第七話 ~逃げることは負けではない~
「……調べるの」
結人は頷いた。
「一緒に?」
「うん」
「分かった」
リンはそれ以上何も言わず、右脚を伸ばして岩壁へ背中を預けた。
窪みの外では木々が風に揺れている。白銀の巨狼が追ってくる気配はなかった。
しばらくして、アイリスがリンの脚に当てていた布を取り替える。
「痛みますか?」
「ちょっとだけなの」
「まだ腫れています。今日はもう歩かないでください」
「分かったの」
返事は素直だった。
結人は少し離れて座り、鞘に収まった剣へ目を落とした。
さっきは、剣で反撃する余裕さえなかった。
けれど、倒すことが目的ではない。全員ここまで逃げてこられたことに、まずは安堵していた。
「……負けたの」
リンがぽつりと言った。
「ん?」
「あいつに」
結人が顔を上げる。
「うん。戦いでは負けたよ」
「……」
リンがむっとした。
「否定しないの?」
「全然敵わなかったし」
『潔いのう』
「事実だから」
結人はリンへ向き直った。
「でも、逃げたこと自体は悪くないだろ」
「負けたのに?」
「勝てないと思ったから逃げた」
「同じなの」
「違うよ。勝てない相手と、その場で最後まで戦う必要はないだろ」
「最後までやったら勝てたかもしれないの」
「俺は死んでたかもしれない。アイリスも、リンも」
紅い耳が伏せられた。
「今日、一回逃げたから」
結人は続ける。
「次に何をするか考えられる」
「……次」
「そう」
「あいつのこと調べるの?」
「そのつもり」
「また行く?」
「必要なら」
「逃げたのに?」
「逃げたから行けるんだよ」
リンは、まだ納得できない顔をしていた。
結人は少し考えてから尋ねた。
「リンにとって、逃げるのってそんなに嫌?」
「嫌なの」
「どうして?」
リンは右脚を見た。
「逃げたら」
一度、言葉が止まる。
「みんな散るの」
結人は黙った。
「群れの時も?」
「うん。みんな、違う方に走ったの」
リンの指が服を握る。
「声も聞こえなくなって」
「匂いは?」
「いっぱいあったの」
握った指に力がこもった。
「お父さんの匂いも」
「うん」
「お母さんのも。みんなのも」
灰色の瞳が揺れる。
「でも、違う方だったの」
「どれを追えばいいか、分からなくなった?」
「……うん」
どれを追えばいいのか。どこへ行けばいいのか。
リンは服を握ったまま、俯いていた。
「それから?」
アイリスが静かに尋ねる。
リンはしばらく黙っていた。
「一人になったの」
そこまでは、今までにも聞いている。
けれど、今度はその先があった。
「しばらくして、人と一緒に歩いたことあるの」
結人が少し姿勢を変えた。
「土狼族の人?」
「違うの」
「旅人?」
「そんな感じなの」
リン自身も、詳しい呼び方は知らないらしい。
「一緒にご飯食べて、獲物見つけたり、道教えたりしたの」
「今と似てるな」
「……うん」
リンが自分の右脚を見る。
「でも」
声が小さくなった。
「怪我したの」
結人は何も言わずに待った。
「走れなくなって」
「……」
「獲物も取れなくなって」
紅い耳が伏せられる。
「そしたら」
一度、息を吸った。
「悪いが、これ以上連れてはいけないって」
淡々とした言い方だった。
結人が言葉を返せずにいると、リンは続けた。
「怒ってなかったの。ただ、置いていかれたの」
「……」
「しょうがないの」
結人が何か言うより先に、リンはそう言った。
「リン、仕事できなかったから」
「それでいいと思ってる?」
「当たり前なの」
迷いのない返事だった。
「ご飯もらうなら働くの。一緒にいるなら、役に立つの」
「……」
「できなくなったら」
リンは右脚へ触れた。
「置いていかれるの」
結人はすぐに否定せず、何と言えばいいのか考えた。
「今日さ」
「何?」
「俺たち、逃げたよな」
「うん」
「リン、途中からずっと脚を庇ってた」
「……うん」
「俺はリンに逃げ道を教えてもらった。アイリスにも、何回も危ないところを教えてもらった」
リンが顔を上げる。
「で、今、誰か置いてきた?」
リンは結人を見た。次にアイリスを、それから懐中時計のある結人の胸元へ目を向けた。
「……みんないるの」
「全員いる」
リンはもう一度、周囲を見た。
「逃げても」
確かめるように、小さく続ける。
「みんないるの」
「今日は散らなかった」
リンの尾が、ほんの少し動いた。
「一緒に逃げたから?」
「俺はそう思う」
「……」
「逃げることと、一人になることは同じじゃないよ」
リンは答えなかった。ただ、その言葉を噛みしめるように、何度か瞬きをした。
『少しは休め』
フィリアが言った。
『脚も頭も使いすぎじゃ』
「神様に言われたくないの」
『わらわは今日は何もしておらぬ』
「じゃあ頭使ってないの」
『そういう意味ではない』
リンが少し笑った。
重かった空気が、ほんの少しだけほどけた。
◇
夕方、リンが眠っている間に、結人とアイリスは今日の戦いを振り返っていた。
アイリスが広げた紙には、川と木、それに白銀の巨狼がいた位置が、簡単な線で描かれている。
「こんな感じ?」
「はい。最初はこちらでした」
アイリスが印を書き足す。
「それから、リンが前に出て」
「リンさんの方を見ました」
「その後、氷か」
「はい」
紙にいくつかの線が加わった。
「氷は一方向だけではありませんでした」
「逃げ道を塞ぐみたいに広がったやつ?」
「そう見えました」
結人は線を指で追った。
「少なくとも、ただ真っ直ぐ逃げるだけじゃ危ないな」
「はい」
「獣返りだからって、闇雲に暴れるだけだと思わない方がよさそうだ」
理性が薄れているとしても、攻撃まで単純になるとは限らない。今日、それは身をもって思い知った。
「あと、追ってこなくなった場所です」
アイリスが別の箇所を指す。
「わたくしたちが攻撃した直後ではありませんでした」
「こっちが止めたわけじゃないんだよな」
「はい」
結人は顎へ手を当てた。
「……あの場所に何かあるのかな」
言ってから、考え直す。
「いや、場所が理由とは限らないか。あいつの方に何か起きたのかもしれない」
「そこまでは、わたくしにも分かりません」
「うん。まだ理由は分からない」
アイリスが紙へ小さく印を付けた。
「でも、次に会った時、確かめたいことは増えました」
「どこで止まるかと、止まる前に何をするか?」
「はい」
「……そうだな」
結人は少し笑った。
「アイリスがいて助かる」
「わたくしが?」
「俺、戦ってる最中は目の前で精いっぱいだから」
少し離れた場所で眠っているリンへ目を向ける。
「リンは道を見てくれるし、アイリスは相手を見てくれる」
「わたくしは、見たことを言っているだけです」
「それが助かるんだよ」
アイリスは紙へ目を落とした。
「でしたら」
「うん」
「次も、できるだけ見ます」
「お願い」
◇
翌朝も、リンの右脚はまだ腫れていた。
「今日は動かない」
「……うん」
リンは脚を伸ばしたまま頷いた。
「昨日いっぱい走ったからなの」
「昨日は、走らないと危なかったもんな」
「必要だったの」
「うん。助かったよ。でも今日は休み」
「分かったの」
リンは毛布へ座り直した。
「仕事は?」
「なし」
紅い耳が伏せられる。
「そんな顔しない」
「でも」
「昨日の分で十分」
「昨日の仕事は昨日のなの」
「今日は治すのが仕事」
「それ仕事?」
「今決めた」
「結人が?」
「雇ってる側だから」
「ずるいの」
「こういう時は使わせてもらう」
リンは不満そうだった。それでも、立ち上がろうとはしなかった。
◇
昼過ぎ、リンは脚を休めながら森の音を聞いていた。
「鳥、戻ってきてる?」
結人が尋ねる。
「ここは普通なの」
「昨日の場所は?」
「分かんない」
「そっか」
「行ったら分かるの」
「今日は行かないよ」
「知ってるの」
リンが少し先の木々を見た。
「でも、明日は?」
「脚次第」
「……」
「痛かったら明日も休む」
「分かったの」
休むと聞いた時の返事が、少しだけ早くなった。
◇
巨狼と遭遇してから二日後の朝、リンはゆっくり立ち上がった。
「痛い?」
「歩くなら平気なの」
「走るのは?」
「……」
リンが足の位置を変えた。
「試さなくていい」
「まだ何もしてないの」
「顔に書いてある」
「書いてないの」
「とにかく、走るのも跳ぶのも、加速もなし」
「分かったの」
結人はアイリスを見た。
「どう?」
「腫れは少し引いています」
「じゃあ、今日は離れたところから、足跡と森の様子を確かめよう。歩いて戻れる範囲で」
荷物を背負うと、リンの耳が前を向いた。
向かうのは、一昨日と同じ方角だった。ただし、巨狼と出会った場所へ一直線には進まない。
「こっちなの」
リンは前に通った道筋を外れ、木々の間へ入った。
「近づきすぎない道?」
「うん。倒木の脇を通るの」
結人とアイリスが続く。
「次、根を越えるの」
「了解」
「そのまま斜面を下るの」
リンは走らない。それでも、足を運ぶ場所に迷いはなかった。
「こっちなら、離れたまま匂いを追えるの」
「あっちに気づかれるかは、分かる?」
「分かんない」
「そこは断言しないんだ」
「分かんないことは分かんないの」
「正しい」
少し進むと、森が静かになった。
「……近い?」
「まだ」
リンが鼻を動かす。
「でも、通ったの」
地面には巨大な足跡が残っていた。
「前に見た足跡より、南まで来てる?」
「うん」
結人は周囲を見た。
折れた枝と、霜の付いた草。その先では、一本の細い木が根元から倒れている。
「これも?」
「たぶん」
リンが倒れた木へ近づこうとした。
「待って。根元も凍ってる」
結人が声を掛けると、リンは一度足元を見た。
「滑らないところを歩くの」
「うん。ゆっくり行こう」
三人で足場を確かめながら近づく。
木の根元は、周りの土ごと白く凍り付いていた。
「こっちまで霜があるんだな」
『動き回る範囲が広がったのか、力が強まったのか。今の痕跡だけでは分からぬ』
「獣返りが進んだ可能性もある?」
『それも、まだ分からぬ』
「そっか」
結人は頷き、足跡と周囲の木々をもう一度見た。
分からない理由を、無理に決める必要はない。今は、見つけた痕跡を覚えて帰ろう。
「リン」
「何?」
「どうしたい?」
リンは足跡と霜、それから折れた木を一つずつ見た。
「前は、あいつ倒したかったの」
「今は?」
「分かんない」
「それでいいよ」
「でも」
リンが森へ目を向ける。
「このままは嫌なの」
「このまま?」
「鳥も逃げて」
「うん」
「獣も逃げて」
少し間を置いて、続ける。
「森が空っぽになるの」
結人は、最初に巨大な足跡を見つけた時の静けさを思い出した。鳥の声も、小さな生き物の気配も消えていた森。
「群れと同じなの」
「散るから?」
「うん」
リンは森を見たまま言った。
「止めたいの」
今度は迷わなかった。
「あいつを倒して?」
結人が尋ねると、リンは少し考えた。
「違うの」
「……うん」
「森が散るのを止める」
結人は頷いた。
「それでいこう」
「できる?」
「今は分からない」
「……」
「だから調べる」
「うん」
リンが巨大な足跡を見る。
「逃げても」
一度、後ろを振り返った。
結人とアイリス。それから、懐中時計のある結人の胸元へ目を向ける。
「みんないるの」
「全員いる」
リンは小さく頷いた。
「じゃあ」
灰色の瞳が、白い霜の残る森へ向いた。
「次も、みんなで帰ってくるの」




