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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第四話 ~森の道は牙の向こうへ続いている~

 狼が跳んだ。

 泥は跳ねなかった。それでも、迫ってくる牙を前に、結人は剣を抜いていた。

 盾の男が腰を落とす。大きな盾の向こうへ、黒い頭が覆いかぶさった。

 爪が縁を越え、男の肩へ届く。

 結人は息を呑んだ。

 けれど、男の身体は揺れなかった。

 爪に裂かれたように見えた服も、そのままだった。黒い胴体が盾と重なり、ありえないところを通り抜けて、道の上へ下りる。

「……当たってない」

 男が言った。

 盾を下ろさず、自分の肩へ目を向ける。

「重さが来なかった。爪も、触れてない」

 狼はすぐそこにいた。

 低く構え、もう一度飛びかかるように後脚を縮めている。

 結人の腕にも力が入った。

『刃を振り回すでない。おぬしの剣は本物じゃぞ』

 フィリアの声がした。

 結人は、止めていた息を吐いた。

 剣先を下げる。隣にいるアイリスとの距離を確かめ、刃を外側へ向け直した。

「身体がないものが混じっているのは確かね」

 マレナが言った。

「ただし、全部が同じとは限らない。火が見えたら、すぐに知らせて」

 狼の後ろでは、角のある巨大な影が首を振っていた。

 木々の隙間にも目がある。どれを見ても、こちらへ向けられていた。

 目を合わせるたびに、道を外れてでも逃げたくなる。

 結人はその都度、地面へ視線を戻した。

 ここまでは歩いてきた。

 少なくとも、自分の足が載っている土はある。

「リン。小屋へ行く道は見える?」

 マレナが尋ねた。

 リンは狼の足元と、裂けた幹の向こうを交互に見た。

「上へ続いてるの。でも、あれが邪魔で、その先は見えにくいの」

「踏めるところを確かめながら行きましょう。私も一緒に見る」

 マレナは道端の長い枝を拾った。

 狼を睨みつけたまま、その足元へ先端を伸ばす。

 枝は黒い脚をすり抜け、地面に当たった。

 土を押すと、先端が少し沈んだ。

「ここは踏める」

 マレナが一歩進んだ。

 狼の頭が振り向く。開いた口が、その腕と重なった。

 彼女の肩が強張ったのが、後ろからでも分かった。

 それでも、足は引かなかった。

「リン、横をお願い」

「うん」

 リンはマレナのすぐ傍らへ進み、爪先で地面を確かめた。

 アカツキが二人の足元を抜ける。黒い狼の腹の下へ鼻先を向け、何もない場所を歩くように、その向こうへ出た。

 白銀の毛並みが見えたとき、結人は少しだけ息をつけた。

「ご主人様」

 アイリスの声が、すぐ横で聞こえた。

「袖を、掴んでいてもいいですか」

「うん。離れないようにしよう」

 左の袖が引かれた。

 細い指だったが、掴む力は思ったより強かった。

 結人は剣を低く構えたまま、前へ足を出した。

 狼の肩が目の前にある。

 毛並みも、皮膚の下で動く筋肉も見える。これに身体をぶつければ、押し倒されるはずだと思った。

 足が止まる。

「結人」

 リンが呼んだ。

「ここなの」

 赤い耳の下から、手が伸びていた。

 狼の身体に隠れかけた指先が、結人の少し前の地面を示している。

 結人はそこへ、ゆっくり足を置いた。

 硬い土の感触があった。

 何かに押し返されることも、毛が擦れることもなかった。

 黒い身体の向こうへ出ると、リンがこちらを見ていた。

「……分かってても、怖いな」

「リンも怖いの」

 返事はすぐだった。

 リンは道の先へ顔を戻す。

「だから、足元も見るの」

 後ろでアイリスが息を吐いた。

 袖を掴む手は、まだ離れなかった。

 盾の男も続き、最後尾の槍の男が、背後を確かめながら進んでくる。

 誰も走らなかった。

 唸り声が近づくたびに足を止め、次に踏む場所を確かめてから動いた。

 分かれ道を過ぎ、上り道へ入る。

 枝を切り払った跡が、少し先まで続いていた。道の端には、人の手で脇へ寄せた石も並んでいる。

 見え隠れするそれらを辿りながら、リンは進む方向を選んでいた。

 その耳が、不意に伏せられた。

「待って」

 リンが足を止める。

 アカツキも立ち止まり、前方を見た。

「そっちは熱いの」

 結人は顔を上げた。

 道の右側に、大きな狼が立っていた。

 さっきのものと、ほとんど同じ姿だった。こちらを睨み、喉を鳴らし、口を開いている。

 その口の奥が、青白く光った。

 次の瞬間、頬へ熱が触れた。

「左へ寄って!」

 マレナの声が飛ぶ。

 盾の男が前へ出た。その脇を、青白い火が走った。

 結人は左を見た。

 そこにも狼がいた。

 牙を剥いた頭が、ちょうどアイリスの逃げる先にある。

 袖を掴む手が止まった。

「アイリス、こっち」

 結人は剣を身体から離し、左腕を差し出した。

 狼の口の向こうで、リンの足が地面を踏んでいる。

 結人もそこへ足を移した。

 アイリスの手が、袖から腕へ移る。結人はその重みを受けながら、もう一歩だけ横へ寄った。

 黒い牙が目の前を横切った。

 何も触れなかった。

 すぐ右で、火が石に当たって弾けた。

 熱風が髪を揺らす。散った火の粉が道端の草を焦がし、焦げ臭い空気が広がった。

「そのまま、少し先へ!」

 マレナに続き、結人たちは道の上を進んだ。

 青い光が背後へ遠ざかるまで、結人はアイリスの手を離さなかった。

 少し開けたところで止まり、全員がいることを確かめる。

 盾の男が、盾の縁を見ていた。

 木の端が黒く焦げ、細い煙が上がっている。

「腕は?」

 マレナが尋ねた。

「平気だ。端だけ持っていかれた」

 男は盾の裏へ手を回し、革の留め具を確かめた。

 結人は、まだ背中に残っている熱を感じていた。

 爪は届かなかった。

 でも、火は木を焼いた。

 同じ狼の姿をしていても、身体がないからと近づいていいわけではなかった。

「……アイリス、大丈夫?」

「はい」

 返事の後で、彼女はもう一度息を吸った。

「足は、ちゃんとついています」

「うん。俺も」

 アイリスが結人の腕を見て、少しだけ指の力を緩めた。

「すみません。強く掴んでしまって」

「いいよ。いた方が分かりやすい」

 アイリスは顔を上げた。

 結人は先へ続く道を見た。

 さっきまで、狼の身体に隠れていた場所にも、人が歩ける道はあった。

 ただ、その全部が安全なわけではない。

「進めそう?」

 マレナがリンへ尋ねる。

 リンは風へ鼻先を向けた。

 それから、足元と、左右の斜面を確かめる。

「うん。ここから、また少し上るの」

「分かった。今の間隔で行きましょう」

 結人は頷いた。

 袖がもう一度、軽く引かれた。

 今度は、その感触を確かめてから歩き出した。


 ◇


 次の曲がり角には、丸太が崩れていた。

 積んであったものが斜面に沿って転がり、道を斜めに塞いでいる。何本かは木の幹に引っかかって止まり、その下へ細い枝や木片が挟まっていた。

「ここですね」

 アイリスが紙を取り出した。

「戻る途中で、丸太が崩れた場所」

 結人は近くの一本を見た。

 樹皮に、乾いた赤黒い染みがついていた。

 道の土にも、大きく抉れた跡がある。

 さっき聞いた話が、急に近くなった。

 あの群れを前にして、振り向かずに走っていたら、自分たちもここへ飛び込んでいたかもしれない。

 マレナが丸太の並びを確かめた。

「歩いて越えるだけなら通れる。でも、帰りはこのままじゃ難しいわね」

 結人は袋の中にある担架を思い出した。

 人を寝かせれば、今より長くて重いものになる。

 足を高く上げて丸太を跨ぐことも、身体を横向きにして隙間を抜けることもできない。

「少し、空けておきませんか」

 結人が言うと、槍の男が上の丸太へ目を向けた。

「先にあっちを止めよう。下だけ動かすと、また落ちてくる」

「縄、出します」

 結人は剣を納め、袋から縄を取り出した。

 リンが道の脇へ回る。

「この木、使えるの。根っこも、ちゃんと土を掴んでるの」

 幹の根元を確かめ、縄を回す場所を示した。

 マレナと槍の男が、ずれかけた丸太を押さえる。結人は言われた場所へ縄を通し、リンがそれを木の根元で留めた。

 盾の男は作業へ加わらず、道と森の奥を見張っていた。

 木々の間には、まだ黒い影が見える。

 ときどき唸り声もした。

 けれど、今ここにある丸太は、肩で押しても簡単には動かなかった。

「せーの」

 槍の男の声に合わせ、結人も力を込める。

 樹皮が掌へ食い込んだ。

 丸太がわずかに転がり、その向こうで土が崩れる。

「もう少し」

 マレナが足元を見ながら指示した。

 もう一度押すと、丸太の端が道を外れ、太い根に当たって止まった。

 結人は肩を離し、息を吐いた。

「……今度は、ちゃんと重い」

 槍の男が鼻で笑った。

「軽い方が助かるんだがな」

「それは、ほんとに」

 笑ったつもりだったが、息の方が先に出た。

 リンが縄の張りを確かめる。

 マレナは動かした丸太を押し、戻ってこないことを確かめてから、道の幅を見た。

「これなら担架も通せる。足元に残った枝も寄せておきましょう」

 アイリスが小さな枝を拾い、道の外へ運ぶ。

 結人も木片を拾った。

 尖ったものが一つ減るだけで、足を置ける場所が増えた。

 作業を終えたリンは、立ち上がる前に一度だけ右脚を伸ばした。

 結人は先へ出ず、その隣で荷物を背負い直した。

「行けるの」

 リンが言った。

「うん」

 結人はそれだけ答えた。

 アイリスが紙へ印をつけ、袋へ戻す。

「ここは、戻るときもゆっくり通りましょう」

「そうね。担いでいる人に、先に足元を教えて」

 マレナが頷いた。

 小屋へ向かうために空けた道を、結人は一度振り返った。

 帰りには、ここを人を乗せた担架が通る。

 そこまで考えてから、前へ向き直った。


 ◇


 最初に見えたのは、木々の間に覗く低い屋根だった。

 その手前だけ木が伐られ、切り株の残る空き地になっている。脇には薪が積まれ、立てかけた道具が何本か倒れていた。

「あった」

 結人が呟いた。

 小屋は思っていたより近くにあった。

 それなのに、目に入るまで、こんなにも遠く感じた。

 表の戸は閉まっていた。

 その片側の柱が黒く焼け、軒の下まで煤がついている。

 空き地には狼の影がいた。小屋の前を横切り、壁際で首を巡らせ、また木々の方へ戻っていく。

 地面に、足跡は増えなかった。

「火が出たのは表の入口です」

 アイリスが低い声で言った。

「使っているのは、反対側の戸だと」

「ええ。そちらへ回りましょう」

 マレナが頷いた。

 リンは小屋を見ていた。

「人、いるの」

 その言葉の後で、結人にも音が聞こえた。

 板を踏む音。

 短い咳。

 狼の唸り声とは別に、壁の向こうで誰かが動いていた。

 建物に沿って横へ回ると、踏み固められた細い通路が続いていた。

 その先に、もう一つ戸がある。

 脇の窓の下からは斜面が落ち込み、木々の奥へ沢が続いているらしかった。

 結人は一瞬だけ、その下を見た。

 あの男は、ここから下りたのだ。

 小屋を離れる怖さも、残していく怖さも抱えたまま。

「組合のマレナよ」

 マレナが戸へ声をかけた。

「助けに来たわ。中にいる人、返事をして」

 すぐには声が返らなかった。

 内側で何かが擦れる音がした。

 それから、板の隙間に目が見えた。

「……後ろ」

 掠れた声だった。

「後ろにいるぞ!」

 結人が振り向く。

 通路の向こうに、黒い狼が立っていた。

 盾の男がそちらへ向き直り、前へ出る。

「こっちは見ている」

 男が短く答えた。

 小屋の中から、また声がした。

「そこに来るな! 喰われる!」

 声の主は、こちらへ来るなと言いながら、戸を内側から押しているようだった。

 開けたいのか、閉じていたいのか、自分でも決められないのかもしれない。

 結人は戸へ向き直った。

「昨夜、裏の窓から出た人が、街まで着きました」

 中の音が止まった。

「……あいつが?」

「組合で手当てを受けて、今は休んでます。小屋のことも、道のことも聞きました」

 結人は、男が最後に言った言葉を思い出した。

「助けを呼べたって、皆に伝えてくれって言われてます」

 しばらく、返事がなかった。

 外では狼が唸っていた。

 木々の向こうでも、何かが鳴いている。

 その間に、戸のすぐ内側から、小さな声が聞こえた。

「……呼べたのか」

 板の向こうで、人が動いた。

「おい、こっちを持ってくれ」

 別の誰かが答えた。

 太い木を引きずる音がする。つっかえにしていたものを、外しているらしかった。

「開けるぞ」

 戸が少しずつ動いた。

 隙間から現れた男は、頬にも髪にも木屑をつけていた。

 結人を見る。

 マレナを見て、アイリスとリンへ目を向け、それからもう一度、結人を見た。

 手が伸びてきた。

 結人はその手を取った。

 指の付け根が硬かった。

 握り返される力が強くて、少し痛いほどだった。

「……本当に、来たんだな」

「うん」

 結人は頷いた。

「迎えに来た」

 男は何度も頷いた。

 言葉が出ないまま、握った手を一度強く引き、それからようやく離した。

「中を見せて」

 マレナが声をかける。

「六人、全員いる?」

「ああ。いる。一人も欠けてない」

 結人は小屋へ足を踏み入れた。

 中は薄暗かった。

 水桶と道具が壁際へ寄せられ、床には布や上着が広げられている。

 戸を開けた男のほかに、立っている人が三人いた。

 奥には、脚を伸ばしたままの人が二人いる。

 一人は靴を脱がされ、足首に布が巻かれていた。もう一人は、板を添えた脚を動かさないように横たわっている。

 六人。

 結人は、そこでようやく肩の力を少し抜いた。

 アイリスが二人の傍らへ膝をつく。

「川のところに、手当てのできる方が待っています。担架も持ってきました」

「……下りるのか」

 足首に布を巻いた男が聞いた。

 その目が、開いている戸へ向く。

 外から、低い唸り声が聞こえてきた。

「あいつら、まだいるんだろ」

「まだ見えます」

 マレナが答えた。

「火もある。だから、急いで飛び出さないで」

 男の顔が強張る。

 結人は袋を下ろした。

「でも、通って来た道は分かる」

 袋から担架を取り出し、床の空いているところへ置く。

「丸太のところも、少し空けてきた。歩けない分は、こっちで運ぶから」

 横たわっていた男が、畳まれた担架を見た。

 それから結人を見上げる。

「……頼めるのか」

「そのために持ってきたんだし」

 結人は布を留めていた紐を解いた。

 外から、もう一組の担架が差し入れられる。戸口では二人の組合員が周囲を見張り、リンが、通路の幅と外へ出る順番をマレナと確かめていた。

 小屋の中で、人が動き始めた。

 立てかけた道具が脇へ寄せられ、水桶が持ち上げられる。誰かが、怪我人の靴を拾って荷物へまとめた。

 結人の手には、まだ握られたところの痛みが残っていた。

 担架の布を広げると、戸を開けた男が、すぐに反対側の端を掴んだ。


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