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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第六話 ~魔物の群れは街を襲いに来ない~

 街の灯りが見えた頃、荷馬車の上から寝息が聞こえていた。

 怪我をした二人は、担架に乗せたまま運ばれている。荷台の空いている端にはリンとアイリスも座り、揺れるたびに身体を寄せ合っていた。

 結人は馬車の横を歩いていた。

 荷物を背負っていても、両手が空いているだけで歩きやすい。道の小さな段差を越えるときに、後ろの人を待つ必要もなかった。

 それでも車輪が石に乗り上げると、つい荷台を見てしまう。

「平気だ」

 担架の傍らにいたハンネスが、こちらへ頷いた。

「寝てる」

「そっか」

 結人は前へ向き直った。

 街へ入ると、昼間響いていた槌の音は止んでいた。

 作業場の戸は閉まり、積まれた窓枠には布が掛けられている。途中まで石の並んだ敷地も、今は暗かった。

 その先で、組合の窓だけが明るく灯っていた。

 馬車が近づくと、入口にいた人たちが立ち上がった。

 誰かが声を上げる。

 名前を呼ぶ声が、続けて聞こえた。

 ハンネスが荷台から下りると、小さな子供が駆け寄ってきた。

「お父さん」

 男はその場に屈んだ。

 子供の顔を見て、何かを言いかける。それから言葉をやめ、両腕を伸ばした。

 結人は馬車の脇へ寄り、担架を下ろす場所を空けた。

 組合の中から人が出てくる。川辺で手当てをしていた女性が様子を伝え、二組の担架は順に建物へ運び込まれた。

 奥の部屋で、朝、話を聞いた男が身体を起こした。

 仲間の顔を見つける。

 開いた口から、しばらく声が出なかった。

「……来たぞ」

 担架の上から、誰かが言った。

 男は頷いた。

 何度も、繰り返し。

 結人は入口の外へ一歩下がった。

 中にはもう、仲間を確かめる人たちの声があった。

「細かい話は明日にしましょう」

 マレナが隣へ来た。

「今夜必要なことは、私から伝えておく。結人たちも休んで」

「マレナさんは?」

「報告を終えたら休むわ。今日は、私もよく眠れそう」

 少し疲れた顔で笑った。

「明日の昼頃、もう一度話を聞かせてもらえる?」

「分かりました」

 結人は頷き、二人を振り返った。

 アイリスは荷物を受け取り、リンの隣に立っていた。

 リンは、子供を抱いたハンネスを見ていた。

 紅い尾は動いていない。

 結人も、すぐには声をかけなかった。

 やがてリンが自分で顔を上げる。

「帰れたの」

「うん」

「よかったの」

 結人はもう一度頷いた。

 それから、三人で宿へ向かった。


 ◇


 部屋の扉が閉まると、結人は荷物を床へ置いた。

 寝台へ腰を下ろし、しばらくそのまま動かなかった。

「ご主人様」

「ん?」

「靴だけは脱いでくださいね」

 アイリスに言われ、結人は足元を見た。

「そうだった」

 身を屈めると、背中まで重かった。

 靴を脱いで並べ、机の上へ懐中時計を置く。蓋を開くと、文字盤の上にフィリアが姿を現した。

『ずいぶん草臥れた顔じゃの』

「今日は、言い返せない」

『言い返す元気があるなら、もう少し歩けそうじゃな』

「今のでなくなった」

 フィリアが小さく笑った。

 アカツキは扉へ耳を向け、廊下の足音が遠ざかるのを待ってから口を開いた。

「全員、街まで戻ったな」

「うん」

 結人は寝台の縁に手を置いた。

「川まで運べたら終わりだと思ってたけど、街が見えてからの方が、ほっとした」

「帰る場所まで届いたからであろう」

「そうかも」

 リンが床へ座りかけ、途中で寝台を見た。

 結人が少し横へずれると、その隣へ腰を下ろす。

「今日は、宿がいいの」

「森と比べて?」

「比べなくても、今日はこっちなの」

「分かる」

 リンは脚を伸ばし、つま先をゆっくり動かした。

 アイリスも椅子へ座った。袋から記録の紙を取り出しかけ、そのまま手を止める。

「明日でいいんじゃない?」

 結人が言うと、アイリスは少し考えてから紙を戻した。

「……そうですね。わたくしも、その方が助かります」

『今夜は休め。眠れるときに眠っておくものじゃ』

 フィリアが言った。

「そうする」

 結人が答えたところで、隣のリンが小さく欠伸をした。

「明日」

「うん?」

「お父さんたちのことも、聞くの」

「うん。一緒に聞こう」

 リンは頷いた。

 もう一度欠伸をして、今度は自分で立ち上がる。

「寝るの」

「おやすみ」

「おやすみなの」

 アイリスも荷物を持って立ち上がった。

「では、わたくしたちも隣へ戻ります」

 扉が閉まる。

 結人は寝台へ横になった。

 目を閉じると、一瞬だけ黒い牙が浮かんだ。

 その後に、担架の持ち手と、握り返してきた硬い手を思い出した。

 掌はまだ少し痛かった。

 結人は指を開き、毛布の上へ置いた。

 廊下の向こうで、隣の部屋の扉が閉まる音がした。


 ◇


 翌日の昼、結人たちは組合を訪ねた。

 受付では、リンの家族についても尋ねた。

 土狼族を見かけた人がいないか、旅人や周囲の仕事場へ聞いているところだという。まだ、確かな知らせは届いていなかった。

「分かったの」

 リンは答えた。

「また聞きに来るの」

「何か分かったら、宿にも伝えるよ」

 受付の言葉に頷いてから、三人は奥の部屋へ向かった。

 マレナは、地図を広げて待っていた。

 机の反対側には、ハンネスも座っている。

 昨日とは違う、洗った服を着ていた。けれど、椅子から立つときには少し肩を庇った。

「昨日は世話になった」

「こっちこそ。運ぶの、助かりました」

「運ばなきゃ、あいつが帰れなかったからな」

 ハンネスはそう言って、もう一度腰を下ろした。

 結人も席につく。

 足元では、子犬ほどの姿のアカツキが静かに座った。

 地図には、昨日よりも印が増えていた。

 川沿いの待機場所。小屋。道の分かれ目。

 そして、その奥にある神社と洞窟。

 アイリスが自分の記録を取り出し、机の端へ置いた。

「二人は、まだ治療を受けているわ」

 マレナが話し始めた。

「歩けるようになるまで、山の仕事は休んでもらう。山での作業自体も、今は止めたまま」

 ハンネスが頷いた。

「まず、昨日見たものを整理したいの。身体のない魔物の姿があった。それから、本物の火があった」

「はい」

 アイリスが紙を開く。

「足跡の残らない狼と、盾を焼いた火は、同じ場所に見えていました」

「ああ。爪は通り抜けたのに、火は避けなきゃいけなかった」

 結人も答えた。

 マレナは、その二つを別々に書き留めた。

 ハンネスが机の上を見つめる。

「じゃあ、俺たちが見た群れも……」

「全部が同じだったかは、まだ分からないわ」

 マレナが答えた。

「ただ、数をそのまま魔物の頭数として扱うことはできない」

 結人は、依頼に書かれていた言葉を思い出した。

 魔物、多数。

 あの姿を見て逃げてきたら、そう書くしかなかったのだと思う。

 自分たちも、泥の上を歩く足を見ていなければ、同じように考えたかもしれない。

「最初の調査のことを、もう少し聞いてもいいですか」

 結人が尋ねた。

「昨日は、小屋へ行く道の話が先だったから」

「ええ」

 マレナは地図を少し手前へ引いた。

「私たちが調べていたのは、石を採る場所と、運び出す道。街を広げる分の石が必要だったけれど、荷車の通れる道も増やさなければならなかった」

 指先が、小屋より奥へ移る。

「この辺りまで入ったところで、古い石段を見つけたの。その上に、神社があった」

「神社は、地図になかったんですよね」

「なかったわ。何を祀った場所なのかも、分からなかった」

 マレナは一度、指を止めた。

「そこは避けて作業することにした。けれど、裏手の岩壁に洞窟があったの」

「それで、入った?」

「ええ。石を切り出そうとしている場所の下が空洞なら、危ないでしょう。どこまで続いているのか、確かめておきたかった」

 結人は地図を見た。

 街の方には、道や建物が細かく描かれている。

 山へ入るほど印が減り、神社と洞窟は後から書き足されていた。

 紙の上では小さな印でも、現地へ行けば、暗い穴が奥へ続いている。

「洞窟のいちばん奥で、小さな祠を見つけた」

 マレナが続けた。

「白い石の戸が閉まっていて、その手前に、古い皿が置かれていたわ」

「戸を開けたのですか?」

 アイリスが尋ねる。

「いいえ。戸は閉まったままだった」

 マレナは机の縁へ手を置いた。

「作業員が道具の袋を下ろしたときに、金槌が転がったの。それが皿に当たって、縁を欠いてしまった」

 結人は顔を上げた。

「その後に、火が?」

「青白い火が見えた。続いて狼のようなものが出てきて、私たちは引き返した」

 マレナの指が洞窟の印から離れた。

「外へ出ても、森に別の影がいた。角のあるものも、翼のあるものも見えたわ。数える余裕なんてなかった」

 結人は、自分たちが道で見た光景を思い出した。

 一つ見つけ、その横へ目を向けると、また別のものがいる。

 逃げる場所を探すほど増えていく。

「その皿が、何か大事なものだったのかな」

「分からない」

 マレナは首を振った。

「皿を壊したことが原因なのか、私たちが奥まで入ったこと自体が問題だったのか。今のところ、分かっているのは、その直後に異変が起きたことだけ」

「何か、いたの?」

 リンが尋ねた。

 マレナはリンを見た。

「狼たちとは別に、ということ?」

「うん。そこに住んでるものとか」

「見ていないわ。でも……何もいない場所だと決めて入ったのは、私たちの方だったのかもしれない」

 ハンネスが息を吐いた。

「俺たちは、その祠には行ってない」

「ええ」

「小屋は、前から使ってたんだ。上の方で新しく道を通すから、俺たちは下の作業を進めていた。それまで、あんな群れが小屋の外へ来たことはなかった」

 マレナが頷き、その話も書き留める。

 ハンネスは、組んだ指を見下ろした。

「誰かが何かを怒らせたのかもしれねえ。それでも、小屋にいた連中まで巻き込まれた。あいつらの脚が、元に戻るわけじゃない」

「うん」

 結人は答えた。

「怪我まで、なかったことにはならない」

 掌に残った持ち手の跡を、机の下で軽く擦った。

 身体のない狼だった。

 それでも、人を運ぶ担架は重かった。

「負傷したことも、火の被害も、報告には残すわ」

 マレナが言った。

「見えた姿を整理することと、被害を小さく扱うことは別だから」

 ハンネスはしばらく黙っていた。

 やがて、短く頷いた。

 結人は地図の川へ目を移した。

「最初の調査から戻ったときも、この辺りで追ってこなくなったんですよね」

「ええ。川へ近づいた頃には、姿が見えなくなっていた。いつ消えたかまでは、確かめられなかったけれど」

 アイリスが記録を指で辿る。

「先に小屋から下りてきた方も、川へ出てから見えなくなったと話していました」

「俺たちもそうだった」

 結人は地図の上へ指を置いた。

 帰ってきた道は、全員が同じではない。

 夜中に沢を下った人もいる。

 それでも、川の近くまで来ると、群れは見えなくなっていた。

「街の方で、あの群れを見た人は?」

「今のところ、報告はないわ」

 マレナが答えた。

「川沿いの全てを確かめたわけではないけれど、街へ向かってきている様子はない」

「……山へ入る人を、追い返してる?」

 結人が呟いた。

 リンが地図を覗き込む。

「自分のところに、来てほしくないの?」

「その可能性はある」

 マレナが言った。

「ただ、帰ろうとした人たちまで妨げられていた。こちらの事情を分かって、手加減してくれる相手だとは考えない方がいい」

 結人は頷いた。

 もし何かがそこにいるのなら、その都合は、まだ何も聞けていない。

 けれど、こちらの都合も、向こうへ届いているとは思えなかった。

「だから、依頼の内容を変えるわ」

 マレナは別の紙を手元へ引いた。

「見えた魔物の数を相手に討伐する、という形では進められない。まず、異変が始まった場所を調べたい」

 指が、神社の印に戻る。

「何かが術を使っているのか、あの場所に仕掛けがあるのか。入った人へ何が起きるのかも、もう少し確かめる必要がある」

「神社まで、行くんですね」

「ええ。ただし、調査のために入る。何か見つけても、その場で倒そうとして追いかける依頼にはしない」

 マレナが結人たちを見た。

「昨日の道を見た人には、力を貸してほしいと思ってる。でも、返事は休んでからでいい。昨日できたことが、もう一度できるとは限らないから」

 結人は、自分の腕を軽く動かした。

 まだ、少し張っている。

「仲間で話してから、返事してもいいですか」

「もちろん」

 マレナは頷いた。

「行くなら、出る時間と戻る時間、途中で引き返す条件まで決めておきましょう」

 ハンネスが椅子から立った。

 少し迷ってから、結人へ顔を向ける。

「俺たちは、明日もあそこで働くつもりだったんだ」

「うん」

「何がどうなったのか、分かったら教えてくれ。知らねえまま、また誰かを運ぶのは嫌だからな」

 結人は頷いた。

「分かった」


 ◇


 宿へ戻る途中にも、木を打つ音が聞こえた。

 窓枠を運ぶ人が道を横切り、結人たちは脇へ寄って待った。

 昨日と同じように、木の仕事は進んでいた。

 石を積む場所には、人がいなかった。

 群れが街まで来なくても、街の暮らしは止められている。

 結人は、布を掛けられた資材の横を通り過ぎた。

 部屋へ戻って扉を閉めると、アカツキが口を開いた。

「相手は、まだ分からぬままだな」

「うん」

 結人は机へ地図を広げた。

 その横へ時計を置き、蓋を開く。

 フィリアが文字盤の上へ腰を下ろした。

「俺たちは群れの中を通れた。でも、あれを止めたわけじゃないんだよな」

「そうだ」

 アカツキが頷いた。

「術を見破ったところがあった。それと、術を解いたことは同じではない」

「また人が入ったら、同じことが起こるかもしれない」

「少なくとも、昨日は帰るまで消えなかった」

 結人は地図の神社を見た。

 小屋から、さらに奥。

 自分たちが行ったことのない場所だった。

「相手がいるなら、何であんなことをしてるのか知りたい」

「お話をするのですか?」

 アイリスが尋ねた。

「できるなら」

 結人は答えた。

「触ってほしくなかったものがあるのかもしれないし、入ってほしくない場所だったのかもしれない。そこも分からないまま、また作業を始めたら、同じことになる」

 リンが地図の端へ手を添えた。

「話、通じなかったら?」

「戻って、そのことを伝える」

「追いかけるのは?」

「調べに行ったからって、何でもその場で終わらせる必要はないと思う」

 結人は一度、みんなの顔を見た。

「俺は、調査に行こうと思ってる。みんなは?」

 アイリスが小さく息を吸った。

「わたくしも、ご一緒したいです」

 そこで少し言葉を切る。

「でも、昨日より危ないと分かったら、ちゃんと戻ってきたいです」

「うん」

 結人は頷いた。

「そこは同じ。戻ろうって声が出たら、一度止まろう」

「リンも行くの」

 リンが続けた。

「道は見るの。でも、昨日分かったことが、明日も分かるとは限らないの」

「そのときも教えて」

「うん。分かんないまま進むのは、嫌なの」

 アカツキが地図へ目を向けた。

「私も行く。人目のないところでは、本来の姿で動こう」

 結人は少し肩の力を抜いた。

 昨日は、足元にいる小さな姿を何度も頼りにした。

 そのアカツキが隣にいるのは、やはり心強かった。

 けれど、フィリアは地図を見たまま口を開いた。

『それでも、相手の力が分かったつもりにはなるでないぞ』

「分かってる」

『退くと決めたなら、ためらうでない』

 結人はフィリアを見た。

 青い瞳がこちらを向く。

 いつものように言い返せそうな言葉は、浮かばなかった。

「うん。気をつける」

 フィリアは一度だけ頷いた。

 アイリスが地図を自分の方へ寄せる。

「では、組合へ返事をする前に、確認しておきたいことをまとめますね」

「お願い。俺も見る」

 リンが椅子を寄せ、アカツキも机の近くへ移った。

 出発は、明日の朝。

 今日はもう山へ戻らず、身体を休める。

 川には待機する人を置いてもらい、昨日と違うことが起きたら、奥へ進む前に考える。

 結人たちは、それらを一つずつ確かめた。

 夕方、組合へ調査を引き受けると伝え、戻る予定の時刻も決めた。

 渡された地図には、神社までの道が書き足されていた。

 川も、小屋も、神社も、一本の道でつながっている。

 その先にいるものだけが、まだ結人には見えていなかった。


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