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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第三話 ~魔物の群れは足跡を残さない~

 男の持つ杯の中で、水が小さく揺れていた。

 こぼさないように両手で包み、その手を膝へ押しつけている。それでも、水面はなかなか静まらなかった。

 組合の奥にある部屋には、薬草を煮たような苦い匂いが残っていた。寝台に腰を下ろした男の片手には包帯が巻かれ、泥の乾いたズボンには、あちこち枝に引っかけたらしい裂け目がある。

「長くは話させないで」

 手当てをしていた女性が、マレナに声をかけた。

「分かってる。つらくなったら、そこでやめましょう」

 マレナは男の傍らに腰を下ろし、山の地図を広げた。結人たちは入口に近い側へ寄り、アイリスが紙と筆記具を取り出す。

「小屋に残っている人たちのことは聞いたわ。今度は、あなたがどうやって下りてきたのか教えてほしい」

「……道は使ってない」

 男が答えた。

「裏の窓から出た。下に細い沢があるんだ。そこまで行けば、川へ出られると思って」

「ここ?」

 マレナが地図を指す。

 男はしばらく線を目で追ってから、指を少し横へ動かした。

「もっとこっちだ。地図には載ってない。雨の後に水が増えるような、小さいやつで……」

 リンが地図へ顔を寄せた。

「ずっと沢を歩いたの?」

「歩けたところはな。途中で急になって、何度も尻で滑った。藪に掴まって下りたところもある」

 男は裂けた袖を見下ろした。

「一人なら、何とかなった。でも、あいつらを抱えては無理だ。怪我してる二人は、自分じゃ踏ん張れない」

「分かった。運ぶ道は別に探す」

 マレナが地図の端へ小さな印をつけた。

「川へ出るまで、魔物は?」

「いた」

 返事だけが、急にはっきりした。

「上にも、横にも。木の向こうで目が光ってた。後ろで枝が鳴って……振り返ったら、そこにもいた」

 杯の水が、また揺れた。

「川へ出たら、見えなくなった。追ってこなかったのか、俺が見失ったのかは分からない」

「そう。そこは、分からないままでいい」

 マレナは急かさずに頷いた。

「みんなで小屋を出ようとしたときは、どこで出会ったの?」

「道が二つに分かれるところだ。幹の裂けた木が一本ある」

 男の指が、地図の上で止まった。

「下りていったら、前に狼がいた。普通の大きさじゃない。後ろにも、角のあるやつが……道よりも、角の方が広かった」

「何頭くらい?」

「分からん」

 男は唇を噛んだ。

「一頭見つけて、その後ろを見たら、またいた。横を向いたら、そっちにも。逃げる場所を探すたびに増えたんだ」

 結人は男の目を見た。

 数を思い出そうとしているというより、もう一度あの場所を見てしまっているような目だった。

「怪我をした方たちも、その場所で?」

 アイリスが静かに尋ねる。

 男は首を振った。

「少し戻ったところだ。丸太を積んである曲がり角がある。そこで一人が足をひねって、助けようとしてる間に、丸太が崩れた」

「魔物が崩したの?」

 マレナが聞いた。

「……分からない」

 今度の返事は小さかった。

「後ろで音がした。振り返ったら、もう転がってた。誰かがぶつかったのかもしれない。でも、すぐそばまで来てたんだ。あいつらが」

 マレナはそれも書き留めた。

 アイリスの紙には、道の分かれ目と、その先の曲がり角が描き足されていく。

「その手は?」

 マレナの視線が包帯へ移る。

「小屋へ戻ってからだ。入口の横に、青白い火がついた。消そうとして……」

 男は手を動かしかけ、途中でやめた。

「濡らした布をかぶせたんだ。そうしたら、布まで熱くなって」

「火には近づかないよう、みんなに伝えた?」

「ああ。今は反対側の戸を使ってる。表の方には、誰も近づいてない」

 結人はアイリスの紙を覗いた。

 入口の印が二つ描かれ、その片方に小さな線が引かれた。

 ただ小屋まで辿り着けばいいわけでもないらしい。

「もう、それくらいに」

 手当てをしていた女性が、男の背へ手を添えた。

 マレナが地図を畳む。

「ありがとう。道のことも、火のことも、先に聞けてよかった」

 男は頷かなかった。

 結人たちが部屋を出ようとしたとき、俯いたまま口を開いた。

「あいつらに」

 結人が足を止める。

「俺が、ここまで来たって……」

 男は一度息を吸った。

「助けを呼べたって、伝えてくれ。そう言って出てきたんだ」

「分かりました」

 結人は答えた。

「ちゃんと伝えます」

 男はようやく顔を上げた。

 何か言おうとして、結局、深く一度だけ頷いた。


 ◇


 宿へ戻ると、結人は荷物を床へ並べた。

 街へ着いたときには、ここへ置いて身軽になれるのが嬉しかった。今は、どれを持っていけば山で困らずに済むか、一つずつ確かめている。

 水と食料。灯りと火種。縄。乾いた布。

 着替えの一部は棚へ戻し、毛布は持っていくことにした。

「薬と包帯は、組合の方でも用意してくださるそうです」

 アイリスが、聞き取りの紙を折り畳む。

「わたくしたちの分も持っていきますね」

「うん。向こうで足りなくなるよりいい」

 結人は袋を持ち上げ、肩へ掛けてみた。

 少し重い。

 歩くだけなら平気だと思う。ただ、帰りは人を運ぶかもしれない。

 いったん下ろし、まだ残っていた余分な道具を取り出した。

 机の上では、蓋を開いた懐中時計からフィリアが姿を現していた。

『出かける前に肩を痛めるでないぞ』

「分かってる。今、減らしてるところ」

『袋に入るだけ入れようとするからじゃ』

「入ると、持てる気がしちゃうんだよな」

「重さは変わらないの」

 リンが横から言った。

「うん。それは今、肩が教えてくれた」

 リンは小さく笑い、床へ腰を下ろした。右脚をゆっくり曲げ伸ばししてから、靴紐を締め直す。

 立ち上がる動作に、昨日までのようなぎこちなさはほとんどなかった。それでも、すぐに駆け出せる脚だと思わないように、結人はその様子を覚えておいた。

 アカツキが扉へ耳を向ける。

 廊下の足音が遠ざかってから、白銀の狼は結人の靴へ鼻先を寄せた。軽く、一度押す。

「何かあれば、こうして知らせる」

「分かった」

「人の前では、呼んでも返事はできぬからな」

「うん。こっちからも見るようにする」

 アカツキは頷いた。

 結人は縄をまとめ、リンに教わった結び方で端を留めた。

「これでいい?」

 リンが結び目を覗く。

「うん。ほどいてみるの」

 端を引くと、結び目はするりと緩んだ。

「よし」

「じゃあ、もう一回結ぶの」

「確認したんだから、それくらいはやるよ」

 結び直す指を見ていたフィリアが、ふっと笑った。

 アイリスは持ち物を確かめ終えると、紙を入れた袋の口を閉じた。

「ご主人様」

「ん?」

「先ほどの方のお話、すぐ見られるようにしておきます。道の目印も、入口の場所も」

「助かる。聞いたつもりで抜けてたら困るし」

「はい」

 結人はもう一度荷物を持ち上げた。

 今度は、背負ったまま無理なく屈めた。

 時計の蓋を閉じ、いつもの場所へしまう。

「じゃあ、行こうか」

 リンが頷いた。

 今度は、誰も先に扉へ走らなかった。


 ◇


 組合の前には、荷馬車が一台用意されていた。

 荷台には水や食料、毛布が積まれ、畳んだ担架が二組並べてある。手当てをしていた女性が箱の中を確かめ、その横で御者が荷を縄で固定していた。

 武装した組合員たちも集まっている。大きな盾を持つ男と、槍を携えた男。それから、弓を背負った男が馬の様子を見ていた。

「まず川沿いの積み出し場へ向かうわ」

 マレナが地図を広げた。

「馬車はそこで待機。怪我人を山から下ろせたら、そのまま街へ運べるようにしておく」

 地図の川を越えた先に、細い道が伸びている。

「私たちは小屋へ続く道を確かめる。戻れる道を見ながら進むこと。何か見つけても、一人で追わないで」

 リンはマレナの指先を目で追っていた。

「道が違ったら、言っていいの?」

「もちろん。違うかもしれないと思ったときに言ってほしい」

「分かったの」

 結人たちが乗り込むと、荷馬車はゆっくり動き出した。

 車輪が石畳の継ぎ目を越えるたび、荷台が小さく跳ねる。街の端では今日も木を打つ音がしていたが、家々が後ろへ遠ざかるにつれて、その音も聞こえなくなった。

 道の両側に畑が広がり、やがて木立が増えた。路面には荷車の轍が幾筋も刻まれている。

 川が近づくと、伐り出した木材を置くための広場が見えてきた。

 丸太はある。荷を積む場所もある。

 けれど、働いている人はいなかった。

 御者は広場で馬車を返し、街へ向けて止めた。

 川には木の橋が架かっていた。その向こうで道が山へ入り、木々に隠れている。

 マレナはしばらく橋の先を見てから、弓の男へ声をかけた。

「ここをお願い。異変があったら合図を」

「ああ」

 手当てをする女性も、馬車に残ることになった。毛布と水を使いやすい場所へ移し、怪我人を寝かせる場所を整え始める。

 結人は担架の一組を魔法の袋へ収めた。

 袋の形は変わらない。肩へ掛けると、増えた重さだけははっきり分かった。

「そっちも入るか?」

 槍の男が、もう一組を示す。

「入りますけど、俺が持つのはきついです」

「なら、こっちは俺だ」

 男はそれ以上何も言わず、自分の荷物へ担架を括りつけた。

 マレナと盾の男が前へ出る。その後ろにリン、結人とアイリスが続き、槍の男が最後尾へ回った。

「まず、話に出ていた分かれ道まで」

 マレナが振り返る。

「そこで、もう一度様子を見るわ」

 橋を渡る途中、結人は欄干から下を覗いた。

 水は浅いところでは川底の石が見えるほど澄んでいた。けれど、岸には急な斜面もある。

 暗い中で、あの男はどこを下りてきたのだろう。

 山の方を見上げても、木々に遮られて分からなかった。

 橋の端まで渡ったところで、アカツキが結人の足元を抜けた。

 鼻先を少し上げ、風を確かめてから、リンの横へ並んだ。


 ◇


 森へ入っても、しばらくは人の通る道だった。

 枝は切り払われ、邪魔になる石は脇へ寄せてある。木の幹には、作業の目印らしい縄が巻かれていた。

 結人たちがこれまで歩いてきた森より、ずっと歩きやすい。

 小屋へ水や食料を運ぶ人も、この道を通ったのだろう。

 道は緩やかに上り、木々の間から見えていた川が隠れた。代わりに、沢を流れる細い水音が聞こえてくる。

 マレナが何度か足を止めた。

 周囲を見回し、音を聞き、それから先へ進む。

 盾の男も、見通しの悪い曲がり角では先にその向こうを確かめた。

 今のところ、魔物は見えない。

 鳥の声がしていた。葉の擦れる音もする。

 けれど、前を行くリンの耳は、左右へ向きを変え続けていた。

「何かいる?」

 結人が小声で尋ねる。

「まだ分かんないの」

 リンは前を見たまま答えた。

「木を切った匂いがするの。あと、人の匂い」

「小屋の人たちかな」

「そうかもしれないの。でも、この道は前から人が通ってるの」

 残っている匂いが、今ここにいる誰かのものとは限らない。

 結人は頷き、木々の奥へ目を戻した。

 やがて、道の先に大きな木が現れた。

 太い幹に縦の裂け目が走っている。根元から少し離れたところで道が分かれ、片方は斜面を回り込むように上へ続いていた。

「ここだと思います」

 アイリスが紙を取り出す。

「幹の裂けた木と、分かれ道。小屋へ戻る方には、この先に曲がり角があって、その近くに丸太が」

「ええ。場所は合っている」

 マレナが頷いた。

 リンが一歩進み、急に足を止めた。

「待ってほしいの」

 マレナがすぐに片手を上げる。

 一行が止まった。

 リンは道を見ていた。

「そこ、まだ踏まないでほしいの」

 盾の男が、出しかけた足を引く。

 斜面から染み出した水が道を横切り、土を黒く湿らせていた。窪みには薄く水が溜まり、その周囲にはいくつもの足跡が残っている。

 リンは乾いた縁へしゃがみ込んだ。

 指で地面をなぞりかけ、触れずに止める。

「人が、ここで向きを変えてるの」

「小屋の方へ?」

 マレナが聞く。

「うん。こっちから来て、戻ってる。滑った跡もあるの」

 結人にも、踵のあたりから長く崩れた跡は見えた。

 一つだけではない。足跡が重なり、道の上を行ったり来たりしている。

 男の話していた場所に、逃げた人たちの跡が残っていた。

 リンは顔を上げず、さらに先を見た。

「でも、変なの」

「何が?」

「追いかけた方が分からないの」

 結人はもう一度地面を見た。

 靴の底らしい形。爪先が滑った跡。深く沈んだ踵。

 その間に、獣の足を探す。

「……ない?」

「この辺は、人のばっかりなの」

 リンは道の端を指で押した。柔らかい土が沈み、指の形が残る。

「大きな狼なら、ここを踏んだら跡がつくの」

 すぐ横で、アカツキが一歩動いた。

 小さな足跡が、湿った土にはっきりついた。

 マレナが道の両側へ視線を移す。

「人と同じところを通ったとは限らない。外側は?」

「見たいの」

「私も行く。遠くへは出ないで」

 リンは頷き、マレナと一緒に道の脇へ移った。

 木の根の間。草の寝ているところ。斜面の柔らかい土。

 リンは順に見ていった。アカツキも少し離れた場所へ鼻を近づけ、幹の裏へ回り込む。

 結人たちは道に残った。

 盾の男が森の奥を見張る間、槍の男は背後の曲がり角へ目を向けている。

 アイリスが紙を見直した。

「大きな角のある魔物も、この辺りに見えたのですよね」

「そう聞いた」

 結人は木々の間隔を見た。

 道よりも広い角。

 それほどのものが木の間を動けば、どこかへぶつかりそうに思える。けれど、魔物がどう身体を動かすのか、結人は知らない。

 見ただけで決められることではなかった。

 リンたちが戻ってきた。

「小さい獣の跡はあったの。でも、群れで走った感じはしないの」

 リンは鼻先を風へ向けた。

「上から風が来てるの。木の匂いも、湿った土の匂いも分かる。でも、狼がいっぱい通ったなら、もっと匂いがするはずなの」

「匂いを隠す魔物かもしれない」

 盾の男が言った。

 リンは頷いた。

「そうかもしれないの。だから、いないって言ってるんじゃないの」

 それから、もう一度足元へ目を落とす。

「でも、変なの」

 アカツキがリンを見上げた。

 一度だけ、静かに頷く。

 結人の頭に、以前の森で見た光景が浮かんだ。

 目には映っているのに、そこにはいないもの。

 アカツキとの戦いで、リンは匂いや風を頼りにそれを見分けていた。

 結人は周囲へ目を配ってから、マレナへ声をかけた。

「姿だけ見せられてる、ってことはありますか」

「幻術?」

「全部かどうかは分からないですけど」

 マレナはすぐには答えなかった。

 地面と、周囲の木々を順に見る。

「可能性はある。そう考えると合うところもあるわ」

 そこで、盾の男が低く声をかけた。

「こっちを見てくれ」

 道に面した木の根元が、黒くなっていた。

 マレナが傍らに屈む。

 木の皮はひび割れ、その下の草まで縮れている。拾った枝先でそっと触れると、炭になった欠片が崩れ落ちた。

「焦げた匂いはするの」

 リンが言った。

 結人にも、近づくと分かった。

 湿った土の匂いに混じって、火の消えた後の匂いがした。

 あの男の手には、包帯が巻かれていた。

 小屋には、自分の脚で歩けない人が二人いる。

 見えていたものに身体がなかったとしても、それだけで安全になるわけではない。

「群れの全部が幻なのか、一部だけなのか。それもまだ分からない」

 マレナが立ち上がった。

「姿だけを頼りに動くのは、やめた方がよさそうね」

 アイリスが紙へ書き足す。

「お話にあったことと、ここで分かったことは、分けておきます」

「お願い。どちらも必要だから」

 結人は小屋へ続く道を見た。

 同じように木が並び、同じように土の道が続いている。

 さっきまでと、見た目は何も変わらなかった。

 けれど、その先へ足を出す前に、確かめたいことが増えていた。


 ◇


 最初に動いたのは、アカツキの耳だった。

 続いてリンが顔を上げる。

 結人の靴を、柔らかいものが一度押した。

 視線を下げると、アカツキが道の先を見ていた。

 曲がり角の手前に、黒い影があった。

 木の陰に重なっていて、初めは輪郭が分からない。

 影がゆっくり頭を下げた。

 白い牙が見えた。

「前にいる」

 盾の男が言い、盾を身体の前へ引き寄せた。

 狼だった。

 結人の知っている狼より、ずっと大きい。低く構えた肩が盛り上がり、開いた口の奥が暗く見える。

 その口から唸り声が漏れた。

 足が勝手に一歩下がりかけた。

「離れないで」

 マレナの声に、結人は踏みとどまった。

 アイリスが紙を畳み、袋へ戻す。端が引っかかり、一度だけ手間取った。

 結人は剣の柄へ手をかけながら、彼女が盾の男の後ろへ入ったのを確かめた。

 狼は、こちらを見ていた。

 目が合っている。

 ただの形だと思おうとしても、喉の奥から聞こえる唸り声が、その考えを押し戻してくる。

 あの口なら、腕くらい簡単に噛み折られる。

 狼の後ろで、別の影が動いた。

 さらに横の木の間にも。

「……一頭じゃない」

 結人の声が掠れた。

 道を外れた斜面にも、何かがいた。枝の向こうに角が見え、その下で大きな頭がゆっくり揺れる。

 逃げる場所を探すたびに増えた。

 男の言葉を思い出した。

 今なら、その意味が分かってしまう。

「結人」

 リンが小声で呼んだ。

 彼女も狼を見ていた。耳は前を向いているのに、尾は低い位置で止まっている。

「足元を見るの」

 結人は狼の前脚へ視線を移した。

 太い脚だった。爪があり、濡れたように黒い毛がある。

「足じゃなくて、その下なの」

 狼が一歩進んだ。

 湿った土の上へ、前脚が下りる。

 重い足音が聞こえた。

 けれど、土は沈まなかった。

 もう一歩。

 今度は浅い水溜まりの中へ、はっきりと足が入った。

 水面は揺れなかった。

 結人は息を止めた。

 狼が顔を上げ、牙を剥く。すぐ近くにいると思えるほど、唸り声が大きくなった。

 身体は逃げろと言っていた。

 剣を握る手に、汗が滲んでいた。

 それでも、結人は目を逸らさなかった。

 泥には、逃げ戻った人たちの靴跡がある。今ついたばかりの、アカツキの小さな足跡もある。

 しかし、目の前で歩く群れの足跡だけが、どこにもなかった。


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