第四話 ~森の道は牙の向こうへ続いている~
狼が跳んだ。
泥は跳ねなかった。それでも、迫ってくる牙を前に、結人は剣を抜いていた。
盾の男が腰を落とす。大きな盾の向こうへ、黒い頭が覆いかぶさった。
爪が縁を越え、男の肩へ届く。
結人は息を呑んだ。
けれど、男の身体は揺れなかった。
爪に裂かれたように見えた服も、そのままだった。黒い胴体が盾と重なり、ありえないところを通り抜けて、道の上へ下りる。
「……当たってない」
男が言った。
盾を下ろさず、自分の肩へ目を向ける。
「重さが来なかった。爪も、触れてない」
狼はすぐそこにいた。
低く構え、もう一度飛びかかるように後脚を縮めている。
結人の腕にも力が入った。
『刃を振り回すでない。おぬしの剣は本物じゃぞ』
フィリアの声がした。
結人は、止めていた息を吐いた。
剣先を下げる。隣にいるアイリスとの距離を確かめ、刃を外側へ向け直した。
「身体がないものが混じっているのは確かね」
マレナが言った。
「ただし、全部が同じとは限らない。火が見えたら、すぐに知らせて」
狼の後ろでは、角のある巨大な影が首を振っていた。
木々の隙間にも目がある。どれを見ても、こちらへ向けられていた。
目を合わせるたびに、道を外れてでも逃げたくなる。
結人はその都度、地面へ視線を戻した。
ここまでは歩いてきた。
少なくとも、自分の足が載っている土はある。
「リン。小屋へ行く道は見える?」
マレナが尋ねた。
リンは狼の足元と、裂けた幹の向こうを交互に見た。
「上へ続いてるの。でも、あれが邪魔で、その先は見えにくいの」
「踏めるところを確かめながら行きましょう。私も一緒に見る」
マレナは道端の長い枝を拾った。
狼を睨みつけたまま、その足元へ先端を伸ばす。
枝は黒い脚をすり抜け、地面に当たった。
土を押すと、先端が少し沈んだ。
「ここは踏める」
マレナが一歩進んだ。
狼の頭が振り向く。開いた口が、その腕と重なった。
彼女の肩が強張ったのが、後ろからでも分かった。
それでも、足は引かなかった。
「リン、横をお願い」
「うん」
リンはマレナのすぐ傍らへ進み、爪先で地面を確かめた。
アカツキが二人の足元を抜ける。黒い狼の腹の下へ鼻先を向け、何もない場所を歩くように、その向こうへ出た。
白銀の毛並みが見えたとき、結人は少しだけ息をつけた。
「ご主人様」
アイリスの声が、すぐ横で聞こえた。
「袖を、掴んでいてもいいですか」
「うん。離れないようにしよう」
左の袖が引かれた。
細い指だったが、掴む力は思ったより強かった。
結人は剣を低く構えたまま、前へ足を出した。
狼の肩が目の前にある。
毛並みも、皮膚の下で動く筋肉も見える。これに身体をぶつければ、押し倒されるはずだと思った。
足が止まる。
「結人」
リンが呼んだ。
「ここなの」
赤い耳の下から、手が伸びていた。
狼の身体に隠れかけた指先が、結人の少し前の地面を示している。
結人はそこへ、ゆっくり足を置いた。
硬い土の感触があった。
何かに押し返されることも、毛が擦れることもなかった。
黒い身体の向こうへ出ると、リンがこちらを見ていた。
「……分かってても、怖いな」
「リンも怖いの」
返事はすぐだった。
リンは道の先へ顔を戻す。
「だから、足元も見るの」
後ろでアイリスが息を吐いた。
袖を掴む手は、まだ離れなかった。
盾の男も続き、最後尾の槍の男が、背後を確かめながら進んでくる。
誰も走らなかった。
唸り声が近づくたびに足を止め、次に踏む場所を確かめてから動いた。
分かれ道を過ぎ、上り道へ入る。
枝を切り払った跡が、少し先まで続いていた。道の端には、人の手で脇へ寄せた石も並んでいる。
見え隠れするそれらを辿りながら、リンは進む方向を選んでいた。
その耳が、不意に伏せられた。
「待って」
リンが足を止める。
アカツキも立ち止まり、前方を見た。
「そっちは熱いの」
結人は顔を上げた。
道の右側に、大きな狼が立っていた。
さっきのものと、ほとんど同じ姿だった。こちらを睨み、喉を鳴らし、口を開いている。
その口の奥が、青白く光った。
次の瞬間、頬へ熱が触れた。
「左へ寄って!」
マレナの声が飛ぶ。
盾の男が前へ出た。その脇を、青白い火が走った。
結人は左を見た。
そこにも狼がいた。
牙を剥いた頭が、ちょうどアイリスの逃げる先にある。
袖を掴む手が止まった。
「アイリス、こっち」
結人は剣を身体から離し、左腕を差し出した。
狼の口の向こうで、リンの足が地面を踏んでいる。
結人もそこへ足を移した。
アイリスの手が、袖から腕へ移る。結人はその重みを受けながら、もう一歩だけ横へ寄った。
黒い牙が目の前を横切った。
何も触れなかった。
すぐ右で、火が石に当たって弾けた。
熱風が髪を揺らす。散った火の粉が道端の草を焦がし、焦げ臭い空気が広がった。
「そのまま、少し先へ!」
マレナに続き、結人たちは道の上を進んだ。
青い光が背後へ遠ざかるまで、結人はアイリスの手を離さなかった。
少し開けたところで止まり、全員がいることを確かめる。
盾の男が、盾の縁を見ていた。
木の端が黒く焦げ、細い煙が上がっている。
「腕は?」
マレナが尋ねた。
「平気だ。端だけ持っていかれた」
男は盾の裏へ手を回し、革の留め具を確かめた。
結人は、まだ背中に残っている熱を感じていた。
爪は届かなかった。
でも、火は木を焼いた。
同じ狼の姿をしていても、身体がないからと近づいていいわけではなかった。
「……アイリス、大丈夫?」
「はい」
返事の後で、彼女はもう一度息を吸った。
「足は、ちゃんとついています」
「うん。俺も」
アイリスが結人の腕を見て、少しだけ指の力を緩めた。
「すみません。強く掴んでしまって」
「いいよ。いた方が分かりやすい」
アイリスは顔を上げた。
結人は先へ続く道を見た。
さっきまで、狼の身体に隠れていた場所にも、人が歩ける道はあった。
ただ、その全部が安全なわけではない。
「進めそう?」
マレナがリンへ尋ねる。
リンは風へ鼻先を向けた。
それから、足元と、左右の斜面を確かめる。
「うん。ここから、また少し上るの」
「分かった。今の間隔で行きましょう」
結人は頷いた。
袖がもう一度、軽く引かれた。
今度は、その感触を確かめてから歩き出した。
◇
次の曲がり角には、丸太が崩れていた。
積んであったものが斜面に沿って転がり、道を斜めに塞いでいる。何本かは木の幹に引っかかって止まり、その下へ細い枝や木片が挟まっていた。
「ここですね」
アイリスが紙を取り出した。
「戻る途中で、丸太が崩れた場所」
結人は近くの一本を見た。
樹皮に、乾いた赤黒い染みがついていた。
道の土にも、大きく抉れた跡がある。
さっき聞いた話が、急に近くなった。
あの群れを前にして、振り向かずに走っていたら、自分たちもここへ飛び込んでいたかもしれない。
マレナが丸太の並びを確かめた。
「歩いて越えるだけなら通れる。でも、帰りはこのままじゃ難しいわね」
結人は袋の中にある担架を思い出した。
人を寝かせれば、今より長くて重いものになる。
足を高く上げて丸太を跨ぐことも、身体を横向きにして隙間を抜けることもできない。
「少し、空けておきませんか」
結人が言うと、槍の男が上の丸太へ目を向けた。
「先にあっちを止めよう。下だけ動かすと、また落ちてくる」
「縄、出します」
結人は剣を納め、袋から縄を取り出した。
リンが道の脇へ回る。
「この木、使えるの。根っこも、ちゃんと土を掴んでるの」
幹の根元を確かめ、縄を回す場所を示した。
マレナと槍の男が、ずれかけた丸太を押さえる。結人は言われた場所へ縄を通し、リンがそれを木の根元で留めた。
盾の男は作業へ加わらず、道と森の奥を見張っていた。
木々の間には、まだ黒い影が見える。
ときどき唸り声もした。
けれど、今ここにある丸太は、肩で押しても簡単には動かなかった。
「せーの」
槍の男の声に合わせ、結人も力を込める。
樹皮が掌へ食い込んだ。
丸太がわずかに転がり、その向こうで土が崩れる。
「もう少し」
マレナが足元を見ながら指示した。
もう一度押すと、丸太の端が道を外れ、太い根に当たって止まった。
結人は肩を離し、息を吐いた。
「……今度は、ちゃんと重い」
槍の男が鼻で笑った。
「軽い方が助かるんだがな」
「それは、ほんとに」
笑ったつもりだったが、息の方が先に出た。
リンが縄の張りを確かめる。
マレナは動かした丸太を押し、戻ってこないことを確かめてから、道の幅を見た。
「これなら担架も通せる。足元に残った枝も寄せておきましょう」
アイリスが小さな枝を拾い、道の外へ運ぶ。
結人も木片を拾った。
尖ったものが一つ減るだけで、足を置ける場所が増えた。
作業を終えたリンは、立ち上がる前に一度だけ右脚を伸ばした。
結人は先へ出ず、その隣で荷物を背負い直した。
「行けるの」
リンが言った。
「うん」
結人はそれだけ答えた。
アイリスが紙へ印をつけ、袋へ戻す。
「ここは、戻るときもゆっくり通りましょう」
「そうね。担いでいる人に、先に足元を教えて」
マレナが頷いた。
小屋へ向かうために空けた道を、結人は一度振り返った。
帰りには、ここを人を乗せた担架が通る。
そこまで考えてから、前へ向き直った。
◇
最初に見えたのは、木々の間に覗く低い屋根だった。
その手前だけ木が伐られ、切り株の残る空き地になっている。脇には薪が積まれ、立てかけた道具が何本か倒れていた。
「あった」
結人が呟いた。
小屋は思っていたより近くにあった。
それなのに、目に入るまで、こんなにも遠く感じた。
表の戸は閉まっていた。
その片側の柱が黒く焼け、軒の下まで煤がついている。
空き地には狼の影がいた。小屋の前を横切り、壁際で首を巡らせ、また木々の方へ戻っていく。
地面に、足跡は増えなかった。
「火が出たのは表の入口です」
アイリスが低い声で言った。
「使っているのは、反対側の戸だと」
「ええ。そちらへ回りましょう」
マレナが頷いた。
リンは小屋を見ていた。
「人、いるの」
その言葉の後で、結人にも音が聞こえた。
板を踏む音。
短い咳。
狼の唸り声とは別に、壁の向こうで誰かが動いていた。
建物に沿って横へ回ると、踏み固められた細い通路が続いていた。
その先に、もう一つ戸がある。
脇の窓の下からは斜面が落ち込み、木々の奥へ沢が続いているらしかった。
結人は一瞬だけ、その下を見た。
あの男は、ここから下りたのだ。
小屋を離れる怖さも、残していく怖さも抱えたまま。
「組合のマレナよ」
マレナが戸へ声をかけた。
「助けに来たわ。中にいる人、返事をして」
すぐには声が返らなかった。
内側で何かが擦れる音がした。
それから、板の隙間に目が見えた。
「……後ろ」
掠れた声だった。
「後ろにいるぞ!」
結人が振り向く。
通路の向こうに、黒い狼が立っていた。
盾の男がそちらへ向き直り、前へ出る。
「こっちは見ている」
男が短く答えた。
小屋の中から、また声がした。
「そこに来るな! 喰われる!」
声の主は、こちらへ来るなと言いながら、戸を内側から押しているようだった。
開けたいのか、閉じていたいのか、自分でも決められないのかもしれない。
結人は戸へ向き直った。
「昨夜、裏の窓から出た人が、街まで着きました」
中の音が止まった。
「……あいつが?」
「組合で手当てを受けて、今は休んでます。小屋のことも、道のことも聞きました」
結人は、男が最後に言った言葉を思い出した。
「助けを呼べたって、皆に伝えてくれって言われてます」
しばらく、返事がなかった。
外では狼が唸っていた。
木々の向こうでも、何かが鳴いている。
その間に、戸のすぐ内側から、小さな声が聞こえた。
「……呼べたのか」
板の向こうで、人が動いた。
「おい、こっちを持ってくれ」
別の誰かが答えた。
太い木を引きずる音がする。つっかえにしていたものを、外しているらしかった。
「開けるぞ」
戸が少しずつ動いた。
隙間から現れた男は、頬にも髪にも木屑をつけていた。
結人を見る。
マレナを見て、アイリスとリンへ目を向け、それからもう一度、結人を見た。
手が伸びてきた。
結人はその手を取った。
指の付け根が硬かった。
握り返される力が強くて、少し痛いほどだった。
「……本当に、来たんだな」
「うん」
結人は頷いた。
「迎えに来た」
男は何度も頷いた。
言葉が出ないまま、握った手を一度強く引き、それからようやく離した。
「中を見せて」
マレナが声をかける。
「六人、全員いる?」
「ああ。いる。一人も欠けてない」
結人は小屋へ足を踏み入れた。
中は薄暗かった。
水桶と道具が壁際へ寄せられ、床には布や上着が広げられている。
戸を開けた男のほかに、立っている人が三人いた。
奥には、脚を伸ばしたままの人が二人いる。
一人は靴を脱がされ、足首に布が巻かれていた。もう一人は、板を添えた脚を動かさないように横たわっている。
六人。
結人は、そこでようやく肩の力を少し抜いた。
アイリスが二人の傍らへ膝をつく。
「川のところに、手当てのできる方が待っています。担架も持ってきました」
「……下りるのか」
足首に布を巻いた男が聞いた。
その目が、開いている戸へ向く。
外から、低い唸り声が聞こえてきた。
「あいつら、まだいるんだろ」
「まだ見えます」
マレナが答えた。
「火もある。だから、急いで飛び出さないで」
男の顔が強張る。
結人は袋を下ろした。
「でも、通って来た道は分かる」
袋から担架を取り出し、床の空いているところへ置く。
「丸太のところも、少し空けてきた。歩けない分は、こっちで運ぶから」
横たわっていた男が、畳まれた担架を見た。
それから結人を見上げる。
「……頼めるのか」
「そのために持ってきたんだし」
結人は布を留めていた紐を解いた。
外から、もう一組の担架が差し入れられる。戸口では二人の組合員が周囲を見張り、リンが、通路の幅と外へ出る順番をマレナと確かめていた。
小屋の中で、人が動き始めた。
立てかけた道具が脇へ寄せられ、水桶が持ち上げられる。誰かが、怪我人の靴を拾って荷物へまとめた。
結人の手には、まだ握られたところの痛みが残っていた。
担架の布を広げると、戸を開けた男が、すぐに反対側の端を掴んだ。




