第八話 ~勝てない相手には勝ち方を作る~
「次も、みんなで帰ってくるの」
リンが白い霜の残る森を見ながら言った。
結人は頷く。
「そのためにも、今日は戻ろう」
「うん」
今度は、リンも迷わなかった。
◇
翌日、リンは毛布の上で頬を膨らませていた。
「今日は休み」
「歩くのも?」
「必要最低限」
「走るのは?」
「なし」
「加速は?」
「もっとなし」
「むぅ」
右脚の腫れは昨日より引いていた。とはいえ、治ったわけではない。
「明日また動けなくなるより、今日休んだ方がいいだろ」
「明日は行くの?」
「脚を見てから」
「……分かったの」
今日は、それ以上食い下がってこなかった。
「アイリス、どう?」
アイリスがリンの右脚を確かめる。
「腫れは昨日より引いています。でも、まだ無理はしない方がいいと思います」
「だって」
「リンも聞いてるの」
「なら大丈夫」
「子供扱いするの」
「いや、怪我人扱いしてる」
リンが不満そうに毛布へ寝転がった。
「暇なの」
「ちょうどいい」
「何が?」
「俺も今日は試したいことがある」
結人は小さな器に水を入れ、手元へ置いた。
「これでいい?」
『まずはやってみよ』
「雑だなあ」
『細かく教えれば、それだけでできるものでもない』
「そこが一番困ってるんだけど」
リンが毛布の上から覗き込む。
「何するの?」
「あのフェンリルが使ってた氷。水が浮いて、その周りに風が巻いてたよな」
「あいつの真似するの?」
「同じようにできるとは思ってないけど」
『そこは忘れるでないぞ。今のおぬしと神獣を並べてはいかぬ』
「はいはい」
結人は器の水へ意識を向けた。
水は、少しなら動かせる。指先ほどの量を、ゆっくり持ち上げた。
「おっ」
丸い水滴が器の上に浮く。
「浮いたの」
「ここまではできる」
次は風だ。
吹き飛ばすのではなく、水滴の周囲へ薄く流す。
「……」
水滴が震えた。風へ意識を向けた途端、丸かった形が崩れる。
「あ」
ぱしゃ、と水が器へ落ちた。
『失敗じゃな』
「見れば分かる」
「氷にならなかったの」
「だね」
リンが首を傾げる。
「水と風を一緒に使ったのに、なんで氷にならないの?」
「俺もそこ聞きたい」
『ただ水と風を並べればよいわけではない』
フィリアが言った。
『二つの基本属性を重ね、一つの別の現象として成立させる。そういう魔法を、ダブルランクマジックと呼ぶ』
「二つ使うからダブルランク?」
『同時に使うだけでは足りぬ。火と風を別々に出しても、それは二つの魔法を使っただけじゃ』
アイリスが器の水へ目を向けた。
「水と風を、氷という一つの現象として成立させることが大切なのですね」
『そういうことじゃ』
「なるほど」
結人はもう一度、水を浮かせた。
「水と風を使うんじゃなくて……最初から氷を作る」
『うむ。二つを別々に動かすだけで終わるでない』
言われたことは分かる。
けれど、水の形を保とうとすると風が途切れ、風を動かそうとすると水滴が崩れた。
何度かやり直しても、器へ水を落とすばかりだった。
「難しいな、これ」
『一つずつ扱う時とは勝手が違おう』
「全然違う」
結人は一度息を吐いた。
思い出すのは、巨狼の周囲で水が白く変わった光景だ。
水を浮かせる。風を吹かせる。
その二つを順番にこなそうとするのではなく、凍った水を一つの結果として思い描く。
「……氷」
何度目かの試みで、水滴の表面がわずかに白く曇った。
「お」
リンが身体を起こす。
「白くなったの」
ぱき、と小さな音がした。
水滴の表面に、薄い氷が張る。
「できた?」
結人はそれを指先へ落とした。
氷になっていたのは、表面のほんの薄い膜だけだった。触れたそばから溶け、水が指を伝う。
「……ちっさ」
『上出来じゃ』
「これで?」
『初めから神獣の氷槍でも作るつもりであったか』
「いや、そこまでは」
「リンの爪より小さいの」
「比較対象が悲しいな」
『今は成立させられただけで十分じゃ』
結人はもう一度試した。
今度は水滴が崩れ、そのまま器へ落ちる。
一度できたからといって、続けてできるわけでもないらしい。
「練習が必要だな」
『ようやく分かったか』
「そこは最初から分かってるよ」
器を脇へ置き、結人は濡れた指を拭いた。
「フィリア。もう一個、聞きたい」
『何じゃ』
「まだやるの?」
リンが尋ねる。
「今の魔法じゃなくて、クロノワールドのこと」
紅い耳が動いた。
「何それ?」
「前に一度だけ使った力だ」
「強いの?」
「強いって言えば強いんだけど……」
『扱いを間違えれば危険な力じゃ』
リンが結人の胸元を見る。
「神様の?」
「フィリアからもらった力に近いのかな」
『完全に間違いではない』
「何ができるの?」
結人は少し迷ってから答えた。
「繋がってるものを、切る」
「縄みたいなの?」
「見える縄じゃなくても。前に使った時は、人に命令を強制していた繋がりを切った」
リンはよく分からない顔をしていた。
それでも、しばらく考えてから口を開く。
「じゃあ、あいつの獣返りも切れる?」
「俺もそれを考えてた」
『ならば聞こう』
フィリアの声が少し低くなった。
『結人。何を斬る?』
「獣返りを――」
言いかけて、止まる。
「……違うな」
『うむ』
「獣返りって、あいつの状態だよね」
『そうじゃ』
何が、あの白銀の巨狼をあの状態にしているのか。
そこが、まだ分かっていない。
「何と何が繋がってるのか分からない」
『その通り』
「外から何かされてるのか、自分の中に原因があるのか」
「それも、まだ分かっていませんね」
アイリスの言葉に、結人は頷いた。
「それに、本人がどう思ってるのかも分からない」
「本人?」
「あのフェンリル。何に苦しんでて、どうしたいのか。それも知らないまま、勝手に切るものを決められない」
「でも、苦しそうだったの」
「うん。だから確かめたい。助けるつもりで、別の大事な繋がりを切ったら困るだろ」
リンが黙る。
結人は自分の手へ目を落とした。
「クロノワールドは、分からないまま斬るのが一番まずい力だから」
『何を残すべきかも考えよ。邪魔に見えたものが、本当に不要とは限らぬ』
「うん」
リンはしばらく黙って聞いていた。
「じゃあ使わないの?」
「今は使えない」
「今は?」
「何が起きてるか分かって、何を切ればいいかも分かって。本人もそれを切ることを望むなら」
結人はそこで一度、言葉を切った。
「選択肢にはなるかもしれない」
『その程度に考えておけ』
「了解」
水の器を片づけると、今度はアイリスが紙を広げた。
最初に巨狼と遭遇した日の夕方に描いた見取り図だ。結人はそこにある二つの印を指した。
「次に確かめたいのは、ここ」
「止まったところですか?」
「うん。リンが前に出た時と、俺たちを追うのをやめた時」
アイリスが最初の印へ目を向ける。
「リンさんを見て、もう一度動きを止めたように見えました。ただ、その後には攻撃してきています」
「覚えてたとしても、安全になるとは限らないな」
リンが顔を上げた。
「あいつが、リンを覚えてるかってこと?」
「それも確かめたい」
結人はもう一つの印へ指を動かす。
「こっちは、俺たちが攻撃して止めたわけじゃなかった」
「はい。止まる直前には、わたくしたちは何もしていません」
「場所に理由があるのか、あいつの中で何か起きたのか。そこも分からない」
「何を見るの?」
「こっちの声や動きに、攻撃する以外の反応があるかどうか」
結人はリンを見た。
「怖いなら、リンが前に出る必要はない」
「出るの」
返事は早かった。
「いいの?」
「リンにも分かんないの。だから、自分で確かめるの」
「分かった。でも、一人で近づかないで。俺も一緒に行く」
「うん」
「攻撃してきたら、確かめるのはそこまでにして逃げる」
リンは右脚を見た。
「勝手に走らないの」
結人は少し笑った。
「助かる」
リンはその後も時々、森の方へ耳を向けていた。
けれど、その日に走り出すことは一度もなかった。
◇
翌朝、右脚の腫れはさらに引いていた。
「少し歩いてみてもらえますか」
アイリスに言われ、リンがゆっくり数歩進む。
「痛い?」
「ゆっくり歩くなら、痛くないの」
歩幅はまだ小さい。それでも、前のように右脚を引きずる様子はなかった。
「走るのは、まだやめておきましょう」
「うん」
「加速も」
「分かってるの」
結人が荷物を背負う。
「今日は戦わない。先に、逃げられる道を確かめよう」
「うん」
「あいつが近くにいたら戻る。脚が痛くなっても戻る」
「分かったの」
◇
フェンリルと出会った場所へは、近づきすぎない。
リンは匂いを確かめながら、前とは別の道を選んだ。
「倒木の脇」
「了解」
「その先、二本の木の間を通るの」
結人とアイリスが続く。
「次は右の岩沿いなの」
緩い斜面を進むと、大きな岩が見えた。その少し先には、倒れた木が横たわっている。
「ここ」
リンが足を止めた。
「何かある?」
「逃げるなら使えるの」
「どんなふうに?」
リンは今通ってきた、二本の木の間を指した。
「リンたちは通れるけど、あの大きい狼には狭いの」
「木だけだと、折られそうだけど」
「ここで止めるんじゃないの。抜けたら、すぐ岩の裏へ回るの」
結人は木の間と岩を見比べた。
まっすぐ逃げる道ではない。狭いところを抜けた後、岩を回り込むために向きを変えることになる。
「同じようには追いにくいってことか」
「うん。少しでも離れるの」
「向こうは?」
「斜面を下ったら川なの」
「行き止まりにならない?」
「川までは下りないの」
リンが途中の大岩を指した。
「あの裏を回れば、また木の多い方へ出られるの」
「なるほど」
倒木を跳び越えてきた相手だ。これで止められるとは思わない。
それでも、逃げる先に何があるか分からないまま走るよりはいい。
アイリスが岩のそばから周囲を確かめた。
「ここからなら、川沿いが見えます。フェンリルがどちらを向いているかも確かめやすそうです」
「正面から戦う場所じゃなくて、様子を見て、危なくなったら引く場所か」
「はい」
「それがいいの」
リンも頷いた。
一行はその先でも二か所、道がどこへ繋がっているかを確かめた。
巨狼へ近づくためではなく、見つかった時に離れるための道だ。それ以上は進まなかった。
「今日はここまで」
「会わなくていいの?」
「今日はね」
「明日は?」
「匂いと脚の様子を見て決める」
「分かったの」
帰り道、リンが後ろを振り返った。
「あいつ」
「うん」
「リンを覚えてたら、どうする?」
「その時に考える」
「覚えてなかったら?」
「それも、その時」
「決めてないの?」
「覚えてるかどうかだけじゃ、あいつがどうしたいのかまでは分からないから」
「……変なの」
「分からないまま決める方が怖いよ」
リンは少し考えた。
「じゃあ、次は勝つんじゃないの?」
結人は足を止める。
少し考えてから答えた。
「倒すことだけが勝ちなら、たぶん今の俺たちじゃ無理」
「……うん」
「だから、勝ち方から作る」
「勝ち方?」
「まずは、何が起きてるか確かめて」
「うん」
「全員で帰ってくる」
リンが瞬きをした。
「それも勝ち?」
「今回はね。次に何をすればいいか分かれば、森が散るのを止めるために動ける」
紅い尾が小さく揺れた。
「じゃあ」
リンは前を向いた。
「その勝ち方でいくの」




