第三話 ~最低限の食事は豪勢すぎる~
「じゃあ泥を落とすところから」
「おまえのせいなの!」
まだ元気は残っているらしい。結人はほんの少しだけ安心した。
◇
「冷たいの!」
「沢なんだから仕方ないだろ」
「結人も入るの!」
「俺も泥だらけだから入るよ」
「もっと奥なの!」
「なんで!?」
「リンだけ冷たいのずるい!」
「意味分かんないよ!」
街道から少し離れた沢は、深いところでも膝ほどの水深しかない。そこで結人とリンは、揃って泥を落としていた。
アイリスは岸辺で、自分の袖へ飛んだ泥を布で拭っている。
「アイリス、本当にごめん」
「この程度でしたら大丈夫です」
「洗えば落ちる?」
「おそらくは」
リンが、その青い袖を見る。
「……」
「リンさん?」
「何でもないの」
ぱしゃ、とわざとらしく水を蹴った。
「結人、こっちまだ泥なの」
「自分で洗えるだろ」
「縄ついてるの」
「あ」
戦いのあと、リンの片腕に緩く掛けた縄は、まだ外していなかった。もう一方の端は結人が持っている。
「これ外したら逃げる?」
「逃げるの」
「正直だなあ」
「じゃあ、まだ外せませんね」
アイリスが言うと、リンは頬を膨らませた。
「むぅ」
「別に捕まえて売るとかじゃないから」
「信用できないの」
「まあ」
結人はリンの立場で考える。
見知らぬ人間から食料を盗み、追いかけられ、戦った末に泥へ落とされた。そして今は、縄付きだ。
「……確かに怪しいな」
「ご主人様」
「何?」
「ご自分でおっしゃらない方がよろしいかと」
「でも事実じゃない?」
「ますます警戒されます」
「もうされてるよ」
リンがじっと二人を見る。
「ご主人様って何なの」
「俺?」
「うん」
「アイリスがそう呼んでるだけ」
「偉いの?」
「全然」
「ご主人様」
「はい」
「そこは否定なさらなくても」
「だって偉くないし」
リンはますます分からない顔をした。
◇
泥を洗い落とし、結人とリンは岸へ上がった。
「少しだけ話を聞いて。その間は逃げない。殴らない。噛まない」
「……それで終わり?」
「うん。話が済んだら、引き止めない」
リンが渋々頷いたのを見て、結人は縄を外した。
「噛まないは必要だった?」
リンが自分の腕をさする。
「必要だった」
「一回だけなの」
「一回噛めば十分だよ」
結人の腕には、薄く歯形が残っている。
「結人が離さないからなの」
「そりゃ逃げようとしたから」
「逃げたかったの」
「堂々巡りだな……」
リンはすぐ逃げる様子を見せなかった。
逃げられないわけではないだろう。さっきまでの戦いで、かなり疲れている。
それ以上に。
「……」
ぐう、と腹が鳴った。
リンは何もなかったような顔をする。
「お腹」
「鳴ってないの」
「何も言ってない」
「言おうとしたの!」
「そうだけど」
結人は荷物へ手を伸ばし、パンとチーズ、乾燥果物を取り出した。
昼食の主役にするはずだった肉は、目の前の犯人に食べられてしまった。
「食べる?」
「いらないの」
即答だった。
「腹減ってるだろ」
「減ってないの」
ぐうう。
「……」
「……」
「元気だね、お腹」
「うるさいの!」
結人がパンを差し出しても、リンは受け取らない。
「取らないの?」
「もらわないの」
今度は、はっきり言った。
「さっきは肉取ったのに」
「あれはリンが取ったの」
「それは聞いた」
「これは結人がくれるの」
「そうだけど」
「違うの」
リンにとっては、本当に違うらしい。
「何が違うの?」
「取ったものはリンのなの」
「うん」
「もらったものは」
言葉が止まった。
「……返さないといけないの」
「返す?」
「働いて」
結人が少しだけ眉を寄せた。
「食べ物をもらったら働くの?」
「当たり前なの」
「誰に教わった?」
「……」
リンの耳が伏せる。
「関係ないの」
それ以上は答えなかった。
◇
『妙な娘じゃのう』
「妙っていうか、何か理由があるんだろ」
リンが結人を見る。
「誰と喋ってるの?」
「そういえば」
結人は胸元の懐中時計へ目を落とした。
「ちゃんと説明してなかったな」
「何を?」
「俺が時々一人で喋ってる理由」
「変だから?」
「そこまで言わなくても」
結人は時計へ声をひそめる。
「リンに話していいかな」
『構わぬ。ただし、他の者には内緒じゃぞ』
アイリスにも目を向けると、小さく頷いた。
「アイリスも知ってるの?」
「はい」
「何を?」
結人は懐中時計を手へ取った。
「他の人には内緒にしてほしいんだけど。この時計を通して、俺たちに話しかけてくる人がいる」
「時計が喋るの?」
「時計じゃなくて、人」
『神じゃ』
「本人は神様って言ってる」
その声は、まだリンには聞こえていない。
「神様?」
警戒より、少しだけ好奇心が勝ったらしい。
「名前はフィリア」
「結人の神様?」
「俺のっていうと何か違うな……」
「フィリア様は、本当に女神様です」
アイリスが補足すると、リンは今度はそちらを見た。
「アイリスには聞こえるの?」
「はい」
「どこ?」
「今も、こちらに」
「見える?」
「見えます」
リンが懐中時計へ顔を近づける。
「リンには何も見えないの」
「最初のアイリスもそうだった」
「なんで今は見えるの?」
「アイリスが見たいって、自分で決めたから」
「……?」
「フィリアの姿や声が、リンにも直接届くようにできる。ただ、リン自身の同意がいるんだ」
「同意?」
「見たい、聞きたいって自分で決めること」
リンは懐中時計を見る。
「勝手には見せられないの?」
「できるらしいけど、やらない」
「なんで?」
「勝手に人の頭へ入り込むようなものだから」
リンの耳が立つ。
「頭に入るの?」
「そういう意味じゃなくて」
『説明が下手じゃのう』
「うるさいな」
「今、誰かに怒られたの?」
「説明が下手って言われた」
アイリスが小さく頷く。
「わたくしの時も、先に同意を確認されました」
「アイリスは怖くなかった?」
「とても怖かったです」
「怖かったの?」
「女神様と伺いましたので」
「それでも見たの?」
「はい」
「なんで?」
アイリスは少し考えた。
「知りたかったからです」
「……」
「決めたのは、わたくしです」
リンがもう一度、懐中時計を見た。
「リンもできる?」
「できるよ」
「今?」
「フィリア?」
『わらわは構わぬ。ただし』
フィリアの声が少し落ち着く。
『リン自身が望むならば、じゃ』
「フィリアはいいって」
「……」
「どうする?」
リンは暫く時計を見つめた。
「見たら」
「うん」
「何か取られる?」
「取られない」
「命令される?」
「されない」
「やめたくなったら?」
「フィリア?」
『接続を閉じればよい』
「やめられるって」
「……じゃあ」
リンが指を伸ばした。
「見るの」
「分かった」
結人が懐中時計を開く。中央の青いガラス飾りが、淡く光った。
「ここへ触って」
リンの指先が青いガラスへ触れると、光が一度だけ強くなる。
「っ」
リンが目を細めた。
文字盤の上へ淡い氷青の光が集まり、白い着物を着た、長い髪の小さな少女の姿になった。
『初めましてじゃな、リン』
リンが固まる。
「……喋ったの」
紅い耳が、ぴんと立った。
『先ほどから喋っておったわ』
「リンには聞こえなかったの!」
『それは知っておる』
リンは文字盤の上をじっと見つめた。
「……ちっちゃい」
『次に言うことがそれか』
「神様?」
『いかにも』
「ほんとに?」
『疑うかの?』
「だってちっちゃいの」
『大きさと神格は関係ないわ!』
「神様、怒りっぽいの」
『誰のせいじゃ!』
結人は思わず笑った。
「相性悪くなさそう」
『どこを見てそう思うた!』
「フィリア様」
アイリスも少し笑っている。
『アイリスまで笑うでない』
「申し訳ありません」
「神様」
『何じゃ』
「ほんとに時計に住んでるの?」
『住んでおるわけではない』
「じゃあ何してるの?」
『それを話すと長くなる』
「神様なのに?」
『神にも説明が面倒なことくらいある』
「変なの」
『結人と同じことを言うでない』
「俺まで巻き込むなよ」
◇
少し空気が緩んだ。
けれど、食事の話へ戻ると、リンはパンを受け取らなかった。
「駄目?」
「もらわないの」
「盗るのはいいのに」
「それは言ったの」
「そうだった」
結人がパンを戻そうとすると、アイリスが声を掛けた。
「ご主人様」
「何?」
アイリスはリンを見ていた。
「リンさんは、いただく理由があればよろしいのですか?」
「理由?」
リンもアイリスを見る。
「働いた分であれば、受け取れるのでしょうか」
「うん」
「でしたら」
アイリスが結人へ向き直る。
「リンさんにお願いできることは、ありませんか」
「仕事?」
「はい」
結人はリンを見た。さっきまで、木の根も幹も枝も、道のように使って走っていた少女だ。
「……あ」
「何なの」
「リン、この森に詳しいんだよね」
「詳しいの」
「どのくらい?」
「いっぱい」
「具体的には?」
「匂いで獣が通った場所分かるの」
「うん」
「水のある方も分かるの」
「うん」
「風が変わったら雨も分かるし、食べられる草も、駄目な実も、魔物がいた跡も分かるの」
「……」
「まだあるの」
「もう十分」
結人はアイリスを見る。
「俺たちが一番持ってないやつだ」
「はい」
『間違いないのう』
リンが胸を張る。
「リンはすごいの」
「それは認める」
「当然なの」
「じゃあ」
結人は改めてリンへ向き直った。
「仕事を頼みたい」
「仕事?」
「俺たち、この森を抜けて旅を続ける」
「うん」
「その間、道とか危険な場所とか、食べられるものとか教えてほしい」
「……」
「案内役みたいな感じかな」
リンの耳が少し動く。
「報酬は?」
「食事。最低限、働いた日の食事はこっちで用意する」
リンが結人を見る。
「最低限?」
「うん」
「三回?」
「三回」
「朝、昼、夜?」
「うん」
リンの尾がわずかに動いた。
「肉は?」
「毎回あるとは約束できない」
「むぅ」
「そこは旅だから」
「でもご飯はある?」
「ある」
「リンがいっぱい働いたら?」
「ちゃんと腹いっぱい食べられる分は出すよ」
「……」
リンはかなり真剣に考えていた。
「どう?」
「リンが道決めていい?」
「相談しながら決めよう。危ない場所は避けたいし」
「魔物見つけたら?」
「先に教えて」
「獲物だったら?」
「それも相談」
「結人、何も知らないの?」
「うん。だから案内してほしい」
『事実を隠して雇うよりよかろう』
「神様まで知らないの?」
『わらわを森の案内人と思うな』
「役に立たない神様なの」
『こやつ』
リンが初めて少し笑った。
「分かったの」
「やってくれる?」
「うん」
そして、すぐに指を一本立てる。
「でも」
「何?」
「ご飯少なかったら辞めるの」
「そこ大事なんだ」
「一番大事なの」
「了解」
結人が手を差し出す。
「じゃあ、よろしく」
リンはその手を見た。
「何?」
「握手」
「なんで?」
「仕事決まった時にやるやつ」
「変なの」
言いながら、リンは結人の手を握った。
◇
「では」
アイリスが荷物の前にしゃがんだ。
「早速、お仕事の報酬ですね」
「まだ仕事してないの」
「これからしてもらうから前払い」
「前払い?」
「先に渡す分」
リンが少し警戒する。
「後でいっぱい働く?」
「さっき頼んだ、森の案内だよ」
「これを食べたら、ほかにもするの?」
「それは増やさない。道とか、危ない場所とか、分かったことを教えてくれればいい」
「……それだけ?」
「うん」
それでも、リンはすぐには手を伸ばさなかった。
『結人』
「何?」
『まず食わせてやれ』
「そうだな」
結人はパンを置き、チーズや乾燥果物、残っていた干し肉も並べた。
アイリスは岸辺の石を組んで火を起こし、小鍋を掛ける。
「スープも作りますね」
リンの目が鍋へ吸い寄せられた。
「それも?」
「はい」
「リンの?」
「リンさんの分もあります」
水に根菜と乾燥肉、香草を加えると、やがて煮える匂いが広がり始めた。
その間、リンは一度も鍋から目を離さなかった。
「……」
「リン」
「何なの」
「近い」
「見てるだけなの」
「鍋に顔入りそう」
「入らないの」
『気持ちは分かるぞ』
「神様も?」
『当然じゃ』
「フィリア様にも、できあがったらお供えしますね」
『今でもよいぞ』
「まだ煮えておりません」
「神様、リンより待てないの」
『おぬしには言われとうない』
◇
「できました」
アイリスはスープをひと匙、懐中時計の青い飾りへ近づけた。淡い光がそれを包み、フィリアが満足そうに頷く。
それから、リンの前に一杯のスープが置かれた。パンとチーズ、乾燥果物、干し肉も添えられる。
「……」
「どうぞ」
アイリスが言う。
リンは動かなかった。
「食べない?」
結人が尋ねる。
「これ」
「うん」
「全部?」
「そう」
「リンの?」
「そう」
「……」
灰色の瞳が、食事を一つずつ見た。
「何か足りない?」
「違うの」
「じゃあ?」
リンが結人を見る。
「最低限って言ったの」
「言ったね」
「これ」
パンを指す。
「うん」
スープ。
「これも」
「うん」
肉。
「これも?」
「うん」
チーズ。
「これも?」
「食べていいよ」
果物。
「これも?」
「全部だって」
リンがもう一度、食卓を見た。
「……」
「どうしたの?」
「最低限って」
リンが本気で困った顔をする。
「豪勢すぎるの」
結人とアイリスが顔を見合わせた。
『……』
フィリアだけは、少し静かになった。
リンはその理由を知らないまま、ようやくパンへ手を伸ばした。
最初は、ひと口。
次は、大きく。
「おいしいの!」
紅い耳がぴんと立った。
さっきまでの警戒を忘れたように、リンは食べ始める。
「ゆっくり食べていいよ」
「なくなるの!」
「なくならない」
「リンの分なの!」
「だから取らないって」
「……」
一瞬、手が止まった。
「ほんと?」
「ほんと」
リンは器を見つめ、それからまた食べ始めた。
今度は、ほんの少しだけゆっくりと。
森へ入って半日で、肉を盗まれ、追いかけて戦い、泥へ落とした。
そして今、なぜかその肉泥棒と一緒に昼飯を食べている。
「旅って」
結人が呟く。
「こういうものなのかな」
『知らぬ』
「神様なのに?」
『旅人ではないからの』
「便利な時だけ神様やめるよな」
『やめておらぬ』
「神様、パン食べたい?」
『食べたい』
「リンが食べるの」
『おぬしのではない!』
「リンの報酬なの!」
『ぐぬぬ……』
リンが楽しそうに笑った。
その日、三人だった食卓に、初めて紅い狼耳が加わった。




