
「お話をするのですか?」
アイリスが尋ねた。
「できるなら」
結人は答えた。
「触ってほしくなかったものがあるのかもしれないし、入ってほしくない場所だったのかもしれない。そこも分からないまま、また作業を始めたら、同じことになる」
リンが地図の端へ手を添えた。
「話、通じなかったら?」
「戻って、そのことを伝える」
「追いかけるのは?」
「調べに行ったからって、何でもその場で終わらせる必要はないと思う」
結人は一度、みんなの顔を見た。
「俺は、調査に行こうと思ってる。みんなは?」
アイリスが小さく息を吸った。
「わたくしも、ご一緒したいです」
そこで少し言葉を切る。
「でも、昨日より危ないと分かったら、ちゃんと戻ってきたいです」
「うん」
結人は頷いた。
「そこは同じ。戻ろうって声が出たら、一度止まろう」
「リンも行くの」
リンが続けた。
「道は見るの。でも、昨日分かったことが、明日も分かるとは限らないの」
「そのときも教えて」
「うん。分かんないまま進むのは、嫌なの」
アカツキが地図へ目を向けた。
「私も行く。人目のないところでは、本来の姿で動こう」
結人は少し肩の力を抜いた。
昨日は、足元にいる小さな姿を何度も頼りにした。
そのアカツキが隣にいるのは、やはり心強かった。
けれど、フィリアは地図を見たまま口を開いた。
『それでも、相手の力が分かったつもりにはなるでないぞ』
「分かってる」
『退くと決めたなら、ためらうでない』
結人はフィリアを見た。
青い瞳がこちらを向く。
いつものように言い返せそうな言葉は、浮かばなかった。
「うん。気をつける」
フィリアは一度だけ頷いた。
アイリスが地図を自分の方へ寄せる。
「では、組合へ返事をする前に、確認しておきたいことをまとめますね」
「お願い。俺も見る」
リンが椅子を寄せ、アカツキも机の近くへ移った。
出発は、明日の朝。
今日はもう山へ戻らず、身体を休める。
川には待機する人を置いてもらい、昨日と違うことが起きたら、奥へ進む前に考える。
結人たちは、それらを一つずつ確かめた。
夕方、組合へ調査を引き受けると伝え、戻る予定の時刻も決めた。
渡された地図には、神社までの道が書き足されていた。
川も、小屋も、神社も、一本の道でつながっている。
その先にいるものだけが、まだ結人には見えていなかった。




