幕間 第三話 ~神様は白い狐の昔話を笑わない〜
翌朝、宿を出ると空は晴れていた。
「道、まだ濡れてるの」
リンが足元を見る。日陰には水たまりが残り、朝の光を映していた。
「森の中も、まだ濡れてそう?」
「木の下は乾くの遅いの。根っこも滑るから、気をつけるの」
「じゃあ、急がず行こうか」
「うん!」
昨日仕分けた荷物をそれぞれ持ち、結人たちは歩き出した。アカツキは今日も子犬ほどの大きさで、足元についてくる。
『忘れ物はないかの?』
「確認した」
「リンもしたの」
「わたくしも大丈夫です」
『アカツキは?』
白銀の狼が、結人の胸元へ視線を向けた。
『……そうであった』
「外なの」
リンが小声で教える。
『分かっておる』
「今、忘れてたの」
『忘れておらぬ』
アカツキは何も言わず、小さく息を吐いた。
街の出口へ向かう途中、結人は広場の脇で足を止めた。
「ん?」
朝市の端で、何人かの子供が一人の老人を囲んでいる。
老人の横には木箱があり、その手には絵の描かれた古い板があった。
「昔話かな?」
「見たいの!」
リンの耳がすぐに立つ。
アイリスが結人を見た。
「少し、見ていきますか?」
「うん。まだ朝だし、少しくらいなら大丈夫だよ」
「見るの!」
リンは広場へ駆け出しかけ、すぐに歩幅を戻した。
「リン」
「走ってないの!」
「まだ何も言ってない」
「ならいいの!」
◇
老人が一枚目の板を立てる。
月の浮かぶ山を背に、大きな白い狐が描かれていた。
「むかしむかし。ここよりずっとずっと遠い山に、九つの尾を持つ白い狐がおったそうな」
「九本なの」
子供たちの後ろで、リンが小声で数える。
「本当に九本ありますね」
アイリスも絵を見た。狐の背後には、扇のように広がる尾が描かれている。
老人が次の板へ替えた。
「その狐はたいそう強く、火を操り、姿を変え、人を化かした。怒らせた者は、山の向こうまで吹き飛ばされたそうな」
「すごい盛ってるの」
「昔話だからね」
結人も小声で返す。
いつもなら、フィリアも何か言いそうなところだった。
けれど、胸元の時計から声はしなかった。
「そんな狐のもとへ、ある日、一人の神様がやってきた」
次の板には、白い狐の前に立つ小さな人影が描かれていた。
「神様は狐へ言った。人を困らせてはいかん、とな」
老人が胸を張ると、子供たちが少し笑う。
「すると狐は――」
今度は、ふんと鼻を鳴らした。
「余計なお世話じゃ」
また笑い声が上がる。
「神様は怒った。狐も怒った。それから二人は、三日三晩、山が揺れるほど喧嘩したそうな」
「神様と喧嘩するの?」
リンが目を輝かせる。
「すごい狐だな」
結人も絵を見つめた。
フィリアは、やはり何も言わなかった。
「ところが、四日目」
老人が板を替える。
今度は焚き火だった。小さな人影と白い狐が、その両側に座っている。
「二人は一緒に飯を食っておった」
「なんで?」
すかさず子供の一人が尋ねた。
「腹でも減ったんじゃろうな」
老人が笑う。広場にも笑いが広がった。
「分かるの。三日も喧嘩したらお腹減るの」
「そこは納得するんだ」
リンは当然だと言わんばかりに頷いた。
「それからというもの、狐と神様は、会えば喧嘩し、離れれば互いを探す。妙な仲になったそうじゃ」
次の板には山道が描かれていた。
先を歩く小さな人影と、その後ろをついていく白い狐。
「そのうち狐は、神様や旅人たちと、一緒に山の外へ出るようになった」
「旅したの?」
リンが少し身を乗り出した。
「そう伝わっておる」
「どこに行ったの?」
「さてな」
老人が次の板を出す。
けれど、そこには道しか描かれていなかった。
「狐は、神様のことを『ねえさま』と呼んでおったそうじゃ」
「ねえさま?」
リンが首を傾げる。
「お姉ちゃんなの?」
「そんなところじゃろう」
アイリスが、ほんの少し結人の胸元へ目を向けた。
結人も服の上から時計へ触れる。
返ってくる声はなかった。
「白い狐は、神様や旅人たちと、ずっと遠くまで旅をした」
老人は道だけが描かれた板を木箱の上に置き、子供たちを見渡した。
次の絵へ替える様子はなかった。
「……終わり?」
子供が聞く。
「ああ」
「続きは?」
「わしも知らん」
「なんで?」
老人は困ったように笑った。
「この昔話はな、わしが子供の頃から、ここで終わる」
「その前から?」
「ああ。わしに話してくれた者も、その先は知らなんだ」
子供たちが不満そうな声を上げる。
「変なの!」
「続きないの?」
「狐、どうなったの?」
老人は最後の板を、もう一度皆へ見せた。
「この辺りでは、白い狐は今も旅の続きを待っておる。そう言う者もいる」
「まだ待ってるの?」
リンが思わず尋ねた。
老人はリンを見る。
「さてな。百年かもしれん。千年かもしれん」
「そんなに?」
「昔話じゃからな」
そう言って、板を木箱へ戻す。
「じゃが、続きを知っておる者が現れれば、この話も、また先へ進むのかもしれん」
リンは木箱を見つめた。
「それまでは、狐も待つしかないんじゃろ」
昔話はそこで終わった。
子供たちは「続きが気になる」「狐はまだいるかな」と言い合いながら、広場から散っていく。
「面白かったの」
広場を離れながら、リンが言った。
「でも途中なの」
「そうだね」
「気になるの」
「そうだな」
「九本の尻尾も気になるの」
「ああ、そっちもなんだ」
「どうやって寝るの?」
「本人に聞くしかないな」
結人は笑った。
フィリアは、まだ黙っていた。
◇
街を出て、しばらく濡れた街道を歩いた。
やがて森の道へ入り、人通りが途絶えたところで、いったん荷物を下ろす。
アカツキが身体を少し大きくした。結人は預かっていた縄の束を入れた袋を、その背へずれないよう括りつける。
「約束の分、頼むな」
「任せておけ」
再び歩き出してから、リンが結人の胸元を見た。
「神様」
『何じゃ』
「さっきの狐、知ってる?」
『……なぜそう思う』
「笑ってなかったの」
「俺も気になった」
結人が言う。
『おぬしまで』
「知ってるの?」
リンがもう一度尋ねる。
木々の間を風が抜けた。
『……知っておる』
紅い耳が立つ。
「ほんとに?」
『うむ』
「九本ある?」
『ある』
「火も使う?」
『使う』
「怒ったら、山の向こうまで飛ばす?」
『……あやつなら、やりかねぬ』
「ほんとに強いの!」
「リン、質問が止まらなくなってる」
「だって気になるの」
結人も気になっていた。
けれど、確かめたかったのは狐の強さではなかった。
「フィリア」
『何じゃ』
「昔話で、ねえさまって呼ばれてたよね」
返事が途切れる。
「それも本当?」
しばらくして、小さな声が返った。
『……昔はな』
「そっか」
結人はそれ以上尋ねなかった。
リンが何か言いかけ、結人を見る。
「今は、このくらいにしておこうか」
「……うん」
リンはもう一度だけ時計のある胸元へ目を向け、前へ向き直った。
フィリアから声が返ってくることはなかった。
◇
その夜、野営地の焚き火は小さくなっていた。
アイリスとリンは毛布にくるまり、眠っている。アカツキも少し離れたところで身体を丸めていた。
「フィリア」
『起きておったか』
「うん」
結人は毛布から手を伸ばし、枕元の懐中時計を取った。
蓋を開くと、文字盤の上へ淡い光が集まる。姿を現したフィリアは、その縁に腰を下ろした。
「白い狐のこと、少しだけ聞いてもいい?」
フィリアは結人を見た。
『……答えられることだけじゃぞ』
「うん」
結人は声を落とした。
「友達?」
フィリアが膝を抱える。
『面倒な狐じゃ』
「答えになってない」
『口も悪い』
「それ、フィリアが言う?」
『何じゃと!?』
結人は少し笑った。
「ちょっと、いつもの感じがした」
『わらわはいつもわらわじゃ』
「そうだね」
フィリアは膝を抱えたまま、焚き火へ目を向けた。
小さな横顔を見てから、結人は尋ねる。
「会いたい?」
フィリアが動きを止めた。
「答えたくなければいいよ」
『……分からぬ』
小さな声だった。
『会いたいのか、会いたくないのか。自分でも、よう分からぬ』
「……そっか」
結人はそれ以上聞かなかった。
しばらく、二人で黙って火を見ていた。
薪の端が崩れ、小さな火の粉が上がる。
「そろそろ寝るよ」
『うむ』
結人は蓋を開いたままの時計を枕元へ戻した。
「おやすみ」
『おやすみ、結人』
目を閉じる。
やがて、結人の呼吸もゆっくりと整っていった。
フィリアだけが起きていた。
文字盤の上から、木々の隙間に見える夜空を仰ぐ。
老人の語る声が、まだ耳の奥に残っていた。
三日三晩の喧嘩。一緒に囲んだ火。そして、道だけが描かれた最後の一枚。
『……待っておる、か』
小さく呟く。
返事はない。
『まったく。いつまで待つつもりじゃ』
焚き火の中で、薪がかすかに音を立てた。
フィリアは目を閉じる。
そして、長い間口にしていなかった名を呼んだ。
『……白音』
以上で二章幕間も完結です。
少しずつパーティーがにぎやかになってきましたね。
一章は旧作の匂いが少し強めでしたが、二章から少しずつ分岐を始めていたりします。
(まだしばらくは新キャラクターが登場しますので、旧作の匂いは多少します。)
次は三章になりますが、また少しお時間をいただきます。
※少々仕事が忙しいので2~3週間程度お待たせしてしまうかもしれません。
なるべく早く皆様のもとへお届けできるよう善処します。
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今後ともよろしくお願いいたします。




