プロローグ ~眠れる山は人の都合を知らない~
地図の上では、その山には何もなかった。
街から延びる道は川を渡ったところで途切れ、その先には山の起伏を示す線と、森を表す印がいくつか描かれているだけだった。
「この辺りまで荷車を入れられりゃ、運ぶ手間もずいぶん違う」
現場頭の男は、地図と目の前の斜面を見比べた。
街では新しい家を建てる土地が必要になっていた。人が住めば道も要る。道を整えるには、木材も石も要る。
山は、そのどちらも手に入りそうな場所だった。
「その前に、荷車がひっくり返らない道を探してくださいよ」
測量用の縄を担いだ若い作業員が言う。
「お前が押してくれるなら、多少の坂でも構わんがな」
「俺は構います」
男は笑い、地図を畳んだ。
今日、街から来たのは四人だった。現場頭と作業員。それに、調査の護衛を請けた組合員が二人。
道を延ばせる場所と、石を切り出せそうな場所を確かめる。それだけの仕事だった。
先を歩いていた女の組合員が、ふと足を止めた。
「ここ、昔は道だったみたい」
枝を持ち上げた先に、苔むした石段があった。
土に埋もれ、木の根に押されて傾いている。それでも、斜面を上へ続いていることは分かった。
「地図にあったか?」
「いいえ」
もう一人の組合員が、剣の柄に添えていた手を離す。
「獣道ではなさそうだな」
石段を上がると、小さな社があった。
屋根の一部は落ち、傾いた柱には蔓が巻きついている。入口らしい隙間には落ち葉が積もり、人が通った跡は見当たらなかった。
「こんなところに……」
若い作業員が、社の前で足を止める。
「何を祀ってたんでしょう」
「さあな」
現場頭は、額に浮いた汗を拭った。
道を通せそうだと思った場所を、古い石段が横切っていた。社の周囲を回れば、予定より少し遠回りになる。
「ここは避けよう。勝手に壊していいもんでもない」
「裏にも何かあるぞ」
男の組合員に呼ばれ、四人は社の脇を回った。
木々に隠れた岩壁に、暗い口が開いている。
近づくと、冷たい風が頬を撫でた。
「洞窟か」
現場頭は屈み、奥を覗いた。
入口付近には落石が溜まっているが、人が通れないほどではない。その向こうは、昼の光が届かない暗がりだった。
「下が空洞なら、石を切り出す前に確かめないといかんな」
女の組合員が灯りを取り出す。
「入口から縄を張っていきましょう。奥が広いようなら、今日は途中で戻る。ちゃんとした調査は、それから」
「ああ。無理はせん」
現場頭は頷き、若い作業員に荷物を持ち直させた。
◇
洞窟の奥では、水の落ちる音が響いていた。
天井から細い石が幾本も垂れ下がり、灯りを受けて湿った表面が光る。足元にも似た形の石が突き出していて、四人はその間を慎重に進んだ。
「見事なもんですね」
若い作業員が上を見た。その声が天井に跳ね返り、奥へ響いていく。
「上ばかり見てると転ぶぞ」
「分かってますって」
返事をしながらも、歩幅は小さくなる。
入口から延ばした縄を頼りに、幾つかの曲がり角を越えた。やがて通路は広がり、灯りの先に平らな場所が現れた。
自然にできた床にしては、妙に整っていた。
奥の壁際には、小さな祠がある。
白く曇った石の扉は閉じていた。前に置かれた浅い皿には、何も残っていない。
「こっちが本当の祀り場所だったのかもしれませんね」
女の組合員は、祠へ灯りを向けた。
文字らしいものが扉の上に刻まれている。しかし、石の表面に薄く付いた白いものに覆われ、読み取ることはできなかった。
「開けます?」
若い作業員が尋ねた。
「いや。場所を記しておけばいい」
現場頭は首を振った。
「石の様子だけ見て戻るぞ。日が暮れる前に、川まで下りたい」
男の組合員が通路へ目を向ける。その横で、若い作業員が石を確かめる道具を出そうと、背負っていた道具袋を下ろした。
袋の口から滑り出した小さな鉄槌が、石の上を転がった。
硬い音が一つ。
続いて、乾いたものが割れる音がした。
その音は岩に跳ね返り、洞窟の奥へ長く響いていった。
「あ」
鉄槌は、祠の前の皿に当たっていた。
薄い縁が欠け、破片が床に散っている。
「すみません」
「拾っておけ。そういう場所に荷を下ろすな」
「はい」
若い作業員が膝をつく。
その手が破片へ伸びたとき、奥で何かが光った。
青白い、小さな火だった。
祠の脇に灯ったそれは、油皿にも薪にも触れていない。宙に浮いたまま、ゆっくりと揺れていた。
若い作業員の手が止まる。
「……今、誰か」
「下がって」
女の組合員の声が変わった。
彼女が一歩前へ出る。男の組合員も、その隣に並んだ。
青白い火が、もう一つ灯る。
さらに一つ。
照らされた岩の隙間で、何かが動いた。
低い唸り声がする。
現場頭は、灯りの届く範囲を見回した。
獣がいた。
大きな狼に似たものが、祠の横からこちらを見ている。剥き出しになった牙の奥で、赤い舌が動いた。
その後ろにも、目があった。
一組ではない。
「いつから……」
「戻るぞ」
男の組合員が剣を抜いた。
「走るな。前の奴から離れるな」
女の組合員が帰路の縄を掴む。
若い作業員は道具袋を拾おうとした。
「置いていけ!」
青白い火が床を走った。
足元のすぐ前で石が弾け、熱が顔を叩く。若い作業員が悲鳴を上げて後ずさった。
狼のような獣が跳ぶ。
組合員の剣が振られると、その姿は灯りの外へ躱した。代わりに、別の影が低い姿勢で前へ出てくる。
「何頭いるんだ!」
「数えるな、戻れ!」
現場頭は若い作業員の肩を掴み、通路へ押し出した。
背後で爪の音が重なる。
岩に反響する唸り声が、横からも、頭の上からも聞こえた。
女の組合員が、縄を手繰りながら先へ進む。
「こっち。曲がるわよ」
来たときには、こんなに狭い道だとは思わなかった。
荷物が岩に当たる。肩が擦れる。足元へ目を落とした一瞬で、前を行く背中が暗がりに紛れそうになる。
現場頭は息を切らしながら、その背中を追った。
ようやく外の明かりが見えたとき、喉の奥から息が漏れた。
だが、洞窟を出ても終わりではなかった。
社の陰にも、獣がいた。
石段の下にも、木々の間にも。
枝の向こうを、大きな翼の影が横切る。
「外にもいるぞ!」
若い作業員が叫んだ。
現場頭は足を止めかけた。
目の前の森が、来たときとは違うものに見える。木の幹の間を黒い背が動き、その向こうで角のようなものが持ち上がった。
「止まるな!」
背中を押され、石段へ足を踏み出す。
苔で滑った。
体勢を立て直そうとした足首に、鋭い痛みが走る。
「くそっ」
「俺の肩につかまってください!」
若い作業員が腕を取った。
男の組合員が最後尾に残り、女の組合員が道を探す。
誰も、もう社を振り返らなかった。
追ってくる足音と、草木を揺らす音が続く。
獣の姿を確かめる余裕はなかった。
◇
川の音が聞こえる頃には、背後の気配は遠くなっていた。
女の組合員が立ち止まり、しばらく森を見つめる。
誰も口を開かなかった。
四人分の荒い息だけが、川の音に混じっている。
「……追ってこないな」
男の組合員が言った。
剣は抜いたままだった。額から流れた汗が顎を伝い、地面へ落ちる。
現場頭は木に背を預けた。
足首が腫れ始めている。
「歩ける?」
「ああ。ゆっくりならな」
女の組合員は頷き、若い作業員にも顔を向けた。
彼は自分の手を見下ろしていた。
「道具、置いてきました」
「取りに戻る話はするなよ」
「……しませんよ」
返事の声が震えた。
現場頭は、少しだけ息を吐いた。
「道具は買える。お前は歩け」
「はい」
川を渡るまで、誰も大きな声を出さなかった。
街へ戻ったのは、灯りがともり始める頃だった。
組合の受付にいた男は、四人の姿を見るなり椅子を立った。現場頭を座らせ、人を呼んでから、濡れた地図を机に広げる。
「何があった」
「魔物だ」
現場頭は答えた。
「山の奥にいる。あんな数は見たことがない」
「何頭だ」
「分からん。洞窟にも、その外にもいた」
男は組合員の二人を見た。
女が頷き、地図の一点を指す。
「この辺りに古い社がある。その裏に洞窟。私たちが襲われたのは、その奥よ」
「狼か?」
「それに似たものはいた。ただ、それだけじゃない」
男の組合員が、壁に立てかけた剣へ目を向けた。
「火も使う。調査だけの装備で、もう一度入れる場所じゃない」
受付の男は黙ってペンを取った。
地図の余白に、小さな社が描き足される。
その裏に洞窟の印。
周囲を囲む線の脇へ、男は書き込んだ。
――魔物、多数。
第三章スタート!
三章はこれまでより少し長めの物語となります。
お付き合いいただければ幸いです。




