エピローグ ~紙芝居は道の続きをまだ知らない~
白い狐の昔話を聞いた街では、その日も広場の端に木箱が置かれていた。
市の店じまいを始める大人たちの傍らで、子供たちが老人を囲んでいる。買い物籠を抱えた子もいれば、遊んでいる途中で駆け寄ってきた子もいた。
「それから、白い狐は神様や旅人たちと、ずっと遠くまで旅をした」
老人が絵板を替える。
白い狐も、小さな神様もいなくなり、道だけが描かれた板が現れた。
前に座った子供が、木箱を覗き込もうとする。
「それで?」
「ここで、おしまいじゃ」
「またそこ?」
聞いたことのある子が、すぐに声を上げた。
老人は困ったように笑う。
「わしの知っておる話は、ここまでじゃからな」
「狐は?」
「この辺りでは、今も旅の続きを待っておると言う者もいる」
子供たちの視線が、もう一度、絵に戻った。
道には誰もいなかった。
◇
「今日は、ここで泊まろうか」
街を出た日の午後、結人は街道脇の林で荷物を下ろした。
日暮れまでは、まだ時間がある。木々の向こうに見える空は明るく、もう少し先へ進むこともできそうだった。
ただ、荷物を下ろした途端、肩と脇腹が揃って休憩に賛成した。
「さんせーいなの」
リンも、近くの木の根元に腰を下ろした。
「明るいうちに寝る場所作れるの」
「水も近いですね」
アイリスが、少し離れたところを流れる小川を見る。
アカツキは林の奥へ鼻先を向け、しばらく風を嗅いでから頷いた。
「騒がしい気配もない。ここならよかろう」
「じゃあ、決まり」
結人が背負い紐を解く横で、白音も荷物を下ろした。
白い尾が、草の上へ広がる。その一本が木の枝に引っかかり、白音は振り返ってそっと外した。
「九本あると、そこも大変なんだな」
「見ておらんで、そちらの枝をどけてくれぬか」
「はいはい」
結人が枝を持ち上げると、尾はするりと抜けた。
リンが座ったまま、二人の足元を指す。
「そこ、寝る場所にしない方がいいの」
「どうして?」
「雨が降ると、水が通るの。こっちの方が少し高いの」
白音が地面を見比べた。
「なるほど。では、この木の向こうまで使うかや」
「うん。そっちなら大丈夫なの」
敷物を広げる場所が決まると、皆がそれぞれ動き始めた。
結人は枯れ枝を集め、アイリスは鍋と食材を取り出す。白音は足元の小石や枝を退け、リンと一緒に寝床を整えた。
アカツキは荷物のそばへ伏せた。大きな身体に場所を取られ、リンが敷物を少しずらす。
「アカツキ、そこまで使うの?」
「まだ空いておろう」
「尻尾の分、忘れてたの」
「私のか?」
「白音のもなの」
白音が自分の尾を振り返った。
「少し寄せればよかろう」
九本の尾がまとまって動くと、今度はリンの敷物の端が隠れた。
「そっちじゃないの」
「注文が多いのう」
結人は枝を抱えたまま笑った。
前に林で泊まった時よりも、寝床を決めるのに少し時間がかかった。
火を焚く場所を整え、細い枝を組む。結人が火種を取り出そうとすると、白音が隣へしゃがんだ。
「それで、火をつけるのかや」
「うん」
「ならば、童がやろう」
白音が指先を伸ばした。
小さな青い火が灯り、乾いた枝の先へ移る。
細い枝がぱちりと鳴った。白音が手を引くと青い火は消え、燃え始めた枝だけが残った。
「助かる」
「このくらい、すぐじゃ」
結人は少しずつ薪を足した。
火が落ち着いてから、近くの平たい石へ懐中時計を置く。蓋を開けると、文字盤の上にフィリアが姿を現した。
『太い枝は、もう少し後でよいぞ』
「これ?」
『うむ。先に細いものを燃やせ』
結人は手にしていた枝を脇へ置き、別の一本を取った。
白音が時計を覗く。
「ねえさまは、そこでも口を出すのじゃな」
『役に立つことを言うておる』
「そうじゃのう」
『何じゃ、その返事は』
「褒めておる」
『そうは聞こえぬぞ』
鍋を運んできたアイリスが、笑いながら二人の間へ腰を下ろした。
「では、お湯が沸くまで見ていてくださいね」
『任せておけ』
「ねえさま、仕事をもろうたぞ」
『おぬしも、そこの薪を寄せい』
白音は言い返しかけてから、結局、薪を手の届くところへ寄せた。
やがて、鍋から湯気が上がり始めた。
切った野菜と干し肉を入れると、辺りに夕食の匂いが広がる。リンの耳が動き、白音の耳も同じ方を向いた。
「二人とも、もう少し待ってて」
結人が言うと、リンは鍋から目を離さず答えた。
「分かってるの」
「童は、何も言うておらぬぞ」
「耳が」
白音は自分の耳に触れた。
その横で、アカツキが小さく鼻を鳴らした。
「おぬしもじゃ」
白音に言われ、狼は静かに目を閉じた。
夕食ができあがる頃には、木々の間から差す光が低くなっていた。
アイリスが器にスープをよそい、結人がパンを配る。白音は受け取ったスープを少し取り分け、時計の前にも置いた。
「ねえさま」
『うむ』
小さな神様が椀を覗き込み、満足そうに頷く。
『よい味じゃ。アイリス』
「ありがとうございます」
アイリスは嬉しそうに笑ってから、自分の器を持った。
「もう少し塩を足そうか、迷ったんですけれど」
「お肉にも味があるから、ちょうどいいの」
リンが答える。
白音も一口飲み、静かに頷いた。
結人はパンをちぎり、湯気の向こうを見る。
白い髪に、夕日が薄く色をつけていた。白音の隣ではリンが熱い肉を冷まし、その向こうでアイリスが鍋に蓋をしている。
誰かが器を置くたびに、草が小さく鳴った。
「そういえば」
リンが白音を見た。
「白音は、自分の紙芝居、見たことないの?」
「童の?」
「この前、話した昔話」
結人が付け足す。
「神様と狐が、一緒に旅に出るやつ」
「ああ。あれか」
白音が器を膝へ下ろした。
「ないのう。童は、どのように描かれておった?」
「白くて、尾が九本あって。結構、大きかったよ」
「ふむ。そこは合うておるな」
「神様は小さかったの」
『狐と比べれば、そうなるであろう』
フィリアがすぐに口を挟んだ。
白音は文字盤の上を見た。
「そこも合うておるのう」
『今と比べるでない』
「何も言うておらぬぞ」
『顔に出ておる』
白音が笑った。
器を持つ手が少し揺れ、慌てて両手で支え直す。
「それで。どこまで話になっておった?」
「山の外へ、旅に出たところまで」
「その先は?」
「道の絵だけだった」
結人が答えると、リンも頷いた。
「おじいさんが子供の頃から、そこで終わるんだって」
「そうか」
白音は焚き火へ目を向けた。
細い枝が燃え尽き、赤い炭の上へ崩れる。
「最後に、狐は今も旅の続きを待ってるって。そう言う人もいるらしい」
結人は、老人から聞いたことをそのまま伝えた。
白音はしばらく黙っていた。
それから、自分の横に置かれた旅の荷物を見た。
「そこは、直してもらわねばならぬのう」
「今度、あの街を通ったら話してみようか」
「ふむ」
白音は少し考え、パンを一口かじった。
「しかし、今日は歩いて、飯を食っておるだけじゃぞ」
「途中で休んだの」
「休んだのう」
「これ食べたら、寝るの」
「……絵にするには、あまり盛り上がらぬ続きではないかや」
結人も今日一日を思い返してみた。
街を出て、歩いて、休んで、また歩いた。
大きな魔物にも会わなかった。道を間違えもしなかった。
今のところ、夕食に何か問題が起こる気配もない。
「まあ、そうかも」
「でも」
アイリスが器を持ったまま、少し首を傾げた。
「狐が元気にしているって、分かります」
白音が顔を上げた。
「途中で終わってしまったら、わたくしも、その後が気になりますから」
「……そういうものかや」
「はい」
アイリスは頷き、スープを一口飲んだ。
白音も、手元の器へ目を落とす。
「ならば、寝たままで終わらせるでないぞ」
「うん?」
「朝には、また出かけるのじゃからな」
結人は笑って頷いた。
「そこまで伝えるよ」
『その前に、道を覚えておくのじゃぞ』
フィリアが言った。
『また同じ街へ戻るつもりならな』
「そこは、地図があるから」
「リンも覚えてるの」
「わたくしも、宿まででしたら」
白音が皆を見回す。
「ずいぶん、頼もしいことじゃ」
「白音も一緒に行くんでしょ?」
リンが尋ねた。
「当然じゃ。童の絵を見に行くのに、童だけ置いていくでない」
『きっと、文句を言うぞ』
「ねえさまの方が先に言うのではないかや」
『言わぬ』
「神様、小さかったの」
『リン。その話はもうよい』
皆が笑った。
白音も笑いながら、冷め始めたスープを飲んだ。
◇
日が沈むと、林の中は急に暗くなった。
食器を洗い、荷物をまとめ、明日の朝に使うものを取り出しやすい場所へ置く。
リンは寝床を整えながら、白音の尾をちらりと見た。
「どうしたのじゃ」
「本当に、重ねて寝るの?」
「前にも言うたであろう」
「見たいの」
「寝るだけじゃぞ」
白音が座り直し、尾を身体の横へ寄せる。白い毛が重なり合い、敷物の上に柔らかい山ができた。
リンが感心したように耳を立てた。
「あったかそうなの」
「おぬしにも、あるであろう」
「一本なの」
「九本あれば、手入れも九本分じゃ」
「それは大変なの」
納得したらしく、リンは自分の紅い尾を抱えて横になった。
その隣でアイリスが毛布を引き上げる。
「おやすみなさい」
「おやすみなの」
「うむ。おやすみ」
白音は二人が落ち着くのを待ち、結人を見た。
「最初は童が起きておる。おぬしも寝てよいぞ」
「じゃあ、お願いしようかな」
アカツキとも見張りの順番を決めてから、結人も毛布へ入った。
身体を横たえると、思っていたより疲れていたことが分かった。目を閉じるだけで、すぐに眠れそうだった。
焚き火のそばには、開いた懐中時計が置かれている。
白音が薪を一本足し、その横へ座った。
「ねえさまは、まだ起きておるのかや」
『もう少しの』
「そうか」
白音はそれだけ言って、火へ目を向けた。
しばらくは、薪の燃える音だけが続いた。
結人がうとうとし始めた頃、白音の声が聞こえた。
「……絵の童は、九本とも、きちんと尾を描いてもろうておったのかや」
『描かれておったわ』
「重なって、八本に見えたりはせなんだか」
『自分で確かめるのではなかったか』
「気になっただけじゃ」
結人は目を閉じたまま、少し笑った。
「ちゃんと九本あったよ。リンが数えてた」
「ならばよい」
『寝かせてやれ』
「ねえさまも答えておったであろう」
『おぬしが聞いたからじゃ』
「うん。二人とも、声は小さめでね」
返事の代わりに、二つの声が揃って止まった。
少しして、白音が小さく笑うのが聞こえた。
結人は毛布を引き上げた。
明日の朝も、荷物をまとめて歩き出す。
今度は寝床を作る時、尾の分も忘れずに場所を空けておこうと思った。
◇
「狐、まだ一人で待ってるのかな」
広場で、子供の一人が尋ねた。
老人は、道だけの絵を見た。
「さてなあ」
「神様、迎えに来ないの?」
「来たかもしれんし、狐の方から出かけたかもしれん」
「おじいさんも知らない?」
「ああ。知らん」
老人は正直に答えた。
子供は不満そうに唇を尖らせたが、絵板からは目を離さなかった。
向こうの店先から、帰るように呼ぶ声がした。
買い物籠を抱えた子が立ち上がる。それをきっかけに、他の子供たちも少しずつ広場を離れ始めた。
「またやってね」
「ああ」
「続きが分かったら、教えて」
「分かったらな」
老人が頷くと、子供はようやく笑って駆けていった。
広場に残った老人は、古い絵板を一枚ずつ木箱へ戻した。
月の下の白い狐。
神様と喧嘩をする白い狐。
同じ火を囲み、共に道を行く白い狐。
最後の一枚をしまう前に、老人は板の端についた埃を、指でそっと払った。
白い狐が、また旅に出たことも。
火を囲んで笑い、明日の道を話していることも。
その古い紙芝居は、まだ知らない。




