第五話 ~帰り道は担架の幅で測る~
人を乗せた担架は、持ち上げる前から重かった。
布が深く沈み、寝かせた身体の形に張っている。結人が持ち手を握ると、脚に板を添えられた男が、こちらへ顔を向けた。
「……頼む」
「うん」
結人は頷いた。
「痛かったら言って。見てるだけじゃ分かんないから」
男は少し迷ってから、もう一度頷いた。
マレナが身体を支える帯を確かめる。締めた場所に痛みがないか尋ね、脚に当たっていた布を直した。
戸を開けた男が、反対側の持ち手を握る。
「ハンネス」
寝ている男が呼んだ。
「お前も一緒だよな」
「ああ。後ろを持ってる」
ハンネスと呼ばれた男は、握った木の柄を少し持ち上げて見せた。
「勝手に先へ行けるもんなら、行ってみろってんだ」
横たわった男の口元が、わずかに動いた。
もう一組の担架は、槍の男と、歩ける作業仲間が運ぶことになった。
残る二人が荷物を引き受け、途中で持ち手を代われるようにする。重い道具は小屋の隅へまとめ、水と、必要なものだけを持ち出した。
結人が自分の袋を肩へ掛けようとすると、一人が手を差し出した。
「それも持つ」
「結構重いですよ」
「そっちよりは軽いだろ」
男の視線が担架へ向く。
「……じゃあ、お願いします」
袋を渡すと、肩が少し軽くなった。
それでも、これから持ち上げるものの重さが減るわけではなかった。
「まず一組ずつ出るわ」
マレナが戸口を確かめた。
「曲がる前に止まって。後ろが戸を抜けてから、担架ごと向きを変える」
結人は前の持ち手を握り直した。
後ろでハンネスが腰を落とす。
「上げるぞ」
寝ている男が頷いた。
「せーの」
腕へ、ずしりと重さが来た。
結人は息を吐き、膝を伸ばした。
持ち上げた高さが違ったのか、担架が少し傾く。
「前、少し下げて」
「これくらい?」
「ああ。そこでいい」
二人の高さが揃うと、布の揺れが収まった。
結人は戸の外へ足を出した。
入るときには、身体を少し横へ向けるだけで通れた場所だった。
今は、自分が抜けても、後ろには人を乗せた担架が続いている。肩が戸口を通ったからといって、すぐに曲がれるわけではない。
「一度止まって」
マレナの声で足を止める。
後ろの持ち手が戸を抜けるまで待ち、それから二人で少しずつ向きを変えた。
外ではリンが足元を見ていた。
「左はまだ土があるの。右へ出すぎないでね」
結人は示された場所へ足を置いた。
窓の下には、沢へ落ちる斜面が見えている。
一人なら避けられる石が、今は足の置き場を狭くしていた。
マレナがそれを脇へ寄せる。
その分だけ、担架を真っ直ぐ運べるようになった。
小屋の前を狼の影が横切った。
布の上で、男の手が動く。
「見えてる」
後ろからハンネスが声をかけた。
「こっちも見てるから、急に起きるなよ」
結人は足元を見たまま、次の一歩を出した。
◇
帰りの一行は、行きよりずっと長かった。
マレナとリンが先へ立ち、アカツキがその近くを歩く。二組の担架が続き、荷物を持つ人たちが間に入った。
盾の男は最後尾へ回り、後ろから来るものを見張っていた。
道の広いところでは、アイリスが担架の横についた。狭くなると前後へ移り、枝や根の位置を、運んでいる人へ伝えていく。
「この先、根があります」
「止まる」
結人が声をかける。
後ろでハンネスも止まった。
結人が根を越える。担架が進み、今度は後ろの足が越える。
それを待ってから、また歩く。
たった一本の根を越えるにも、声をかける回数が増えた。
担架の重みが、木の持ち手を通して掌へ食い込んでくる。
下り坂だから楽だろうと、少しだけ思っていた。
違った。
下へ引かれる重さを受け止めながら、自分の足も滑らせないようにしなければならない。前だけが速く進めば、後ろの人が追いつけなくなる。
「前、少しゆっくり」
「うん」
結人は歩幅を小さくした。
森の中には、まだ群れがいた。
道の脇を並んで歩き、木の向こうから顔を出し、ときどき前へ回り込んでくる。
足跡はつかない。
枝も押し分けない。
それでも、牙を剥かれるたびに、結人の指へ余計な力が入った。
丸太のある曲がり角が見えたときだった。
右手の木立から、黒い影が跳び出した。
担架へ向かって、頭が沈む。
「来る!」
横たわっていた男が叫んだ。
腕が大きく動き、担架の縁を掴む。
重さが片側へ寄った。
「止まる!」
結人は足を踏ん張った。
後ろでも、ハンネスが持ち手を握り直す。
男は牙を避けようとして、上半身を捻っていた。脚が動き、短い悲鳴が漏れた。
「待て、動くな!」
ハンネスの声が鋭くなる。
男の顔が強張った。
マレナがすぐ傍らへ来た。
「ここで下ろしましょう。平らなところへ寄せて」
さっき丸太を動かした場所に、担架を置けるだけの地面が空いていた。
結人たちは声を合わせ、ゆっくり下ろした。
アイリスが脇へ膝をつく。
男は担架の縁を掴んだまま、荒い息をしていた。
「……すまん」
誰の顔も見ずに言った。
「分かってるんだ。さっき、触れてなかったのも見た。でも、顔のところに……」
「うん」
結人も傍らへ屈んだ。
その途端、黒い狼の口が目の高さに来た。
反射的に顎を引く。
牙が鼻先を横切っても、何も触れなかった。
立って歩いているときより、ずっと近く見えた。
この高さで寝たまま、避けることもできずに運ばれるのか。
結人は男へ顔を戻した。
「見たくなかったら、目を閉じててもいいよ。道の方は、こっちで見るから」
「……何か来たら」
「声をかける。黙って急に動かしたりしない」
ハンネスが、頭の近くへしゃがみ込んだ。
「いつも木を運ぶときみたいに、合図する。俺の声、聞いててくれ」
男がハンネスを見た。
「お前、いつも急に持つだろ」
「今日はやらねえよ」
小さな間があった。
男は息を吐いた。
「……なら、ちゃんと言えよ」
「ああ」
アイリスが、ずれた布を直した。
「道の広いところでは、わたくしも横にいます」
男は彼女を見て、ゆっくり頷いた。
後ろの担架からも声がした。
「こっちは大丈夫だ。慌てずやってくれ」
結人が振り返ると、足首に布を巻いた男が、片手を上げていた。
その手も、少し震えていた。
誰も、平気なわけではなかった。
リンが丸太の脇へ回った。
木に留めた縄を引き、張りを確かめる。丸太は、さっき止めた場所から動いていなかった。
「ここ、通れるの」
道には大きな影が重なっていた。
角のある獣が、下りる先を塞ぐように立っている。
リンはその足元へ入り、空けた道を端から端まで確かめた。
「丸太は動いてないの。担架も、そのまま通せるの」
結人は立ち上がろうとした。
握っていた指が、少し開きにくい。
掌には持ち手の跡が赤く残り、腕の内側がじんじんしていた。
「ここから代わる」
荷物を持っていた作業仲間が、担架の前へ来た。
結人は自分の手を見てから、頷いた。
「お願いします」
男が荷物を渡してくる。
受け取った袋は重かったが、肩へ掛けられるだけで、腕はずいぶん楽だった。
「こっち、手前へ引かれやすいです」
結人は持ち手を示した。
「下りで急ぐと、後ろと高さがずれるんで」
「ああ。分かった」
男が腰を落とす。
ハンネスが、横たわる仲間へ声をかけた。
「上げるぞ」
男は目を閉じたまま、頷いた。
「せーの」
担架が持ち上がる。
今度は、布が大きく揺れなかった。
結人はその横を歩き、丸太の端へ担架が近づいたところで足を止めた。
「もう少し、こっち」
運んでいる男が、僅かに向きを変える。
担架の端が、丸太のすぐ横を抜けた。
自分一人なら気にも留めなかった隙間が、今は狭い。
結人は後ろの担架へも声をかけた。
「ここ、同じところを通ってください。右へ寄せすぎると引っかかります」
アイリスがその手前へ立ち、次の組にも位置を伝える。
二組とも通り抜けたのを見届けてから、結人は歩き出した。
◇
幹の裂けた木が見えた。
その向こうには、川へ下りる道が続いている。
結人は少し息をついた。
ここから先は、行きにはまだ群れが見えていなかった場所だ。
だからといって、帰りも同じとは限らない。
そう思い直したとき、最後尾から声が上がった。
「火だ!」
結人は振り返った。
道を上った先に、青白い光が揺れていた。
黒い獣の影の間から、一つ、二つと浮き上がってくる。
盾の男が後ろへ向き直った。
「止まらず進め!」
「走らないで。そのまま道を下りて!」
マレナの声が重なった。
リンが前へ出る。
「こっちなの! 木の左を回るの!」
アカツキが、道の端へ寄った。
小さな白銀の身体が、黒い影の間を抜ける。泥の上には、確かな足跡がついていた。
前の担架が、裂けた幹へ近づく。
そこへ、大きな狼が飛び込んできた。
土を蹴る音がした。
爪が道を掻く音もした。
前を持っていた男の肩が跳ねた。
狼を避けようとして、右へ足が出る。
「そっちは駄目!」
結人が叫んだ。
道の縁で土が崩れた。
担架の片側が沈む。
結人は脇の棒を掴んだ。
腕へ一気に重さが来た。
持ち上げようとしても、上がらない。
前の男も、後ろのハンネスも、まだ持っている。それなのに、ほんの少し傾いただけで、身体が引かれた。
「離すな!」
結人は棒を握り込み、道の中央へ押した。
ハンネスが反対側を支える。
「前、足を戻せ!」
男が踏ん張った。
一度滑りかけた靴が、硬い土へ載り直す。
三人で支えた担架が、ゆっくり水平へ戻った。
結人は息を吐いた。
背後で、火が弾ける音がした。
熱が首筋を撫でた。
「すまねえ」
前を持つ男が言う。
「いい。まだ持ててる」
結人は棒から手を離さず、足元を見た。
「ここ、真っ直ぐ。俺も横で支える」
布の上から、掠れた声がした。
「……動くのか」
ハンネスが答えた。
「ああ。少し急ぐ。揺れるぞ」
男は目を閉じたまま、担架の縁を握った。
「分かった」
担架が進み始めた。
結人も横について動く。
狼の頭が、持ち手を握る腕と重なった。
牙が見えた。
噛まれると思った。
結人は指へ力を込めた。
掌にある木の硬さを確かめ、手を開かなかった。
「そこ、根が出てるの」
前でリンが指を差す。
「右足、少しだけ外なの。でも、道の外までは行かないの」
担架を持つ男が、示された場所へ足を置く。
結人もそれを見て、一歩進んだ。
後ろでは、もう一組の担架が同じ曲がり角へ入っていた。
アイリスが声をかける。
「ここで少し向きを変えます。前の方が抜けるまで、後ろはゆっくりお願いします」
槍の男が短く返事をした。
二組目も、道の上へ戻ってくる。
その後ろで、盾の男が一歩ずつ下がっていた。
青白い火が盾の縁を照らす。
木の焦げる匂いが、こちらまで届いた。
「もう曲がれる!」
マレナが声を張った。
盾の男が一度だけ後ろを見て、こちらへ下がる。
全員が木の陰へ入ったところで、また火が弾けた。
結人は振り返らなかった。
振り返って足を止めれば、担架が傾く。
今、手の中にある重さを、前へ進める。
マレナが道を確かめる。
リンが足の置き場を示す。
ハンネスが、動く前に声をかける。
その声に合わせて、結人も歩いた。
唸り声は、まだ聞こえていた。
けれど、すぐ後ろにあった熱は、少しずつ遠ざかっていった。
◇
川の音が聞こえた。
結人は、それだけでは顔を上げなかった。
もう少し進んで、木々の間に水面が見えた。
橋もあった。
橋の向こうに荷馬車があり、その傍らで人が立ち上がるのが見えた。
「戻ったぞ!」
見張りに残っていた男の声がした。
結人は、そこでようやく大きく息を吸った。
弓を背負った男が橋へ走ってくる。
こちらへ渡り、担架の横へ手を添えた。
「あと少しだ。ここからは平らになる」
支える手が増えた。
結人の腕から、重さが少し抜けた。
それでも、まだ離さなかった。
足の下が土から板へ変わる。
橋を渡る間にも、ハンネスは声をかけ続けた。
「橋へ入ったぞ」
担架の上の男が、目を開けた。
横へ顔を向ける。
欄干の向こうを、水が流れていた。
「……川だ」
「ああ」
ハンネスが答えた。
「川まで来た」
橋を渡り切ったところで、手当てをする女性が場所を示した。
「こちらへ。毛布を敷いてあるから、ゆっくり下ろして」
結人たちは示された場所まで運んだ。
「下ろすぞ」
ハンネスの声に合わせ、膝を曲げる。
担架の重さが地面へ移った。
結人は、すぐには手を離せなかった。
力を抜いたつもりなのに、指が木の形を覚えている。
一度息を吐いてから、ゆっくり開いた。
後ろの担架も運び込まれた。
御者が荷物を受け取り、歩いて戻った人たちを馬車の傍らへ呼んでいる。
盾の男が最後に橋を渡った。
マレナが全員を見渡す。
「六人、全員連れてきたわ」
待っていた女性が頷いた。
「分かった。まず脚を見せて。運んできた人も、怪我があるなら後で必ず言って」
人が動き始めた。
水が運ばれ、薬箱が開かれ、汚れた布が外されていく。
結人が何か手伝おうとすると、マレナがこちらを見た。
「結人は少し座って。持ち手を代わった人たちも」
「でも、まだ――」
「ここからは、待っていた人の出番」
結人は周囲を見た。
担架にはもう、必要な人の手が届いていた。
荷物も運ばれている。
盾の男まで革手袋を外し、誰かに手の様子を見せていた。
「……うん」
結人は道端の平らな石へ腰を下ろした。
座った途端、脚まで重くなった。
肩を回そうとしてやめ、まず両手を膝の上へ置く。
掌に残った赤い跡が、じんじんしていた。
アイリスが水を持ってきた。
「ご主人様」
「ありがとう」
杯を受け取ると、水面が小さく揺れた。
腕の疲れが、まだ抜けていなかった。
結人は両手で杯を包み、膝の上で支えた。
リンが隣へ腰を下ろす。
いつもよりゆっくり脚を投げ出し、小さく息を吐いた。
「脚、大丈夫?」
「疲れたの。でも、さっきより痛くなってないの」
「そっか」
「結人は?」
「腕。あと手」
結人が掌を少し見せると、リンは赤くなったところを覗いた。
「いっぱい持ったの」
「うん。こんなに重いとは思わなかった」
アカツキが足元へ来た。
結人の靴へ一度だけ鼻先を触れ、それからリンの傍らに座る。
青白い瞳が、静かに森を見ていた。
結人もそちらを見た。
木々の間は暗く、奥までは見えない。
今は、狼の姿は見えなかった。
『よう運んだの』
時計から、フィリアの声がした。
結人は膝の上の杯へ目を戻した。
水はまだ少し揺れていた。
担架の方から声が聞こえる。
「そこは痛えって」
「だから、動かさないでって言ってるでしょう」
「お前が動いたんだろ」
ハンネスの声が混じった。
結人が顔を上げると、担架の男はもう目を開けていた。
脚を診る女性の手を見て、隣のハンネスへ顔を向けている。
その向こうでは、もう一人の怪我人が水を飲んでいた。
結人は、ようやく自分の杯を口へ運んだ。




