幕間 第一話 ~狼少女は街の宿を知らない〜
さらに数日、野営地で身体を休めてから、結人たちは街へ向かった。
リンは脚を庇わずに歩けるようになり、結人の身体に残っていた重さも、ほとんど抜けていた。
森を抜けたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
「街なの!」
リンの耳がぴんと立つ。
街道の先に低い壁があり、その向こうにはいくつもの屋根が見えていた。
「思ったより早かったな」
「リンが道を間違えなかったからなの」
「助かりました」
アイリスが素直に頷く。
「森の中でしたら、地図よりリンさんに聞いた方が早いですね」
「そうなの!」
紅い尾が得意げに揺れた。
『調子に乗るでないぞ』
「神様より森のこと知ってるの」
『わらわは時空神じゃ。森の案内人ではない』
「負けたの?」
『勝負しておらぬ!』
「元気だなあ」
結人はそのやり取りを聞きながら、街へ続く道を見た。
今日は少し早いが、ここで泊まる予定だった。
「宿、探そうか」
「宿?」
リンが首を傾げる。
「泊まるところ」
「それは知ってるの」
「じゃあ、何が分からないの?」
リンは真顔で答えた。
「なんで今日は、森じゃなくて宿に泊まるの?」
「そこからか」
街へ向かいながら、リンが指を折る。
「森なら、寝るところあるの」
「うん」
「水もあるの」
「場所によるね」
「木もあるの」
「あるね」
「屋根も作れるの」
「それはリンならね」
「じゃあ、宿は何が違うの?」
「えーと」
結人は少し考えた。
「屋根」
「森にも作れるの」
「鍵」
「?」
「鍵を掛けて休める部屋」
「森も、場所を選べば安全なの」
「寝台」
「地面あるの」
「風呂」
リンの耳が動いた。
「お湯?」
「ある宿ならね」
リンが黙る。
「ちょっと興味出た?」
「出てないの」
「耳、動いたけど」
「風なの」
『無風じゃぞ』
「神様は黙ってるの」
◇
街へ入ると、今度はアイリスが先頭になった。
通りの店や看板を見ながら、宿を探して歩く。
「こちらを見てみませんか?」
「分かるの?」
「中を見ないと分かりませんが、大通りから少し離れていますので、夜は静かだと思います」
アイリスが一軒の宿を指した。
「入口も綺麗です」
「そこも見るの?」
「入口や窓まで手入れしている宿でしたら、部屋も綺麗にしているかもしれません」
「へえ」
リンも宿を見る。
「それから、荷を積んだ馬車が何台か止まっています」
「馬なの」
「旅人も泊まっているようですね。料金を聞いてみましょう」
「なるほどなの」
二人の後ろで、結人が笑った。
「立場逆転したな」
『森ではリン、街ではアイリスか』
足元では、子犬ほどの大きさになったアカツキが静かに歩いている。
白銀の毛並みは、その大きさでもよく目立った。
「アカツキ」
結人が小さな声で呼ぶと、青白い瞳がこちらを向いた。
「俺たち以外の人の前では、喋らないでね」
アカツキが一度頷く。
これまでも通りでは黙っていたから、既に心得ているらしい。
『どこぞの狼娘とは違うの』
「聞こえてるの!」
「声!」
結人とアイリスが同時に、小声で止めた。
リンが口を押さえる。
「フィリアのことも、人前では内緒ね」
「……分かってるの」
そう答える声は、今度は小さかった。
「いらっしゃい」
宿へ入ると、受付にいた年配の女将が顔を上げた。
「三人と……犬一匹かい?」
結人は足元を見る。
アカツキも結人を見上げた。
何も言わない。
「はい。大人しいです」
アカツキの目が、少しだけ細くなった。
「ならいいよ。ただし、寝台には上げないでおくれ」
「分かりました」
アカツキは黙っている。
『頑張っておるのう』
結人は笑いそうになるのを堪えた。
「二部屋、空いていますか?」
アイリスが尋ねる。
「空いてるよ。二人部屋が二つ、隣同士」
女将は一泊の料金と、夕食が付くことを説明した。
「湯場も使えるよ。今の時間なら、まだ空いていると思うけどね」
リンの耳が動く。
結人が頷くのを見て、アイリスが答えた。
「では、その二部屋でお願いします」
「二つ?」
リンがアイリスを見る。
「一緒じゃないの?」
「わたくしとリンさんで一部屋です」
「結人は?」
「隣です」
「アカツキも?」
「ご主人様と同じ部屋ですね」
「神様は?」
『わらわは時計と一緒じゃ』
女将が不思議そうにリンを見る。
リンが固まった。
「お供えは、部屋へ入ってからね」
結人がすぐに言い添える。
「……そうなの」
リンが慌てて頷いた。
「熱心だねえ」
女将が笑った横で、リンはもう一度口元を押さえた。
結人は宿代を払い、二本の鍵を受け取った。
◇
二階へ上がり、まずは皆で結人の部屋へ入った。
扉が閉まった途端、足元から低い声がする。
「……犬ではない」
「知ってる」
「私は神獣だ」
「知ってる」
「寝台にも上がらぬ」
「そこは守ってね」
「問題はそこではない」
結人が机へ懐中時計を置いて蓋を開くと、文字盤の上にフィリアが姿を現した。
『見事な忍耐であったぞ』
「笑っておるだろう」
『まさか』
「顔が笑っている」
『気のせいじゃ』
「神様、ちょっと楽しそうなの」
『リンまで言うでない』
アカツキが小さく息を吐く。
「人の街とは難しいものだな」
「喋らないだけで済んでるから、まだ楽だよ」
「それもそうか」
結人は鍵を一本、アイリスへ渡した。
「では、リンさん。こちらです」
「うん」
アイリスが隣の部屋を開け、リンを招き入れる。
寝台が二つ。小さな机と椅子。窓があり、壁際には荷物を置く棚があった。
リンが部屋を見回す。
「これが宿の部屋なの?」
「はい」
「これだけ?」
「何を想像していたのですか?」
「もっとすごいの」
「十分だと思いますけど……」
リンが寝台へ近づき、指で押した。
「沈むの」
「寝台ですから」
もう一度押す。
「地面より柔らかいの」
「それも寝台ですから」
リンがアイリスを見た。
「乗っていい?」
「もちろんです。ゆっくりどうぞ」
ぽす、と腰が沈む。
座った身体が少し弾んだ。
「お」
もう一度試そうと腰を浮かせかけたところで、声が掛かる。
「リンさん。跳ねるのは駄目です。脚に響きます」
「まだ跳んでないの」
「今から跳びそうでした」
「アイリスすごいの」
「顔に書いてありました」
「書いてないの!」
夕食までは、まだ時間があった。
二人で荷物を片づけてから、アイリスが布を取り出す。
「空いているうちに、お風呂へ行きましょうか」
リンの耳がまた動いた。
「お湯?」
「はい」
「いっぱい?」
「湯船があるそうです」
「……行くの」
二人が廊下へ出たところで、結人が隣の部屋から顔を出した。
布を抱えたリンと、前を向いた耳を見て笑う。
「やっぱり興味あったんだ」
「うるさいの!」
◇
宿の奥に、共同の湯場があった。
まだ早い時間だからか、他の客はいない。
リンは湯気の立つ湯船を見つめた。
「池なの」
「お風呂です」
「あったかい池なの」
「まあ……間違いではないです」
「入るの?」
「その前に身体を洗います」
「なんで?」
「お湯を汚さないためです」
「森の川は、そのまま入るの」
「川と違って、ここでは同じお湯を皆さんで使いますから」
「……街は決まり多いの」
「そうですね」
アイリスが少し笑った。
「でも、覚えてしまえば難しくありません」
「尻尾も?」
「洗います」
「全部?」
「全部です」
「乾かすの大変なの」
「お手伝いしますよ」
「自分でできるの」
「では、届かないところだけ」
「届くの」
「背中は?」
リンが腕を伸ばす。右から、左から。
「届くの」
「無理していませんか?」
「届いてるの!」
ひととおり洗って湯船に入ると、リンは大きく息を吐いた。
「……あったかいの」
「そうですね」
湯につかっている間は、珍しく言葉が少なかった。
けれど、湯上がりには別の問題が待っていた。
「……乾かないの」
紅い尾の毛が濡れ、細くまとまっている。
「もう一枚、乾いた布を使いましょう」
アイリスが布を広げた。
「自分で――」
「一緒にやれば、早く乾きますよ」
リンは尾を見てから、アイリスを見た。
「……じゃあ、お願いするの」
「はい。こちらへどうぞ」
リンが座ると、アイリスは尾を布でそっと挟んだ。
「痛くないですか?」
「平気なの」
「では、少しずつ」
ぽん、ぽんと押さえ、水分を取っていく。
リンはしばらく、その手元を見ていた。
「アイリス、慣れてるの?」
「いいえ」
「上手なの」
「ありがとうございます」
「森で尻尾が濡れた時は、走れば乾くの」
「今日は走りませんよ」
リンが口を閉じる。
「脚」
「分かってるの」
「ならよろしいです」
リンが少しだけ笑った。
◇
夕食は宿の食堂だった。
「これも、宿のお金に入ってるの?」
リンが目の前の料理を見る。
「そうだよ。夕食も込みなんだって」
「寝るお金なのに?」
「食事付きの宿代です」
アイリスが説明した。
「そういうのもあるの?」
「あります」
「街すごいの」
パンと野菜のスープ。それから焼いた肉。
リンが肉を見た。
「食べていいよ」
「知ってるの」
即答して、手を伸ばす。
「そこはもう迷わないんだ」
「ご飯なの」
「うん」
「リンのなの」
「うん」
「食べるの」
「どうぞ」
足元では、アカツキも黙って食べていた。
女将が用意してくれた皿の前で、白銀の耳だけが時折動く。
近くの客がちらりと見た。
「賢い犬だな」
アカツキの耳が、ぴくりと動く。
それだけだった。
「本当、大人しい犬だねえ」
皿を運んできた女将も目を細める。
アカツキは何も言わなかった。
結人は笑わないように、前だけを見ていた。
◇
食後は一度、結人の部屋へ集まった。
扉が閉まる。
「犬ではない」
「犬って呼ばれたの、今日二回だっけ?」
「三回だ」
「数えてたの?」
「当然だ」
『器が小さいのう』
「おぬしに言われたくない」
『何じゃと?』
「神様とアカツキ、喧嘩してるの」
「平常運転だ」
結人が笑うと、アカツキは小さく鼻を鳴らした。
◇
夜。
アイリスとリンは自分たちの部屋へ戻り、明かりを落として、それぞれの寝台へ入った。
宿は昼間より静かになっていた。
それでも、リンはまだ起きている。
「眠れませんか?」
暗がりからアイリスの声がした。
「違うの」
「では?」
「音が多いの」
遠くの馬車。誰かの笑い声。扉が閉まる音。
廊下を歩く足音が階段へ向かい、下の階では食器が触れ合った。
「森より?」
「森も、音いっぱいなの」
「そうなのですか?」
「うん」
虫、葉、風。鳥や獣の声。水の流れる音。
「でも、森の音は分かるの」
「これは何の音、と?」
「うん」
「街は?」
「人が多すぎるの」
少し不満そうな声だった。
「誰がどこを歩いてるか、分かんないの」
「なるほど」
「森より難しいの」
アイリスが少し考えた。
「でしたら、街ではわたくしも気をつけて見ます」
「アイリスが?」
「はい」
「何を見るの?」
「宿や店、人の様子です」
「道も?」
「分かる範囲で」
「お金も?」
「はい」
「決まりも?」
「知っていることなら、お伝えします」
少し間が空いた。
「じゃあ、街はアイリスが先生なの」
アイリスは一瞬黙り、それから柔らかい声で答えた。
「では、森ではリンさんが先生ですね」
「うん」
即答だった。
「リン、いっぱい知ってるの」
「知っています」
「今度、教えるの」
「お願いします」
「水の場所も」
「はい」
「雨が降るのも」
「はい」
「食べられる草も」
「ぜひ」
「毒あるやつも」
「それは必ずお願いします」
「分かったの」
布団が小さく動く。
廊下でまた足音がした。リンの耳は動いたが、今度はその音を追い続けなかった。
「アイリス」
「はい?」
「隣にいる?」
「いますよ」
「結人も?」
「隣の部屋です」
「アカツキも?」
「ご主人様と一緒です」
「神様も?」
『起きておるぞ』
「神様まで返事したの」
『呼んだであろう』
リンが小さく笑った。
「じゃあ、寝るの」
「おやすみなさい」
『おやすみ、リン』
「おやすみなの」
◇
翌朝は雨だった。
屋根を叩く音で、リンが目を開ける。
しばらく天井を見てから、荷物の方へ顔を向けた。
森なら、雨の入り方を確かめる。荷物の下に水が回っていないかも見る。
けれど、ここでは毛布も床も濡れていなかった。
壁際の棚に置いた荷物も、乾いたままだ。
隣ではアイリスがまだ眠っている。
「……なるほどなの」
「……何が、ですか?」
寝ぼけた声が返った。
「起きてたの?」
「今、起きました」
「宿、ちょっと分かったの」
アイリスが目を擦る。
「何がですか?」
「お金を払う理由」
「そうですか」
「屋根も、寝るところも、ご飯も。先に用意してあるの」
「はい」
リンは毛布へ目を落とした。
雨が降っているのに、今から屋根を作る必要はない。濡れない場所を探しに出なくてもいい。
「自分で用意しなくても、休めるの」
「そうですね」
「ちょっと楽なの」
アイリスが笑った。
「それは、よかったです」
リンが窓の外を見る。
雨は少し強くなっていた。
「でも」
「はい?」
「森の方が安いの」
「それはそうですね」
アイリスが笑った。
リンも、少し笑った。




