第一話 ~新しい街は槌の音で旅人を迎える~
「そっち、引っ張っちゃ駄目なの」
リンに言われ、結人は手を止めた。
荷袋の口を縛った縄が、どうにもほどけない。昨夜、緩まないようにと念入りに結んだところまでは覚えている。
「……もう引っ張った」
「だから固くなったの」
「いや、緩まないようにしただけなんだけどな」
「緩まなかったの」
「そこだけ大成功なんだよなあ」
前の街を出て、四日目の朝だった。
木々の間から差す光が、畳みかけの布を照らしている。焚き火の始末も朝食も済み、あとは荷物をまとめれば出発できるところだった。
結人の荷袋だけが、まだ開いていない。
『自分の荷物を封じてどうする』
「俺もそう思ってる」
懐の時計へ返しながら、結人は縄をリンに見せた。
「これ、まだほどける?」
「貸すの」
リンは結び目を指先で押し、少しずつ緩みを作った。結人が引っ張っていた端とは違うところを動かすと、固まっていた縄がするりと抜ける。
「おお、すごい」
「強く引けばいいってものじゃないの」
「はい、先生」
結人が頭を下げると、リンは得意そうに耳を立てた。
畳んだ布を抱えていたアイリスも、隣へ腰を下ろす。
「リンさん。ほどきやすい結び方を教えていただけますか?」
「いいの」
リンは縄を取り直した。
「荷物が動かないようにするのと、あとでほどけるようにするの、両方考えるの」
縄を回す指が、今度はゆっくり動いた。
アイリスが別の端を使って真似をする。結人も荷袋を押さえながら、横から覗き込んだ。
「ここを、こうですか?」
「うん。そっちは残しておくの」
「なるほど……」
教えるたびに、紅い尾が小さく揺れる。
前の街では、リンも結人もアイリスについて歩いていた。こういうところでは、やはりリンに敵わない。
「ご主人様も、やってみますか?」
「やる。次は自分でほどきたいし」
教わったとおりに縄を回す。
途中で指の位置が分からなくなったが、今度は無理に引っ張らず、少し戻してやり直した。
荷袋を持ち上げても、口は緩まない。
残しておいたところを引けば、ちゃんとほどけた。
「できた」
「それでいいの」
『ようやく出発できそうじゃな』
「よし。行こうか」
結人が荷物を背負うと、木陰で伏せていたアカツキも立ち上がった。
白銀の大きな身体が伸び、毛並みの上を朝の光が滑っていく。
その背へ載せる縄の束は、リンが結び直した。
「そっちはまだ任せてもらえないんだ」
「歩いてる途中で落ちると困るの」
「だな。練習は俺の袋でやっとくか」
◇
歩き始めると、リンは自然に先頭へ出た。
右脚をかばう様子は、もう見えない。それでも森を長く歩く間は、念のためにと、アイリスが毎朝その脚へ布を巻いていた。
「脚、疲れてない?」
隣へ並ぶと、リンが顔を上げた。
「歩くのは、もう平気なの。四日歩いても痛くないの」
「そっか。よかった」
結人は前へ向き直った。
「でも、途中で痛くなったら言ってよ。今日は街に着くし、着いたら休もう」
「分かったの」
「包帯がずれたときも教えてくださいね」
アイリスが後ろから声をかける。
リンは右脚の布を確かめてから、また歩き出した。走り出すことはなかった。
しばらくすると、木々の間隔が広がってきた。
道の脇に切り株が増え、枝を落とした丸太が積まれている。切り口はまだ色が明るく、新しい木の匂いが風に混じって届いた。
「人が近いの」
リンが前を見た。
結人にも、遠くで木を叩く音が聞こえ始めていた。
その横でアカツキが足を止める。
「そろそろ荷を移してくれ」
「あ、そうだ。ちょっと待って」
まだ道から姿を見られにくい木立の中で、結人は縄の束を受け取った。
アカツキの身体が小さくなる。草の上に残ったのは、子犬ほどの白銀の姿だった。
結人は縄を鞄へしまい、背負い直す。
かさばりはしなくても、その分の重さはきちんと肩に加わった。
「縄も一緒に小さくなってくれたらなあ」
「それは私の身体ではないからな」
「やっぱ無理か」
アカツキは街道へ向き直った。
小さくなっても歩き方は変わらない。結人たちの足元を、落ち着いた足取りで進んでいく。
森が途切れた先には、縄を張った杭が並んでいた。地面を四角く囲んだその向こうで、何人かの男が柱を立てている。
低く積まれた石の土台に、太い柱が一本ずつ収まっていく。すでに上の方で横木を渡している建物もあった。
一方、その隣の敷地は、まだ土を掘っただけだった。
溝の底には大きな石が幾つか置かれているが、端まで続いていない。木材は揃っているらしく、長さごとに分けられた束が、敷地の脇を塞いでいた。
「家、いっぱい作ってるの」
「こっちまで街を広げるんだな」
結人は建てかけの家の向こうを見た。
作業場の屋根を越えた先に、古い石壁と、いくつもの屋根が見える。
「着いたの」
リンの声が弾んだ。
結人も肩の荷物を持ち直す。
「ほんとに四日くらいだったな。助かったよ、リン」
「道、間違えなかったの」
前を向いたまま、紅い尾が揺れた。
足元のアカツキは、もう口を閉ざしていた。
◇
街の入口付近は、思っていた以上に人が多かった。
鋸を引く音と、木槌を打つ音があちこちで重なっている。作業台の下には薄い木屑が溜まり、職人の足が動くたびに舞い上がった。
切った板を運ぶ者もいれば、窓枠を並べて寸法を確かめる者もいる。
道の端には、まだ金具の付いていない扉が何枚も立てかけられていた。
「木の匂い、いっぱいなの」
「道の両側で作ってるもんな」
結人が答える間にも、すぐ脇の作業台で板が削られる。
薄く丸まった木屑が、職人の足元へ落ちた。
古い石壁に沿って歩いていくと、その先の道は板で塞がれていた。
「こっちは通れないの?」
リンが脇に立てられた看板を見る。
アイリスが文字を読んだ。
「工事中だそうです。あちらへ回ってください、と書いてあります」
結人が囲いの向こうを覗くと、道に敷かれた平たい石が、途中で途切れていた。
その先は掘り返された土のままだった。雨水が残っている窪みもあり、荷車の轍が深く沈んでいる。
「このまま行ったら泥だらけだな」
「脚も取られそうなの」
リンはすぐに覗き込むのをやめた。
案内された細い道へ回ろうとしたところで、紅い耳が動く。
「結人、端に寄るの」
「え?」
言われるままに避けると、長い板を肩に担いだ男が角を曲がってきた。
「悪いね、通るよ」
板の端が、結人の顔のすぐ前を横切っていく。
「……危な」
「まだ来るの」
リンに袖を引かれ、もう半歩下がる。
続けて、二人目の男が同じ長さの板を運んできた。板は大きな戸口から建物の中へ差し込まれ、奥にいた職人の手へ渡されていく。
「助かった。森の木より避けるの難しいぞ、これ」
「森の木は、角から出てこないの」
「だよな」
アイリスが口元を緩めた。
足元では、アカツキも板の行方を見送っている。その尾まで踏まれないよう、結人は歩く位置を少し変えた。
『おぬしら、前も見て歩くのじゃぞ』
時計から声が届く。
結人は返事の代わりに前へ向き直った。
広い通りへ出ると、工事の音に店先の呼び声が混じり始めた。
布を並べた店の隣では、鍋から湯気が上がっている。焼きたてのパンを籠へ移す店もあった。
リンの鼻が動く。
だが、先に歩みを緩めたのはアイリスだった。
店先に並んだ小さな焼き菓子を見ている。
表面に塗られたものが日に透けて、薄く光っていた。甘い匂いが通りにまで漂ってくる。
「気になる?」
結人が尋ねると、アイリスは顔を上げた。
「あの表面、蜜でしょうか。綺麗だなと思いまして」
「ちょっと寄ってく?」
「寄りたいです。ただ……」
アイリスの視線が、結人の肩へ移った。
「先に荷物を置いてからの方が、ゆっくり見られませんか?」
「そうしよう。背中もそろそろ限界」
「じゃあ、あとで来るの」
リンが店を見ながら言った。
アイリスも頷く。
「はい。あとで」
◇
アカツキも泊まれる宿は、広い通りから一本入ったところで見つかった。
二階に並んだ二部屋を借り、ひとまず結人の部屋へ荷物を運び込む。
床へ鞄を下ろすと、肩が急に軽くなった。
「あー、楽になった」
結人は肩を回してから、窓を開けた。
午後の風が入ってくる。
向かいの敷地には、途中まで石を積んだ土台が見えた。職人の一人がその端に腰を下ろし、水を飲んでいる。
隣の屋根付きの作業場では、別の男が板を削っていた。壁際には、出来上がった窓枠がいくつも重なっている。
リンは椅子に座り、脚に巻いた布を確かめていた。
アイリスが水の入った器を用意すると、アカツキは短く礼を言ってから口をつけた。
結人も水を飲み、机の上へ懐中時計を置く。
蓋を開いたところで、声がした。
『ようやく落ち着けるのう』
文字盤の上に、フィリアが姿を現す。
淡い青の長い髪を払って座る姿は、いつもと変わらなかった。
「フィリアは歩いてないだろ」
『おぬしの懐も、それなりに揺れるのじゃ』
「ああ、そっか。じゃあ、しばらくここで休んでて」
結人は時計を机の奥へ寄せ、その手前で地図を広げた。
街道を指で辿り、今日着いた街の印を確かめる。
「明日、組合に行ってみようか」
リンが顔を上げた。
「道、聞くの?」
「それも。森から来た土狼族を、誰か見てないかなって。ここ、人の出入りも多そうだし」
紅い耳がこちらへ向いた。
リンは少しの間、地図を見ていた。
「……リンも聞くの」
「うん。一緒に行こう」
アイリスも鞄から紙を取り出す。
「何か分かったら、忘れないように書いておきましょう」
「お願いするの」
リンが頷いた。
アカツキは水を飲むのをやめ、静かにその話を聞いている。
結人は地図を畳んだ。
「急いで出る理由もないし、明日は一日ここにいよう。話を聞く時間も欲しいしさ」
「でしたら、旅の間に汚れたものも洗っておきたいです」
「俺もやるよ。あと、服がちょっとほつれてたんだよな」
「針と糸もありますから、あとで一緒に直しましょう」
「頼む。……でも、その前にさっきの店な。荷物は置けたし」
アイリスが顔を上げた。
「はい。もう少し、見てみたいです」
「リンも食べたいの」
「うん。そうだろうなとは思ってた」
「結人は?」
「俺も気になってた」
『わらわにも忘れず供えるのじゃぞ』
「分かってる。持って帰ってから一緒にな」
フィリアが満足そうに頷いた。
少し休んでから、外へ出ることにする。
荷物を背負っていないだけで、身体はずいぶん軽かった。リンも椅子から立ち、自分で脚の具合を確かめている。
結人が時計をしまおうとしたとき、窓の下で車輪の音がした。
荷車が一台、向かいの作業場の前へ戻ってくる。
石積みの端に座っていた職人が立ち上がった。だが、荷台を覗いたところで足を止めた。
何も積まれていなかった。
太い縄と、畳まれた荷覆いだけが、荷台の隅へ寄せられている。
「……積めなかったのか」
御者台から下りた男が首を振った。
「駄目だった。今日は持って帰れん」
「明日は?」
「それも、まだ分からん」
板を削っていた職人も手を止める。
「窓枠の方は、もう二軒分できちまったぞ」
「先に扉をやるしかないな」
「それも、そろそろ置く場所がなくなるんだが」
作業場の壁際には、窓枠のほかに何枚もの扉が並んでいた。
柱や梁に使うらしい太い木も、短い台木を挟んで積まれている。
組み立てる部材は増えていくのに、その向こうの土台は、まだ四角くつながっていなかった。
「石が足りてないのか」
結人は窓の外を見たまま呟いた。
街へ入る途中にも、同じように石積みの途切れた場所があった。
「ご主人様、行きましょうか」
入口でアイリスが振り返る。
「うん。行こう」
結人は時計の蓋を閉じ、懐へ戻した。
廊下ではリンが待っている。その足元には、また口を閉ざしたアカツキがいた。
結人も部屋を出る。
外では、職人たちが空の荷車を壁際へ寄せていた。やがて木槌の音が再び響き始めたが、積みかけの土台の方は、静かなままだった。




