第二話 ~旅人たちは帰れない誰かを迎えにいく~
「これ、蜜じゃないんですね」
結人が尋ねると、焼き菓子を包んでいた女が頷いた。
「果物を煮詰めたものよ。甘いだけじゃなくて、少し酸っぱいの」
「こっちの丸いのも同じですか?」
アイリスが別の籠を指す。
「そっちは中にも入れてあるわ。焼きたてだから、食べるときは気をつけてね」
リンの耳が立った。
「中にもあるの」
「そっちにする?」
「うん」
「アイリスは?」
「わたくしも、そちらを食べてみたいです」
結人が注文を伝えると、女は籠から菓子を取り、紙の上へ並べた。
店先には屋根が少し張り出しているだけで、客が立てる場所は狭い。後ろを荷車が通るたび、結人たちは店の側へ身を寄せた。
「ごめんなさいね。新しい店なら、もう少しゆっくり選んでもらえるんだけど」
「店、移るの?」
「この通りの先よ。今より広くして、窓の下に腰掛けも置くつもりなの」
女は通りへ顔を向けた。
「木の枠はもうできてるんだけど、肝心の建物が進まなくてね」
「石が届いてないって、さっき聞きました」
「ああ、知ってるのね。山に魔物が出たらしくて」
結人は顔を上げた。
「魔物?」
「運ぶ人たちも、あんなものがいる場所へは行けないでしょう。街の方まで来たって話はないけど」
女は包みの端を折り、結人へ差し出した。
「早く安心して仕事に戻れるといいんだけどね。はい、お待たせ」
「ありがとうございます」
包みを受け取ると、紙越しにも温かさが伝わってきた。
店を離れてから、結人は通りの向こうを見た。
壁に立てかけられた窓枠にも、使われずに積まれた柱にも、それを待っている人がいるらしかった。
宿へ戻ると、まずフィリアへ菓子を供えた。
味と香りを受け取った小さな神様が、文字盤の上で満足そうに頷く。
『なるほど。これはもう一つ欲しくなるのう』
「気に入った?」
『うむ』
結人も供え終えた菓子を口にした。
表面は軽く歯に触れるが、中はまだ柔らかい。甘さのあとから、果物の酸味が広がった。
「……ほんとだ。もう一個いけそう」
「結人も神様と同じこと言ってるの」
「リンは?」
「もう食べたの」
見ると、リンの手元には紙しか残っていなかった。
アイリスが自分の菓子を見て、それからリンを見る。
「熱くありませんでしたか?」
「ちょっと熱かったの」
「そこは気をつけて」
結人が言うと、リンは空の紙を丁寧に畳んだ。
「次は気をつけるの」
「もう次の話してる」
部屋に笑いが戻った。
窓の外では、日が傾くにつれて木槌の音も少なくなっていった。
◇
翌朝、洗った布を干してから、結人たちは組合へ向かった。
昨日通れなかった道は、まだ板で塞がれている。
作業場では窓枠を運び直している男がいた。出来上がったものを奥へ詰め、その手前に新しい板を載せる場所を作っている。
石を積んでいた敷地の方には、誰もいなかった。
組合の建物へ入ると、何人かの男たちが掲示板の前で話していた。荷運びの仕事を探しているらしい声が聞こえる。
受付にいた男は、書きかけの紙から顔を上げた。
「仕事を探しに来たのか?」
「先に、人探しのことで聞きたいんですけど」
結人が答えると、男はペンを置いた。
「どういう人だ」
「土狼族の人たちを見かけたって話、入っていませんか?」
隣でリンが一歩前へ出た。
「お父さんとお母さんなの。森で一緒に暮らしてた人たちも、探してるの」
男の視線がリンへ移る。
「どの辺りの森だ?」
結人は地図を開いた。
リンと一緒に、辿ってきた道や、群れと離れた辺りのことを説明する。男は途中で幾つか確かめながら、紙へ書き留めていった。
話を聞き終えると、机の脇にまとめてあった記録にも目を通す。
「今すぐ思い当たる報告はないな」
リンの耳が、少しだけ下がった。
「そっか」
「ただ、こっちからも訊いておこう。森を通って来る者はいる。話が出たら、知らせられるかもしれん」
「……知ってる人がいたら、教えてほしいの」
「ああ。泊まっているところは?」
結人が宿を伝えると、男は人探しの紙へ書き足した。
アイリスも、話を聞いてくれた男の名前を控える。
「お願いします」
結人が礼を言ったとき、奥の扉が開いた。
「下の見張りから連絡だ。山へ行っていた連絡役が戻った」
入ってきた組合員の声に、受付の男が顔を向ける。
「小屋の方は?」
「六人残ってる。昨夜までは全員無事だ。二人、歩くのが難しいらしい」
「戻ってきた者は?」
「手当てを受けてる。少し休ませたら話せる」
受付の男は、別の職員へ短く声をかけた。
奥で椅子を引く音がする。掲示板の前にいた男たちも、会話をやめてこちらを見ていた。
「……山にまだ人が残っているんですか?」
結人が尋ねると、受付の男が頷いた。
「作業小屋に六人だ。魔物が道へ出て、下りられなくなっている」
昨日の店先で聞いた話を思い出す。
石を運べないだけではなかった。
「呼び戻せてないんですか?」
「最初の報告が来てから、山へ人を入れる仕事は止めた。すでに上にいる者には、連絡して下りてもらっていたんだが」
男は奥の扉を見た。
「一カ所、間に合わなかった」
◇
詳しい話を聞くため、奥の部屋へ通された。
しばらくして地図を抱えて入ってきたのは、袖をまくった女の組合員だった。
「マレナよ。最初に山で襲われた調査隊にいたの」
女は机の上へ地図を広げた。
川を越えた辺りから、山へ入る道が細く描かれている。その奥には、あとから書き足したらしい社と洞窟の印があった。
「新しく道を通す場所と、石を切り出せる場所を調べていた。古い社の裏に洞窟があって、そこで魔物に襲われたのよ」
「かなりの数がいたって聞きましたけど」
「正確には数えられなかった。洞窟の中だけじゃなくて、外にもいたから」
マレナは、社を囲んだ線の下へ指を移した。
「残っている人たちの小屋はここ。調査していた場所より手前にある。もともと、この辺りで木を切る人が使っていたものよ」
結人は小屋から街までの道を目で辿った。
「小屋までどのくらいかかりますか?」
「普通に歩ければ、半日ほど」
リンが机へ少し身を寄せる。
「帰ろうとすると、魔物が出るの?」
「そう聞いてる。一度は小屋を出たけど、途中で追われて、戻るしかなかったらしいわ。そのときに二人が怪我をした」
「小屋にいればひとまず平気なんですか?」
「少なくとも、連絡役が離れるまでは持ちこたえていた。仕事で泊まり込むための小屋だから、水も食料もある」
それでも、いつまでも置いておけない。
マレナは机の端へ、一枚の紙を置いた。
六人分の名前が並んでいた。
「昨夜、一人だけ連絡のために抜け出せたの。残った六人を連れて帰るには、怪我人を運ぶ者と、その間に周りを見る者が要る」
「討伐の人たちは?」
「依頼は出してる。でも、相手の数も、どこまで出てくるのかも掴めていない」
マレナは首を振った。
「討伐の準備が整うまで、この人たちを待たせるわけにはいかないでしょう」
アイリスが紙へ目を落とした。
「こちらの方々は、皆さん、この街にお住まいなのですか?」
「ええ。家も家族もある」
結人はもう一度地図を見た。
昨日は、家の土台が途中で止まっていることしか知らなかった。
その石や木を運んでいた人たちが、帰ってこられずにいる。
「手伝うとしたら、何ができればいいですか?」
マレナが結人を見た。
「山道を歩けること。自分の荷物を持って動けること。それと、危ないときに指示を聞いて引き返せること」
「魔物を倒せるか、じゃないんですね」
「戦える者も必要よ。でも、今組んでいるのは救出のための隊だから」
マレナは小屋の印に指を置いた。
「まず、この人たちへ届かないと」
廊下から名前を呼ぶ声がした。
マレナは扉へ顔を向け、短く返事をする。
「少し待っていて。戻ってきた連絡役の具合を見てくるわ」
女が出ていき、扉が閉まった。
◇
しばらく、誰も口を開かなかった。
結人は机に残された地図を見ていた。
リンが、街と小屋の間に引かれた線を指で辿る。
「ここ、川なの?」
「そうみたいだね」
「道が分からなくても、川まで出られたら、下りる方は分かるの」
結人はリンの横顔を見た。
「脚、大丈夫そう?」
「歩くのは平気なの」
リンは自分の右脚へ目を落とした。
「ずっと走るのは、まだやめとくの。でも、歩いて道を探すのはできると思うの」
「分かった。無理そうなら、途中でも言ってよ」
「うん」
アカツキが扉へ目を向けてから、低い声で言った。
「周囲の匂いは私も確かめよう。ただ、人を運ぶ道なら、実際の足場を見ておく必要がある」
「一人で通れるのと、怪我した人を連れて通れるのは違うもんな」
結人が返すと、白銀の狼は頷いた。
アイリスが六人の名前を見ていた。
「わたくしは、戦うことはできませんけれど……運ぶ物をまとめたり、怪我をした方のお手伝いならできます」
「助かる。向こうの人にも、できることはちゃんと伝えよう」
結人は皆を見た。
「俺も、大群を全部どうにかできるとは言えない。でも、帰る道を探したり、人を運んだりなら、手を貸せるかもしれない」
『退くと決めたときに、欲を出すでないぞ』
懐からフィリアの声が届く。
『おぬしらまで戻れなくなっては困るからの』
「うん。まず、戻ってきた人の話を聞く。どこが危ないか分からないまま入る気はないよ」
リンが地図から手を離した。
「リンも行くの」
アイリスも頷く。
アカツキは何も言わず、伏せていた身体を起こした。
結人は椅子から立った。
「じゃあ、手伝えるか話してみよう」
扉の向こうで足音が近づく。
アカツキが口を閉ざし、結人は扉へ向き直った。
戻ってきたマレナへ、まず参加したいことを伝える。
結人は、この街までの森をリンが案内してくれたこと、自分も荷物を持って山道を歩けることを話した。リンも脚の状態を隠さず伝えた。
マレナは最後まで聞き、地図の川沿いを示した。
「まずは、救護の者たちと一緒にここまで来て。山へ入る前に、連絡役の話と現地の様子を確かめる」
「その先は現地を見てからですか?」
「ええ。どの道を使うか、誰がどこまで行くかも、そこで決めるわ。救助が済むまでは、奥の洞窟へは向かわない」
「分かりました」
「出発は昼。食料と水、それから森を歩く支度をして戻ってきて」
アイリスが時刻と持ち物を書き留めた。
リンは地図を見つめていたが、やがて顔を上げる。
「この六人、みんな連れて帰るの」
マレナが頷いた。
「ええ。そのために行く」
結人は、小屋の印をもう一度確かめた。
組合の窓からは、屋根の向こうに山が見えていた。
普通に歩けば半日。
その距離を帰れずにいる六人の名前を、アイリスが一つずつ紙へ写していた。




