第五話 ~一番槍は止まらない~
足跡を見つけた場所から離れても、リンは何度か後ろを振り返っていた。
「匂い、追ってきてる?」
結人が尋ねる。
「来てないの」
「ならよかった」
「でも」
リンの耳が森の奥へ向いた。
「分かんないの」
「何が?」
「あれがどこにいるか」
結人もつられて振り返る。街道と、その両側に並ぶ木々。今は何も見えない。
「今日は深入りしない方がよさそうだな」
「はい」
アイリスが頷いた。
「先ほどの場所からも、十分離れておいた方がよいと思います」
『異論はない』
フィリアもあっさり同意した。
「じゃあ」
結人は空を見る。木々の隙間では、少しずつ雲が厚くなっていた。
「来た方へ戻りながら、雨を避けられそうな場所を探そう。長引いたら、そのまま泊まれるところ」
「分かったの」
リンが先頭へ出た。
「リンが探すの」
「お願い」
紅い尾が少しだけ上がった。
◇
「ここは駄目なの」
「なんで?」
「雨降ったら水が来るの」
街道から少し外れた、平らな場所だった。結人には悪くない野営地に見える。
「こんなに平らなのに?」
「まわりより低いの」
リンが地面を指した。
「こっち」
少し先に、浅い溝のようなものがある。
「水の跡なの」
「ああ……」
「雨いっぱい降ったら、ここ通るの」
「じゃあ却下」
「こっちなの」
リンが斜面を少し上がった。数本の木と岩があり、地面は先ほどより高い。
「ここなら?」
結人が尋ねると、リンは顔を上げた。耳と頬に当たる風を確かめるように、しばらく黙る。
「風は大丈夫なの」
「決まりだな」
「薪探すの」
「その前に荷物を――」
「リンが行くの」
結人が言い終わる前に、リンは森の方へ歩き出した。
「ちょっと待って」
「何?」
「一人で行く?」
「薪くらい取れるの」
「それは分かるけど」
結人は、さっき見た巨大な足跡を思い出した。
「今日は近くで」
「大丈夫なの」
「でも」
「リンの仕事なの」
言い切られて、結人の言葉が一瞬止まった。
「薪集めまで頼んだっけ?」
「旅の案内するの」
「うん」
「野営も旅なの」
「そうだけど」
「じゃあ仕事なの」
「……」
リンはもう歩き出している。
「ご主人様」
アイリスが小さく呼んだ。
「うん」
「わたくしも一緒に参りましょうか」
「お願いしていい?」
「はい」
「リン!」
紅い耳が振り返る。
「アイリスも一緒に行くって」
「一人でできるの」
「知ってる。でも、俺から見える範囲で、二人でお願い」
「……」
少し不満そうだった。けれど、今度は立ち止まった。
「分かったの」
アイリスが来るのを待ってから、リンはまた歩き出した。
◇
ぽつ、と最初の雨粒が葉を叩いた。
「降ってきた」
『低い場所を避けて正解じゃったな』
「リンは分かってたの」
「さっき風は大丈夫って言ってなかった?」
「風は大丈夫なの」
「雨は?」
「降ると思ってたの」
「先に言ってよ」
「聞かれてないの」
「その返し流行ってる?」
結人が天幕の片側を固定し、アイリスが反対側を支える。リンは集めてきた薪を、雨の当たりにくい場所へ移していた。
「リン、そのくらいでいいよ」
「まだ少ないの」
「十分じゃない?」
「夜までいるの」
「足りなくなったら俺も取りに行くよ」
「駄目なの」
「なんで?」
「リンの仕事なの」
結人は手を止めた。
「……リン」
「何?」
「俺たちも仕事はするよ」
「知ってるの」
「じゃあ」
「でもリンはご飯もらうの」
迷いはなかった。
「だから働くの」
「さっきから、ちゃんと案内してもらってるよ」
「まだ足りないの」
「誰が決めたの?」
「リン」
「自分で?」
「うん」
それだけ言って、リンは薪へ向き直った。結人は何も返せなかった。
『結人』
「分かってる」
『ならよい』
追及はしなかった。
◇
しばらくすると雨は弱くなったが、空はまだ暗かった。
「このまま今日は休む?」
結人が尋ねると、リンは即答した。
「まだ早いの」
「でも森も変だし」
「もうあっちから離れたの」
「それはそうだけど」
「次の休めるところまで行けるの」
結人はアイリスを見る。
「どう思う?」
「日暮れまでは余裕があります」
「うん」
「ただ、雨の後ですので、足元には注意した方がよいかと」
「じゃあ、このまま森の外側へ進んで、早めに切り上げよう」
「はい」
「リンもそれでいい?」
「うん」
天幕を畳み、荷物をまとめる。雨でぬかるんだ道へ戻ると、リンが自然と先頭へ出た。
「根を越えるの」
「了解」
「その先、右の岩沿い」
「はい」
「泥あるから真ん中踏まないの」
「そこ?」
「もう少し左なの」
リンの案内は短い。けれど、歩いてみると全部理由が分かった。
見た目には同じ地面でも、踏むと沈む場所がある。滑る根や、水が集まる窪みもある。結人とアイリスだけなら、確実に歩みが遅くなっていた。
「リン」
「何?」
「助かる」
「仕事なの」
「それでも」
「……」
リンは前を向いたまま、少しだけ尾を揺らした。
◇
最初に異変へ気づいたのは、リンだった。
「止まって」
三人が足を止める。
「何?」
「前にいるの」
「何が?」
リンが鼻を動かした。
「岩牙猪」
「さっき跡を見たやつ?」
「たぶん違う群れなの」
「何匹?」
「……三」
結人が剣へ手を掛ける。
「避けられる?」
リンは周囲を見た。左には斜面、右には木が密集している。
「回れるの」
「じゃあ――」
「でも」
紅い耳が前へ向いた。
「来るの」
「え?」
草むらが揺れた。
「ブォォッ!」
低い鳴き声とともに、大きな影が木々の間から飛び出す。
「でかっ!」
一昨日のロースターソルジャーより、明らかに大きい。太い身体を硬そうな灰色の毛が覆い、口元からは岩のようにごつい牙が伸びていた。
「ご主人様、もう二匹!」
アイリスの声で奥を見る。先頭の猪の左右に、さらに二つの影があった。
「逃げる?」
「間に合わないの!」
リンが前へ出る。
「リン!」
「一番槍なの!」
先頭の岩牙猪が、結人からリンへ頭を向けた。
「待て!」
猪が突進する。リンも真正面から走った。
「何して――」
ぶつかる直前、リンが横へ跳ぶ。
牙が空を切り、すれ違いざまにリンの蹴りが猪の側頭部へ入った。
「ブォッ!」
巨体が僅かに傾く。
「効いてる!」
『浅いぞ』
「分かってる!」
左側の一匹が、結人へ向かってきた。
「ご主人様、左側の個体が来ます!」
「見えた!」
結人は剣を構えた。真正面では受けない。
猪が前脚を踏み出す瞬間を狙い、弱い風を当てる。
「っ!」
脚が僅かにずれ、身体が傾いた。
「今!」
横へ避けながら、肩口へ剣を振る。刃は浅く食い込んだだけだった。
「硬っ!」
『無理に斬り込むでない!』
「分かってる!」
猪は勢いを止められず、もつれた前脚を木の根へ引っ掛けた。結人の左側で、巨体が倒れ込む。
「リンさん!」
アイリスが声を上げた。
「右奥の個体が、ご主人様へ向きを変えました!」
「分かったの!」
リンが振り返る。
右奥の猪は結人を見ていた。その頭が結人を追い、リンから外れる。
紅い足が土を蹴った。
一瞬で、猪の横へ。
「っ!」
リンの蹴りが首へ入り、猪の進路をずらした。
「ブォォッ!」
「助かった!」
「リンが一番槍なの!」
「今のは横槍じゃない!?」
「うるさいの!」
◇
三匹は多い。
しかも、一匹でも一昨日の鶏より重い。
「これ無理して倒す必要ある?」
『ない』
「だよな!」
「でも逃げ道がないの!」
リンが木の根を越える。その後ろを、最初に飛び出してきた猪が追っていた。
「こっちなの!」
リンは倒木の脇へ駆け込んだ。
猪も追うが、巨体には狭すぎる。肩が倒木へぶつかった。
「今!」
結人が、踏ん張ろうとした前脚へ風を送る。ぬかるんだ足元で脚が滑り、猪が横倒しになった。
「ブォッ!?」
「リン、離れて!」
「分かってるの!」
リンが横へ跳ぶ。その間にも、アイリスは残る二匹を見ていた。
「ご主人様、左側の一匹はまだ起きていません!」
「さっきのやつ?」
「はい! ですが、右の個体がこちらへ来ます!」
「一匹ずつなら何とか――」
言った直後、紅い影が動いた。
「リン!」
右から迫る猪が結人へ意識を向けた瞬間、リンがその死角へ加速する。
脇腹を蹴り、すぐに飛び退いた。
「リン、無理するな!」
「してないの!」
着地した足が、僅かにぶれた。
「……」
結人は見逃さなかった。
「今、足」
「平気なの!」
倒木の脇で、最初の一匹が起き上がった。
リンがまた前へ出る。
「待てって!」
「リンが止めるの!」
「俺もいる!」
「結人は遅いの!」
「知ってるけど!」
猪の頭がリンを追った。
今度は動きを捉えられている。リンは加速せず、木の間を抜けた。
「リンさん、斜面側へ!」
アイリスが声を飛ばす。
「分かったの!」
リンが斜面を駆け上がり、猪も続く。
「ご主人様、今なら側面が空いています!」
「了解!」
結人は、猪が踏み出した後脚へ風を当てた。踏み込みがずれ、巨体が横を向く。
「今!」
剣を脚へ振る。
深くはない。だが、斜面で身体を支えていた脚が崩れ、猪は膝をついた。
立ち上がろうとしても、傷ついた脚をうまく踏ん張れない。
「よし!」
◇
「あと二匹!」
「一匹は動きが鈍いです!」
「リンは?」
「いるの!」
右から声がした。結人が見ると、リンは木の根の上に立ち、荒い息をしていた。
「リン、一回下がって」
「まだなの」
「疲れてるだろ」
「疲れてないの」
「見れば分かる」
「分かんないの!」
左側で倒れていた猪が立ち上がる。
「来る!」
結人がそちらへ向いた。正面から牙が迫る。
「ご主人様、右へ!」
横へ避けると、猪の頭も結人を追った。
「リン!」
呼び止めるより先に、紅い影が加速した。
猪の横へ回り込み、蹴る。
着地した右足が、濡れた根の上で滑った。
「っ……」
踏ん張ろうとした脚が崩れる。
「リン!」
「平気!」
もう一匹の猪が、今度はリンを見据えた。死角へ回る隙がない。
それでもリンは下がらなかった。
「下がれ!」
「リンがやるの!」
「足痛めてるだろ!」
「痛くない!」
猪が突っ込む。
リンは横へ避けようとした。だが、遅い。
「っ!」
牙が服を掠め、体勢を崩したリンが地面へ転がった。
「リン!」
結人は猪の顔へ風を叩きつけた。
猪が目を細め、突進の向きが僅かに逸れる。止まりきれず、そのまま数歩走り抜けた。
「アイリス!」
「左後ろの木の間です! あそこなら、猪は通りにくいです!」
「リン!」
結人が倒れた少女へ手を伸ばす。
「立てる?」
「立てるの!」
右脚へ力を掛けた途端、顔が歪んだ。
「無理だ!」
「無理じゃない!」
「アイリス、リンお願い!」
「はい!」
「嫌なの!」
「今は聞け!」
結人が前へ出る。
猪がこちらへ向き直った。肩を傷つけたもう一匹も、遅れながら近づいてくる。
「ほんと厳しいな!」
『泣き言は後じゃ!』
「分かってる!」
結人は剣を構えた。
倒す必要はない。
二人が逃げる時間を作ればいい。
「アイリス、逃げ道!」
「さっきの二本の木です! 来た道を十歩ほど戻ってください!」
「了解!」
「リンさん、立てますか?」
「立てるの!」
「肩を貸します」
「いらない!」
「必要です」
「……」
「今は逃げることの方が大切です」
リンが一瞬だけ黙った。
「……分かったの」
アイリスの肩へ腕を回す。
「結人!」
「先行って!」
猪が突進した。
結人は踏み出す前脚へ風を当て、進路をずらして横へ避ける。
「っ!」
今度は剣を振らない。
「こっち!」
わざと声を上げると、猪が結人へ向いた。
「よし」
一歩、二歩と後ろへ下がり、追わせる。
二人が抜けた、二本の木の間へ。
「今!」
結人が身体を滑り込ませる。
続いた猪の肩が幹へぶつかり、巨体が止まった。
「ブォォッ!」
後ろの一匹も、仲間に進路を塞がれて足を止める。
「当たった!」
『喜んでおる場合か』
「逃げる!」
結人は二人を追って走った。
◇
追ってくる気配がなくなってからも、しばらく距離を取った。
岩牙猪は姿を見せなかった。
「……はあ」
結人が木へ手をつく。息が上がっていた。
「全員いる?」
「はい」
「リン」
「いるの」
リンは地面へ座り、右脚を手で押さえていた。
「見せて」
「平気なの」
「平気じゃない」
「歩けるの」
「さっき、足をついただけで痛がってただろ」
「……」
リンが手をつき、立ち上がろうとした。
右脚へ体重が掛かる。
「っ」
身体が傾き、アイリスがすぐに支えた。そのまま、もう一度座らせる。
「今は座って」
「ちょっとなの」
「ちょっとでも怪我は怪我」
「休んだら治るの」
「だから休む」
「駄目なの」
結人がリンを見る。
「何が?」
「まだ進めるの」
「今日は終わり」
「まだ仕事できるの」
「しなくていい」
「駄目なの!」
声が森へ響いた。
「……」
リン自身が一瞬黙った。
「何が駄目なんだよ」
結人は怒らずに腰を下ろし、リンと目の高さを合わせた。
「怪我してるなら休めばいい」
「駄目なの」
「なんで?」
「止まったら」
リンが自分の脚を握る。
「駄目なの」
「……」
「一番槍は」
小さな声だった。
「止まらないの」
「誰が決めた?」
「リン」
「なんで?」
「一番前にいるの」
「うん」
「強いの」
「うん」
「いっぱい働くの」
「……」
「だから」
灰色の瞳が結人を見た。
「一緒にいられるの」
結人はすぐには返さなかった。
アイリスも、フィリアも、何も言わない。
「リン」
「何なの」
「後ろにいたら?」
紅い耳が伏せた。
「……置いていかれるの」
声は小さかった。
『誰に置いていかれた?』
「……」
リンの目が僅かに揺れる。
「忘れたの」
『リン』
「忘れた!」
強い声だった。
それ以上、誰も聞かなかった。
◇
その日は、そこで旅を止めた。
街道から少しだけ離れた、見通しの利く場所。さっきはリンが率先して探していた野営地を、今度は結人とアイリスで選んだ。
「ここでいい?」
「……いいの」
「じゃあ決まり」
アイリスがリンの右脚を見た。
「腫れてきています」
「ちょっとなの」
「冷やしましょう」
「平気なの」
「リンさん」
「……」
「これは、お仕事ではありません」
「?」
「怪我の手当てです」
「……うん」
リンは今度は抵抗しなかった。
アイリスは冷たい水に浸した布を、リンの右脚へそっと当てた。
「冷たいの」
「我慢してください」
「アイリス厳しいの」
「必要なことです」
「結人みたいなの」
「俺?」
「結人も厳しかったの」
「さっき?」
「休めって」
「それ厳しいに入る?」
「入るの」
「基準が分からないな……」
少しだけ空気が緩んだ。
けれど、結人はリンの脚へ目を戻す。
「明日は走らないで」
「……」
「返事」
「歩くのは?」
「痛くなければ」
「案内は?」
「できる範囲で」
「仕事は?」
「それもできる範囲」
リンが少し考えた。
「走れないリンでも?」
「うん」
「速くなくても?」
「うん」
「……役に立つ?」
「立つよ」
即答だった。
「今日だって」
「……」
「泥を避けたのも、雨を避ける場所を見つけたのも、岩牙猪に気づいたのもリンだろ」
「でも最後」
「最後?」
「走れなかったの」
「怪我したからね」
「だから」
「だから何?」
リンは少し迷った。
「……何でもないの」
視線を逸らす。
結人は追わなかった。
◇
夜には雨が完全に止んでいた。
焚き火を囲んで食事を取り、リンは少しだけ多めに食べた。
「おかわり」
「あるよ」
「今日はいっぱい働いたの」
「それ関係なく出すけどね」
「仕事の分なの」
「はいはい」
結人が器へスープを足すと、リンは満足そうに食べ始めた。
アイリスがその様子を見ていた。何か言いたそうだったが、今は言わなかった。
◇
食事を終え、火が少し小さくなった頃。
「……」
リンの耳が立った。
「どうした?」
結人が尋ねる。
「静かに」
低い声に、全員が黙った。
風に枝葉が揺れる。
そして、遠い森の奥から。
――オォォォォォォン。
「……」
低く、長い咆哮だった。
結人の背中へ冷たいものが走る。
直後、風が変わった。
「寒っ」
吐いた息が僅かに白い。
「フィリア」
『分かっておる』
フィリアの声も低かった。
リンが立とうとする。
「待って」
結人が肩を押さえた。
「脚」
「……」
「リン?」
紅い耳は完全に伏せていた。灰色の瞳は、暗い森の奥を見たまま動かない。
「今の声」
結人が言う。
「知ってる?」
しばらく返事はなかった。
やがて、リンが小さく呟いた。
「……同じ」




