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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第二章 狼少女は帰る場所を探す

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第九話 ~森を走るのはひとりじゃない~

 翌朝。

「どう?」

 結人が尋ねると、リンは足元を確かめながら、ゆっくり二、三歩進んだ。

「歩くのは平気なの」

「痛みは?」

「このくらいなら、ないの」

「じゃあ、今日もその速さで。走るのはなし」

「分かってるの」

「加速も」

「分かってるの!」

「ならいい」

 リンがむっとした顔で結人を見る。その横で、アイリスが右脚の腫れを確認した。

「かなり引いています。ただ、無理をしてよい状態ではありません」

「だって」

「リンも聞いてるの」

「なら大丈夫だ」

『このやり取りも何度目かのう』

「神様は黙ってるの」

『わらわは神じゃぞ?』

「出発しよう」

『結人までぞんざいな扱いをするな』


 ◇


 目的は、フェンリルを倒すことではない。

 こちらの声や動きに、攻撃する以外の反応があるのか。それを確かめて、全員で帰ってくる。

「匂い、あるの」

 先を歩いていたリンが立ち止まった。

「近い?」

「まだ少し先」

「向こうから来てる?」

 リンは耳を動かし、森の奥へ鼻先を向ける。

「足音はしないの。でも、匂いだけじゃ分からない」

「分かった。予定通り行こう」

「はい」

 アイリスが周囲を見渡す。

「倒木の脇から行くの。その先、根を越えるの」

 リンの後ろを、結人とアイリスが続いた。

 大きな岩。その向こうに見える緩い斜面。昨日、逃げ道を確かめた場所だ。

 結人は帰りに通る木と木の隙間を、もう一度目で追った。

「ここから先、見つかるかもしれないの」

「分かった」

「ご主人様。左側の木々は間隔が狭いです。右は斜面まで開けています」

「逃げるなら左?」

「はい。少しでも回り込ませることができれば」

「了解」

 リンが森の奥を見る。

「行くの」

 空気が冷たくなるまで、時間はかからなかった。

「来る」

 リンの耳が前を向いた。

「どこ?」

「正面」

 結人は剣を抜いた。アイリスを少し後ろへ下がらせ、リンの横に立つ。

 木々の間から、巨大な白銀の身体がゆっくり姿を現した。

 フェンリル。

 青白い瞳が、三人を捉える。ただ歩くだけで、足元の草へ霜が広がっていく。

「リン」

「大丈夫なの」

 声は小さい。それでも、リンは下がらなかった。

 巨狼が立ち止まる。

 唸り声はない。氷も飛んでこない。

「……まだ動かないで」

 結人が小声で告げると、アイリスが頷いた。

 しばらく待っても、フェンリルはそこにいた。

「リン」

「分かってるの」

 一歩だけ進むリンに、結人も歩調を合わせる。

 フェンリルの頭が動いた。

「リンさんを見ました」

 アイリスの声に、結人も頷く。

 白銀の巨狼と、紅い狼少女。二つの視線が重なった。

「お前」

 リンが口を開く。

「あの日、いたの」

 フェンリルは動かない。

「リンの群れ、散らしたの」

 低い唸りが、巨狼の喉から漏れた。

「フェンリルの耳が、後ろへ伏せています」

 アイリスに言われ、結人も見る。白銀の耳が、確かに倒れていた。

「怒ってる?」

「分かりません」

 結人は剣の柄を握り直した。その仕草だけでは、何を考えているのか決められない。

「リン、ずっと探したの」

 返事はなかった。

「お父さんも、お母さんも」

 フェンリルの頭が、僅かに下がる。

「動いた」

「はい。でも、こちらへは来ていません」

 隣で、リンが拳を握った。

「お前のせいなの」

 声が低くなる。

「嫌いなの」

 風が動き、白銀の毛が揺れた。

『気をつけよ』

「分かってる」

 結人は巨狼の周囲にも目を向ける。

 まだ水は浮かんでいない。氷もない。ただ、吐く息がさっきより白くなっていた。

「でも」

 リンが続けた。

「あの時、お前も苦しそうだったの」

 フェンリルの身体が、びくりと動く。

「ご主人様」

「見えた」

 声に反応したのか。たまたま動いただけなのか。

 まだ分からない。

「お前、リンのこと知ってるの?」

 リンが一歩進み、結人も隣へ出た。

 巨狼の口が僅かに開く。牙の間から、白い息が漏れた。

 声にはならない。

「知らないなら、それでもいいの」

 リンの耳が少し伏せる。

「リン」

「でも、聞くの」

 灰色の瞳は、巨狼を見たままだった。

「お前は」

 一度、息を吸う。

「何がしたいの?」

 変化は突然だった。

 フェンリルの身体から、冷気が噴き出す。

「下がって!」

 結人が叫んだ。

 巨狼の周囲に水が浮き上がる。風が巻き、その中で水が細長く固まっていく。

「来ます!」

 アイリスの声。

「リン、左!」

「分かってるの!」

 三人が木々の間へ向き直る。

 放たれる直前、フェンリルが横へ首を振った。揃っていた氷の先が乱れる。

 それでも、氷は三人の方へ飛んできた。

 結人が風をぶつける。近い数本の軌道が逸れ、残りが木や地面へ次々と突き刺さった。

「走るの! 倒木の脇!」

 リンが先頭へ出る。結人はアイリスをその後ろへ行かせ、自分は最後尾に回った。

 もう、歩いて離れられる状況ではない。

「その先、二本の木の間!」

「追ってきます!」

 振り返ったアイリスが叫ぶ。

「そのまま、岩の方へ!」

 巨体を低くしたフェンリルが、木々の間を駆けてくる。

「ご主人様、右前脚が!」

「見えた!」

 結人が幹の向こうへ身を滑らせた。直後、巨大な爪が木の表面を削り取る。

「リン!」

「こっち!」

 リンが岩沿いの隙間へ入った。アイリス、結人と続く。

 追ってきた巨狼は身体をひねり、岩の外側へ回り込んだ。

「使えた!」

「まだなの!」

「分かってる!」

 言い終えるより早く、岩の向こうに白い頭が見えた。

 次の木陰へ抜けようとした先へ、巨狼が回り込んでくる。

 リンが足を止めた。

「ご主人様、こちらを見ています!」

 結人は二人より一歩外へ出て、剣を構えた。

「こっちだ!」

 顔の前へ風を送る。

 フェンリルの視線が結人へ向いた。

「リン、アイリスと木の陰へ!」

「分かったの!」

 リンはアイリスと一緒に幹の後ろへ下がった。その途中で、巨狼へ声を張る。

「お前! 聞くの!」

 白銀の耳が動く。

「何がしたいの!」

 返事はない。巨狼が振り向いた。

「リンさん、下がって! 口元に水が集まっています!」

「分かったの!」

 リンが張り出した根を越える。

 巨狼の口元が、その動きを追った。だが、氷が放たれる直前、顔が不自然に左へぶれる。

 尖った氷がリンの脇を抜け、別の木の幹を抉った。

「リン、脚は!」

「まだ動くの!」

 答えは返ってくる。けれど、走るたびに右脚を庇っているのが分かった。

 結人も幹を回り、二人のいる方へ下がる。

「ご主人様」

 アイリスが巨狼から目を離さずに言った。

「今、リンさんが避ける前に、顔の向きが変わりました」

「氷を外したってこと?」

「そう見えました。最初の氷も、放つ前に首を振っています。ご主人様が風を当てるより前です」

 結人は幹の向こうを窺った。

 氷の刺さった地面。大きく抉れた木。

 当たればどうなるかは、考えるまでもない。

 それでも、声を掛けた後に動きが変わった。

「聞こえてるのか……?」

『断定するなよ』

「分かってる」

 フェンリルは、まだこちらを追っている。次の岩陰まで、リンを走らせずに移る隙がない。

「リン、もう一回呼べる?」

「呼ぶの?」

「止まるなら、その間に下がりたい。そこからでいい。近づかないで」

「分かったの」

 幹から顔を出した結人へ、フェンリルが向き直った。

「来る!」

 白銀の巨体が迫る。

 結人は横から風をぶつけた。だが、巨狼の進路はほとんど変わらない。

「そりゃ無理か!」

 慌てて木の後ろへ回る。爪が背後の地面を裂き、土が跳ねた。

「ご主人様、左へ!」

「了解!」

 結人が幹を回り込む。巨狼も身体を返した。

「リン、今!」

 リンは倒木の陰に留まったまま、声を張り上げた。

「白いの!」

 フェンリルの身体が、びくりと揺れる。

「リンなの!」

 灰色の瞳が、青白い瞳を捉えた。

「群れの一番槍になるって」

 一つ、息を継ぐ。

「ずっと言ってたリンなの!」

 巨狼が足を止めた。

「ご主人様……止まっています」

「見えてる」

 結人はフェンリルに目を向けたまま、二人の方へ下がった。

「覚えてる?」

 リンの問いに、巨狼の頭が僅かに揺れる。

「お父さんと、お母さんと」

 牙の間から白い息が漏れた。喉の奥で、低い音が鳴る。

「みんな」

 白銀の身体の周囲で、青白い光が揺らいだ。

 アイリスが後ろの太い木へ移り、リンを振り返る。

「リンを、覚えてるの?」

 リンの足が、倒木の陰から一歩出た。

「リン、それ以上行くな」

「……分かったの」

 足が止まる。

 その瞬間、フェンリルが大きく頭を振った。

 青白い瞳の光が濃くなる。

『離れよ!』

「リン、こっちへ!」

 巨狼の周囲に水が浮かび、風が巻く。さっきよりも多い。

 リンが結人たちの方へ走り出した。フェンリルの頭が、その動きを追う。

 右脚を庇った足取りでは、距離が開かない。

「まずい」

 巨狼の意識はリンへ向いたままだ。このままでは加速も使えない。

「ご主人様!」

「分かってる!」

 結人が巨狼の顔の前へ風を放つ。

 身体を押し返すには弱すぎる。それでも、声を重ねた。

「こっちだ!」

 青白い視線が、一瞬だけ結人へ移る。

「リン、今!」

 リンが地面を蹴った。

 巨狼の意識が外れた一瞬に、加速する。紅い身体が一気に木の陰へ駆け込んだ。

 直後、さっきまでリンがいた場所へ氷が突き刺さる。

「っ……!」

 止まろうと踏ん張った右脚に力が掛かり、リンの顔が歪んだ。アイリスが咄嗟に腕を支える。

「大丈夫!?」

「平気なの!」

 そう答えても、右脚へ体重を戻せずにいる。

「アイリス、リンをお願い」

「はい」

 結人は幹の向こうへ目を戻した。

 追撃が来ない。

 フェンリルは頭を振り、地面へ爪を立てていた。喉から低い唸りが漏れている。

 こちらを見る。顔を逸らす。

 また、見る。

「アイリス。どこを見てる?」

「リンさんのいる方です」

「ずっと?」

「いえ。こちらを見ようとして、途中で無理に顔を背けているように見えます」

「自分で?」

「そう見えるだけです。理由までは分かりません」

「それでいい」

 声を掛けると、動きが変わる。だが、攻撃が止まるとは限らない。

 何が起きているのか、まだ結人には分からなかった。

「リン、もう一回だけ。ここからでいい」

「……うん」

「アイリスと一緒に、少しずつ下がって」

 リンが頷き、息を整えた。

 アイリスに支えられたまま、幹の陰から声を張る。

「お前!」

 声が森へ響いた。

「リンが嫌いなら、それでもいいの!」

 フェンリルの耳が動く。巨狼が頭を上げた。

「殺したいなら――」

「リン」

「分かってるの」

 リンは木の陰に留まったまま、一度息を継いだ。

「でも、お前が何したいのかは」

 灰色の瞳が、巨狼を見据える。

「自分で言うの!」

 フェンリルの身体が大きく震えた。

 喉の奥から、音が漏れる。

 唸りとは違う。何かが、言葉の形になろうとしていた。

「今の、聞こえた?」

「まだ、何と言ったのかまでは……」

 アイリスも耳を澄ませる。

『待て』

 フィリアの声が低くなった。

『……何か言おうとしておる』

 フェンリルが口を開く。

「……ァ……」

 掠れた音に、リンの耳が前を向いた。

「喋った?」

「リン、待って」

 身を乗り出しかけたリンを、結人が腕で止める。

「ここで聞く」

「……うん」

「……に……」

 音が途切れた。

 フェンリルが頭を振る。青白い光が、その瞳を覆っていく。

「……げ……」

「何?」

 リンが耳を澄ませた。

「……ろ」

 結人にも聞こえた。

 掠れている。けれど、確かに言葉だった。

「……逃げろ」

 リンの目が見開かれる。

 次の瞬間、フェンリルの青白い瞳を、さらに強い光が覆った。


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