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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第二章 狼少女は帰る場所を探す

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第五話 ~一番槍は止まらない~

 足跡を見つけた場所から離れても、リンは何度か後ろを振り返っていた。

「匂い、追ってきてる?」

 結人が尋ねる。

「来てないの」

「ならよかった」

「でも」

 リンの耳が森の奥へ向いた。

「分かんないの」

「何が?」

「あれがどこにいるか」

 結人もつられて振り返る。街道と、その両側に並ぶ木々。今は何も見えない。

「今日は深入りしない方がよさそうだな」

「はい」

 アイリスが頷いた。

「先ほどの場所からも、十分離れておいた方がよいと思います」

『異論はない』

 フィリアもあっさり同意した。

「じゃあ」

 結人は空を見る。木々の隙間では、少しずつ雲が厚くなっていた。

「来た方へ戻りながら、雨を避けられそうな場所を探そう。長引いたら、そのまま泊まれるところ」

「分かったの」

 リンが先頭へ出た。

「リンが探すの」

「お願い」

 紅い尾が少しだけ上がった。


◇


「ここは駄目なの」

「なんで?」

「雨降ったら水が来るの」

 街道から少し外れた、平らな場所だった。結人には悪くない野営地に見える。

「こんなに平らなのに?」

「まわりより低いの」

 リンが地面を指した。

「こっち」

 少し先に、浅い溝のようなものがある。

「水の跡なの」

「ああ……」

「雨いっぱい降ったら、ここ通るの」

「じゃあ却下」

「こっちなの」

 リンが斜面を少し上がった。数本の木と岩があり、地面は先ほどより高い。

「ここなら?」

 結人が尋ねると、リンは顔を上げた。耳と頬に当たる風を確かめるように、しばらく黙る。

「風は大丈夫なの」

「決まりだな」

「薪探すの」

「その前に荷物を――」

「リンが行くの」

 結人が言い終わる前に、リンは森の方へ歩き出した。

「ちょっと待って」

「何?」

「一人で行く?」

「薪くらい取れるの」

「それは分かるけど」

 結人は、さっき見た巨大な足跡を思い出した。

「今日は近くで」

「大丈夫なの」

「でも」

「リンの仕事なの」

 言い切られて、結人の言葉が一瞬止まった。

「薪集めまで頼んだっけ?」

「旅の案内するの」

「うん」

「野営も旅なの」

「そうだけど」

「じゃあ仕事なの」

「……」

 リンはもう歩き出している。

「ご主人様」

 アイリスが小さく呼んだ。

「うん」

「わたくしも一緒に参りましょうか」

「お願いしていい?」

「はい」

「リン!」

 紅い耳が振り返る。

「アイリスも一緒に行くって」

「一人でできるの」

「知ってる。でも、俺から見える範囲で、二人でお願い」

「……」

 少し不満そうだった。けれど、今度は立ち止まった。

「分かったの」

 アイリスが来るのを待ってから、リンはまた歩き出した。


◇


 ぽつ、と最初の雨粒が葉を叩いた。

「降ってきた」

『低い場所を避けて正解じゃったな』

「リンは分かってたの」

「さっき風は大丈夫って言ってなかった?」

「風は大丈夫なの」

「雨は?」

「降ると思ってたの」

「先に言ってよ」

「聞かれてないの」

「その返し流行ってる?」

 結人が天幕の片側を固定し、アイリスが反対側を支える。リンは集めてきた薪を、雨の当たりにくい場所へ移していた。

「リン、そのくらいでいいよ」

「まだ少ないの」

「十分じゃない?」

「夜までいるの」

「足りなくなったら俺も取りに行くよ」

「駄目なの」

「なんで?」

「リンの仕事なの」

 結人は手を止めた。

「……リン」

「何?」

「俺たちも仕事はするよ」

「知ってるの」

「じゃあ」

「でもリンはご飯もらうの」

 迷いはなかった。

「だから働くの」

「さっきから、ちゃんと案内してもらってるよ」

「まだ足りないの」

「誰が決めたの?」

「リン」

「自分で?」

「うん」

 それだけ言って、リンは薪へ向き直った。結人は何も返せなかった。

『結人』

「分かってる」

『ならよい』

 追及はしなかった。


◇


 しばらくすると雨は弱くなったが、空はまだ暗かった。

「このまま今日は休む?」

 結人が尋ねると、リンは即答した。

「まだ早いの」

「でも森も変だし」

「もうあっちから離れたの」

「それはそうだけど」

「次の休めるところまで行けるの」

 結人はアイリスを見る。

「どう思う?」

「日暮れまでは余裕があります」

「うん」

「ただ、雨の後ですので、足元には注意した方がよいかと」

「じゃあ、このまま森の外側へ進んで、早めに切り上げよう」

「はい」

「リンもそれでいい?」

「うん」

 天幕を畳み、荷物をまとめる。雨でぬかるんだ道へ戻ると、リンが自然と先頭へ出た。

「根を越えるの」

「了解」

「その先、右の岩沿い」

「はい」

「泥あるから真ん中踏まないの」

「そこ?」

「もう少し左なの」

 リンの案内は短い。けれど、歩いてみると全部理由が分かった。

 見た目には同じ地面でも、踏むと沈む場所がある。滑る根や、水が集まる窪みもある。結人とアイリスだけなら、確実に歩みが遅くなっていた。

「リン」

「何?」

「助かる」

「仕事なの」

「それでも」

「……」

 リンは前を向いたまま、少しだけ尾を揺らした。


◇


 最初に異変へ気づいたのは、リンだった。

「止まって」

 三人が足を止める。

「何?」

「前にいるの」

「何が?」

 リンが鼻を動かした。

「岩牙猪」

「さっき跡を見たやつ?」

「たぶん違う群れなの」

「何匹?」

「……三」

 結人が剣へ手を掛ける。

「避けられる?」

 リンは周囲を見た。左には斜面、右には木が密集している。

「回れるの」

「じゃあ――」

「でも」

 紅い耳が前へ向いた。

「来るの」

「え?」

 草むらが揺れた。

「ブォォッ!」

 低い鳴き声とともに、大きな影が木々の間から飛び出す。

「でかっ!」

 一昨日のロースターソルジャーより、明らかに大きい。太い身体を硬そうな灰色の毛が覆い、口元からは岩のようにごつい牙が伸びていた。

「ご主人様、もう二匹!」

 アイリスの声で奥を見る。先頭の猪の左右に、さらに二つの影があった。

「逃げる?」

「間に合わないの!」

 リンが前へ出る。

「リン!」

「一番槍なの!」

 先頭の岩牙猪が、結人からリンへ頭を向けた。

「待て!」

 猪が突進する。リンも真正面から走った。

「何して――」

 ぶつかる直前、リンが横へ跳ぶ。

 牙が空を切り、すれ違いざまにリンの蹴りが猪の側頭部へ入った。

「ブォッ!」

 巨体が僅かに傾く。

「効いてる!」

『浅いぞ』

「分かってる!」

 左側の一匹が、結人へ向かってきた。

「ご主人様、左側の個体が来ます!」

「見えた!」

 結人は剣を構えた。真正面では受けない。

 猪が前脚を踏み出す瞬間を狙い、弱い風を当てる。

「っ!」

 脚が僅かにずれ、身体が傾いた。

「今!」

 横へ避けながら、肩口へ剣を振る。刃は浅く食い込んだだけだった。

「硬っ!」

『無理に斬り込むでない!』

「分かってる!」

 猪は勢いを止められず、もつれた前脚を木の根へ引っ掛けた。結人の左側で、巨体が倒れ込む。

「リンさん!」

 アイリスが声を上げた。

「右奥の個体が、ご主人様へ向きを変えました!」

「分かったの!」

 リンが振り返る。

 右奥の猪は結人を見ていた。その頭が結人を追い、リンから外れる。

 紅い足が土を蹴った。

 一瞬で、猪の横へ。

「っ!」

 リンの蹴りが首へ入り、猪の進路をずらした。

「ブォォッ!」

「助かった!」

「リンが一番槍なの!」

「今のは横槍じゃない!?」

「うるさいの!」


◇


 三匹は多い。

 しかも、一匹でも一昨日の鶏より重い。

「これ無理して倒す必要ある?」

『ない』

「だよな!」

「でも逃げ道がないの!」

 リンが木の根を越える。その後ろを、最初に飛び出してきた猪が追っていた。

「こっちなの!」

 リンは倒木の脇へ駆け込んだ。

 猪も追うが、巨体には狭すぎる。肩が倒木へぶつかった。

「今!」

 結人が、踏ん張ろうとした前脚へ風を送る。ぬかるんだ足元で脚が滑り、猪が横倒しになった。

「ブォッ!?」

「リン、離れて!」

「分かってるの!」

 リンが横へ跳ぶ。その間にも、アイリスは残る二匹を見ていた。

「ご主人様、左側の一匹はまだ起きていません!」

「さっきのやつ?」

「はい! ですが、右の個体がこちらへ来ます!」

「一匹ずつなら何とか――」

 言った直後、紅い影が動いた。

「リン!」

 右から迫る猪が結人へ意識を向けた瞬間、リンがその死角へ加速する。

 脇腹を蹴り、すぐに飛び退いた。

「リン、無理するな!」

「してないの!」

 着地した足が、僅かにぶれた。

「……」

 結人は見逃さなかった。

「今、足」

「平気なの!」

 倒木の脇で、最初の一匹が起き上がった。

 リンがまた前へ出る。

「待てって!」

「リンが止めるの!」

「俺もいる!」

「結人は遅いの!」

「知ってるけど!」

 猪の頭がリンを追った。

 今度は動きを捉えられている。リンは加速せず、木の間を抜けた。

「リンさん、斜面側へ!」

 アイリスが声を飛ばす。

「分かったの!」

 リンが斜面を駆け上がり、猪も続く。

「ご主人様、今なら側面が空いています!」

「了解!」

 結人は、猪が踏み出した後脚へ風を当てた。踏み込みがずれ、巨体が横を向く。

「今!」

 剣を脚へ振る。

 深くはない。だが、斜面で身体を支えていた脚が崩れ、猪は膝をついた。

 立ち上がろうとしても、傷ついた脚をうまく踏ん張れない。

「よし!」


◇


「あと二匹!」

「一匹は動きが鈍いです!」

「リンは?」

「いるの!」

 右から声がした。結人が見ると、リンは木の根の上に立ち、荒い息をしていた。

「リン、一回下がって」

「まだなの」

「疲れてるだろ」

「疲れてないの」

「見れば分かる」

「分かんないの!」

 左側で倒れていた猪が立ち上がる。

「来る!」

 結人がそちらへ向いた。正面から牙が迫る。

「ご主人様、右へ!」

 横へ避けると、猪の頭も結人を追った。

「リン!」

 呼び止めるより先に、紅い影が加速した。

 猪の横へ回り込み、蹴る。

 着地した右足が、濡れた根の上で滑った。

「っ……」

 踏ん張ろうとした脚が崩れる。

「リン!」

「平気!」

 もう一匹の猪が、今度はリンを見据えた。死角へ回る隙がない。

 それでもリンは下がらなかった。

「下がれ!」

「リンがやるの!」

「足痛めてるだろ!」

「痛くない!」

 猪が突っ込む。

 リンは横へ避けようとした。だが、遅い。

「っ!」

 牙が服を掠め、体勢を崩したリンが地面へ転がった。

「リン!」

 結人は猪の顔へ風を叩きつけた。

 猪が目を細め、突進の向きが僅かに逸れる。止まりきれず、そのまま数歩走り抜けた。

「アイリス!」

「左後ろの木の間です! あそこなら、猪は通りにくいです!」

「リン!」

 結人が倒れた少女へ手を伸ばす。

「立てる?」

「立てるの!」

 右脚へ力を掛けた途端、顔が歪んだ。

「無理だ!」

「無理じゃない!」

「アイリス、リンお願い!」

「はい!」

「嫌なの!」

「今は聞け!」

 結人が前へ出る。

 猪がこちらへ向き直った。肩を傷つけたもう一匹も、遅れながら近づいてくる。

「ほんと厳しいな!」

『泣き言は後じゃ!』

「分かってる!」

 結人は剣を構えた。

 倒す必要はない。

 二人が逃げる時間を作ればいい。

「アイリス、逃げ道!」

「さっきの二本の木です! 来た道を十歩ほど戻ってください!」

「了解!」

「リンさん、立てますか?」

「立てるの!」

「肩を貸します」

「いらない!」

「必要です」

「……」

「今は逃げることの方が大切です」

 リンが一瞬だけ黙った。

「……分かったの」

 アイリスの肩へ腕を回す。

「結人!」

「先行って!」

 猪が突進した。

 結人は踏み出す前脚へ風を当て、進路をずらして横へ避ける。

「っ!」

 今度は剣を振らない。

「こっち!」

 わざと声を上げると、猪が結人へ向いた。

「よし」

 一歩、二歩と後ろへ下がり、追わせる。

 二人が抜けた、二本の木の間へ。

「今!」

 結人が身体を滑り込ませる。

 続いた猪の肩が幹へぶつかり、巨体が止まった。

「ブォォッ!」

 後ろの一匹も、仲間に進路を塞がれて足を止める。

「当たった!」

『喜んでおる場合か』

「逃げる!」

 結人は二人を追って走った。


◇


 追ってくる気配がなくなってからも、しばらく距離を取った。

 岩牙猪は姿を見せなかった。

「……はあ」

 結人が木へ手をつく。息が上がっていた。

「全員いる?」

「はい」

「リン」

「いるの」

 リンは地面へ座り、右脚を手で押さえていた。

「見せて」

「平気なの」

「平気じゃない」

「歩けるの」

「さっき、足をついただけで痛がってただろ」

「……」

 リンが手をつき、立ち上がろうとした。

 右脚へ体重が掛かる。

「っ」

 身体が傾き、アイリスがすぐに支えた。そのまま、もう一度座らせる。

「今は座って」

「ちょっとなの」

「ちょっとでも怪我は怪我」

「休んだら治るの」

「だから休む」

「駄目なの」

 結人がリンを見る。

「何が?」

「まだ進めるの」

「今日は終わり」

「まだ仕事できるの」

「しなくていい」

「駄目なの!」

 声が森へ響いた。

「……」

 リン自身が一瞬黙った。

「何が駄目なんだよ」

 結人は怒らずに腰を下ろし、リンと目の高さを合わせた。

「怪我してるなら休めばいい」

「駄目なの」

「なんで?」

「止まったら」

 リンが自分の脚を握る。

「駄目なの」

「……」

「一番槍は」

 小さな声だった。

「止まらないの」

「誰が決めた?」

「リン」

「なんで?」

「一番前にいるの」

「うん」

「強いの」

「うん」

「いっぱい働くの」

「……」

「だから」

 灰色の瞳が結人を見た。

「一緒にいられるの」

 結人はすぐには返さなかった。

 アイリスも、フィリアも、何も言わない。

「リン」

「何なの」

「後ろにいたら?」

 紅い耳が伏せた。

「……置いていかれるの」

 声は小さかった。

『誰に置いていかれた?』

「……」

 リンの目が僅かに揺れる。

「忘れたの」

『リン』

「忘れた!」

 強い声だった。

 それ以上、誰も聞かなかった。


◇


 その日は、そこで旅を止めた。

 街道から少しだけ離れた、見通しの利く場所。さっきはリンが率先して探していた野営地を、今度は結人とアイリスで選んだ。

「ここでいい?」

「……いいの」

「じゃあ決まり」

 アイリスがリンの右脚を見た。

「腫れてきています」

「ちょっとなの」

「冷やしましょう」

「平気なの」

「リンさん」

「……」

「これは、お仕事ではありません」

「?」

「怪我の手当てです」

「……うん」

 リンは今度は抵抗しなかった。

 アイリスは冷たい水に浸した布を、リンの右脚へそっと当てた。

「冷たいの」

「我慢してください」

「アイリス厳しいの」

「必要なことです」

「結人みたいなの」

「俺?」

「結人も厳しかったの」

「さっき?」

「休めって」

「それ厳しいに入る?」

「入るの」

「基準が分からないな……」

 少しだけ空気が緩んだ。

 けれど、結人はリンの脚へ目を戻す。

「明日は走らないで」

「……」

「返事」

「歩くのは?」

「痛くなければ」

「案内は?」

「できる範囲で」

「仕事は?」

「それもできる範囲」

 リンが少し考えた。

「走れないリンでも?」

「うん」

「速くなくても?」

「うん」

「……役に立つ?」

「立つよ」

 即答だった。

「今日だって」

「……」

「泥を避けたのも、雨を避ける場所を見つけたのも、岩牙猪に気づいたのもリンだろ」

「でも最後」

「最後?」

「走れなかったの」

「怪我したからね」

「だから」

「だから何?」

 リンは少し迷った。

「……何でもないの」

 視線を逸らす。

 結人は追わなかった。


◇


 夜には雨が完全に止んでいた。

 焚き火を囲んで食事を取り、リンは少しだけ多めに食べた。

「おかわり」

「あるよ」

「今日はいっぱい働いたの」

「それ関係なく出すけどね」

「仕事の分なの」

「はいはい」

 結人が器へスープを足すと、リンは満足そうに食べ始めた。

 アイリスがその様子を見ていた。何か言いたそうだったが、今は言わなかった。


◇


 食事を終え、火が少し小さくなった頃。

「……」

 リンの耳が立った。

「どうした?」

 結人が尋ねる。

「静かに」

 低い声に、全員が黙った。

 風に枝葉が揺れる。

 そして、遠い森の奥から。

 ――オォォォォォォン。

「……」

 低く、長い咆哮だった。

 結人の背中へ冷たいものが走る。

 直後、風が変わった。

「寒っ」

 吐いた息が僅かに白い。

「フィリア」

『分かっておる』

 フィリアの声も低かった。

 リンが立とうとする。

「待って」

 結人が肩を押さえた。

「脚」

「……」

「リン?」

 紅い耳は完全に伏せていた。灰色の瞳は、暗い森の奥を見たまま動かない。

「今の声」

 結人が言う。

「知ってる?」

 しばらく返事はなかった。

 やがて、リンが小さく呟いた。

「……同じ」


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