第十一話 ~仕事がなくても飯は出る~
吐き気が少し引くまで、結人はその場から動けなかった。
「……指、戻ってきた」
右手をゆっくり握り、開く。
まだ鈍い。けれど、さっきよりは動いた。
「ご主人様」
「立たないよ」
「まだ何も言っておりません」
「顔に書いてある」
「書いておりません」
「リンもそれ言ってたな」
「リンは字書けないの」
「そういう話じゃないよ」
少し離れた岩のそばで、リンが右脚を伸ばして座っていた。
その前には、白銀の巨狼がいる。
軽口が途切れると、また静かになった。リンは巨狼を見て、巨狼もその視線から逃げなかった。
「そういえば」
結人は胸元の懐中時計へ手を伸ばす。
「もう一人、紹介したい相手がいるんだ」
巨狼が視線を向けた。
「紹介?」
「さっきから俺たちと話してた人」
『神じゃ』
「ああ、うん。それもちゃんと言うから」
「誰かいるのか? 声は聞こえぬが」
「今は、俺たち三人にだけ聞こえてる」
結人は落とさないように気をつけながら、時計を手のひらへ乗せた。
「この時計を通して話せるんだ。アイリスもリンも、自分で話したいって決めて繋いだ」
巨狼が二人を見る。
「お前も、望むなら声が聞こえるようにできる。姿も見えるよ」
「望まなければ?」
「何もしない」
「何かを命じられることは?」
「無理に言うことを聞かせるものじゃない。話ができるようになるだけだよ」
巨狼はしばらく懐中時計を見つめた。
「……ならば頼もう」
「分かった」
結人が膝の上で蓋を開く。
文字盤の中央で、青いガラス飾りが淡く光った。
「ここに触れて」
巨狼が自分の前脚を見る。次に、時計を見た。
「爪では壊しそうだな」
「俺も今それ考えてた」
白銀の鼻先が、ゆっくり近づく。
青いガラス飾りへ触れた瞬間、光が一度だけ強くなった。
『これでよかろう』
文字盤の上に、小さな少女が姿を現す。
白い着物。淡い氷青の長い髪。
巨狼の青白い瞳が、僅かに見開かれた。
「……見えた」
『初めまして、と言うべきかの』
「声も聞こえる」
『そうか』
「フィリアっていう女神だよ」
結人が紹介すると、リンが横から付け足した。
「神様、ちっちゃいの」
『そこを紹介に使うでない』
「本当なの」
巨狼はフィリアをじっと見た。
「なるほど」
『何じゃ』
「確かに小さい」
『リン! 余計なことを教えるでない!』
「リンのせいじゃないの!」
「見れば分かる」
『おぬしまで!』
結人は地面に座ったまま笑った。
「元気そうで何より」
『おぬしは笑っておらず休め』
「はい」
リンも少しだけ口元を緩めた。
それから、巨狼へ向き直る。
「お前、名前は?」
返事がなかった。
「ないの?」
「思い出せぬ」
「名前まで?」
「ああ。名を呼ばれていた記憶はある。だが、その名が出てこぬ」
「じゃあ不便なの」
「そうかもしれぬ」
「白いの、だと駄目?」
「私は構わぬが」
「リンが困るの」
「お前がか」
「うん」
リンは巨狼を見上げた。
白銀の毛。あの夜にも見た色。
けれど、見返してくる瞳には、もうあの眩しい光がなかった。
「……前は、お前を見ると」
少しだけ言葉を探す。
「寒い夜みたいだったの」
白銀の耳が僅かに伏せられた。
「あの日の?」
「うん」
リンは、それ以上あの夜のことを話さなかった。
「でも今は」
木々の隙間から差す光が、白銀の毛へ落ちていた。
「夜が終わったみたいなの」
巨狼は黙って聞いていた。
「だから」
リンが少し考えて、言う。
「アカツキ」
「アカツキ?」
「夜が終わって、朝になる時なの」
巨狼は、確かめるようにその名を繰り返した。
「……アカツキ」
「嫌?」
「いや」
白銀の頭がゆっくり下がる。
「よい名だ」
「じゃあ、決まりなの」
リンの尾が小さく揺れた。
『アカツキか。わらわも覚えておこう』
「神様は忘れそうなの」
『忘れぬわ』
「ほんと?」
『おぬしはわらわを何だと思っておる』
「ちっちゃい神様」
『そこから離れよ!』
さらにしばらく休んで、結人はようやく立てる程度には回復した。
とはいえ、立ち上がった途端に身体が傾く。
「ふらついています」
「気のせい」
「気のせいではありません」
「はい」
アイリスの肩を借りて、息を整えた。
長く歩くのは、まだ難しそうだった。
「結人も使えないの?」
リンが尋ねる。
「今の俺?」
「うん」
「立ってるだけで精一杯かな。荷物を持つのも厳しい」
リンが自分の右脚を見る。
戦いのせいで、また腫れが強くなっていた。
「リンもなの」
「リンの脚も休ませよう」
「二人とも、荷物持てないの」
「そうなるね」
「アイリスだけ?」
「今のところは」
アイリスが答えた。
「神様は?」
『わらわも数へ入れろ』
「神様、荷物持てる?」
『……』
「アイリスだけなの」
『悔しい』
「そこで張り合うんだ……」
野営場所へ戻ることにはなったが、その方法が決まらない。
「俺は少しずつ歩いて、途中で休めば何とかなるかな」
「お支えします。ただ、リンさんも一緒にとなると……」
「歩けるの」
リンが岩へ手をついて立つ。
右脚を踏み出したところで、顔が歪んだ。
「っ」
「歩けてないよ」
「一歩歩いたの」
「あと何百歩あると思ってるの」
「歩くの」
「無理だって」
「仕事なの」
「今日はもう仕事しなくていい」
リンの動きが止まった。
「……何で?」
「怪我してるから」
「でも、案内できないの」
「今は休もう」
「走れないの」
「うん」
「何もできないの」
結人が答える前に、リンが顔を上げた。
「じゃあ、ご飯は?」
「出るよ」
「……」
「何?」
「もう仕事できないの」
「朝は案内してくれただろ」
「でも、明日は?」
結人は一瞬、言葉に詰まった。
リンが気にしているのは、今日どれだけ働いたかだけではないらしい。
「明日も痛かったら休もう。飯は出るよ」
「なのに?」
「うん」
「なんで?」
当たり前のつもりで答えていたことが、リンには当たり前ではなかった。
「一緒にいる仲間なんだから。怪我した日に飯抜きとかしないよ」
「でも」
「治るまで休んでいい」
「それで、ご飯出る?」
「出る」
リンの耳が少しずつ伏せていく。
「変なの」
小さい声だった。
「リン」
アカツキが口を開く。
「私が運ぼう」
「嫌なの」
「そうか」
あっさり引いた。
リンが顔を上げる。
「もっと言わないの?」
「嫌なのであろう?」
「うん」
「ならば無理にはせぬ」
「……変なの」
「先ほども聞いたな、その言葉」
「みんな変なの」
アカツキは少し首を傾け、それから身を低くした。
「では、小さくなって待っていよう」
白銀の巨体が淡く光る。
「え」
数メートルあった身体が、見る間に縮んでいった。
最後に残ったのは、白銀の子犬ほどの狼だった。
リンが目を丸くする。
「ちっちゃいの」
「この程度までなら変えられる」
「神様と同じくらい?」
『一緒にするでない』
「今は私の方が大きい」
『おぬしまで乗るな』
結人が少し笑った。
「大きさを選べるんだ」
「必要に応じて変えているだけだ」
リンは小さくなったアカツキを見つめた。
次に、自分の右脚を見る。
帰る方角へ目を向けても、痛みが消えるわけではなかった。
「……リンが乗れるくらいにも、なるの?」
「なる」
「その大きさにしてみるの」
「分かった」
白銀の身体が再び光る。
今度は、リンが背へ乗れる程度の大きさになった。
アカツキは何も言わずに待っていた。
「……乗るの」
「ああ」
「でも、許したわけじゃないの」
「分かっている」
「嫌いなのも、そのままなの」
「それでよい」
アカツキが身を伏せる。
リンは背へ手を置き、一度だけためらってから、ゆっくり身体を預けた。
「落としたら、もっと嫌いになるの」
「承知した」
アカツキは、リンの姿勢が落ち着くまで動かなかった。
◇
途中で何度も休み、野営地へ戻る頃には日が傾き始めていた。
アカツキに低く伏せてもらい、リンが背から降りる。アイリスが腕を支え、毛布の上へ座らせた。
結人もその近くへ腰を下ろす。
二人の様子を確かめてから、アイリスは食事の支度を始めた。
火を起こし、鍋を掛ける。切った野菜をまとめていると、リンが身体を起こしかけた。
「手伝うの」
「脚を休めてください」
「野菜切るくらいならできるの」
「こちらはもう終わりました。あとは鍋へ入れるだけです」
「じゃあ、薪」
「足りています」
「水」
「ございます」
リンの耳が伏せる。
「仕事、ないの」
「今、お願いしたいことはありません。休んでいてください」
「ほんとに?」
「はい」
リンは右脚を伸ばしたまま、左の膝を抱えた。
アイリスの手は動き続けている。鍋の中から、少しずつ食事の匂いが漂ってきた。
やがて、スープとパンが配られた。干し肉も、野菜もある。
リンの前にも、皆と同じように置かれた。
「どうぞ」
アイリスが言う。
リンは動かなかった。
「リン?」
結人が呼ぶと、少女は目の前の器を見たまま尋ねた。
「これ、リンの?」
「そうだよ」
「もう案内もできないの」
「今は休む時だよ」
「じゃあ……」
その先の言葉が出てこない。
アイリスがリンの隣へ座った。
「リンさん」
「何?」
「今日は、わたくしがリンさんと一緒に食べたいから用意しました」
リンが顔を上げる。
「それでは駄目ですか?」
「アイリスが?」
「はい」
「リンと?」
「はい」
「リンの、仕事の分じゃなくて?」
「はい。一緒に食べたいんです」
リンはもう一度、目の前の器を見た。
「理由になる?」
「わたくしにとっては」
アイリスが小さく笑う。
「十分です」
リンがゆっくりパンへ手を伸ばした。
一口食べて、止まる。
誰も取り上げなかった。何かをしろとも言われない。
もう一口、食べる。
「……おいしいの」
「よかったです」
その後は、最後まで食べた。
◇
結人は早めに横になった。
指先はまだ少し鈍く、身体も重い。
「今日は見張り免除です」
「そこまで?」
「そこまでです」
「了解」
『素直でよろしい』
「逆らう元気がないだけ」
結人は懐中時計を開いたまま、枕元へ置いた。
文字盤の上で、フィリアが腕を組む。
『今はわらわが見ておる。安心して寝よ』
「頼む」
「ご主人様、もう目を閉じてください」
「はい」
目を閉じると、焚き火の小さな音が聞こえた。
近くではアカツキも身体を丸めている。
リンはその白銀をしばらく見てから、毛布へ横になった。
◇
夜明け前。
リンは目を開けた。
しばらく動かず、周囲の寝息を聞く。
それから、誰も起こさないように、ゆっくり身体を起こした。
右脚が痛い。
体重を掛けると、思わず息が止まった。それでも、片手で身体を支えれば立てる。
小さな袋を手元へ引き寄せる。
結人は眠っていた。その近くにアイリスがいて、アカツキも目を閉じている。
リンは夕食の鍋を見た。
案内をした。フェンリルにも声を掛けた。
けれど、それはもう終わったことだった。
この脚のままで、次は何ができるのだろう。
何もできなくても、ご飯は出るという。
実際に出てきた。食べた。最後まで、誰にも取り上げられなかった。
「……変なの」
おいしかった。
また、あの場所に座って食べたいと思ってしまった。
それが、どうにも落ち着かなかった。
リンは袋を背負う。
焚き火の明かりを避け、音を立てないように森の方へ歩き出した。
『リン』
声が直接、頭へ届く。
足が止まった。
「……神様」
『どこへ行く』
「散歩なの」
少し間があった。
『その脚で、荷物まで持ってか?』
リンは答えなかった。
『怒っておらぬ。じゃが、散歩には見えぬぞ』
振り返ることもできなかった。
「ちょっとだけなの」
『リン』
「大丈夫なの」
『待て』
それでも、リンは歩いた。
右脚を庇い、木へ手をつきながら、明かりの外へ出ていく。
『リン』
今度は返事をしなかった。
紅い髪が木々の陰へ隠れる。
フィリアは、すぐに呼び掛ける相手を変えた。
『結人、起きよ』
眠る結人へ、鋭い声が届く。
『リンが、一人で出ていった』




