第六話 ~白銀の獣は過去を呼び起こす~
「……同じ」
リンが小さく呟いた。
「同じ?」
結人が聞き返しても、リンは暗い森の奥を見たまま答えなかった。
遠くで、もう一度低い咆哮が響く。
――オォォォォォォン。
焚き火を揺らす風は、さっきまでより明らかに冷たい。
「リン」
「……あの日も」
ようやく声が出た。
「こんな声だったの」
「いつ?」
「みんながいなくなった日」
結人は黙って続きを待った。リンの手が毛布の端を握る。
「夜だったの」
「うん」
「急に森が寒くなって」
リンの視線が焚き火へ落ちる。
「白いのが来たの」
「白い?」
「大きな狼」
結人の脳裏に、昼間に見た足跡が浮かんだ。
「今日の足跡も、その狼のもの?」
「たぶん」
「その狼に襲われたんだね」
「……うん」
リンが耳を伏せた。
「最初は遠くにいたの」
毛布を握る手に力がこもる。
「それから、吠えた」
一度、言葉が切れた。
「風が冷たくなって」
「……」
「木も、草も、地面も」
リンは自分の腕を抱いた。
「白くなったの」
「凍った?」
「うん」
『今日見た霜と同じか』
フィリアが尋ねると、リンはすぐに頷いた。
「同じ匂いだったの」
「匂いも覚えてるんだ」
「忘れないの」
強い言葉だった。けれど、その声は少し震えていた。
「みんな逃げたの」
「一緒には逃げられなかった?」
リンが首を振る。
「声もいっぱいして」
胸元の服を握った。
「匂いも」
少し間を置いて、続ける。
「いろんな方に散ったの」
「家族とは、その後も会えてない?」
「……うん」
すぐには、次の言葉が出なかった。
「お父さんも、お母さんも」
リンの目が毛布へ落ちる。
「どこにいるか、分かんないの」
結人は、それ以上聞かなかった。
『今夜は動かぬ方がよい』
フィリアが静かに言った。
「俺もそう思う」
結人は森へ目を向けた。
「リンは?」
「……行かないの」
昼間なら、真っ先に確かめに行くと言い出しそうだった。結人が返事を探していると、リンは右脚へ目を落とした。
「脚、痛いの。それに今行っても、何もできないの」
「そっか」
「でも」
「うん」
「明日は見るの」
「あの狼かどうか、確かめたい?」
「うん」
リンは暗い森を見た。
「何も分からないまま、離れたくないの」
結人も同じ方を見る。今は、声の主がどこにいるのかさえ分からない。
「明るくなってから、足跡を確かめよう。見つけても近づきすぎない。危なければ戻る」
「……うん」
「一緒に行こう」
その夜、咆哮はあと二度聞こえた。
けれど、何かが近づいてくる気配はなかった。一行は見張りを交代しながら、朝を待った。
◇
「痛い?」
翌朝、アイリスがリンの右脚を確認していた。
「昨日よりは平気なの」
「ここは?」
腫れの近くへ指先で軽く触れる。
「……ちょっと」
「まだ腫れています」
「歩けるの」
「歩くことと、走ることは別です」
「走れるの」
「走れるとしても、悪くなったら困ります」
「……」
リンがむっとする。
「今日は走らない」
結人も言った。
「無理はしない。脚が痛くなったら引き返す」
「分かったの」
「加速もなし」
「……」
「リン」
「分かったの」
今度は少し不満そうな返事だった。それでも、もう言い返してはこなかった。
◇
昨夜、咆哮が聞こえた方へ、一行は進んだ。
リンが先頭だが、今日は走らない。結人もその歩幅に合わせて歩く。
「ここ」
リンが足を止め、道端へ身をかがめた。
「何かある?」
「通ってるの」
「昨日の足跡と同じ狼?」
「たぶん」
土には巨大な足跡が残っていた。昨日見たものとほぼ同じ大きさだが、こちらはまだ輪郭がはっきりしている。
「新しい?」
「うん」
リンが鼻を近づける。
「夜なの」
「咆哮が聞こえた時?」
「たぶん」
足跡は、森のさらに北側へ続いていた。
「追える?」
「追えるの」
リンが身を起こす。
「近い」
「分かる?」
「匂いが濃いの」
結人は剣の柄へ手を掛けた。
進むほどに空気が冷えていく。
「寒いな」
吐く息が白い。この森へ入った時とは、まるで気温が違った。
「ご主人様」
「うん」
アイリスが道の右側を指す。
「草が凍っています」
「また霜か」
葉の縁に薄い氷が付いていた。その先では、木の幹まで白くなっている。
『昨日より霜が厚いのう』
「近づいてる証拠?」
『その可能性はある。少なくとも、この辺りにも同じ冷気が残っておる』
リンが急に耳を立てた。
「水」
「沢?」
「大きいの」
まもなく、結人にも水音が聞こえた。
木々の切れ目から見えたのは、幅が十数メートルもある川だった。昨日見た細い沢より、流れも強い。
一行は川を左に見ながら、北へ続く足跡を追った。岸沿いに倒れた大木を回り込み、木陰から先をうかがう。
「……凍ってる」
岸に近い水面の一部が、白く固まっていた。
「全部じゃないですね」
アイリスが川を見る。
「中央は流れています」
「端だけか」
『この時季の川が、自然に凍るとは考えにくい』
フィリアの言葉に、結人は足跡の続く先へ目を向けた。
「近いんだな」
「うん」
リンの声が小さくなった。
◇
その時、同じ岸の北側の木立から、鳥が一斉に飛び立った。
「っ」
リンがそちらを向く。木々の隙間に、白いものが見えた。
「来るの」
「どこ?」
「正面。あの木の奥なの」
最初に見えたのは、白銀の毛に覆われた太い脚だった。
続いて、木々の間から頭が現れる。
狼だ。
ただし、結人の知る狼とは大きさが違った。
「……でか」
肩の高さだけでも、結人の背をはるかに上回っている。
白銀の巨狼。
毛先には淡い氷青の光が揺れ、灰色がかった空の下で、その姿だけが冷たい光をまとっていた。
「リン」
「……」
返事がない。
「リン?」
紅い耳は完全に伏せられ、尾も動かなくなっていた。
「同じ?」
「……うん」
リンがようやく答える。
「あれなの」
『……フェンリルか』
「知ってるの?」
『種としてはな』
「種?」
『神獣じゃ』
「神獣……?」
結人は白銀の巨狼を見た。
「神様の獣ってこと?」
『神に飼われておるという意味ではない』
フィリアの声は落ち着いている。
『世界の理へ深く結び付いた、高位の獣をそう呼ぶ』
「強い?」
『弱くはない』
「それ絶対強いやつじゃん」
青白い瞳がこちらへ向いた。巨狼が足を止める。
「気づかれた?」
「たぶん」
リンが一歩前へ出た。
巨狼の視線が彼女のところで止まる。ほんの一瞬、両者とも動かなかった。
「リン」
「分かってるの」
リンは右脚を庇っていた。それでも、後ろへ戻ろうとはしない。
白銀の巨狼が低く唸った。
空気が震えた。
「来ます」
アイリスが声を上げる。
「頭が下がりました。前脚を踏ん張っています」
「突っ込んでくる?」
「その可能性があります」
「下がろう。リンも」
「……うん」
一歩後退した、その瞬間だった。
巨狼の周囲に水が浮かぶ。
「え?」
岸辺の水面から、いくつもの水滴が持ち上がっていた。
「フィリア」
『来るぞ』
水を巻くように風が吹いた。透明だった塊が、一瞬で白く変わる。
「氷!?」
数十本の尖った氷が空中に並び、その先端がこちらを向いた。
「アイリス、下がって!」
「はい!」
次の瞬間、氷の群れが一斉に飛んできた。
「風!」
結人は左手を突き出し、飛来する氷へ斜めに風をぶつけた。何本かがわずかに逸れる。
全部は無理だ。
「リン、右!」
「分かってるの!」
リンが木の根を越えて身をかわす。結人も横へ飛び退いた。アイリスは、その奥の木陰へ駆け込んでいる。
氷が次々に地面へ突き刺さった。
ばきっ、と音がする。
すぐそばの幹に、一本の氷が深く食い込んでいた。
「洒落にならないな!」
『まともに受けるでない』
「見れば分かる!」
氷をかわした先へ、白銀の巨狼が走り込んできた。
「速っ」
あれだけ大きいのに、距離が一息で詰まる。
「ご主人様、前脚が!」
アイリスが叫んだ。
巨狼の右前脚が持ち上がり、横薙ぎに振られる。
結人は身を低くし、そのまま地面へ転がった。頭上をかすめた風が耳を打つ。
「うわっ!」
さっきまで立っていた場所を、爪が深く抉った。
結人は這うようにして間合いを外す。
「リン!」
「いるの!」
左側の木立にリンがいた。巨狼が結人へ顔を向けている隙に、幹の陰を抜ける。
加速は使っていない。それでも、結人の目には十分に速かった。
「リン、無理するな!」
「分かってるの!」
リンは左脚で低い枝を蹴り、巨狼の後脚へ飛び蹴りを入れた。
白銀の巨体がわずかに揺れる。
それだけだった。
「っ」
着地した途端、リンの右膝が折れかけた。幹へ手をつき、身体を支える。
「硬いの!」
『神獣じゃぞ』
「先に言うの!」
『言うたであろう』
巨狼が振り返った。その視線がリンへ向く。
「リンさん、離れてください! 口元に水が集まっています!」
リンが幹を押して木々の間へ逃れると、巨狼の口から冷気が噴き出した。
「来る!」
鋭い氷が、地面を削りながら一直線に伸びる。
「リン!」
「見えてるの!」
リンは木の根を越え、岩に左足を掛けて横へ身を投げた。氷がすぐ脇を走り抜ける。
「っ」
着地した右脚が崩れた。
「リン!」
「平気なの!」
そう言いながら踏み出そうとした脚が、また小さく震えた。
「一回離れる!」
結人が叫んだ。
「まだ――」
「リン!」
強く呼ぶと、紅い耳がこちらを向いた。
「今朝、約束しただろ」
「……」
「無理はしない。引くぞ」
「……分かったの」
「アイリス、戻る道!」
「川沿いを南です。倒木の向こうへ回れば、少しは追いにくくなると思います」
「リン、案内できる?」
「できるの」
「お願い」
リンがすぐに周囲を見た。
「こっち!」
右脚を庇いながら、速足で進み始める。
「大きい根を越えるの!」
「了解!」
「その後、岩の左!」
アイリスが後ろを見た。
「ご主人様、追ってきます!」
「分かった!」
結人が振り返る。白銀の巨狼が、あっという間に距離を詰めてきた。
「ちょっと遅らせる」
足元から吹き上げた風が、濡れた落ち葉と土のかけらを巻き上げる。それを巨狼の鼻先へぶつけた。
巨狼がわずかに頭を振る。
足は止まらない。それでも、その一瞬に結人も二人の後を追った。
「倒木!」
リンが呼んだ。
大きな木が、行く手を塞ぐように倒れている。
「上?」
「下!」
根元の土が抉れ、人なら通れる隙間ができていた。
「リン先!」
「分かったの!」
リンが身をかがめてくぐり、アイリスが続く。
「ご主人様!」
「今行く!」
結人も隙間へ滑り込んだ。
背後の足音は止まらない。
「来る!」
振り返った結人の目の前で、白銀の巨体が倒木を跳び越えた。
「嘘だろ!」
『相手は神獣じゃ』
「便利な単語だな!」
巨狼が着地すると、その周囲に再び水が浮かんだ。
「ご主人様、氷が来ます。広がっています」
「どっちへ?」
「こちらだけではありません。左右にも」
「逃げ道潰す気か」
「そう見えます」
「リン!」
「斜面! 左なの!」
リンが木々の茂る斜面を指した。
「木が多いの!」
「行こう!」
三人は川沿いを離れ、斜面を登り始めた。
リンの足が明らかに遅くなっている。右脚を引きずるようになり、一歩ごとに身体が傾いた。
「リン」
「大丈夫!」
「大丈夫じゃ――」
「結人!」
リンの声に振り返る。
一本の氷の槍が、結人へ迫っていた。
「っ」
避けるには近すぎる。
反射的に横から風を叩きつけた。氷がわずかに逸れ、すぐ脇を抜けて木の幹へ突き刺さる。
「……危な」
結人が足を止めた、その横をリンが抜けた。
「先行くの!」
「脚!」
「今は走るの!」
加速のような速さではなかった。右脚を庇いながら、それでもリンは走った。
その先には、木と岩に挟まれた狭い通路がある。
「二本の木の間!」
リンが通れる場所を示していく。
「その先、岩沿い!」
背後では枝の折れる音が続いていた。木々だけで、あの巨体を止められるわけではない。
アイリスが後方を確かめる。
「距離、少し開きました」
「まだ来る?」
「……」
アイリスが足を止めかけた。
「どうした?」
「止まりました」
「え?」
結人も振り返る。
木々の向こうで、白銀の巨狼が立ち止まっていた。
「なんで?」
誰も答えられなかった。
「行こう」
結人が言う。
「止まった理由を確認するのは後」
「はい」
「リン」
「……うん」
今度の返事は素直だった。
◇
さらに距離を取り、雨風を凌げそうな岩壁の窪みまで来た。
「ここなら」
リンがようやく座り込む。
「少し休めるの」
「脚見せて」
「……」
「リン」
「分かったの」
アイリスが右脚を確かめた。
「今朝より腫れています」
結人も腫れた脚を見た。
「……見るだけで済むと思った。甘かったな」
「ちょっとなの」
「ちょっとじゃない」
結人は息を吐き、リンのそばへしゃがんだ。
「今日はここで休もう」
「……うん」
リンは反論しなかった。
◇
「フィリア」
少し落ち着いてから、結人が尋ねた。
「あれ、何だったの?」
『フェンリルであることは間違いなかろう』
「そうじゃなくて」
「群れが襲われた時も、あんなふうだったの」
リンが言った。
「リンには、どう見えた?」
「分かんない」
少し間を置いて、続ける。
「でも、声が変だったの」
「声?」
「うん」
「怒ってるとか?」
「違うの」
リンは自分の耳へ触れ、言葉を探した。
「苦しそうだったの」
結人はフィリアの返事を待った。
『獣返りかもしれぬ』
「獣返り?」
『高位の獣や、獣に近い種族で稀に起こる状態じゃ』
「暴走みたいな?」
『近いが、それだけではない』
フィリアは少し間を置いた。
『本来の理性が薄れ、獣としての本能や力が強く表へ出る』
「原因は?」
『一つではない』
「例えば?」
『強い負荷や、外部からの干渉。異常な魔力に長くさらされて起こることもある。原因が本人の内側にある場合もな』
「分からないこと多いな」
『見ただけで断定できるほど単純ではない』
「そっか」
結人は黙って考えた。
あの巨狼はリンの群れを散らし、今日も自分たちを襲った。それでも、最後には追うのをやめた。
「アイリス。あの狼の動きで、気づいたことはある?」
「はい。最初にこちらを見つけた時、すぐには襲ってきませんでした」
「……確かに」
「それから、リンさんが前へ出た時です」
アイリスがリンを見る。
「リンさんを見たまま、少し動きを止めたように見えました」
「最初にこっちを見つけた時とは、別に?」
「はい。でも、その直後には攻撃してきましたし、偶然かもしれません」
「追跡も、途中で止まったんだよな」
「はい」
「完全に理性が消えてるなら――」
言いかけて、止めた。
普通の獣だって、いつまでも獲物を追うわけではない。見失ったのか、何かを警戒したのか。それさえ分からない。
フィリアは何も言わず、続きを待っていた。
「断定するには早いか」
『そうじゃな』
「じゃあ」
結人はリンを見た。
「あれをどうするか決める前に、何が起きてるのか調べたい」
リンが少し驚いたように顔を上げる。
「あれ、リンの群れを散らしたの」
「うん」
「結人も襲われたの」
「うん」
「それでも?」
「理由が分かれば、戦う以外の方法が見つかるかもしれない」
正面から戦って勝てる相手ではなかった。追うのをやめた理由も、まだ分からない。
「分からないまま決めたくない」
「……」
「リンは?」
すぐには答えが返らなかった。
「嫌なら、無理に合わせなくていい」
リンの手が右脚の上で握られる。
「リンは」
一度、息を吸った。
「あいつが嫌いなの」
「うん」
「怖いの」
「うん」
「みんなを散らしたの」
「うん」
「でも」
灰色の瞳が森の奥へ向いた。
「今日の声」
小さな声で続ける。
「前と同じだったの」
「苦しそうだった?」
「うん」
結人は、続きを急かさずに待った。
「……調べるの」
結人が頷く。
「一緒に?」
「うん」
「分かった」
その日、白銀の獣はリンの過去をもう一度連れてきた。
けれど、今度のリンは一人ではなかった。




