第九話 ~森を走るのはひとりじゃない~
翌朝。
「どう?」
結人が尋ねると、リンは足元を確かめながら、ゆっくり二、三歩進んだ。
「歩くのは平気なの」
「痛みは?」
「このくらいなら、ないの」
「じゃあ、今日もその速さで。走るのはなし」
「分かってるの」
「加速も」
「分かってるの!」
「ならいい」
リンがむっとした顔で結人を見る。その横で、アイリスが右脚の腫れを確認した。
「かなり引いています。ただ、無理をしてよい状態ではありません」
「だって」
「リンも聞いてるの」
「なら大丈夫だ」
『このやり取りも何度目かのう』
「神様は黙ってるの」
『わらわは神じゃぞ?』
「出発しよう」
『結人までぞんざいな扱いをするな』
◇
目的は、フェンリルを倒すことではない。
こちらの声や動きに、攻撃する以外の反応があるのか。それを確かめて、全員で帰ってくる。
「匂い、あるの」
先を歩いていたリンが立ち止まった。
「近い?」
「まだ少し先」
「向こうから来てる?」
リンは耳を動かし、森の奥へ鼻先を向ける。
「足音はしないの。でも、匂いだけじゃ分からない」
「分かった。予定通り行こう」
「はい」
アイリスが周囲を見渡す。
「倒木の脇から行くの。その先、根を越えるの」
リンの後ろを、結人とアイリスが続いた。
大きな岩。その向こうに見える緩い斜面。昨日、逃げ道を確かめた場所だ。
結人は帰りに通る木と木の隙間を、もう一度目で追った。
「ここから先、見つかるかもしれないの」
「分かった」
「ご主人様。左側の木々は間隔が狭いです。右は斜面まで開けています」
「逃げるなら左?」
「はい。少しでも回り込ませることができれば」
「了解」
リンが森の奥を見る。
「行くの」
空気が冷たくなるまで、時間はかからなかった。
「来る」
リンの耳が前を向いた。
「どこ?」
「正面」
結人は剣を抜いた。アイリスを少し後ろへ下がらせ、リンの横に立つ。
木々の間から、巨大な白銀の身体がゆっくり姿を現した。
フェンリル。
青白い瞳が、三人を捉える。ただ歩くだけで、足元の草へ霜が広がっていく。
「リン」
「大丈夫なの」
声は小さい。それでも、リンは下がらなかった。
巨狼が立ち止まる。
唸り声はない。氷も飛んでこない。
「……まだ動かないで」
結人が小声で告げると、アイリスが頷いた。
しばらく待っても、フェンリルはそこにいた。
「リン」
「分かってるの」
一歩だけ進むリンに、結人も歩調を合わせる。
フェンリルの頭が動いた。
「リンさんを見ました」
アイリスの声に、結人も頷く。
白銀の巨狼と、紅い狼少女。二つの視線が重なった。
「お前」
リンが口を開く。
「あの日、いたの」
フェンリルは動かない。
「リンの群れ、散らしたの」
低い唸りが、巨狼の喉から漏れた。
「フェンリルの耳が、後ろへ伏せています」
アイリスに言われ、結人も見る。白銀の耳が、確かに倒れていた。
「怒ってる?」
「分かりません」
結人は剣の柄を握り直した。その仕草だけでは、何を考えているのか決められない。
「リン、ずっと探したの」
返事はなかった。
「お父さんも、お母さんも」
フェンリルの頭が、僅かに下がる。
「動いた」
「はい。でも、こちらへは来ていません」
隣で、リンが拳を握った。
「お前のせいなの」
声が低くなる。
「嫌いなの」
風が動き、白銀の毛が揺れた。
『気をつけよ』
「分かってる」
結人は巨狼の周囲にも目を向ける。
まだ水は浮かんでいない。氷もない。ただ、吐く息がさっきより白くなっていた。
「でも」
リンが続けた。
「あの時、お前も苦しそうだったの」
フェンリルの身体が、びくりと動く。
「ご主人様」
「見えた」
声に反応したのか。たまたま動いただけなのか。
まだ分からない。
「お前、リンのこと知ってるの?」
リンが一歩進み、結人も隣へ出た。
巨狼の口が僅かに開く。牙の間から、白い息が漏れた。
声にはならない。
「知らないなら、それでもいいの」
リンの耳が少し伏せる。
「リン」
「でも、聞くの」
灰色の瞳は、巨狼を見たままだった。
「お前は」
一度、息を吸う。
「何がしたいの?」
変化は突然だった。
フェンリルの身体から、冷気が噴き出す。
「下がって!」
結人が叫んだ。
巨狼の周囲に水が浮き上がる。風が巻き、その中で水が細長く固まっていく。
「来ます!」
アイリスの声。
「リン、左!」
「分かってるの!」
三人が木々の間へ向き直る。
放たれる直前、フェンリルが横へ首を振った。揃っていた氷の先が乱れる。
それでも、氷は三人の方へ飛んできた。
結人が風をぶつける。近い数本の軌道が逸れ、残りが木や地面へ次々と突き刺さった。
「走るの! 倒木の脇!」
リンが先頭へ出る。結人はアイリスをその後ろへ行かせ、自分は最後尾に回った。
もう、歩いて離れられる状況ではない。
「その先、二本の木の間!」
「追ってきます!」
振り返ったアイリスが叫ぶ。
「そのまま、岩の方へ!」
巨体を低くしたフェンリルが、木々の間を駆けてくる。
「ご主人様、右前脚が!」
「見えた!」
結人が幹の向こうへ身を滑らせた。直後、巨大な爪が木の表面を削り取る。
「リン!」
「こっち!」
リンが岩沿いの隙間へ入った。アイリス、結人と続く。
追ってきた巨狼は身体をひねり、岩の外側へ回り込んだ。
「使えた!」
「まだなの!」
「分かってる!」
言い終えるより早く、岩の向こうに白い頭が見えた。
次の木陰へ抜けようとした先へ、巨狼が回り込んでくる。
リンが足を止めた。
「ご主人様、こちらを見ています!」
結人は二人より一歩外へ出て、剣を構えた。
「こっちだ!」
顔の前へ風を送る。
フェンリルの視線が結人へ向いた。
「リン、アイリスと木の陰へ!」
「分かったの!」
リンはアイリスと一緒に幹の後ろへ下がった。その途中で、巨狼へ声を張る。
「お前! 聞くの!」
白銀の耳が動く。
「何がしたいの!」
返事はない。巨狼が振り向いた。
「リンさん、下がって! 口元に水が集まっています!」
「分かったの!」
リンが張り出した根を越える。
巨狼の口元が、その動きを追った。だが、氷が放たれる直前、顔が不自然に左へぶれる。
尖った氷がリンの脇を抜け、別の木の幹を抉った。
「リン、脚は!」
「まだ動くの!」
答えは返ってくる。けれど、走るたびに右脚を庇っているのが分かった。
結人も幹を回り、二人のいる方へ下がる。
「ご主人様」
アイリスが巨狼から目を離さずに言った。
「今、リンさんが避ける前に、顔の向きが変わりました」
「氷を外したってこと?」
「そう見えました。最初の氷も、放つ前に首を振っています。ご主人様が風を当てるより前です」
結人は幹の向こうを窺った。
氷の刺さった地面。大きく抉れた木。
当たればどうなるかは、考えるまでもない。
それでも、声を掛けた後に動きが変わった。
「聞こえてるのか……?」
『断定するなよ』
「分かってる」
フェンリルは、まだこちらを追っている。次の岩陰まで、リンを走らせずに移る隙がない。
「リン、もう一回呼べる?」
「呼ぶの?」
「止まるなら、その間に下がりたい。そこからでいい。近づかないで」
「分かったの」
幹から顔を出した結人へ、フェンリルが向き直った。
「来る!」
白銀の巨体が迫る。
結人は横から風をぶつけた。だが、巨狼の進路はほとんど変わらない。
「そりゃ無理か!」
慌てて木の後ろへ回る。爪が背後の地面を裂き、土が跳ねた。
「ご主人様、左へ!」
「了解!」
結人が幹を回り込む。巨狼も身体を返した。
「リン、今!」
リンは倒木の陰に留まったまま、声を張り上げた。
「白いの!」
フェンリルの身体が、びくりと揺れる。
「リンなの!」
灰色の瞳が、青白い瞳を捉えた。
「群れの一番槍になるって」
一つ、息を継ぐ。
「ずっと言ってたリンなの!」
巨狼が足を止めた。
「ご主人様……止まっています」
「見えてる」
結人はフェンリルに目を向けたまま、二人の方へ下がった。
「覚えてる?」
リンの問いに、巨狼の頭が僅かに揺れる。
「お父さんと、お母さんと」
牙の間から白い息が漏れた。喉の奥で、低い音が鳴る。
「みんな」
白銀の身体の周囲で、青白い光が揺らいだ。
アイリスが後ろの太い木へ移り、リンを振り返る。
「リンを、覚えてるの?」
リンの足が、倒木の陰から一歩出た。
「リン、それ以上行くな」
「……分かったの」
足が止まる。
その瞬間、フェンリルが大きく頭を振った。
青白い瞳の光が濃くなる。
『離れよ!』
「リン、こっちへ!」
巨狼の周囲に水が浮かび、風が巻く。さっきよりも多い。
リンが結人たちの方へ走り出した。フェンリルの頭が、その動きを追う。
右脚を庇った足取りでは、距離が開かない。
「まずい」
巨狼の意識はリンへ向いたままだ。このままでは加速も使えない。
「ご主人様!」
「分かってる!」
結人が巨狼の顔の前へ風を放つ。
身体を押し返すには弱すぎる。それでも、声を重ねた。
「こっちだ!」
青白い視線が、一瞬だけ結人へ移る。
「リン、今!」
リンが地面を蹴った。
巨狼の意識が外れた一瞬に、加速する。紅い身体が一気に木の陰へ駆け込んだ。
直後、さっきまでリンがいた場所へ氷が突き刺さる。
「っ……!」
止まろうと踏ん張った右脚に力が掛かり、リンの顔が歪んだ。アイリスが咄嗟に腕を支える。
「大丈夫!?」
「平気なの!」
そう答えても、右脚へ体重を戻せずにいる。
「アイリス、リンをお願い」
「はい」
結人は幹の向こうへ目を戻した。
追撃が来ない。
フェンリルは頭を振り、地面へ爪を立てていた。喉から低い唸りが漏れている。
こちらを見る。顔を逸らす。
また、見る。
「アイリス。どこを見てる?」
「リンさんのいる方です」
「ずっと?」
「いえ。こちらを見ようとして、途中で無理に顔を背けているように見えます」
「自分で?」
「そう見えるだけです。理由までは分かりません」
「それでいい」
声を掛けると、動きが変わる。だが、攻撃が止まるとは限らない。
何が起きているのか、まだ結人には分からなかった。
「リン、もう一回だけ。ここからでいい」
「……うん」
「アイリスと一緒に、少しずつ下がって」
リンが頷き、息を整えた。
アイリスに支えられたまま、幹の陰から声を張る。
「お前!」
声が森へ響いた。
「リンが嫌いなら、それでもいいの!」
フェンリルの耳が動く。巨狼が頭を上げた。
「殺したいなら――」
「リン」
「分かってるの」
リンは木の陰に留まったまま、一度息を継いだ。
「でも、お前が何したいのかは」
灰色の瞳が、巨狼を見据える。
「自分で言うの!」
フェンリルの身体が大きく震えた。
喉の奥から、音が漏れる。
唸りとは違う。何かが、言葉の形になろうとしていた。
「今の、聞こえた?」
「まだ、何と言ったのかまでは……」
アイリスも耳を澄ませる。
『待て』
フィリアの声が低くなった。
『……何か言おうとしておる』
フェンリルが口を開く。
「……ァ……」
掠れた音に、リンの耳が前を向いた。
「喋った?」
「リン、待って」
身を乗り出しかけたリンを、結人が腕で止める。
「ここで聞く」
「……うん」
「……に……」
音が途切れた。
フェンリルが頭を振る。青白い光が、その瞳を覆っていく。
「……げ……」
「何?」
リンが耳を澄ませた。
「……ろ」
結人にも聞こえた。
掠れている。けれど、確かに言葉だった。
「……逃げろ」
リンの目が見開かれる。
次の瞬間、フェンリルの青白い瞳を、さらに強い光が覆った。




