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新約:止まった懐中時計は、神様をひとり隠している  作者: ぽんさん
第二章 狼少女は帰る場所を探す

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第四話 ~森は何かに怯えている~

 食事を終えると、リンの仕事が始まった。

「まず何するの?」

 結人が尋ねる。

「歩くの」

「それは分かる」

「じゃあ聞かないの」

「もう少し具体的にお願いします」

 リンが街道の先を見る。木々の間からは、鳥の声が聞こえていた。

「この道はまだ使えるの」

「まだ?」

「雨がいっぱい降ると、少し先が歩きにくくなるの」

「なんで分かるの?」

「匂い」

「雨の?」

「土の」

 リンは道端へしゃがみ、指先で湿った土を少し掻いた。

「上だけ濡れてるの」

「うん」

「下はそんなに濡れてないの」

「それで?」

「今日は大丈夫なの」

「なるほど……?」

 分かったような、まだ分からないような。

『土狼族は地面の変化に敏い者が多いからの』

 フィリアの声は、今度はリンにも聞こえている。

「神様も分かるの?」

『見れば多少はな』

「じゃあリンいらない?」

『わらわは、森の匂いまでは嗅げぬ』

「リンの勝ちなの」

『何の勝負じゃ』

「もう張り合ってる……」

 結人が呟くと、アイリスは少しだけ笑っていた。


◇


 歩き始めると、リンの言っていた意味が少しずつ分かってきた。

「そこ踏まない方がいいの」

「これ?」

「うん」

 結人の足元は、一見すると普通の地面だった。

 そこを避けて横へ踏み出すと、リンは落ちていた枝で地面を軽く突いた。

 ずぶり、と枝の先が沈む。

「うわ」

「中が柔らかいの」

「見ただけじゃ分からないな」

「匂いと色なの」

「色?」

「少し黒いの」

 結人は言われてから見比べた。

「……ああ」

 確かに、周囲よりほんの少しだけ暗い。

「言われないと気づかない」

「だからリンがいるの」

「早速助かってる」

「当然なの」

 尾が少しだけ上がった。

「これは食べられるの」

 少し先で、リンが低い木へ手を伸ばした。枝には小さな紫色の実がついている。

「そのまま?」

「うん」

「毒は?」

「ないの」

「フィリア?」

『わらわを見るな』

「確認くらい」

『この森の実なら、リンの方が詳しかろう』

「じゃあ一個」

 結人が手を伸ばすと、リンがその手を叩いた。

「痛っ」

「これはまだ酸っぱいの」

「食べられるんじゃなかったの?」

「食べられるのと、おいしいのは別なの」

「先に言ってよ」

「結人が勝手に取ろうとしたの」

『正論じゃな』

「今日ずっとリン側だな」

『正しい方についておるだけじゃ』

「それが一番腹立つ」

 アイリスは、枝についた実を一つ眺めた。

「熟しているものは、どのように見分けるのですか?」

「もっと赤くなるの」

「なるほど」

「あと匂いが甘くなるの」

「覚えておきます」

 リンがアイリスを見る。

「アイリス、こういうの好き?」

「知らないことを覚えるのは好きです」

「じゃあいっぱい教えるの」

「お願いいたします」

「まずこれは――」

 二人は並んで実を見始めた。結人は少し後ろから眺める。

「俺の時より教え方丁寧じゃない?」

「アイリスはちゃんと聞くの」

「俺も聞いてるよ」

「すぐ触るの」

「……反省します」


◇


 少し進んだところで、リンが急に足を止めた。

「どうした?」

「ここ」

 道の脇で、草が倒れている。

「何か通ったの?」

「うん」

 リンはしゃがみ、倒れた草から土へ、木の幹へと順に目を移した。最後に鼻を動かす。

「三匹」

「分かるの?」

「たぶん」

「何が?」

「岩牙猪」

「猪……」

 一昨日の鶏を思い出す。

「普通の猪?」

『その質問をする時点で普通ではなさそうじゃな』

「この世界、名前から信用できないんだよ」

 リンが草の高さを手で示した。

「これくらい」

「思ったより大きい」

「牙あるの」

「名前通りだ」

「でも古い跡なの」

「どのくらい?」

「昨日より前」

「そこまで分かる?」

「匂い薄いから」

 リンは少し先へ顔を向け、もう一度鼻を動かした。

「この先には、新しい匂いはないの」

「じゃあ大丈夫?」

「今は近くにいないの」

「便利だなあ……」

 素直に出た。

 リンが胸を張る。

「森はリンの一部なの!」

「その台詞、ほんとだったんだな」

「最初からほんとなの!」


◇


 それからも、リンは次々と足を止めた。

「この木の傷は魔物じゃないの」

「じゃあ何?」

「角をこすった跡」

「鹿みたいな?」

「たぶん」

 少し先では、水辺を指した。

「この水は飲んでも大丈夫なの」

「沢なら何でもいいわけじゃない?」

「上に死んだ獣がいたら駄目なの」

「それは嫌だな」

「匂いで分かるの」

「俺は飲む前にリンへ聞くことにする」

「それがいいの」

 さらに歩くうちに、リンが空を見上げた。

「今日は風が変なの」

「雨?」

「違うの」

「じゃあ?」

「分かんない」

 案内を始めてから、リンがそう答えたのは初めてだった。

「分からない?」

「うん」

 紅い耳が左右へ動く。

「風は普通なの」

「普通なのに変?」

「……」

 リン自身も、言葉を探しているようだった。

「匂いが少ないの」

「匂い?」

「うん」

「何の?」

「いろいろ」

 結人にはまだ意味が分からない。けれど、さっきまで迷わず答えていたリンが、ここでは何度も鼻を動かしている。

「少ないって」

 アイリスが尋ねる。

「いつもなら、もっと何かの匂いがするということでしょうか」

「そうなの」

 リンが頷いた。

「鳥」

「うん」

「小さい獣」

「うん」

「虫も」

 周囲を見る。

「少ないの」

 結人も、ようやく意識した。

「……静かだな」

 足を止める。

 聞こえるのは、風に葉が揺れる音と、自分たちの呼吸だけだった。

 さっきまで枝の上には鳥がいて、草むらでは小動物が動く音もしていた。今は、それがほとんど聞こえない。

「いつから?」

 結人が尋ねる。

「少し前から」

「気づいてた?」

「変だなって思ってたの」

「先に言ってよ」

「まだ分かんなかったの」

 リンが少しむっとした。

「分かんないのに怖がらせたくなかったの」

「……そっか」

 結人はそれ以上言わなかった。


◇


 さらに進むと、前方の草むらから音がした。

 がさっ。

「何?」

 全員が足を止めると、草むらがもう一度大きく揺れた。

「ご主人様」

「うん」

 結人が剣へ手を掛ける。その横で、リンが鼻を動かした。

「待って」

「魔物?」

「違うの」

 直後、草むらから小さな獣が飛び出した。

「うわっ」

 結人の横を一目散に走り抜け、さらに二匹、三匹と続く。

「何これ」

「森兎なの」

「逃げてる?」

 リンは答えず、兎が来た方向を見た。

 今度は木々の間から、何羽もの鳥が飛び出した。兎と同じ方へ、森の外側へ向かうように飛んでいく。

「……」

 アイリスが空を見上げた。

「皆、同じ方から逃げてきています」

「何かいる?」

 結人が剣を抜くと、リンの耳が前へ向いた。

「分かんない」

 けれど、尾は完全に下がっていた。

「進む?」

 結人はリンとアイリスを順に見た。今度は簡単に決めなかった。

「リンは?」

「少しだけ」

「理由は?」

「何がいるのか知りたいの。この先を通れるか、確かめたいの」

「危なくない範囲で?」

「うん」

 結人はアイリスを見る。

「どう思う?」

「戻る道は、まだ確保できています」

 アイリスが、歩いてきた街道を振り返った。

「ただ、これ以上進んで状況が悪化するようでしたら、すぐに引き返した方がよいと思います」

「分かった」

『わらわも異論はない』

「じゃあ少しだけ」

 剣は抜いたまま、四人で街道を進む。


◇


 数分進んでも、何も起きなかった。静けさだけが、さらに濃くなっていく。

「リン」

「うん」

「これ普通じゃないよね」

「普通じゃないの」

 リンの声は小さくなっていた。

 ふいに、その足が止まる。

「待って」

「何?」

「前」

 街道脇の土が、大きく抉れていた。

「……何これ」

 最初は穴に見えた。

 けれど、よく見ると爪の跡がある。

「足跡?」

 アイリスが、結人の少し後ろから覗き込む。

「大きすぎない?」

 結人の靴が丸ごと収まっても、まだ余るほどの大きさだった。

 リンがゆっくり近づき、しゃがんだ。

「狼」

「狼!?」

 結人は思わず足跡を見直した。

「これが?」

「うん」

「どんな大きさだよ……」

 リンは返事をせず、鼻を近づける。

「……」

 紅い耳が、少しずつ伏せていく。

「リン?」

「知ってる匂い?」

「……分かんない」

 答えは、遅かった。

 結人は足跡の縁に、白いものを見つけた。

「これ」

 近づこうとしたところで、リンが止める。

「待って。触らないで」

「何?」

 白いものが、土の表面を薄く覆っていた。結人は手を伸ばさず、目を凝らす。

「霜?」

『……そう見えるのう』

 フィリアの声が少し低くなった。

「この気温で?」

『自然にできたものではなさそうじゃ』

 リンはじっと霜を見ていた。

「冷たい魔法?」

『おそらくな』

「氷?」

『水だけではない』

 フィリアが足跡の周囲を見る。

『風の気配も残っておる』

「水と風?」

『二つを重ね、氷として成立させたのだろう』

「そんなことできるんだ」

『できる者はおる』

「これをやったのが、この狼?」

『断定はできぬ』

 フィリアはそこで言葉を止めた。

『じゃが、その可能性は高いな』

 リンはまだ足跡を見ている。

「……」

「リン?」

「前にも」

 小さい声だった。

「見たことあるの」

 結人がリンを見る。

「この足跡?」

「違う」

 リンは霜へ目を向けた。

「こういう冷たいの」

「どこで?」

「……」

 すぐには答えず、灰色の瞳が森の奥へ向いた。

「リン?」

 風に枝葉が揺れる。その音のほかには、何も聞こえない。

「……あの日」

「え?」

「何でもないの」

 リンは立ち上がった。

「戻るの」

 さっきまで少し先を見たいと言っていた少女が、今度は迷わなかった。

「分かった」

 結人もすぐに剣を構え直す。

「戻ろう」


◇


 誰も走らない。けれど、来た道を戻る足取りは速かった。

 しばらくして、ようやく鳥の声が聞こえた。

 一羽だけ。遠くから。

「……」

 結人は無意識に息を吐いた。

「さっきまで、本当に何も聞こえなかったな」

「はい」

 アイリスも一度、後ろを振り返る。

「魔物がいるだけで、あそこまで静かになるものでしょうか」

『相手によるじゃろうな』

「大きな狼……」

 結人はあの足跡を思い出した。

「遭遇したくないな」

「……」

 リンだけが黙っていた。

「リン?」

 少しして、紅い耳が動く。

「森って」

「うん」

「危ない時は、音が増えることもあるの」

「音?」

「獣が怒ったり、鳥が鳴いたり」

「知らせ合うみたいな?」

「うん」

 リンは歩きながら後ろを見た。

「でも」

 森の奥。巨大な足跡があった方向。

「何もいなくなる時は」

 一度、言葉を切った。

「逃げてるの」

「……」

「みんな」

 灰色の瞳が細くなる。

「森が何かに怯えてるの」


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