第十話 ~神獣は獣へ還らない~
「……逃げろ」
リンの目が見開かれた。
次の瞬間、フェンリルの青白い瞳を、さらに強い光が覆う。
「下がって!」
結人が叫んだ。
空気が一気に冷える。川も沢もない場所で、白銀の巨狼の周囲に水が集まっていく。
『来るぞ』
水を巻き込んだ風が唸る。無数の氷が、空中に浮かび上がった。
「岩の方へ!」
「あの倒木の脇なの!」
リンが先を指す。アイリスが肩を貸し、二人が動き出した。
結人は最後尾へ回る。
「ご主人様、右です!」
振り返ったアイリスの声に、結人も目を向けた。
幹の脇を抜け、氷が飛んでくる。
「風!」
横から風をぶつける。一本、二本と軌道が逸れ、木へ突き刺さった。
すべてを止めることはできない。結人も幹の陰を伝って走った。
「その先、二本の木の間!」
「はい!」
リンが指す隙間へ、アイリスが身体を向ける。結人も二人を追った。
背後で地面が鳴る。
「追ってくる!」
「予定していた斜面の手前まで行きましょう!」
アイリスが答える。その肩につかまったリンは、右脚を着くたびに顔を強張らせていた。
巨狼の視線は、リンを追い続けている。
この足取りでは振り切れない。加速を使える隙もなかった。
「アイリス、さっきの声」
「わたくしにも聞こえました」
「リンは?」
「聞いたの!」
リンが振り返らずに答える。
「逃げろって言ったの!」
聞き間違いではない。
こちらを追いながら、逃げろと言った。襲い掛かる身体の中で、それを止めようとしている意思がある。
「岩の裏へ!」
「分かってるの!」
三人は大きな岩の脇を回り込んだ。
すぐ後ろには太い木がある。あそこまで行けば、もう一度姿を隠せる。
だが、岩の端から白い頭が覗いた。
「ご主人様、頭が下がりました!」
「散って!」
結人は左へ飛び退く。アイリスがリンの手を引き、右へ向かった。
爪が地面を抉る。
リンの右脚が踏ん張り切れず、二人の足が鈍った。
「先に入るの!」
リンがアイリスを木陰へ押し出す。
巨狼の頭が動いた。その視線が、左へ逃れた結人を捉える。
「リン、木の陰へ!」
意識が外れた一瞬を、リンは逃さなかった。
地面を蹴る。
加速した紅い身体が、幹の向こうへ滑り込んだ。
「っ……!」
止まった途端、右膝が落ちる。リンは木へ手をつき、どうにか倒れずに耐えた。
「リンさん!」
「大丈夫なの……!」
「そこで待って! 俺も行く!」
結人が二人の方へ戻ろうとしたとき、フェンリルの足が止まった。
こちらへ向き直りかけた頭が、不自然な角度で留まっている。
「ご主人様、止まっています!」
巨狼は地面へ爪を立てていた。
頭を振る。こちらを見る。再び顔を背けようとする。
そのたびに、瞳の光が強まった。
「……ぐ」
低い音が漏れる。
ただの唸りとは違った。
結人は二人のいる木陰へ入り、息を継いだ。アイリスに支えられたリンも、荒い呼吸を繰り返している。
それでも、灰色の瞳は巨狼から離れなかった。
「お前!」
白銀の耳が動く。
「逃げろって言ったの! リンたちに言ったの?」
フェンリルの身体が震えた。
「お前が言ったの?」
口が僅かに開く。
「……く……る……な」
掠れていた。それでも、今度ははっきりと聞き取れた。
「来るなって」
リンが呟く。
「なんで? リンを殺したくないの?」
巨狼は苦しそうに頭を振った。青白い光が、また瞳を覆っていく。
結人の手が、胸元の懐中時計へ触れた。
『結人。まだ斬るな』
「分かってる」
言葉と動きが食い違っている。
だが、それだけで原因まで分かったわけではない。何を切れば、この食い違いを止められるのか。
結人には、まだ見えていなかった。
「リン。話せる?」
「話すの」
「ここからでいい。近づかないで」
「分かってるの」
リンが身体を起こす。右脚には体重を掛けず、幹に手を添えたまま、白銀の巨狼を見た。
「お前、あの日」
耳がリンへ向く。
「リンは怖かったの」
返事はない。
「お父さんも、お母さんも。みんな、いなくなったの」
白銀の前脚が地面を掻いた。
「ずっと、お前のこと嫌いだったの」
リンの拳が握られる。
「見つけたら、倒してやるって思ってたの」
フェンリルの頭が僅かに下がった。
リンは灰色の瞳を逸らさない。
「今だって、嫌いなの」
結人は何も言わなかった。
「でも、お前は逃げろって言ったの」
巨狼の喉が動く。
「リンを殺したかったら、そんなこと言わないの」
フェンリルの身体が大きく震えた。
「だから、聞くの」
リンの身体が前へ傾く。
「リン」
結人の声に、少女は足を止めた。
「……うん」
それ以上は近づかず、問いを続ける。
「お前は、どうしたいの?」
フェンリルの喉から、低い音が漏れた。
「……ぬ」
「何?」
リンが耳を澄ませる。
「……望ま……ぬ」
結人の指が、時計の上で止まった。
「何を? 何が嫌なの?」
巨狼が頭を上げた。
青白い瞳を覆う光が、一瞬だけ薄くなる。
「……この……姿を」
息が途切れる。
「……望まぬ」
「この姿?」
リンが巨狼を見上げた。
「狼なのが嫌?」
「……否」
短いが、はっきりした否定だった。
「その力が嫌なのか?」
今度は結人が尋ねた。
白銀の毛を揺らす風。牙の間から漏れる冷気。その周囲には、まだ水が浮いている。
「……否」
結人は、拒まれたものを一つずつ分けて考えた。
狼であることも、力を持つことも、本人は否定していない。
逃げろと言いながら追い、来るなと言いながらこちらへ向こうとする。
「自分の意思に反して、身体が動くことか?」
フェンリルの動きが止まった。
「自分でいられなくなるのが、嫌なのか?」
喉が震える。
しばらくして、声が返った。
「……そうだ」
その言葉の直後、巨狼の口元がリンの方へ向きかけた。
フェンリルは前脚を地面へ押しつけ、無理に顔を背ける。浮いていた水が揺れ、一部が地面へ落ちた。
結人は、その動きを見ていた。
「止めようとしてるんだな」
自分の身体を。
望んでいない攻撃を。
結人は剣を鞘へ戻した。
「切り離せるか、確かめる」
『何を切ろうとしておる?』
「こいつが止めようとしてるのに、また獣返りへ引き戻す繋がり。身体や力を切るんじゃない」
フィリアはすぐには答えなかった。
『ならば、見分けよ』
「うん」
結人は懐中時計を取り出し、蓋を開いた。
文字盤の中央で、青いガラス飾りが光る。
もう一度、あの刃を。
時計を胸元へ戻し、両手を空ける。青白い光がそこへ集まり、形を取った。
二振りの、細身の光の剣。
一方は、もう一方より僅かに長い。
「結人、それが……」
リンが目を見開く。
「クロノワールド?」
「そう」
リンがその姿を見るのは、初めてだった。
「アイリス、リンと岩の陰へ。俺からも少し離れて」
「はい」
アイリスがリンを支え、すぐ後ろの岩へ移った。リンは岩肌に手をつき、右脚を休ませる。
結人は二振りを構え、巨狼を見た。
白銀の身体に重なって、細い線のようなものが浮かび上がる。
まだ、輪郭は曖昧だった。
フェンリルの瞳に光が満ちる。顔がこちらへ向き、牙の間に水が集まった。
「……来るな」
声と同時に、巨狼が首を振る。
攻撃を止めようとするその動きを、引き戻すものがあった。
繋がりが張る。
巨狼の口元が、再びこちらへ向く。
結人は息を呑んだ。
言葉で拒み、身体でも止めようとしている。それでも、また同じ動きへ戻される。
その食い違いに重なる一本だけが、はっきりと輪郭を持っていた。
「……そこか」
『結人。何を残す?』
「身体も、力も。本能も、自分で考える意思も」
白銀の巨狼を見据える。
「こいつ自身を残す。切るのは、自分の意思を押し流される状態へ引き戻す、この繋がりだけだ」
『ならば、最後に本人へ聞け』
「分かった」
結人はまだ踏み込まず、声を掛けた。
「聞こえてる?」
「……ああ」
「俺には、お前が止めようとしている動きを、また攻撃へ引き戻す繋がりが見える」
青白い瞳が結人を捉えた。
「それだけを切れば、この獣返りから抜け出せると思う。お前の身体や力を奪うためじゃない」
フェンリルは黙って聞いていた。
結人も、返事を急がせなかった。
「お前は、この獣返りを望むか?」
「……望まぬ」
「その繋がりを、切っていいか?」
「……頼む」
結人は頷いた。
二振りを構え、岩陰から出る。
爪に削られた地面を踏み、一歩ずつ距離を詰めた。
牙は剥き出しのままだ。巨狼の前脚にも、力が入っている。
その頭が、突然大きく振れた。
「結人!」
リンの声。
青白い光が、再び瞳を覆う。
「まだ来るのかよ……!」
水が浮き上がり、風が巻いた。冷気が頬を刺す。
結人へ向かって、前脚が動きかける。
「ご主人様!」
「大丈夫!」
大丈夫かどうかなど、分からなかった。
それでも、結人は巨狼から目を逸らさなかった。
「今のは、お前が望んでるのか!」
「……否!」
白銀の巨体が、自分の前脚を地面へ叩きつける。
こちらへ踏み出すはずだった足が、その場に留まった。
「……望まぬ!」
声は、はっきりしていた。
拒む意思と、それを押し流そうとする繋がり。
今なら、見分けられる。
「なら、それだけ切る!」
風の唸りも、二人の声も、意識の端へ遠ざかった。
結人の目は、張り詰めた一本を追っていた。
長い方の刃を合わせる。
触れた。
もう一振りを重ね、振り抜く。
何かが、切れた。
「っ……!」
両腕へ、急に重さが落ちた。
指先の感覚がない。
握っていたはずの光の剣が、二振りとも消えていく。
「結人?」
リンの声が遠かった。
胃がひっくり返る。込み上げる吐き気に、息が詰まった。
視界が滲む。
「ご主人様!」
膝から力が抜けた。
地面へ崩れた結人の肩を、駆け寄ったアイリスが支える。
「っ……大丈夫」
「大丈夫ではありません!」
顔から倒れ込まないよう、アイリスが身体を支えてくれた。
結人は片手を地面へつこうとした。だが、思ったように動かない。
「手が……」
指を握ろうとしても、反応が遅かった。
「感覚が薄い」
『無理に動かすな』
「……うん」
目の前で、水が地面へ落ちた。
巻いていた風が弱まり、草を白く覆う霜も、広がるのをやめる。
『座っておれ』
「もう座ってる」
『倒れたと言うのじゃ』
「それもそうか……」
「喋らないでください」
「アイリスも厳しいな……」
「今は黙っていてください」
「はい」
結人は素直に従った。
リンは岩へ手をついたまま、白銀の巨狼を見ていた。
フェンリルは立っている。
けれど、頭を振ってはいなかった。牙の間から漏れる息も、少しずつ落ち着いていく。
「終わったの?」
誰も、すぐには答えなかった。
巨狼がゆっくり目を開く。
青白い瞳。その光は静かだった。
「お前?」
リンが呼ぶと、フェンリルはそちらを見た。
今度は、途中で顔を背けない。
「……ああ」
低い声だった。
それでも、さっきまでよりずっと自然に聞こえた。
「リン、分かるの?」
「分かる」
「リンのこと、覚えてる?」
「……覚えている」
リンの指が、岩肌を掴んだ。
「全部?」
「いや。記憶が途切れている」
「お父さんと、お母さんは?」
巨狼が口を閉じた。
リンは待った。
「……あの後、どうなったかは分からぬ」
「……そっか」
それだけ言うのに、少し時間が掛かった。
「だが、お前たちの群れを散らしたことは覚えている」
白銀の耳が伏せられる。
「私が、したことだ」
リンの手が、ゆっくり拳になった。
「……うん」
「許せとは言わぬ」
巨狼が頭を下げる。
「すまなかった」
リンは答えなかった。
許すとも、許さないとも言わない。
謝罪を聞いても、握った拳を開くことはできなかった。
しばらくして、リンが巨狼を見たまま結人へ尋ねる。
「ねえ。もう大丈夫なの?」
結人が答えるより先に、時計から声が届いた。
『同じ獣返りへ引き戻す繋がりは、今は感じぬ』
「また戻らない?」
『少なくとも、結人が今切ったものによって、同じ状態へ引き戻されることはなかろう』
「そっか」
リンは白銀の巨狼を見上げた。
大きい。怖い。
群れを散らした相手だ。
嫌いだという気持ちも、消えてはいなかった。
それでも今、目の前にいる相手は、リンの言葉を聞いていた。自分の声で答え、頭を下げていた。
あの日、ただ暴れていた姿とは、少し違って見えた。
「リン」
地面に座ったまま、結人が呼んだ。
「何?」
「悪い。しばらく――」
身体を起こそうとしたところで、声が飛んでくる。
「ご主人様」
「はい」
「立たないでください」
「……はい」
リンが結人を見た。
「歩けないの?」
「たぶん、今は無理」
「クロノワールドで切ったから?」
「うん」
右手を見下ろす。指先はまだ鈍い。
吐き気も消えていなかった。
「強いのに、結人もぼろぼろになるの」
リンの目が、光の剣の消えた手へ向く。
「便利なだけじゃないみたい」
『前に身をもって知ったであろう』
「知ってる」
だから、使う相手も、切るものも間違えられない。
結人は白銀の巨狼を見た。
「でも、今回も」
少しだけ笑う。
「切るものは、間違えなかったと思う」
フェンリルが静かに頭を下げた。
冷たい風は、もう吹かなかった。




