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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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第一話 ~新しい街は槌の音で旅人を迎える~

「そっち、引っ張っちゃ駄目なの」

 リンに言われ、結人は手を止めた。

 荷袋の口を縛った縄が、どうにもほどけない。昨夜、緩まないようにと念入りに結んだところまでは覚えている。

「……もう引っ張った」

「だから固くなったの」

「いや、緩まないようにしただけなんだけどな」

「緩まなかったの」

「そこだけ大成功なんだよなあ」

 前の街を出て、四日目の朝だった。

 木々の間から差す光が、畳みかけの布を照らしている。焚き火の始末も朝食も済み、あとは荷物をまとめれば出発できるところだった。

 結人の荷袋だけが、まだ開いていない。

『自分の荷物を封じてどうする』

「俺もそう思ってる」

 懐の時計へ返しながら、結人は縄をリンに見せた。

「これ、まだほどける?」

「貸すの」

 リンは結び目を指先で押し、少しずつ緩みを作った。結人が引っ張っていた端とは違うところを動かすと、固まっていた縄がするりと抜ける。

「おお、すごい」

「強く引けばいいってものじゃないの」

「はい、先生」

 結人が頭を下げると、リンは得意そうに耳を立てた。

 畳んだ布を抱えていたアイリスも、隣へ腰を下ろす。

「リンさん。ほどきやすい結び方を教えていただけますか?」

「いいの」

 リンは縄を取り直した。

「荷物が動かないようにするのと、あとでほどけるようにするの、両方考えるの」

 縄を回す指が、今度はゆっくり動いた。

 アイリスが別の端を使って真似をする。結人も荷袋を押さえながら、横から覗き込んだ。

「ここを、こうですか?」

「うん。そっちは残しておくの」

「なるほど……」

 教えるたびに、紅い尾が小さく揺れる。

 前の街では、リンも結人もアイリスについて歩いていた。こういうところでは、やはりリンに敵わない。

「ご主人様も、やってみますか?」

「やる。次は自分でほどきたいし」

 教わったとおりに縄を回す。

 途中で指の位置が分からなくなったが、今度は無理に引っ張らず、少し戻してやり直した。

 荷袋を持ち上げても、口は緩まない。

 残しておいたところを引けば、ちゃんとほどけた。

「できた」

「それでいいの」

『ようやく出発できそうじゃな』

「よし。行こうか」

 結人が荷物を背負うと、木陰で伏せていたアカツキも立ち上がった。

 白銀の大きな身体が伸び、毛並みの上を朝の光が滑っていく。

 その背へ載せる縄の束は、リンが結び直した。

「そっちはまだ任せてもらえないんだ」

「歩いてる途中で落ちると困るの」

「だな。練習は俺の袋でやっとくか」


 ◇


 歩き始めると、リンは自然に先頭へ出た。

 右脚をかばう様子は、もう見えない。それでも森を長く歩く間は、念のためにと、アイリスが毎朝その脚へ布を巻いていた。

「脚、疲れてない?」

 隣へ並ぶと、リンが顔を上げた。

「歩くのは、もう平気なの。四日歩いても痛くないの」

「そっか。よかった」

 結人は前へ向き直った。

「でも、途中で痛くなったら言ってよ。今日は街に着くし、着いたら休もう」

「分かったの」

「包帯がずれたときも教えてくださいね」

 アイリスが後ろから声をかける。

 リンは右脚の布を確かめてから、また歩き出した。走り出すことはなかった。

 しばらくすると、木々の間隔が広がってきた。

 道の脇に切り株が増え、枝を落とした丸太が積まれている。切り口はまだ色が明るく、新しい木の匂いが風に混じって届いた。

「人が近いの」

 リンが前を見た。

 結人にも、遠くで木を叩く音が聞こえ始めていた。

 その横でアカツキが足を止める。

「そろそろ荷を移してくれ」

「あ、そうだ。ちょっと待って」

 まだ道から姿を見られにくい木立の中で、結人は縄の束を受け取った。

 アカツキの身体が小さくなる。草の上に残ったのは、子犬ほどの白銀の姿だった。

 結人は縄を鞄へしまい、背負い直す。

 かさばりはしなくても、その分の重さはきちんと肩に加わった。

「縄も一緒に小さくなってくれたらなあ」

「それは私の身体ではないからな」

「やっぱ無理か」

 アカツキは街道へ向き直った。

 小さくなっても歩き方は変わらない。結人たちの足元を、落ち着いた足取りで進んでいく。

 森が途切れた先には、縄を張った杭が並んでいた。地面を四角く囲んだその向こうで、何人かの男が柱を立てている。

 低く積まれた石の土台に、太い柱が一本ずつ収まっていく。すでに上の方で横木を渡している建物もあった。

 一方、その隣の敷地は、まだ土を掘っただけだった。

 溝の底には大きな石が幾つか置かれているが、端まで続いていない。木材は揃っているらしく、長さごとに分けられた束が、敷地の脇を塞いでいた。

「家、いっぱい作ってるの」

「こっちまで街を広げるんだな」

 結人は建てかけの家の向こうを見た。

 作業場の屋根を越えた先に、古い石壁と、いくつもの屋根が見える。

「着いたの」

 リンの声が弾んだ。

 結人も肩の荷物を持ち直す。

「ほんとに四日くらいだったな。助かったよ、リン」

「道、間違えなかったの」

 前を向いたまま、紅い尾が揺れた。

 足元のアカツキは、もう口を閉ざしていた。


 ◇


 街の入口付近は、思っていた以上に人が多かった。

 鋸を引く音と、木槌を打つ音があちこちで重なっている。作業台の下には薄い木屑が溜まり、職人の足が動くたびに舞い上がった。

 切った板を運ぶ者もいれば、窓枠を並べて寸法を確かめる者もいる。

 道の端には、まだ金具の付いていない扉が何枚も立てかけられていた。

「木の匂い、いっぱいなの」

「道の両側で作ってるもんな」

 結人が答える間にも、すぐ脇の作業台で板が削られる。

 薄く丸まった木屑が、職人の足元へ落ちた。

 古い石壁に沿って歩いていくと、その先の道は板で塞がれていた。

「こっちは通れないの?」

 リンが脇に立てられた看板を見る。

 アイリスが文字を読んだ。

「工事中だそうです。あちらへ回ってください、と書いてあります」

 結人が囲いの向こうを覗くと、道に敷かれた平たい石が、途中で途切れていた。

 その先は掘り返された土のままだった。雨水が残っている窪みもあり、荷車の轍が深く沈んでいる。

「このまま行ったら泥だらけだな」

「脚も取られそうなの」

 リンはすぐに覗き込むのをやめた。

 案内された細い道へ回ろうとしたところで、紅い耳が動く。

「結人、端に寄るの」

「え?」

 言われるままに避けると、長い板を肩に担いだ男が角を曲がってきた。

「悪いね、通るよ」

 板の端が、結人の顔のすぐ前を横切っていく。

「……危な」

「まだ来るの」

 リンに袖を引かれ、もう半歩下がる。

 続けて、二人目の男が同じ長さの板を運んできた。板は大きな戸口から建物の中へ差し込まれ、奥にいた職人の手へ渡されていく。

「助かった。森の木より避けるの難しいぞ、これ」

「森の木は、角から出てこないの」

「だよな」

 アイリスが口元を緩めた。

 足元では、アカツキも板の行方を見送っている。その尾まで踏まれないよう、結人は歩く位置を少し変えた。

『おぬしら、前も見て歩くのじゃぞ』

 時計から声が届く。

 結人は返事の代わりに前へ向き直った。

 広い通りへ出ると、工事の音に店先の呼び声が混じり始めた。

 布を並べた店の隣では、鍋から湯気が上がっている。焼きたてのパンを籠へ移す店もあった。

 リンの鼻が動く。

 だが、先に歩みを緩めたのはアイリスだった。

 店先に並んだ小さな焼き菓子を見ている。

 表面に塗られたものが日に透けて、薄く光っていた。甘い匂いが通りにまで漂ってくる。

「気になる?」

 結人が尋ねると、アイリスは顔を上げた。

「あの表面、蜜でしょうか。綺麗だなと思いまして」

「ちょっと寄ってく?」

「寄りたいです。ただ……」

 アイリスの視線が、結人の肩へ移った。

「先に荷物を置いてからの方が、ゆっくり見られませんか?」

「そうしよう。背中もそろそろ限界」

「じゃあ、あとで来るの」

 リンが店を見ながら言った。

 アイリスも頷く。

「はい。あとで」


 ◇


 アカツキも泊まれる宿は、広い通りから一本入ったところで見つかった。

 二階に並んだ二部屋を借り、ひとまず結人の部屋へ荷物を運び込む。

 床へ鞄を下ろすと、肩が急に軽くなった。

「あー、楽になった」

 結人は肩を回してから、窓を開けた。

 午後の風が入ってくる。

 向かいの敷地には、途中まで石を積んだ土台が見えた。職人の一人がその端に腰を下ろし、水を飲んでいる。

 隣の屋根付きの作業場では、別の男が板を削っていた。壁際には、出来上がった窓枠がいくつも重なっている。

 リンは椅子に座り、脚に巻いた布を確かめていた。

 アイリスが水の入った器を用意すると、アカツキは短く礼を言ってから口をつけた。

 結人も水を飲み、机の上へ懐中時計を置く。

 蓋を開いたところで、声がした。

『ようやく落ち着けるのう』

 文字盤の上に、フィリアが姿を現す。

 淡い青の長い髪を払って座る姿は、いつもと変わらなかった。

「フィリアは歩いてないだろ」

『おぬしの懐も、それなりに揺れるのじゃ』

「ああ、そっか。じゃあ、しばらくここで休んでて」

 結人は時計を机の奥へ寄せ、その手前で地図を広げた。

 街道を指で辿り、今日着いた街の印を確かめる。

「明日、組合に行ってみようか」

 リンが顔を上げた。

「道、聞くの?」

「それも。森から来た土狼族を、誰か見てないかなって。ここ、人の出入りも多そうだし」

 紅い耳がこちらへ向いた。

 リンは少しの間、地図を見ていた。

「……リンも聞くの」

「うん。一緒に行こう」

 アイリスも鞄から紙を取り出す。

「何か分かったら、忘れないように書いておきましょう」

「お願いするの」

 リンが頷いた。

 アカツキは水を飲むのをやめ、静かにその話を聞いている。

 結人は地図を畳んだ。

「急いで出る理由もないし、明日は一日ここにいよう。話を聞く時間も欲しいしさ」

「でしたら、旅の間に汚れたものも洗っておきたいです」

「俺もやるよ。あと、服がちょっとほつれてたんだよな」

「針と糸もありますから、あとで一緒に直しましょう」

「頼む。……でも、その前にさっきの店な。荷物は置けたし」

 アイリスが顔を上げた。

「はい。もう少し、見てみたいです」

「リンも食べたいの」

「うん。そうだろうなとは思ってた」

「結人は?」

「俺も気になってた」

『わらわにも忘れず供えるのじゃぞ』

「分かってる。持って帰ってから一緒にな」

 フィリアが満足そうに頷いた。

 少し休んでから、外へ出ることにする。

 荷物を背負っていないだけで、身体はずいぶん軽かった。リンも椅子から立ち、自分で脚の具合を確かめている。

 結人が時計をしまおうとしたとき、窓の下で車輪の音がした。

 荷車が一台、向かいの作業場の前へ戻ってくる。

 石積みの端に座っていた職人が立ち上がった。だが、荷台を覗いたところで足を止めた。

 何も積まれていなかった。

 太い縄と、畳まれた荷覆いだけが、荷台の隅へ寄せられている。

「……積めなかったのか」

 御者台から下りた男が首を振った。

「駄目だった。今日は持って帰れん」

「明日は?」

「それも、まだ分からん」

 板を削っていた職人も手を止める。

「窓枠の方は、もう二軒分できちまったぞ」

「先に扉をやるしかないな」

「それも、そろそろ置く場所がなくなるんだが」

 作業場の壁際には、窓枠のほかに何枚もの扉が並んでいた。

 柱や梁に使うらしい太い木も、短い台木を挟んで積まれている。

 組み立てる部材は増えていくのに、その向こうの土台は、まだ四角くつながっていなかった。

「石が足りてないのか」

 結人は窓の外を見たまま呟いた。

 街へ入る途中にも、同じように石積みの途切れた場所があった。

「ご主人様、行きましょうか」

 入口でアイリスが振り返る。

「うん。行こう」

 結人は時計の蓋を閉じ、懐へ戻した。

 廊下ではリンが待っている。その足元には、また口を閉ざしたアカツキがいた。

 結人も部屋を出る。

 外では、職人たちが空の荷車を壁際へ寄せていた。やがて木槌の音が再び響き始めたが、積みかけの土台の方は、静かなままだった。


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