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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第二章 狼少女は帰る場所を探す

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第十二話 ~帰る場所はそこにある~

『結人、起きよ』

 フィリアの声で、結人は目を開けた。

『リンが、一人で出ていった』

「……リン?」

 まだ薄暗い。

 寝起きの頭で周囲を見る。毛布、焚き火、荷物。近くで眠るアイリスと、身体を丸めたアカツキ。

 リンが使っていた場所だけが空いていた。

「いつ?」

『今しがたじゃ。荷物を持っておった。呼び止めたが、そのまま森へ入ってしまった』

 眠気が飛んだ。

「アイリス、アカツキ」

 結人が声を掛けると、アイリスが目を開けた。白銀の狼も顔を上げる。

「リンが森へ出ていった。追いかけよう」

「……はい」

 アイリスがすぐに身体を起こした。

 結人も立ち上がる。

 昨日よりは身体が軽い。指先の感覚も戻っていた。ただ、力を入れると、まだ腕の奥が重かった。

「ご主人様、お身体は」

「歩ける。無理はしないよ」

 時計を胸元へ戻し、靴を履く。

「リンの脚も治ってない。早く見つけたい」

「出ていったばかりなら、まだ近くにいると思います」

 アカツキは既に立っていた。

「追える?」

「ああ」

 リンが寝ていた場所へ鼻先を寄せ、次に森へ向ける。

「匂いは残っている」

「頼む」

 アカツキは木々の間を通りやすい大きさに身体を縮めると、結人たちに歩調を合わせて進み始めた。

「こちらだ」

 野営地を離れ、細い木々の間へ入る。

 リンの姿はまだ見えない。

「どれくらい先?」

「そう遠くない」

「よかった」

「ただ」

 アカツキが一度立ち止まり、踏み倒された草へ鼻を寄せた。

 その跡はまっすぐではなく、何度も木の根元へ寄っていた。

「足取りが乱れている」

「脚か」

「おそらく」

 結人は思わず歩調を速めた。

「ご主人様」

「大丈夫」

「無理はなさらないでください」

「リンに言えなくなるもんな」

「そういう問題ではありません」

「はい」

 足を落ち着かせ、アカツキの後を追う。

 しばらくして、白銀の耳が前を向いた。

「近い」

「どこ?」

「この先だ」

 木々の向こうから、小さな水音が聞こえる。

 沢があるらしい。

「私が先に行こう」

 アカツキが言うと、アイリスが口を開いた。

「待ってください。わたくしが行きます」

「一人で?」

「はい」

 結人がアイリスを見る。

「理由、聞いていい?」

 アイリスは少しだけ視線を伏せた。

「リンさんの怖がっていることに、少し心当たりがあります」

 結人は昨日の食卓を思い出した。

 パンへ手を伸ばせずにいたリン。その隣へ座ったアイリス。

「分かった。俺たちはここにいるから、何かあったら呼んで」

「はい」

 アイリスが一人で、沢の方へ向かった。


 ◇


 リンは沢辺の倒木へ座っていた。

 隣には小さな袋が置かれている。右脚を伸ばし、左足だけを足元へ引き寄せていた。

「リンさん」

 紅い耳が動く。

「……アイリス」

「はい」

「どうして来たの」

「探しに来ました」

 リンは目を伏せた。

「隣、よろしいですか?」

「好きにするの」

「では」

 アイリスは少し間を空けて座った。

 水が流れる音がする。

 しばらく、二人とも話さなかった。

「帰らないの」

 先に口を開いたのはリンだった。

 アイリスはすぐには返事をせず、その横顔を見る。

「理由を聞いてもいいですか?」

「仕事できないの」

「脚が痛みますか?」

「走れない。案内もできないの」

「今日は、休ませた方がいいですね」

「なのに」

 リンが左の膝を抱えた。

「今日もご飯くれるって言ったの」

「はい」

「おかしいの」

「……どうして、そう思うのですか?」

「何もできなくても、くれるって言ったの!」

 リンがアイリスを見る。

「昨日も、アイリスが」

 一度、言葉が止まった。

「一緒に食べたいって言ったの」

「言いました」

「それだけで?」

「はい」

「それだけで、ご飯くれたの」

 アイリスが頷く。

 リンの耳が伏せた。

「それが怖いの」

 最後の声は小さかった。

 アイリスは、自分の膝に置いた手を見下ろした。

 しばらく考えてから、ゆっくり尋ねる。

「いつ、もらえなくなるか分からないから……ですか?」

 リンが顔を上げた。

「仕事の分なら、分かるの」

「はい」

「できなくなったら、ご飯もなくなるの。それなら分かるの」

 指が、隣の袋へ伸びる。

「でも、一緒に食べたいって。それだけじゃ、分かんないの」

「いつまであるか、分からない?」

「……うん」

 リンが袋の紐を握った。

「今はくれても、そのうちなくなるの」

 アイリスは黙って聞いた。

「役に立たないのに、ずっとくれるわけないの」

 伸ばした右脚へ、リンの視線が落ちる。

「それを待っているのが、怖かったんですか?」

 返事はなかった。

 ただ、袋の紐を握る指に力が入った。

「わたくしも」

 アイリスが言う。

「似たようなことを考えていました」

「アイリスも?」

「はい」

「でも、アイリスはいっぱい仕事できるの」

「今は、少しだけ」

「少しじゃないの」

「ありがとうございます」

 アイリスが小さく笑った。

「でも最初は、何をすればご主人様が困らないのか。そればかり考えていました」

「なんで?」

「役に立たなければ、ここにいてはいけないと思っていたからです」

 リンがアイリスを見た。

「食事をいただく時も、好きな服を選んでいいと言われた時も。何かを返さなければいけないと思っていました」

「同じなの」

「たぶん、少し似ています」

「でも、アイリスは逃げてないの」

「そうですね」

「なんで?」

 アイリスは少し考えた。

 最初の食卓も、自分で服を選んだ時のことも、まだ覚えている。

 すぐに安心できたわけではなかった。

「分からないままでも、いていいのだと、少しずつ分かってきたからだと思います」

「何もできなくても?」

「できない日があっても」

「ご飯も?」

「出ます」

「なんで?」

 アイリスがリンを見た。

「わたくしが昨日、リンさんと一緒に食べたかったのと、同じなのかもしれません」

 リンは何も言わなかった。

「わたくしも、まだ気になる時はあります。でも、一緒にいたいからという理由でも、いいのだと思います」

 すぐに納得した顔にはならなかった。

 リンは袋から手を離さず、ぽつりと言う。

「でも、リンは肉盗んだの」

「そうですね」

「結人と戦ったの。泥だらけにしたの」

「わたくしの服にも飛びました」

「……ごめんなさいなの」

「洗えば落ちました」

「脚も怪我したの。今は仕事できないの」

 リンが指を折る。

「迷惑ばっかなの」

「そればかりでしょうか」

「そうなの! いっぱいあるの!」

 アイリスも、指を一本立てた。

「森で道を教えていただきました」

「仕事なの」

 二本目。

「食べられるものを教えていただきました」

「仕事なの」

 三本目。

「危険な場所も教えていただきました」

「仕事なの」

 四本目。

「岩牙猪から、ご主人様を助けていただきました」

「それも仕事なの」

「アカツキさんへ声を掛け続けてくださったのは?」

 リンの口が止まる。

「リンさんです」

「でも」

「それから」

 アイリスは指を下ろした。

「これは、仕事ではありません」

「何?」

「一緒に食事をして、一緒に話して。わたくしは楽しかったです」

 リンがアイリスを見る。

「また、一緒に食べたいです」

 袋を握る手が少し緩んだ。

「迷惑、掛けても?」

「掛けた時は、まず謝ります」

「それだけ?」

「直せるものなら、直します」

「直せなかったら?」

「一緒に考えます」

 アイリスは、そこで少し言葉を切った。

「でも、迷惑を掛けたからといって、いなくならなければいけないとは思いません」

 水が流れる。

 リンはしばらく、その音を聞いていた。

「結人も?」

「ご主人様も、リンさんを探しに来ています」

「怒ってる?」

「……少しは、怒られると思います」

 紅い耳がさらに伏せる。

「帰らない方がいいの」

「それは別です」

「別?」

「怒られることと、帰る場所がなくなることは、同じではありません」

 リンが目を上げた。

 アイリスは小さく笑う。

「ご主人様はきっと、見つかって安心した後で怒ります」

「嫌なの」

「わたくしも隣にいます」

「アイリスも怒る?」

「少しだけ。心配しましたから」

「もっと嫌なの」

「では、一緒に帰って、話しましょう」

「一緒に怒られる?」

「そちらは、リンさんだけかと」

「裏切ったの!」

 アイリスがくすりと笑った。

 リンも口を尖らせたが、さっきまでとは少し違う顔になっていた。

 それでも、まだ立ち上がらない。

「アイリス」

「はい」

「帰ったら、仕事ある?」

「まずは脚を休めてください」

「ご飯は?」

「あります」

「何もしなくても?」

「あります」

「明日も仕事できなかったら?」

「ご飯はあります」

 リンが黙る。

 指先で、袋の紐を撫でた。

「それ、いつまで?」

 アイリスは答えを急がなかった。

 沢の向こうで、木々の色が少しずつ明るくなっている。

「わたくしは、今日も明日も、リンさんと一緒に食べたいです」

 リンが顔を上げる。

「リンさんも、一緒にいたいと思ってくださるなら」

 アイリスは立ち上がり、手を差し出した。

「帰りませんか?」

 灰色の瞳が、その手を見る。

 リンはすぐには取らなかった。

「そこに」

「はい」

「リンの場所も、ある?」

 アイリスは迷わなかった。

「あります」

 リンが小さく息を吸った。

 脚は痛い。明日のことも、まだよく分からない。

 それでも、差し出された手を取った。

「……じゃあ、帰るの」

「はい」

 アイリスはリンの腕を支え、ゆっくり立ち上がらせた。


 ◇


 木々の間から紅い耳が見えると、結人は大きく息を吐いた。

「リン」

 耳がぴくりと動く。

 アイリスに支えられたリンが、結人を見た。

「……ただいまなの」

「おかえり」

 まず、それだけ言った。

 リンが少し驚いた顔をする。

「あと」

「……うん」

「ちょっと怒ってる」

「そうなの」

「黙って、その脚で一人で森へ入っただろ。何かあったらと思って、心配した」

 リンが目を伏せた。

「……ごめんなさいなの」

「うん」

「もうしないの」

「何かあったら、先に話して。ちゃんと聞くから」

「……分かったの」

 結人は頷いた。

「見つかってよかった」

 リンが顔を上げる。

「一緒にいる仲間なんだから」

 伏せていた耳が、ゆっくり持ち上がった。

「うん」

 アカツキがそばへ寄る。

「歩けるか?」

「歩けるの」

 リンがアイリスの腕から手を離しかけた。

 一歩踏み出して、止まる。

 右脚が痛かった。

「乗るか?」

 リンはアカツキを見た。

「まだ嫌いなの」

「ああ」

「許してないの」

「分かっている」

 白銀の背へ目を向ける。

 昨日、自分を落とさずに運んだ背だった。

「でも、運んでくれる?」

「もちろんだ」

「……ありがとなの」

 アカツキが、リンの乗りやすい大きさまで身体を変えた。

 低く伏せると、リンはアイリスに支えられながら背へ乗る。

「落とさないで」

「承知した」

「落としたら、嫌いが増えるの」

「それは困るな」

「いっぱい増えるの」

「気をつけよう」

 アカツキがゆっくり立ち上がった。

 リンは白銀の毛へ手を置き、今度は自分から帰る方角を見た。


 ◇


 野営地へ戻る頃には、木々の間へ朝の光が差していた。

 リンの小さな袋も、持って帰ってきた。

 アカツキの背から降りたリンは、毛布のそばへ座り、元々置いてあった場所へ袋を戻す。

 置いても、指はまだ紐を掴んでいた。

「リン」

「何?」

「腹減った?」

 少し考える。

「減ったの」

「じゃあ、飯にしよう」

「仕事してないの」

「うん。してなくても、腹は減るだろ」

 リンがアイリスを見た。

 アイリスは何も言わず、小さく笑う。

「……食べるの」

「了解」

 結人も笑った。

 昨日と同じ野営地に、同じ顔がある。

 その人たちのところへ帰りたいと、リンは自分で決めた。

 置き直した袋の紐から、ようやく手を離した。


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