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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第三章 目覚めた妖狐はもう一度旅を選ぶ

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プロローグ ~眠れる山は人の都合を知らない~

 地図の上では、その山には何もなかった。

 街から延びる道は川を渡ったところで途切れ、その先には山の起伏を示す線と、森を表す印がいくつか描かれているだけだった。

「この辺りまで荷車を入れられりゃ、運ぶ手間もずいぶん違う」

 現場頭の男は、地図と目の前の斜面を見比べた。

 街では新しい家を建てる土地が必要になっていた。人が住めば道も要る。道を整えるには、木材も石も要る。

 山は、そのどちらも手に入りそうな場所だった。

「その前に、荷車がひっくり返らない道を探してくださいよ」

 測量用の縄を担いだ若い作業員が言う。

「お前が押してくれるなら、多少の坂でも構わんがな」

「俺は構います」

 男は笑い、地図を畳んだ。

 今日、街から来たのは四人だった。現場頭と作業員。それに、調査の護衛を請けた組合員が二人。

 道を延ばせる場所と、石を切り出せそうな場所を確かめる。それだけの仕事だった。

 先を歩いていた女の組合員が、ふと足を止めた。

「ここ、昔は道だったみたい」

 枝を持ち上げた先に、苔むした石段があった。

 土に埋もれ、木の根に押されて傾いている。それでも、斜面を上へ続いていることは分かった。

「地図にあったか?」

「いいえ」

 もう一人の組合員が、剣の柄に添えていた手を離す。

「獣道ではなさそうだな」

 石段を上がると、小さな社があった。

 屋根の一部は落ち、傾いた柱には蔓が巻きついている。入口らしい隙間には落ち葉が積もり、人が通った跡は見当たらなかった。

「こんなところに……」

 若い作業員が、社の前で足を止める。

「何を祀ってたんでしょう」

「さあな」

 現場頭は、額に浮いた汗を拭った。

 道を通せそうだと思った場所を、古い石段が横切っていた。社の周囲を回れば、予定より少し遠回りになる。

「ここは避けよう。勝手に壊していいもんでもない」

「裏にも何かあるぞ」

 男の組合員に呼ばれ、四人は社の脇を回った。

 木々に隠れた岩壁に、暗い口が開いている。

 近づくと、冷たい風が頬を撫でた。

「洞窟か」

 現場頭は屈み、奥を覗いた。

 入口付近には落石が溜まっているが、人が通れないほどではない。その向こうは、昼の光が届かない暗がりだった。

「下が空洞なら、石を切り出す前に確かめないといかんな」

 女の組合員が灯りを取り出す。

「入口から縄を張っていきましょう。奥が広いようなら、今日は途中で戻る。ちゃんとした調査は、それから」

「ああ。無理はせん」

 現場頭は頷き、若い作業員に荷物を持ち直させた。


 ◇


 洞窟の奥では、水の落ちる音が響いていた。

 天井から細い石が幾本も垂れ下がり、灯りを受けて湿った表面が光る。足元にも似た形の石が突き出していて、四人はその間を慎重に進んだ。

「見事なもんですね」

 若い作業員が上を見た。その声が天井に跳ね返り、奥へ響いていく。

「上ばかり見てると転ぶぞ」

「分かってますって」

 返事をしながらも、歩幅は小さくなる。

 入口から延ばした縄を頼りに、幾つかの曲がり角を越えた。やがて通路は広がり、灯りの先に平らな場所が現れた。

 自然にできた床にしては、妙に整っていた。

 奥の壁際には、小さな祠がある。

 白く曇った石の扉は閉じていた。前に置かれた浅い皿には、何も残っていない。

「こっちが本当の祀り場所だったのかもしれませんね」

 女の組合員は、祠へ灯りを向けた。

 文字らしいものが扉の上に刻まれている。しかし、石の表面に薄く付いた白いものに覆われ、読み取ることはできなかった。

「開けます?」

 若い作業員が尋ねた。

「いや。場所を記しておけばいい」

 現場頭は首を振った。

「石の様子だけ見て戻るぞ。日が暮れる前に、川まで下りたい」

 男の組合員が通路へ目を向ける。その横で、若い作業員が石を確かめる道具を出そうと、背負っていた道具袋を下ろした。

 袋の口から滑り出した小さな鉄槌が、石の上を転がった。

 硬い音が一つ。

 続いて、乾いたものが割れる音がした。

 その音は岩に跳ね返り、洞窟の奥へ長く響いていった。

「あ」

 鉄槌は、祠の前の皿に当たっていた。

 薄い縁が欠け、破片が床に散っている。

「すみません」

「拾っておけ。そういう場所に荷を下ろすな」

「はい」

 若い作業員が膝をつく。

 その手が破片へ伸びたとき、奥で何かが光った。

 青白い、小さな火だった。

 祠の脇に灯ったそれは、油皿にも薪にも触れていない。宙に浮いたまま、ゆっくりと揺れていた。

 若い作業員の手が止まる。

「……今、誰か」

「下がって」

 女の組合員の声が変わった。

 彼女が一歩前へ出る。男の組合員も、その隣に並んだ。

 青白い火が、もう一つ灯る。

 さらに一つ。

 照らされた岩の隙間で、何かが動いた。

 低い唸り声がする。

 現場頭は、灯りの届く範囲を見回した。

 獣がいた。

 大きな狼に似たものが、祠の横からこちらを見ている。剥き出しになった牙の奥で、赤い舌が動いた。

 その後ろにも、目があった。

 一組ではない。

「いつから……」

「戻るぞ」

 男の組合員が剣を抜いた。

「走るな。前の奴から離れるな」

 女の組合員が帰路の縄を掴む。

 若い作業員は道具袋を拾おうとした。

「置いていけ!」

 青白い火が床を走った。

 足元のすぐ前で石が弾け、熱が顔を叩く。若い作業員が悲鳴を上げて後ずさった。

 狼のような獣が跳ぶ。

 組合員の剣が振られると、その姿は灯りの外へ躱した。代わりに、別の影が低い姿勢で前へ出てくる。

「何頭いるんだ!」

「数えるな、戻れ!」

 現場頭は若い作業員の肩を掴み、通路へ押し出した。

 背後で爪の音が重なる。

 岩に反響する唸り声が、横からも、頭の上からも聞こえた。

 女の組合員が、縄を手繰りながら先へ進む。

「こっち。曲がるわよ」

 来たときには、こんなに狭い道だとは思わなかった。

 荷物が岩に当たる。肩が擦れる。足元へ目を落とした一瞬で、前を行く背中が暗がりに紛れそうになる。

 現場頭は息を切らしながら、その背中を追った。

 ようやく外の明かりが見えたとき、喉の奥から息が漏れた。

 だが、洞窟を出ても終わりではなかった。

 社の陰にも、獣がいた。

 石段の下にも、木々の間にも。

 枝の向こうを、大きな翼の影が横切る。

「外にもいるぞ!」

 若い作業員が叫んだ。

 現場頭は足を止めかけた。

 目の前の森が、来たときとは違うものに見える。木の幹の間を黒い背が動き、その向こうで角のようなものが持ち上がった。

「止まるな!」

 背中を押され、石段へ足を踏み出す。

 苔で滑った。

 体勢を立て直そうとした足首に、鋭い痛みが走る。

「くそっ」

「俺の肩につかまってください!」

 若い作業員が腕を取った。

 男の組合員が最後尾に残り、女の組合員が道を探す。

 誰も、もう社を振り返らなかった。

 追ってくる足音と、草木を揺らす音が続く。

 獣の姿を確かめる余裕はなかった。


 ◇


 川の音が聞こえる頃には、背後の気配は遠くなっていた。

 女の組合員が立ち止まり、しばらく森を見つめる。

 誰も口を開かなかった。

 四人分の荒い息だけが、川の音に混じっている。

「……追ってこないな」

 男の組合員が言った。

 剣は抜いたままだった。額から流れた汗が顎を伝い、地面へ落ちる。

 現場頭は木に背を預けた。

 足首が腫れ始めている。

「歩ける?」

「ああ。ゆっくりならな」

 女の組合員は頷き、若い作業員にも顔を向けた。

 彼は自分の手を見下ろしていた。

「道具、置いてきました」

「取りに戻る話はするなよ」

「……しませんよ」

 返事の声が震えた。

 現場頭は、少しだけ息を吐いた。

「道具は買える。お前は歩け」

「はい」

 川を渡るまで、誰も大きな声を出さなかった。

 街へ戻ったのは、灯りがともり始める頃だった。

 組合の受付にいた男は、四人の姿を見るなり椅子を立った。現場頭を座らせ、人を呼んでから、濡れた地図を机に広げる。

「何があった」

「魔物だ」

 現場頭は答えた。

「山の奥にいる。あんな数は見たことがない」

「何頭だ」

「分からん。洞窟にも、その外にもいた」

 男は組合員の二人を見た。

 女が頷き、地図の一点を指す。

「この辺りに古い社がある。その裏に洞窟。私たちが襲われたのは、その奥よ」

「狼か?」

「それに似たものはいた。ただ、それだけじゃない」

 男の組合員が、壁に立てかけた剣へ目を向けた。

「火も使う。調査だけの装備で、もう一度入れる場所じゃない」

 受付の男は黙ってペンを取った。

 地図の余白に、小さな社が描き足される。

 その裏に洞窟の印。

 周囲を囲む線の脇へ、男は書き込んだ。

 ――魔物、多数。


第三章スタート!

三章はこれまでより少し長めの物語となります。

お付き合いいただければ幸いです。

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