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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第二章 狼少女は帰る場所を探す

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第七話 ~逃げることは負けではない~

「……調べるの」

 結人は頷いた。

「一緒に?」

「うん」

「分かった」

 リンはそれ以上何も言わず、右脚を伸ばして岩壁へ背中を預けた。

 窪みの外では木々が風に揺れている。白銀の巨狼が追ってくる気配はなかった。

 しばらくして、アイリスがリンの脚に当てていた布を取り替える。

「痛みますか?」

「ちょっとだけなの」

「まだ腫れています。今日はもう歩かないでください」

「分かったの」

 返事は素直だった。

 結人は少し離れて座り、鞘に収まった剣へ目を落とした。

 さっきは、剣で反撃する余裕さえなかった。

 けれど、倒すことが目的ではない。全員ここまで逃げてこられたことに、まずは安堵していた。

「……負けたの」

 リンがぽつりと言った。

「ん?」

「あいつに」

 結人が顔を上げる。

「うん。戦いでは負けたよ」

「……」

 リンがむっとした。

「否定しないの?」

「全然敵わなかったし」

『潔いのう』

「事実だから」

 結人はリンへ向き直った。

「でも、逃げたこと自体は悪くないだろ」

「負けたのに?」

「勝てないと思ったから逃げた」

「同じなの」

「違うよ。勝てない相手と、その場で最後まで戦う必要はないだろ」

「最後までやったら勝てたかもしれないの」

「俺は死んでたかもしれない。アイリスも、リンも」

 紅い耳が伏せられた。

「今日、一回逃げたから」

 結人は続ける。

「次に何をするか考えられる」

「……次」

「そう」

「あいつのこと調べるの?」

「そのつもり」

「また行く?」

「必要なら」

「逃げたのに?」

「逃げたから行けるんだよ」

 リンは、まだ納得できない顔をしていた。

 結人は少し考えてから尋ねた。

「リンにとって、逃げるのってそんなに嫌?」

「嫌なの」

「どうして?」

 リンは右脚を見た。

「逃げたら」

 一度、言葉が止まる。

「みんな散るの」

 結人は黙った。

「群れの時も?」

「うん。みんな、違う方に走ったの」

 リンの指が服を握る。

「声も聞こえなくなって」

「匂いは?」

「いっぱいあったの」

 握った指に力がこもった。

「お父さんの匂いも」

「うん」

「お母さんのも。みんなのも」

 灰色の瞳が揺れる。

「でも、違う方だったの」

「どれを追えばいいか、分からなくなった?」

「……うん」

 どれを追えばいいのか。どこへ行けばいいのか。

 リンは服を握ったまま、俯いていた。

「それから?」

 アイリスが静かに尋ねる。

 リンはしばらく黙っていた。

「一人になったの」

 そこまでは、今までにも聞いている。

 けれど、今度はその先があった。

「しばらくして、人と一緒に歩いたことあるの」

 結人が少し姿勢を変えた。

「土狼族の人?」

「違うの」

「旅人?」

「そんな感じなの」

 リン自身も、詳しい呼び方は知らないらしい。

「一緒にご飯食べて、獲物見つけたり、道教えたりしたの」

「今と似てるな」

「……うん」

 リンが自分の右脚を見る。

「でも」

 声が小さくなった。

「怪我したの」

 結人は何も言わずに待った。

「走れなくなって」

「……」

「獲物も取れなくなって」

 紅い耳が伏せられる。

「そしたら」

 一度、息を吸った。

「悪いが、これ以上連れてはいけないって」

 淡々とした言い方だった。

 結人が言葉を返せずにいると、リンは続けた。

「怒ってなかったの。ただ、置いていかれたの」

「……」

「しょうがないの」

 結人が何か言うより先に、リンはそう言った。

「リン、仕事できなかったから」

「それでいいと思ってる?」

「当たり前なの」

 迷いのない返事だった。

「ご飯もらうなら働くの。一緒にいるなら、役に立つの」

「……」

「できなくなったら」

 リンは右脚へ触れた。

「置いていかれるの」

 結人はすぐに否定せず、何と言えばいいのか考えた。

「今日さ」

「何?」

「俺たち、逃げたよな」

「うん」

「リン、途中からずっと脚を庇ってた」

「……うん」

「俺はリンに逃げ道を教えてもらった。アイリスにも、何回も危ないところを教えてもらった」

 リンが顔を上げる。

「で、今、誰か置いてきた?」

 リンは結人を見た。次にアイリスを、それから懐中時計のある結人の胸元へ目を向けた。

「……みんないるの」

「全員いる」

 リンはもう一度、周囲を見た。

「逃げても」

 確かめるように、小さく続ける。

「みんないるの」

「今日は散らなかった」

 リンの尾が、ほんの少し動いた。

「一緒に逃げたから?」

「俺はそう思う」

「……」

「逃げることと、一人になることは同じじゃないよ」

 リンは答えなかった。ただ、その言葉を噛みしめるように、何度か瞬きをした。

『少しは休め』

 フィリアが言った。

『脚も頭も使いすぎじゃ』

「神様に言われたくないの」

『わらわは今日は何もしておらぬ』

「じゃあ頭使ってないの」

『そういう意味ではない』

 リンが少し笑った。

 重かった空気が、ほんの少しだけほどけた。


 ◇


 夕方、リンが眠っている間に、結人とアイリスは今日の戦いを振り返っていた。

 アイリスが広げた紙には、川と木、それに白銀の巨狼がいた位置が、簡単な線で描かれている。

「こんな感じ?」

「はい。最初はこちらでした」

 アイリスが印を書き足す。

「それから、リンが前に出て」

「リンさんの方を見ました」

「その後、氷か」

「はい」

 紙にいくつかの線が加わった。

「氷は一方向だけではありませんでした」

「逃げ道を塞ぐみたいに広がったやつ?」

「そう見えました」

 結人は線を指で追った。

「少なくとも、ただ真っ直ぐ逃げるだけじゃ危ないな」

「はい」

「獣返りだからって、闇雲に暴れるだけだと思わない方がよさそうだ」

 理性が薄れているとしても、攻撃まで単純になるとは限らない。今日、それは身をもって思い知った。

「あと、追ってこなくなった場所です」

 アイリスが別の箇所を指す。

「わたくしたちが攻撃した直後ではありませんでした」

「こっちが止めたわけじゃないんだよな」

「はい」

 結人は顎へ手を当てた。

「……あの場所に何かあるのかな」

 言ってから、考え直す。

「いや、場所が理由とは限らないか。あいつの方に何か起きたのかもしれない」

「そこまでは、わたくしにも分かりません」

「うん。まだ理由は分からない」

 アイリスが紙へ小さく印を付けた。

「でも、次に会った時、確かめたいことは増えました」

「どこで止まるかと、止まる前に何をするか?」

「はい」

「……そうだな」

 結人は少し笑った。

「アイリスがいて助かる」

「わたくしが?」

「俺、戦ってる最中は目の前で精いっぱいだから」

 少し離れた場所で眠っているリンへ目を向ける。

「リンは道を見てくれるし、アイリスは相手を見てくれる」

「わたくしは、見たことを言っているだけです」

「それが助かるんだよ」

 アイリスは紙へ目を落とした。

「でしたら」

「うん」

「次も、できるだけ見ます」

「お願い」


 ◇


 翌朝も、リンの右脚はまだ腫れていた。

「今日は動かない」

「……うん」

 リンは脚を伸ばしたまま頷いた。

「昨日いっぱい走ったからなの」

「昨日は、走らないと危なかったもんな」

「必要だったの」

「うん。助かったよ。でも今日は休み」

「分かったの」

 リンは毛布へ座り直した。

「仕事は?」

「なし」

 紅い耳が伏せられる。

「そんな顔しない」

「でも」

「昨日の分で十分」

「昨日の仕事は昨日のなの」

「今日は治すのが仕事」

「それ仕事?」

「今決めた」

「結人が?」

「雇ってる側だから」

「ずるいの」

「こういう時は使わせてもらう」

 リンは不満そうだった。それでも、立ち上がろうとはしなかった。


 ◇


 昼過ぎ、リンは脚を休めながら森の音を聞いていた。

「鳥、戻ってきてる?」

 結人が尋ねる。

「ここは普通なの」

「昨日の場所は?」

「分かんない」

「そっか」

「行ったら分かるの」

「今日は行かないよ」

「知ってるの」

 リンが少し先の木々を見た。

「でも、明日は?」

「脚次第」

「……」

「痛かったら明日も休む」

「分かったの」

 休むと聞いた時の返事が、少しだけ早くなった。


 ◇


 巨狼と遭遇してから二日後の朝、リンはゆっくり立ち上がった。

「痛い?」

「歩くなら平気なの」

「走るのは?」

「……」

 リンが足の位置を変えた。

「試さなくていい」

「まだ何もしてないの」

「顔に書いてある」

「書いてないの」

「とにかく、走るのも跳ぶのも、加速もなし」

「分かったの」

 結人はアイリスを見た。

「どう?」

「腫れは少し引いています」

「じゃあ、今日は離れたところから、足跡と森の様子を確かめよう。歩いて戻れる範囲で」

 荷物を背負うと、リンの耳が前を向いた。

 向かうのは、一昨日と同じ方角だった。ただし、巨狼と出会った場所へ一直線には進まない。

「こっちなの」

 リンは前に通った道筋を外れ、木々の間へ入った。

「近づきすぎない道?」

「うん。倒木の脇を通るの」

 結人とアイリスが続く。

「次、根を越えるの」

「了解」

「そのまま斜面を下るの」

 リンは走らない。それでも、足を運ぶ場所に迷いはなかった。

「こっちなら、離れたまま匂いを追えるの」

「あっちに気づかれるかは、分かる?」

「分かんない」

「そこは断言しないんだ」

「分かんないことは分かんないの」

「正しい」

 少し進むと、森が静かになった。

「……近い?」

「まだ」

 リンが鼻を動かす。

「でも、通ったの」

 地面には巨大な足跡が残っていた。

「前に見た足跡より、南まで来てる?」

「うん」

 結人は周囲を見た。

 折れた枝と、霜の付いた草。その先では、一本の細い木が根元から倒れている。

「これも?」

「たぶん」

 リンが倒れた木へ近づこうとした。

「待って。根元も凍ってる」

 結人が声を掛けると、リンは一度足元を見た。

「滑らないところを歩くの」

「うん。ゆっくり行こう」

 三人で足場を確かめながら近づく。

 木の根元は、周りの土ごと白く凍り付いていた。

「こっちまで霜があるんだな」

『動き回る範囲が広がったのか、力が強まったのか。今の痕跡だけでは分からぬ』

「獣返りが進んだ可能性もある?」

『それも、まだ分からぬ』

「そっか」

 結人は頷き、足跡と周囲の木々をもう一度見た。

 分からない理由を、無理に決める必要はない。今は、見つけた痕跡を覚えて帰ろう。

「リン」

「何?」

「どうしたい?」

 リンは足跡と霜、それから折れた木を一つずつ見た。

「前は、あいつ倒したかったの」

「今は?」

「分かんない」

「それでいいよ」

「でも」

 リンが森へ目を向ける。

「このままは嫌なの」

「このまま?」

「鳥も逃げて」

「うん」

「獣も逃げて」

 少し間を置いて、続ける。

「森が空っぽになるの」

 結人は、最初に巨大な足跡を見つけた時の静けさを思い出した。鳥の声も、小さな生き物の気配も消えていた森。

「群れと同じなの」

「散るから?」

「うん」

 リンは森を見たまま言った。

「止めたいの」

 今度は迷わなかった。

「あいつを倒して?」

 結人が尋ねると、リンは少し考えた。

「違うの」

「……うん」

「森が散るのを止める」

 結人は頷いた。

「それでいこう」

「できる?」

「今は分からない」

「……」

「だから調べる」

「うん」

 リンが巨大な足跡を見る。

「逃げても」

 一度、後ろを振り返った。

 結人とアイリス。それから、懐中時計のある結人の胸元へ目を向ける。

「みんないるの」

「全員いる」

 リンは小さく頷いた。

「じゃあ」

 灰色の瞳が、白い霜の残る森へ向いた。

「次も、みんなで帰ってくるの」


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